『婚約破棄された令嬢ですが、王国は私抜きでは立てなかったようですね』

鷹 綾

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承知いたしました

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承知いたしました

 婚約破棄が宣言された翌朝、王宮は不自然なほど静まり返っていた。

 エルゼリア・クローヴェルは、いつもと変わらぬ時刻に目を覚まし、身支度を整え、執務棟へ向かった。
 すでに婚約は破棄された――だが、正式な手続きが終わるまでは、彼女は依然として「王太子の元婚約者」であり、王宮に籍を置く立場にある。

 それに、彼女にはまだ「片付けるべき仕事」が残っていた。

 執務室に入ると、数名の文官たちが一斉にこちらを振り返った。

「……エルゼリア様」

 声をかけたのは、財務担当の老官吏だった。
 困惑と戸惑いが入り混じった表情をしている。

「昨日の件ですが……本当に、その……」

「ええ。事実です」

 エルゼリアは淡々と答え、机に向かって書類を並べ始めた。

「ですが、本日の業務に変更はありません。
 予定されている会議は三件、午後には諸侯宛ての通知文書の最終確認がありますね」

 あまりにも普段通りの口調に、文官たちは言葉を失った。

「……よろしいのですか?」

「何がでしょう」

「その……殿下との婚約が、破棄されたのですよ?」

 エルゼリアは一瞬だけ手を止め、相手を見た。
 だが、その表情に怒りも悲しみも浮かんでいない。

「だからこそです。
 引き継ぎが不十分であれば、後に混乱を招きます」

 それ以上でも、それ以下でもない。
 彼女にとって、それは「当然の判断」だった。

 文官たちは顔を見合わせ、やがて深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

 感謝の言葉を受け取っても、エルゼリアは微笑まない。
 ただ静かに、仕事を進める。

 午前の会議は、いつも以上にぎこちなかった。
 出席者たちは、どこか落ち着かない様子でエルゼリアを見ては、視線を逸らす。

 ――同情。
 ――好奇心。
 ――あるいは、軽蔑。

 どれであっても、彼女の心は揺れなかった。

「以上です」

 簡潔なまとめを告げると、会議は終了する。

 席を立ったエルゼリアに、若い文官が慌てて近づいてきた。

「あの……エルゼリア様。
 本当に……悔しくは、ないのですか?」

 その問いは、あまりにも率直だった。

 エルゼリアは少しだけ考え、静かに答える。

「悔しい、という感情は……ありません」

「そんな……」

「私が果たすべき役目は、王太子の婚約者であることではなく、
 この国が滞りなく動くよう支えることでした」

 彼女は窓の外へ視線を向ける。
 そこには、いつもと変わらぬ王都の景色が広がっている。

「殿下が別の方を選ばれた以上、
 その役目は、もう必要とされていないのでしょう」

 それは、諦めではなかった。
 事実を、事実として受け止めているだけだ。

 昼過ぎ、ロネスから呼び出しがかかった。

 執務室に入ると、彼は腕を組み、苛立った様子で立っていた。

「君は……何を考えている?」

「と申しますと」

「昨日、あれほどのことがあったというのに、
 なぜ、平然としていられる?」

 エルゼリアは少しだけ首を傾げる。

「平然としているように、見えますか」

「ああ。
 まるで、何も感じていないようだ」

 その言葉に、エルゼリアは否定もしなかった。

「殿下。
 婚約とは、契約です」

「……っ」

「感情を優先されるのであれば、それも一つの選択でしょう。
 ですが、その結果については――」

 彼女は一歩、距離を取る。

「私が口を挟むことではありません」

 ロネスは、言い返そうとして言葉を失った。

 期待していたのだ。
 泣きすがる姿を。
 引き止める言葉を。
 自分が「選ばれる側」であるという実感を。

 だが、エルゼリアはそれを与えなかった。

「本日中に、引き継ぎ書類をまとめます。
 明日以降は、後任の方へ」

 淡々と告げる彼女に、ロネスは思わず声を荒らげる。

「……勝手にしろ」

「承知いたしました」

 その返答は、あまりにもあっさりしていた。

 執務室を出たあと、エルゼリアは一人、回廊を歩く。

 胸の奥に、微かな空白を感じる。
 だが、それは痛みではない。

 ――終わっただけ。

 役目が。
 一つの人生の区切りが。

 そして彼女は、まだ知らない。

 この「承知いたしました」という一言が、
 やがて王太子ロネスにとって、
 取り返しのつかない宣告となることを。

 静かに、しかし確実に――
 運命は、次の段階へと進み始めていた。
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