『婚約破棄された公爵令嬢は、線を引く』――戻れない場所で、判断する席に座りました

鷹 綾

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第三話 気づかれなかった不在

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第三話 気づかれなかった不在

 王城の朝鐘が鳴り響いても、執務室の空気は重いままだった。
 窓から差し込む光が机の上の書類を照らしているが、そこに整然とした秩序はない。ただ無秩序に積まれた紙の山が、王太子ヴァルターの視界を占領している。

「……これが、全部今日中だと?」

 声を荒げたヴァルターに、側近の青年が申し訳なさそうに頷いた。

「はい。各部署から、判断を仰ぎたい案件が集中しておりまして……」

「なぜ同時に来る!」

「今までは……いえ……」

 青年は言いかけて口を閉ざした。
 今までは、という言葉の続きが何を指すのか、ヴァルター自身が一番よく理解していたからだ。

 今までは、エヴァリーナが受け止めていた。
 部署ごとに案件を整理し、優先順位をつけ、不要なものを弾き、今すぐ決断すべきものだけを残す。王太子の机に届く頃には、すでに答えの半分は用意されていた。

 だが今、その緩衝材は存在しない。

「……仕方ない。上から順に持ってこい」

「す、すべてですか?」

「他に方法があるのか?」

 側近は小さく首を振り、山のような書類を抱え直した。

 最初の数枚は、まだ理解できた。
 だが、途中から文字が頭に入ってこなくなる。数字、条文、但し書き。互いに関連しているはずの文書が、別々の束になっているため、全体像が掴めない。

「……誰だ、この形式で出したのは」

「財務局です」

「前は、こんな書き方ではなかったはずだ」

 側近は言葉を選びながら答える。

「エヴァリーナ様が……各局に書式を統一するよう、指示されていましたので……」

 ヴァルターは思わず黙り込んだ。

 書式の統一。
 そんな地味で目立たない作業を、誰が評価するだろうか。だが、それが失われた途端、混乱は一気に表面化する。

 昼前、別の側近が駆け込んできた。

「殿下、貴族院から抗議が……」

「またか」

「先日の調整会議で、エヴァリーナ様がまとめていた合意事項について、確認が取れないと……」

「合意事項は議事録に残っているだろう」

「その議事録が……どこにも……」

 ヴァルターは額を押さえた。

「どういうことだ」

「最終版は、エヴァリーナ様の管理下にありました。殿下の決裁を受けてから、正式に配布する予定だったかと……」

 つまり、未完成の状態だったということだ。
 彼女がいなくなった今、その最終版を仕上げられる者はいない。

「……勝手なことを」

 吐き捨てるように言ったその言葉に、誰も同意しなかった。

 午後になると、王城内のあちこちで小さな混乱が起き始めた。
 約束されたはずの予算が下りない。
 聞いていた話と条件が違う。
 誰に確認すればいいのかわからない。

「殿下、これはどういうことでしょう!」

 声を荒げる老貴族を前に、ヴァルターは言葉を失った。

 ――自分は、何も知らない。

 その事実が、じわじわと胸を締めつける。

 一方その頃、クロイツ公爵家では、穏やかな午後が流れていた。

 エヴァリーナは庭園を散策し、久しぶりに花の名前を思い出していた。
 王城にいた頃は、季節を感じる余裕すらなかった。

「お嬢様、お茶のご用意ができております」

「ありがとう。今、参りますわ」

 テーブルに並んだ茶器を見て、彼女は小さく息をついた。
 誰かに急かされることもなく、次の予定を詰め込まれることもない。

 それは、不思議なほど心を落ち着かせた。

「……不思議ですわね」

 婚約を破棄され、王城を去ったというのに。
 涙は出なかった。

 悔しさも、怒りも、どこか遠い。

 彼女は、ただ役目を果たしてきただけだ。
 その役目が不要になったのなら、身を引く。それだけのこと。

 夕刻、ヴァルターは執務室で椅子に沈み込んでいた。
 一日中書類に追われ、何一つ解決していない。

「……なぜ、誰も教えてくれなかった」

 小さく呟いた言葉は、誰にも届かない。

 彼はまだ、理解していなかった。
 エヴァリーナが担っていたものが、単なる「補助」ではなかったことを。

 そして、彼女がいないという現実が、まだ始まったばかりであることを。
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