3 / 40
承知いたしました
しおりを挟む
承知いたしました
婚約破棄が宣言された翌朝、王宮は不自然なほど静まり返っていた。
エルゼリア・クローヴェルは、いつもと変わらぬ時刻に目を覚まし、身支度を整え、執務棟へ向かった。
すでに婚約は破棄された――だが、正式な手続きが終わるまでは、彼女は依然として「王太子の元婚約者」であり、王宮に籍を置く立場にある。
それに、彼女にはまだ「片付けるべき仕事」が残っていた。
執務室に入ると、数名の文官たちが一斉にこちらを振り返った。
「……エルゼリア様」
声をかけたのは、財務担当の老官吏だった。
困惑と戸惑いが入り混じった表情をしている。
「昨日の件ですが……本当に、その……」
「ええ。事実です」
エルゼリアは淡々と答え、机に向かって書類を並べ始めた。
「ですが、本日の業務に変更はありません。
予定されている会議は三件、午後には諸侯宛ての通知文書の最終確認がありますね」
あまりにも普段通りの口調に、文官たちは言葉を失った。
「……よろしいのですか?」
「何がでしょう」
「その……殿下との婚約が、破棄されたのですよ?」
エルゼリアは一瞬だけ手を止め、相手を見た。
だが、その表情に怒りも悲しみも浮かんでいない。
「だからこそです。
引き継ぎが不十分であれば、後に混乱を招きます」
それ以上でも、それ以下でもない。
彼女にとって、それは「当然の判断」だった。
文官たちは顔を見合わせ、やがて深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
感謝の言葉を受け取っても、エルゼリアは微笑まない。
ただ静かに、仕事を進める。
午前の会議は、いつも以上にぎこちなかった。
出席者たちは、どこか落ち着かない様子でエルゼリアを見ては、視線を逸らす。
――同情。
――好奇心。
――あるいは、軽蔑。
どれであっても、彼女の心は揺れなかった。
「以上です」
簡潔なまとめを告げると、会議は終了する。
席を立ったエルゼリアに、若い文官が慌てて近づいてきた。
「あの……エルゼリア様。
本当に……悔しくは、ないのですか?」
その問いは、あまりにも率直だった。
エルゼリアは少しだけ考え、静かに答える。
「悔しい、という感情は……ありません」
「そんな……」
「私が果たすべき役目は、王太子の婚約者であることではなく、
この国が滞りなく動くよう支えることでした」
彼女は窓の外へ視線を向ける。
そこには、いつもと変わらぬ王都の景色が広がっている。
「殿下が別の方を選ばれた以上、
その役目は、もう必要とされていないのでしょう」
それは、諦めではなかった。
事実を、事実として受け止めているだけだ。
昼過ぎ、ロネスから呼び出しがかかった。
執務室に入ると、彼は腕を組み、苛立った様子で立っていた。
「君は……何を考えている?」
「と申しますと」
「昨日、あれほどのことがあったというのに、
なぜ、平然としていられる?」
エルゼリアは少しだけ首を傾げる。
「平然としているように、見えますか」
「ああ。
まるで、何も感じていないようだ」
その言葉に、エルゼリアは否定もしなかった。
「殿下。
婚約とは、契約です」
「……っ」
「感情を優先されるのであれば、それも一つの選択でしょう。
ですが、その結果については――」
彼女は一歩、距離を取る。
「私が口を挟むことではありません」
ロネスは、言い返そうとして言葉を失った。
期待していたのだ。
泣きすがる姿を。
引き止める言葉を。
自分が「選ばれる側」であるという実感を。
だが、エルゼリアはそれを与えなかった。
「本日中に、引き継ぎ書類をまとめます。
明日以降は、後任の方へ」
淡々と告げる彼女に、ロネスは思わず声を荒らげる。
「……勝手にしろ」
「承知いたしました」
その返答は、あまりにもあっさりしていた。
執務室を出たあと、エルゼリアは一人、回廊を歩く。
胸の奥に、微かな空白を感じる。
だが、それは痛みではない。
――終わっただけ。
役目が。
一つの人生の区切りが。
そして彼女は、まだ知らない。
この「承知いたしました」という一言が、
やがて王太子ロネスにとって、
取り返しのつかない宣告となることを。
静かに、しかし確実に――
運命は、次の段階へと進み始めていた。
婚約破棄が宣言された翌朝、王宮は不自然なほど静まり返っていた。
エルゼリア・クローヴェルは、いつもと変わらぬ時刻に目を覚まし、身支度を整え、執務棟へ向かった。
すでに婚約は破棄された――だが、正式な手続きが終わるまでは、彼女は依然として「王太子の元婚約者」であり、王宮に籍を置く立場にある。
それに、彼女にはまだ「片付けるべき仕事」が残っていた。
執務室に入ると、数名の文官たちが一斉にこちらを振り返った。
「……エルゼリア様」
声をかけたのは、財務担当の老官吏だった。
困惑と戸惑いが入り混じった表情をしている。
「昨日の件ですが……本当に、その……」
「ええ。事実です」
エルゼリアは淡々と答え、机に向かって書類を並べ始めた。
「ですが、本日の業務に変更はありません。
予定されている会議は三件、午後には諸侯宛ての通知文書の最終確認がありますね」
あまりにも普段通りの口調に、文官たちは言葉を失った。
「……よろしいのですか?」
「何がでしょう」
「その……殿下との婚約が、破棄されたのですよ?」
エルゼリアは一瞬だけ手を止め、相手を見た。
だが、その表情に怒りも悲しみも浮かんでいない。
「だからこそです。
引き継ぎが不十分であれば、後に混乱を招きます」
それ以上でも、それ以下でもない。
彼女にとって、それは「当然の判断」だった。
文官たちは顔を見合わせ、やがて深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
感謝の言葉を受け取っても、エルゼリアは微笑まない。
ただ静かに、仕事を進める。
午前の会議は、いつも以上にぎこちなかった。
出席者たちは、どこか落ち着かない様子でエルゼリアを見ては、視線を逸らす。
――同情。
――好奇心。
――あるいは、軽蔑。
どれであっても、彼女の心は揺れなかった。
「以上です」
簡潔なまとめを告げると、会議は終了する。
席を立ったエルゼリアに、若い文官が慌てて近づいてきた。
「あの……エルゼリア様。
本当に……悔しくは、ないのですか?」
その問いは、あまりにも率直だった。
エルゼリアは少しだけ考え、静かに答える。
「悔しい、という感情は……ありません」
「そんな……」
「私が果たすべき役目は、王太子の婚約者であることではなく、
この国が滞りなく動くよう支えることでした」
彼女は窓の外へ視線を向ける。
そこには、いつもと変わらぬ王都の景色が広がっている。
「殿下が別の方を選ばれた以上、
その役目は、もう必要とされていないのでしょう」
それは、諦めではなかった。
事実を、事実として受け止めているだけだ。
昼過ぎ、ロネスから呼び出しがかかった。
執務室に入ると、彼は腕を組み、苛立った様子で立っていた。
「君は……何を考えている?」
「と申しますと」
「昨日、あれほどのことがあったというのに、
なぜ、平然としていられる?」
エルゼリアは少しだけ首を傾げる。
「平然としているように、見えますか」
「ああ。
まるで、何も感じていないようだ」
その言葉に、エルゼリアは否定もしなかった。
「殿下。
婚約とは、契約です」
「……っ」
「感情を優先されるのであれば、それも一つの選択でしょう。
ですが、その結果については――」
彼女は一歩、距離を取る。
「私が口を挟むことではありません」
ロネスは、言い返そうとして言葉を失った。
期待していたのだ。
泣きすがる姿を。
引き止める言葉を。
自分が「選ばれる側」であるという実感を。
だが、エルゼリアはそれを与えなかった。
「本日中に、引き継ぎ書類をまとめます。
明日以降は、後任の方へ」
淡々と告げる彼女に、ロネスは思わず声を荒らげる。
「……勝手にしろ」
「承知いたしました」
その返答は、あまりにもあっさりしていた。
執務室を出たあと、エルゼリアは一人、回廊を歩く。
胸の奥に、微かな空白を感じる。
だが、それは痛みではない。
――終わっただけ。
役目が。
一つの人生の区切りが。
そして彼女は、まだ知らない。
この「承知いたしました」という一言が、
やがて王太子ロネスにとって、
取り返しのつかない宣告となることを。
静かに、しかし確実に――
運命は、次の段階へと進み始めていた。
2
あなたにおすすめの小説
「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして
東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。
破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。
次代の希望 愛されなかった王太子妃の愛
Rj
恋愛
王子様と出会い結婚したグレイス侯爵令嬢はおとぎ話のように「幸せにくらしましたとさ」という結末を迎えられなかった。愛し合っていると思っていたアーサー王太子から結婚式の二日前に愛していないといわれ、表向きは仲睦まじい王太子夫妻だったがアーサーにはグレイス以外に愛する人がいた。次代の希望とよばれた王太子妃の物語。
全十二話。(全十一話で投稿したものに一話加えました。2/6変更)
嫌われたと思って離れたのに
ラム猫
恋愛
私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。
距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。
【完結】この運命を受け入れましょうか
なか
恋愛
「君のようは妃は必要ない。ここで廃妃を宣言する」
自らの夫であるルーク陛下の言葉。
それに対して、ヴィオラ・カトレアは余裕に満ちた微笑みで答える。
「承知しました。受け入れましょう」
ヴィオラにはもう、ルークへの愛など残ってすらいない。
彼女が王妃として支えてきた献身の中で、平民生まれのリアという女性に入れ込んだルーク。
みっともなく、情けない彼に対して恋情など抱く事すら不快だ。
だが聖女の素養を持つリアを、ルークは寵愛する。
そして貴族達も、莫大な益を生み出す聖女を妃に仕立てるため……ヴィオラへと無実の罪を被せた。
あっけなく信じるルークに呆れつつも、ヴィオラに不安はなかった。
これからの顛末も、打開策も全て知っているからだ。
前世の記憶を持ち、ここが物語の世界だと知るヴィオラは……悲運な運命を受け入れて彼らに意趣返す。
ふりかかる不幸を全て覆して、幸せな人生を歩むため。
◇◇◇◇◇
設定は甘め。
不安のない、さっくり読める物語を目指してます。
良ければ読んでくだされば、嬉しいです。
婚約破棄を本当にありがとう
あんど もあ
ファンタジー
ラブラブな婚約者のパトリシアとラルフ。そんなパトリシアに、隣国の王立高等学院に留学しないかとのお誘いが。「私、もうこの国の王立学園を卒業してますよ?」「高等学園にはブライト博士がいるわよ」「行きます!」
当然、ラルフも付いて行くのだが、そこでパトリシアは王太子の婚約者と思われて……。
「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています
葵 すみれ
恋愛
「無理をするな」と言いながら、仕事も責任も全部私に押しつけてきた婚約者。
倒れた私にかけたのは、労りではなく「失望した」の一言でした。
実家からも見限られ、すべてを失った私を拾い上げてくれたのは、黙って手を差し伸べてくれた、黒髪の騎士──
実は、大公家の第三公子でした。
もう言葉だけの優しさはいりません。
私は今、本当に無理をしなくていい場所で、大切にされています。
※他サイトにも掲載しています
虐げられた皇女は父の愛人とその娘に復讐する
ましゅぺちーの
恋愛
大陸一の大国ライドーン帝国の皇帝が崩御した。
その皇帝の子供である第一皇女シャーロットはこの時をずっと待っていた。
シャーロットの母親は今は亡き皇后陛下で皇帝とは政略結婚だった。
皇帝は皇后を蔑ろにし身分の低い女を愛妾として囲った。
やがてその愛妾には子供が生まれた。それが第二皇女プリシラである。
愛妾は皇帝の寵愛を笠に着てやりたい放題でプリシラも両親に甘やかされて我儘に育った。
今までは皇帝の寵愛があったからこそ好きにさせていたが、これからはそうもいかない。
シャーロットは愛妾とプリシラに対する復讐を実行に移す―
一部タイトルを変更しました。
悪意には悪意で
12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。
私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。
ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる