『胸の大きさで婚約破棄する王太子を捨てたら、国の方が先に詰みました』

鷹 綾

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第33話「誰も命じていないのに」

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第33話「誰も命じていないのに」

 異変は、報告書の端に現れた。

「……この数字、先月と比べてどう思う?」

 王都商務局、第三会議室。
 若い官僚が、慎重に言葉を選びながら資料を差し出す。

「大きな変動はありませんが……
 ミュール経由の通過量が、確実に減っています」

 上席官は、資料に目を落としたまま黙り込んだ。

「季節要因か?」

「いえ。
 それなら他都市も同様の動きになるはずですが……
 ミュールだけ、です」

 その一言で、室内の空気が僅かに変わった。

 商務都市ミュール。
 王都の流通を下支えしてきた、実直な都市。
 反抗的でも、野心的でもない。

「……誰が指示を?」

「不明です。
 公式な通達も、抗議文もありません」

 つまり――
 勝手に動いている。

 上席官は、ゆっくりと椅子にもたれた。

「厄介だな」

 声には、苛立ちよりも困惑が滲んでいた。

「誰かが裏で糸を引いているのか?」

「それが……
 どうも、個人の判断の積み重ねのようで」

「個人?」

「ええ。
 監査役レベルの判断が、連鎖的に」

 誰も、名前を出さない。
 だが、全員が同じことを考えていた。

 ――判断を“任せられる人間”が、どこかにいる。

 一方。

 王城の別棟。
 権限停止中のオスカー・フォン・ルーヴェンは、
 偶然その話を耳にしていた。

「……ミュールが?」

 思わず、声が漏れる。

 側近だった男が、視線を逸らした。

「表向きは、
 ただの効率化だそうです」

 効率化。
 その言葉に、オスカーは苦笑する。

(言葉だけは、
 正しい)

 だが――
 それを言い出す人間が、
 王都には、もういない。

(……彼女なら)

 思考が、自然とそこに辿り着く。

(マルティナなら、
 もっと前に気づいていた)

 彼女は、
 声を上げなかった。

 抗議もしなかった。
 忠告もしなかった。

 ただ――
 距離を取った。

(それ自体が、
 答えだったのかもしれない)

 一方。

 商務都市ミュール。

 レオンハルト・クレイは、
 簡素な会議室で
 報告を受けていた。

「物流、問題なし」

「取引先からの不満も、ありません」

 むしろ――
 数字は安定している。

「王都から、
 何か言ってきていますか?」

「いえ。
 様子見でしょう」

 レオンハルトは、
 小さく頷いた。

(当然だ)

 これは、
 対抗でも反乱でもない。

 ただの自衛。

 そして。

 その判断の根にあるのは、
 たった一言の助言だった。


---

『判断を他人に委ねる構造は、
 必ず破綻します』

『誰かが誤った時、
 まとめて沈まないための余白を』


---

 名前も、
 肩書きもない言葉。

 それでも、
 十分だった。

「……不思議ですね」

 部下が、ぽつりと言う。

「誰かに命じられたわけでもないのに、
 皆、同じ方向を見ている」

 レオンハルトは、
 静かに答えた。

「だからこそ、
 強いんだ」

 一方。

 マルティナ・ヴァインベルクは、
 その頃、
 別邸の書斎で
 本を読んでいた。

 王都の数字も、
 ミュールの動きも、
 彼女の元には届いていない。

 ――いや。
 届かないようにしている。

(もう、
 中心には立たない)

 彼女は、
 ページをめくる。

(でも……)

 世界が、
 自分の考え方を
 必要とするなら。

(その時は、
 一歩だけ踏み出す)

 それ以上は、
 しない。

 誰も命じていない。
 誰も支配していない。

 それでも、
 世界は静かに方向を変え始めている。

 それが、
 本当の影響力だと、
 彼女は知っていた。

 そして――
 王都がそれに気づくのは、
 もう少し先の話だった。
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