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第2話 これは使える
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第2話 これは使える
広場の熱狂が完全に冷めるまで、かなりの時間を要した。
人々は「聖女」という言葉を何度も口にし、まるでそれを唱えれば自分たちも救われるかのように興奮し続けた。教会関係者はその様子を満足そうに眺め、騎士たちは群衆を制御するだけで精一杯だった。
アルトリア・カストゥスは、その喧騒から一歩距離を置き、王城へと戻る馬車の中にいた。
表情は穏やか。姿勢は正しく、指先まで完璧に整えられている。だが、その内心は、先ほどから同じ一点を反芻していた。
(三十センチ……)
どう考えても、その数値が頭から離れない。
(確かに浮きました。奇跡ですわ。でも……)
実用性はない。軍事にも、産業にも、災害対策にもならない。あの力が役に立つ場面を思い浮かべようとしても、どうしても「見世物」という言葉に行き着いてしまう。
馬車が止まり、扉が開く。
「アルトリア様」
侍女の声に、アルトリアははっと我に返った。
「ありがとう。……少し、歩きましょう」
王城の回廊は静かだった。先ほどの喧騒が嘘のように、重厚な石壁が音を吸い込んでいる。
その静けさの中で、アルトリアは一つ、はっきりとした気配を感じ取った。
――王太子が、動く。
それは長年、婚約者として彼を見てきたからこそ分かる感覚だった。ルートヴィヒ・マシアスは、何かを「掴んだ」と思った時、必ずこういう間を置く。周囲が落ち着くのを待ち、情報が整理され、逃げ場がなくなったところで、一気に踏み出す。
(……嫌な予感しかしませんわね)
その予感は、そう時間を置かずに現実となった。
夕刻、アルトリアは王太子からの呼び出しを受けた。
場所は、王城内の応接の間。公式と私的の境目のような部屋だ。つまり、「まだ宣言ではないが、決定事項に近い話」をする時によく使われる場所。
扉をくぐると、すでにルートヴィヒは席についていた。
「来たか、アルトリア」
「お呼びでしょうか、殿下」
形式通りに一礼し、向かいの席に腰を下ろす。
王太子は上機嫌だった。いや、正確には――高揚している。
「あの奇跡を見ただろう」
「ええ。大変、印象的でしたわ」
あくまで、表向きの言葉。
「神が我が国を祝福している証だ」
「そうお考えなのですね」
「考えるまでもない。浮いたのだ。宙に」
ルートヴィヒは指を立て、強調する。
「誰の目にも明らかだった。あれは“使える”」
その一言に、アルトリアの内心で警鐘が鳴る。
(……出ましたわ)
「使える、とは?」
あくまで穏やかに問い返す。
「象徴だよ」
即答だった。
「国に聖女がいる。それだけで、民は安心する。隣国への牽制にもなる。教会も全面的に協力するだろう」
ルートヴィヒは楽しそうに語る。
「奇跡の内容など些細なことだ。重要なのは、派手で、分かりやすいこと。浮遊など、これ以上ない」
アルトリアは、内心で深く息を吸った。
(やはり……派手さのみ)
「ジャンヌ・テレーゼ本人の意思については、お考えですか?」
一瞬、王太子の動きが止まった。
「意思?」
「はい。突然、多くの注目を集める立場になりました。混乱もあるでしょう」
「教会が面倒を見る」
それだけだった。
「平民だろう? 導いてやるのも、上の者の務めだ」
その言葉に、アルトリアは微笑みを崩さないまま、心の奥で確信する。
(……この方は、見ていませんわね。人を)
「それに」
ルートヴィヒは、ふと思い出したように付け加えた。
「聖女には、それ相応の立場が必要だ。軽々しく扱われては困る」
「立場、ですか」
「そうだ。……婚約だ」
その瞬間、空気が張り詰めた。
だが、アルトリアは動じない。まだだ。これは“探り”だと分かっている。
「殿下は、もうお決めになったのですか?」
「検討している」
そう言いながら、彼の視線はすでに結論を見ていた。
「聖女と王太子が結びつけば、誰も文句は言えまい」
(……私との婚約は、そのための障害、ということですわね)
だが、その言葉は口にしない。
「なるほど。確かに、聖女を守るには強い立場が必要ですわ」
その一言に、ルートヴィヒは満足そうに頷いた。
「分かってくれるか」
「ええ。ですが……」
アルトリアは、わずかに言葉を選ぶ。
「聖女という存在は、非常に繊細です。扱いを誤れば、かえって反感を招くことも」
「問題ない」
きっぱりと言い切られる。
「派手に、堂々と見せればいい。民はそれで納得する」
アルトリアは、それ以上何も言わなかった。
――今は。
この場で反論することに、意味はない。殿下はすでに「成功した未来」を見ている。その視界にあ、他人の感情が入り込む余地はない。
応接の間を辞した後、アルトリアは一人、回廊を歩いた。
先ほどの会話が、頭の中で何度も再生される。
(これは使える)
その言葉が、妙に重く残る。
(……あの子は、道具ではありませんのに)
だが同時に、別の考えも浮かぶ。
(いえ……今は)
(立場があれば、守られる)
それは、貴族として身についた発想だった。弱い者は、強い立場の庇護に入らなければ生き残れない。聖女として、王太子の婚約者として守られるなら――。
(切り捨てられるよりは、まし……)
アルトリアは、足を止めた。
自分が今、どこかで“納得しようとしている”ことに気づいたからだ。
(……これは、正しい判断でしょうか)
答えは、まだ出ない。
ただ一つ確かなのは、歯車がすでに回り始めているということ。
そしてその中心に、三十センチ浮く奇跡の少女がいる。
アルトリアは、静かに目を伏せた。
(どうか……壊れませんように)
その祈りが、誰に向けられたものなのか――彼女自身にも、まだはっきりとは分かっていなかった。
広場の熱狂が完全に冷めるまで、かなりの時間を要した。
人々は「聖女」という言葉を何度も口にし、まるでそれを唱えれば自分たちも救われるかのように興奮し続けた。教会関係者はその様子を満足そうに眺め、騎士たちは群衆を制御するだけで精一杯だった。
アルトリア・カストゥスは、その喧騒から一歩距離を置き、王城へと戻る馬車の中にいた。
表情は穏やか。姿勢は正しく、指先まで完璧に整えられている。だが、その内心は、先ほどから同じ一点を反芻していた。
(三十センチ……)
どう考えても、その数値が頭から離れない。
(確かに浮きました。奇跡ですわ。でも……)
実用性はない。軍事にも、産業にも、災害対策にもならない。あの力が役に立つ場面を思い浮かべようとしても、どうしても「見世物」という言葉に行き着いてしまう。
馬車が止まり、扉が開く。
「アルトリア様」
侍女の声に、アルトリアははっと我に返った。
「ありがとう。……少し、歩きましょう」
王城の回廊は静かだった。先ほどの喧騒が嘘のように、重厚な石壁が音を吸い込んでいる。
その静けさの中で、アルトリアは一つ、はっきりとした気配を感じ取った。
――王太子が、動く。
それは長年、婚約者として彼を見てきたからこそ分かる感覚だった。ルートヴィヒ・マシアスは、何かを「掴んだ」と思った時、必ずこういう間を置く。周囲が落ち着くのを待ち、情報が整理され、逃げ場がなくなったところで、一気に踏み出す。
(……嫌な予感しかしませんわね)
その予感は、そう時間を置かずに現実となった。
夕刻、アルトリアは王太子からの呼び出しを受けた。
場所は、王城内の応接の間。公式と私的の境目のような部屋だ。つまり、「まだ宣言ではないが、決定事項に近い話」をする時によく使われる場所。
扉をくぐると、すでにルートヴィヒは席についていた。
「来たか、アルトリア」
「お呼びでしょうか、殿下」
形式通りに一礼し、向かいの席に腰を下ろす。
王太子は上機嫌だった。いや、正確には――高揚している。
「あの奇跡を見ただろう」
「ええ。大変、印象的でしたわ」
あくまで、表向きの言葉。
「神が我が国を祝福している証だ」
「そうお考えなのですね」
「考えるまでもない。浮いたのだ。宙に」
ルートヴィヒは指を立て、強調する。
「誰の目にも明らかだった。あれは“使える”」
その一言に、アルトリアの内心で警鐘が鳴る。
(……出ましたわ)
「使える、とは?」
あくまで穏やかに問い返す。
「象徴だよ」
即答だった。
「国に聖女がいる。それだけで、民は安心する。隣国への牽制にもなる。教会も全面的に協力するだろう」
ルートヴィヒは楽しそうに語る。
「奇跡の内容など些細なことだ。重要なのは、派手で、分かりやすいこと。浮遊など、これ以上ない」
アルトリアは、内心で深く息を吸った。
(やはり……派手さのみ)
「ジャンヌ・テレーゼ本人の意思については、お考えですか?」
一瞬、王太子の動きが止まった。
「意思?」
「はい。突然、多くの注目を集める立場になりました。混乱もあるでしょう」
「教会が面倒を見る」
それだけだった。
「平民だろう? 導いてやるのも、上の者の務めだ」
その言葉に、アルトリアは微笑みを崩さないまま、心の奥で確信する。
(……この方は、見ていませんわね。人を)
「それに」
ルートヴィヒは、ふと思い出したように付け加えた。
「聖女には、それ相応の立場が必要だ。軽々しく扱われては困る」
「立場、ですか」
「そうだ。……婚約だ」
その瞬間、空気が張り詰めた。
だが、アルトリアは動じない。まだだ。これは“探り”だと分かっている。
「殿下は、もうお決めになったのですか?」
「検討している」
そう言いながら、彼の視線はすでに結論を見ていた。
「聖女と王太子が結びつけば、誰も文句は言えまい」
(……私との婚約は、そのための障害、ということですわね)
だが、その言葉は口にしない。
「なるほど。確かに、聖女を守るには強い立場が必要ですわ」
その一言に、ルートヴィヒは満足そうに頷いた。
「分かってくれるか」
「ええ。ですが……」
アルトリアは、わずかに言葉を選ぶ。
「聖女という存在は、非常に繊細です。扱いを誤れば、かえって反感を招くことも」
「問題ない」
きっぱりと言い切られる。
「派手に、堂々と見せればいい。民はそれで納得する」
アルトリアは、それ以上何も言わなかった。
――今は。
この場で反論することに、意味はない。殿下はすでに「成功した未来」を見ている。その視界にあ、他人の感情が入り込む余地はない。
応接の間を辞した後、アルトリアは一人、回廊を歩いた。
先ほどの会話が、頭の中で何度も再生される。
(これは使える)
その言葉が、妙に重く残る。
(……あの子は、道具ではありませんのに)
だが同時に、別の考えも浮かぶ。
(いえ……今は)
(立場があれば、守られる)
それは、貴族として身についた発想だった。弱い者は、強い立場の庇護に入らなければ生き残れない。聖女として、王太子の婚約者として守られるなら――。
(切り捨てられるよりは、まし……)
アルトリアは、足を止めた。
自分が今、どこかで“納得しようとしている”ことに気づいたからだ。
(……これは、正しい判断でしょうか)
答えは、まだ出ない。
ただ一つ確かなのは、歯車がすでに回り始めているということ。
そしてその中心に、三十センチ浮く奇跡の少女がいる。
アルトリアは、静かに目を伏せた。
(どうか……壊れませんように)
その祈りが、誰に向けられたものなのか――彼女自身にも、まだはっきりとは分かっていなかった。
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