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冷たい女
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冷たい女
王宮の空気が、目に見えて変わり始めたのは、その日の午後からだった。
エルゼリア・クローヴェルは、引き継ぎ用の書類を机の上に整然と並べ、淡々と最終確認を進めていた。
財政、外交、諸侯対応――どれも一朝一夕で理解できるものではない。だからこそ、可能な限り分かりやすく、無駄を削ぎ落とした形でまとめている。
それは、長年この王宮を支えてきた彼女なりの、最後の誠意だった。
「……エルゼリア様」
扉の外から、ためらいがちに声がかかる。
入ってきたのは、かつて彼女と頻繁に仕事をしていた中堅の文官だった。
「その……廊下で、噂になっておりまして」
「噂、ですか」
視線を上げずに答えると、文官は言いづらそうに口を開く。
「殿下が……
『あの女は冷たい』と」
筆が、ぴたりと止まった。
だがそれも一瞬で、エルゼリアは何事もなかったかのように続きを書き進める。
「そうですか」
「……それだけ、ですか?」
文官は思わず聞き返した。
婚約を破棄され、公の場で面目を潰され、それでもなお感情を見せない。
それが、どうにも理解できなかったのだろう。
「私がどのように見られるかは、殿下の自由です」
エルゼリアは静かに言った。
「冷たいと思われるのであれば、それもまた事実の一面なのでしょう」
文官は言葉を失い、深く頭を下げて部屋を出ていった。
――冷たい女。
その言葉は、いつからか彼女に貼り付けられてきた。
泣かない。
縋らない。
怒らない。
感情を表に出さないことが、いつの間にか「愛がない」「心がない」という評価にすり替えられていた。
だが、エルゼリアは知っている。
感情を抑えなければ、王太子妃候補として、この場所で生き残ることはできなかった。
小さな失言一つで、貴族たちは牙を剥く。
嫉妬と猜疑が渦巻く王宮で、感情は弱点だった。
だから彼女は、沈黙を選んだ。
理性を選び、結果を出すことを選んだ。
それが、ロネスのためであり、王国のためであると信じて。
――信じていたのだ。
夕刻、王宮内の小広間では、貴族たちがひそひそと声を潜めていた。
「やっぱり、冷たい方だったのね」
「泣きもせずに婚約破棄を受け入れるなんて……」
「殿下も、ずっと我慢なさっていたのでしょう」
同情は、いつの間にかロネスへ向けられている。
愛に殉じた王太子。
感情のない婚約者から解放された青年。
そうした物語が、都合よく語られていく。
一方で、エルゼリアの執務室には、人の出入りが減り始めていた。
「……今日の会議、彼女は呼ばれていないそうだ」
「もう、関係ないという判断だろう」
そんな声が、壁越しに聞こえる。
王宮は、ゆっくりと彼女を切り離し始めていた。
夜、私室に戻ったエルゼリアは、椅子に腰を下ろし、静かに息を吐いた。
一日の終わり。
いつもなら、翌日の予定を確認する時間だ。
だが今日は、何もない。
明日以降、自分がこの王宮で果たす役目は、確実に減っていく。
それは、喪失感というよりも、奇妙な静けさを伴っていた。
――私は、本当に冷たいのかしら。
ふと、そんな疑問が浮かぶ。
悲しくないわけではない。
ただ、それを外に出す必要がないだけだ。
誰も、それを求めていなかった。
泣く役は、すでに別の女性に与えられている。
だからエルゼリアは、今日も涙を流さない。
感情を抑え、背筋を伸ばし、最後まで役目を果たす。
それが、彼女の矜持だった。
しかし――
この王宮にとって、その「冷たさ」が、どれほど貴重なものだったのか。
それを理解する者は、まだ誰もいない。
静かに灯りを落としながら、エルゼリアは思う。
――冷たい女で、結構。
もしそれが、役目を全うした証だというのなら。
彼女は、その評価を甘んじて受け入れるつもりだった。
だがその代償が、
やがて王宮全体に降りかかることになるとは――
この夜、誰一人として予想していなかった。
王宮の空気が、目に見えて変わり始めたのは、その日の午後からだった。
エルゼリア・クローヴェルは、引き継ぎ用の書類を机の上に整然と並べ、淡々と最終確認を進めていた。
財政、外交、諸侯対応――どれも一朝一夕で理解できるものではない。だからこそ、可能な限り分かりやすく、無駄を削ぎ落とした形でまとめている。
それは、長年この王宮を支えてきた彼女なりの、最後の誠意だった。
「……エルゼリア様」
扉の外から、ためらいがちに声がかかる。
入ってきたのは、かつて彼女と頻繁に仕事をしていた中堅の文官だった。
「その……廊下で、噂になっておりまして」
「噂、ですか」
視線を上げずに答えると、文官は言いづらそうに口を開く。
「殿下が……
『あの女は冷たい』と」
筆が、ぴたりと止まった。
だがそれも一瞬で、エルゼリアは何事もなかったかのように続きを書き進める。
「そうですか」
「……それだけ、ですか?」
文官は思わず聞き返した。
婚約を破棄され、公の場で面目を潰され、それでもなお感情を見せない。
それが、どうにも理解できなかったのだろう。
「私がどのように見られるかは、殿下の自由です」
エルゼリアは静かに言った。
「冷たいと思われるのであれば、それもまた事実の一面なのでしょう」
文官は言葉を失い、深く頭を下げて部屋を出ていった。
――冷たい女。
その言葉は、いつからか彼女に貼り付けられてきた。
泣かない。
縋らない。
怒らない。
感情を表に出さないことが、いつの間にか「愛がない」「心がない」という評価にすり替えられていた。
だが、エルゼリアは知っている。
感情を抑えなければ、王太子妃候補として、この場所で生き残ることはできなかった。
小さな失言一つで、貴族たちは牙を剥く。
嫉妬と猜疑が渦巻く王宮で、感情は弱点だった。
だから彼女は、沈黙を選んだ。
理性を選び、結果を出すことを選んだ。
それが、ロネスのためであり、王国のためであると信じて。
――信じていたのだ。
夕刻、王宮内の小広間では、貴族たちがひそひそと声を潜めていた。
「やっぱり、冷たい方だったのね」
「泣きもせずに婚約破棄を受け入れるなんて……」
「殿下も、ずっと我慢なさっていたのでしょう」
同情は、いつの間にかロネスへ向けられている。
愛に殉じた王太子。
感情のない婚約者から解放された青年。
そうした物語が、都合よく語られていく。
一方で、エルゼリアの執務室には、人の出入りが減り始めていた。
「……今日の会議、彼女は呼ばれていないそうだ」
「もう、関係ないという判断だろう」
そんな声が、壁越しに聞こえる。
王宮は、ゆっくりと彼女を切り離し始めていた。
夜、私室に戻ったエルゼリアは、椅子に腰を下ろし、静かに息を吐いた。
一日の終わり。
いつもなら、翌日の予定を確認する時間だ。
だが今日は、何もない。
明日以降、自分がこの王宮で果たす役目は、確実に減っていく。
それは、喪失感というよりも、奇妙な静けさを伴っていた。
――私は、本当に冷たいのかしら。
ふと、そんな疑問が浮かぶ。
悲しくないわけではない。
ただ、それを外に出す必要がないだけだ。
誰も、それを求めていなかった。
泣く役は、すでに別の女性に与えられている。
だからエルゼリアは、今日も涙を流さない。
感情を抑え、背筋を伸ばし、最後まで役目を果たす。
それが、彼女の矜持だった。
しかし――
この王宮にとって、その「冷たさ」が、どれほど貴重なものだったのか。
それを理解する者は、まだ誰もいない。
静かに灯りを落としながら、エルゼリアは思う。
――冷たい女で、結構。
もしそれが、役目を全うした証だというのなら。
彼女は、その評価を甘んじて受け入れるつもりだった。
だがその代償が、
やがて王宮全体に降りかかることになるとは――
この夜、誰一人として予想していなかった。
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