婚約破棄して「無能」と捨てた元婚約者様へ。私が隣国の魔導予算を握っていますが、今さら戻ってこいなんて冗談ですよね?』

鷹 綾

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第29話 名前を呼ばれなくなって、見えるもの

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第29話 名前を呼ばれなくなって、見えるもの

 朝の点呼は、簡潔だった。

「第三区画、異常なし」
「第四区画、昨夜の調整後、安定」
「第五区画――」

 淡々と続く報告の列に、
 アラルガンは、端の席で耳を傾けていた。

 かつてなら、
 彼の一声で空気が変わった。
 声を出さずとも、
 視線が集まった。

 今は違う。

 彼がそこにいることは、
 誰にとっても前提だが、
 中心ではない。

「……補佐官、
 この件ですが」

 若い技師が、
 少しだけ声を落として話しかけてくる。

「昨年の決裁と、
 数値が合わなくて……」

「見せてくれ」

 短く答える。

 肩書きで呼ばれる。
 名前ではない。

 以前なら、
 それを侮辱だと感じたかもしれない。

 今は、
 ただの役割だと分かる。

 資料に目を落とす。

「……ここだ」

 指で示す。

「当時の想定が、
 過大だった」

「……やっぱり」

「数字が、
 正直だからな」

 技師は、
 小さく笑った。

 その笑みは、
 媚びでも恐れでもない。

 対等だった。

 午前中は、
 現場巡回だった。

 狭い通路。
 低い天井。
 熱を帯びた空気。

 ここでは、
 王族も平民もない。

 あるのは、
 壊れるか、
 壊れないか。

「……補佐官、
 ここ、どう思います?」

 中年の技師が、
 制御盤を指す。

「配線が、
 古すぎます」

「だな」

 即答する。

「交換計画に、
 入れよう」

「……予算は?」

 アラルガンは、
 一瞬だけ考え、
 答える。

「他を削る」

「……具体的には?」

「祝祭関連の、
 残余枠だ」

 技師は、
 目を丸くした。

「……いいんですか?」

「派手さより、
 壊れない方がいい」

 自分の口から、
 そんな言葉が出るとは、
 思わなかった。

 だが、
 違和感はない。

 昼。

 食堂で、
 隣の席が空いていた。

 以前なら、
 誰も座らなかっただろう。

 今は、
 若い技師が、
 普通に腰を下ろす。

「……補佐官、
 聞いてもいいですか」

「何だ」

「王だった頃……
 楽しかったですか」

 箸が、
 一瞬止まる。

 答えを探す。

「……楽しい、
 というより」

 言葉を選ぶ。

「……忙しかった」

「今は?」

 少し考える。

「……疲れる」

 正直な答えに、
 技師は笑った。

「ですよね」

 その笑いは、
 軽かった。

「でも、
 顔は今の方が、
 楽そうです」

 その言葉に、
 胸の奥が、
 小さく揺れた。

 午後。

 書類整理の途中、
 古い報告書が出てきた。

 エルフレイドの名前。

 提案書。
 改善案。
 警告。

「……読まなかったな」

 苦く笑う。

 だが、
 今は読む。

 一行一行、
 丁寧に。

「……正しい」

 否定しようがない。

 彼女は、
 何も奪わなかった。

 ただ、
 残した。

 記録を。
 選択肢を。
 逃げ道を。

 夕方。

 報告を終え、
 廊下を歩く。

 誰も、
 彼の名を呼ばない。

「殿下」
 その響きは、
 もう、ない。

 だが――

「補佐官、
 お疲れさまでした」

 その一言が、
 妙に温かい。

 肩書きで呼ばれ、
 役割として扱われる。

 それは、
 失われた尊厳ではなく、
 得た現実だった。

 夜。

 部屋に戻り、
 灯りをつける。

 机の上には、
 今日の報告書。

 署名欄に、
 自分の名前を書く。

 王印は、
 もう、ない。

 だが、
 ペンは軽い。

「……名前を、
 呼ばれなくなって」

 呟く。

「……ようやく、
 見えるものがあるな」

 それは、
 数字の意味。
 現場の声。
 判断の重さ。

 そして――
 自分が、
 どれほど多くを、
 肩書きに隠していたか。

 窓の外。

 王都の灯りが、
 静かに揺れている。

 守られている街。
 誰かが、
 今日も働いた結果だ。

 アラルガンは、
 灯りを落とし、
 静かに横になった。

 名を呼ばれなくなった日々は、
 彼から多くを奪った。

 だが同時に、
 世界を、
 等身大で見る目を、
 与えていた。

 それが、
 罰なのか、
 救いなのか。

 答えは、
 まだ、
 帳簿の中ではなく――
 明日の現場に、
 書かれていく。
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