婚約破棄して「無能」と捨てた元婚約者様へ。私が隣国の魔導予算を握っていますが、今さら戻ってこいなんて冗談ですよね?』

鷹 綾

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第32話 過去を語らないという選択

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第32話 過去を語らないという選択

 朝の魔導庁は、いつもより慌ただしかった。

 通路を行き交う足音。
 資料束が机に置かれる音。
 制御盤の警告灯が、静かに点滅している。

 アラルガンは、補佐官用の机に着き、
 一通の内部通達を手に取った。

 ――《第三期改善計画、全区画適用開始》。

 内容は簡潔だ。
 誰が主導し、
 誰が責任を持ち、
 どの数値を基準に動くか。

 そこに、
 自分の名前は、
 小さく添えられているだけだった。

「……これで、
 ようやく“特別扱い”は終わりか」

 呟いて、紙を戻す。

 特別扱い――
 それは、
 庇護でも、
 排除でもない。

 過去を前提にした視線だ。

 それが、
 少しずつ消えている。

 午前。

 新任の技師が、
 現場説明を受けていた。

「ここが第四制御区画です」

「……広いですね」

「迷いやすいから、
 必ず二人一組で動いて」

 指示は、
 淡々と続く。

 アラルガンは、
 少し離れた場所で、
 その様子を見ていた。

「……補佐官」

 声をかけてきたのは、
 教育担当の技師だ。

「新人に、
 殿下――
 いえ、
 補佐官の過去を説明するべきでしょうか」

 言葉を選んだ、
 慎重な口調。

 アラルガンは、
 一瞬考え、
 首を横に振った。

「不要だ」

「理由を、
 聞かれるかもしれません」

「その時は、
 こう言えばいい」

 少しだけ、
 間を置いて。

「“今の役割で判断する”と」

 教育担当は、
 小さく頷いた。

「……分かりました」

 新人たちの視線が、
 こちらに向く。

 だが、
 誰も何も言わない。

 名前を、
 知らない。

 肩書きだけを、
 知っている。

 それで、
 十分だった。

 昼。

 休憩室で、
 湯を注ぎ、
 椅子に腰を下ろす。

 壁に貼られた掲示に、
 小さな文字で書かれている。

 《報告は事実のみ。
 過去評価は記載不要》。

「……いい指針だ」

 誰に向けた言葉でもない。

 過去評価。
 それは、
 便利な言葉だ。

 失敗の理由にも、
 成功の免罪符にもなる。

 だが、
 現場には、
 不要だ。

 午後。

 小規模な異常が、
 第六区画で発生した。

「補佐官、
 魔力流量が、
 基準値を超えています」

「数値は?」

「一二%超過」

「……許容範囲だが、
 原因を探れ」

「了解」

 判断は、
 簡潔だった。

 過剰反応しない。
 だが、
 見逃さない。

 しばらくして、
 報告が上がる。

「古い分岐回路が、
 影響していました」

「交換は?」

「即日可能です」

「やれ」

 それだけ。

 作業が進む中、
 若い技師が、
 小声で話しかけてくる。

「……補佐官、
 前にも、
 似た判断を?」

「ある」

 短く答える。

「……失敗した」

 それ以上、
 語らない。

 失敗談は、
 教訓として語るものだ。

 だが、
 立場を強調するために
 使うものではない。

 夕方。

 報告書をまとめ、
 回覧に出す。

 文面は、
 事実と数値のみ。

 理由は、
 必要最低限。

 署名の下に、
 自分の名前。

 それだけで、
 意味が通じる。

 廊下で、
 新人の一人が、
 声をかけてきた。

「補佐官、
 今日の判断、
 早かったですね」

「……そうか」

「安心しました」

 それだけ言って、
 去っていく。

 賞賛ではない。
 評価でもない。

 感想だ。

 それが、
 何より健全だった。

 夜。

 部屋に戻り、
 灯りをつける。

 机の上には、
 今日の資料。

 過去の記録と、
 今日の記録。

 二つを並べ、
 見比べる。

「……違うな」

 はっきりと、
 違う。

 過去は、
 言葉が多い。
 言い訳が多い。

 今は、
 数字が多い。
 余計な言葉がない。

 それが、
 選んだ結果だった。

 過去を語らないという選択。

 それは、
 逃避ではない。

 過去に、
 居場所を与えない
 という決断だ。

 必要なのは、
 今日の判断。

 そして、
 明日の結果。

 窓の外、
 王都の夜は、
 静かだった。

 守られている街。

 その理由を、
 誰も一人の名で語らない。

 それで、
 いい。

 アラルガンは、
 灯りを落とし、
 静かに横になった。

 過去を語らないという選択は、
 彼から物語性を奪った。

 だが同時に、
 現実に立つための足場を、
 確かに与えていた。

 明日もまた、
 数字が答えを出す。

 それを受け止めるだけだ。

 それが、
 今の彼にとっての、
 唯一で、
 十分な役割だった。
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