『婚約破棄された令嬢ですが、王国は私抜きでは立てなかったようですね』

鷹 綾

文字の大きさ
11 / 40

11話|見抜く者

しおりを挟む
11話|見抜く者

 帝国からの使者が去った翌日、王宮は重苦しい沈黙に包まれていた。

 迎賓の間で交わされたやり取りは、すでに上層部の間で共有されている。
 だが、誰一人として声高に語ろうとはしない。

 ――ハインリヒ・ヴォルフ。
 ――彼は、最初から気づいていた。

 その事実が、王宮の人間たちの胸に重くのしかかっていた。

 ロネスは執務室で、一人、机に肘をついていた。
 帝国特使の冷たい灰色の瞳が、何度も脳裏に蘇る。

「交渉能力が残っているかどうかを確認しに来た」

 あれは、交渉ではない。
 査定だった。

 自分と、この国が、
 帝国にとって「相手をする価値があるかどうか」を。

「……なぜ、あそこまで把握している」

 低く呟いた声は、誰にも届かない。

 エルゼリア・クローヴェル。
 その名を、ハインリヒは一度も口にしなかった。
 だが、言葉の端々に滲んでいた。

 ――裏で政務を支えていた人物。
 ――実務を理解している者。

 それが誰かなど、考えるまでもない。

 ロネスは、苛立ちを紛らわすように書類を手に取る。
 だが、内容は頭に入ってこない。

 同じ頃、王宮の一角では、非公式な集まりが開かれていた。

 参加しているのは、財務、外交、軍務の古参たち。
 誰もが、表情を硬くしている。

「……正直に言おう」

 年配の財務官が、低い声で切り出した。

「帝国は、すでに我々の混乱を把握している。
 しかも、その原因まで」

 沈黙が落ちる。

「彼らは、数字の動きと文書の遅延だけで、
 王宮の中枢が機能不全を起こしていると判断した」

「そんな……」

 若い官吏が息を呑む。

「そこまで、分かるものなのですか」

「分かるさ」

 財務官は、苦々しく笑った。

「彼らは、我々が思っている以上に、
 “人”を見ている」

 その言葉に、別の高官が続ける。

「そして……
 誰が、この王宮を実際に動かしていたのかも」

 名前は出ない。
 だが、全員が理解していた。

「エルゼリア嬢がいなくなってから、
 決裁の速度が落ちた。
 判断の質も、明らかに」

「帝国は、それを“異変”として捉えた」

 誰かが、深く息を吐いた。

「……見抜かれた、ということか」

「そうだ」

 帝国は、すでに答えに辿り着いている。
 あとは、それをどう利用するか――それだけだ。

 一方その頃、帝国側の使節団は王都の離れにある館で、静かに滞在していた。

 ハインリヒ・ヴォルフは、窓辺に立ち、王都の街並みを見下ろしている。
 人の流れ。
 市場の活気。
 微妙な停滞。

 ――表面は、まだ整っている。

 だが、内部は違う。

「……予想以上に、分かりやすい」

 彼は、誰に向けるでもなく呟いた。

 帝国宰相から命じられたのは、ただ一つ。
 王国が、今後も交渉相手として成立するかどうかを見極めること。

 そのために、ハインリヒは資料を徹底的に洗った。
 過去数年分の外交文書。
 財政の推移。
 諸侯との合意内容。

 すると、ある時期を境に、共通点が浮かび上がった。

 文書の精度が、異様に高い。
 判断が、速く、的確。
 だが、その人物の名前は、表に出てこない。

「……典型的だな」

 有能な実務者が、表に出ず、
 無能な上に立つ者が評価される構図。

 そして、その有能な人物が去った途端、
 すべてが噛み合わなくなる。

 ハインリヒは、昨日の会談を思い出す。

 ロネスは、自信に満ちた態度を装っていた。
 だが、その内側は、空洞だった。

「……見抜かれる覚悟もなく、切り捨てたか」

 愚かだが、珍しくもない。

 帝国にとって重要なのは、
 王太子の感情でも、王宮の体面でもない。

 ――実務を回せる人間が、どこにいるか。

 それだけだ。

 ハインリヒは、机の上に置かれた控えを手に取る。
 そこには、簡潔な人物調査の結果が記されていた。

 エルゼリア・クローヴェル。
 侯爵家令嬢。
 王太子の元婚約者。

「……なるほど」

 感情を排した文章の中に、
 彼女がどれほど多くの調整と判断を担っていたかが、はっきりと浮かび上がっている。

 婚約破棄の経緯を読んだとき、
 ハインリヒは、ほんのわずかに眉を動かした。

「評価されなかったのではない。
 見ていなかっただけだ」

 彼は、静かに結論を出す。

 この王国は、今、交渉相手として危うい。
 だが――

 もし、あの令嬢が帝国側に立つのであれば。
 話は、まったく別になる。

 その夜、王宮では、ロネスが眠れずにいた。

 ハインリヒの言葉。
 沈黙。
 周囲の視線。

 ようやく、薄くではあるが、
 一つの疑念が胸に浮かび始めていた。

 ――自分は、本当に、正しい選択をしたのか。

 だが、その問いに向き合うには、
 彼はまだ、あまりにも臆病だった。

 一方、帝国の館では、
 ハインリヒが宰相宛てに短い報告書を書き上げていた。

 そこには、結論だけが記されている。

 ――王国は不安定。
 ――だが、回復の鍵となる人物は存在する。

 ペンを置き、彼は静かに呟いた。

「……さて」

 次に動くべきは、
 王宮ではない。

 その人物本人だ。

 ハインリヒ・ヴォルフは、すでに理解していた。

 この交渉の主役が、
 王太子ロネスではなく――
 エルゼリア・クローヴェルであることを。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

次代の希望 愛されなかった王太子妃の愛

Rj
恋愛
王子様と出会い結婚したグレイス侯爵令嬢はおとぎ話のように「幸せにくらしましたとさ」という結末を迎えられなかった。愛し合っていると思っていたアーサー王太子から結婚式の二日前に愛していないといわれ、表向きは仲睦まじい王太子夫妻だったがアーサーにはグレイス以外に愛する人がいた。次代の希望とよばれた王太子妃の物語。 全十二話。(全十一話で投稿したものに一話加えました。2/6変更)

嫌われたと思って離れたのに

ラム猫
恋愛
 私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。  距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。

【完結】この運命を受け入れましょうか

なか
恋愛
「君のようは妃は必要ない。ここで廃妃を宣言する」  自らの夫であるルーク陛下の言葉。  それに対して、ヴィオラ・カトレアは余裕に満ちた微笑みで答える。   「承知しました。受け入れましょう」  ヴィオラにはもう、ルークへの愛など残ってすらいない。  彼女が王妃として支えてきた献身の中で、平民生まれのリアという女性に入れ込んだルーク。  みっともなく、情けない彼に対して恋情など抱く事すら不快だ。  だが聖女の素養を持つリアを、ルークは寵愛する。  そして貴族達も、莫大な益を生み出す聖女を妃に仕立てるため……ヴィオラへと無実の罪を被せた。  あっけなく信じるルークに呆れつつも、ヴィオラに不安はなかった。  これからの顛末も、打開策も全て知っているからだ。  前世の記憶を持ち、ここが物語の世界だと知るヴィオラは……悲運な運命を受け入れて彼らに意趣返す。  ふりかかる不幸を全て覆して、幸せな人生を歩むため。     ◇◇◇◇◇  設定は甘め。  不安のない、さっくり読める物語を目指してます。  良ければ読んでくだされば、嬉しいです。

婚約破棄を本当にありがとう

あんど もあ
ファンタジー
ラブラブな婚約者のパトリシアとラルフ。そんなパトリシアに、隣国の王立高等学院に留学しないかとのお誘いが。「私、もうこの国の王立学園を卒業してますよ?」「高等学園にはブライト博士がいるわよ」「行きます!」 当然、ラルフも付いて行くのだが、そこでパトリシアは王太子の婚約者と思われて……。

「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています

葵 すみれ
恋愛
「無理をするな」と言いながら、仕事も責任も全部私に押しつけてきた婚約者。 倒れた私にかけたのは、労りではなく「失望した」の一言でした。 実家からも見限られ、すべてを失った私を拾い上げてくれたのは、黙って手を差し伸べてくれた、黒髪の騎士── 実は、大公家の第三公子でした。 もう言葉だけの優しさはいりません。 私は今、本当に無理をしなくていい場所で、大切にされています。 ※他サイトにも掲載しています

虐げられた皇女は父の愛人とその娘に復讐する

ましゅぺちーの
恋愛
大陸一の大国ライドーン帝国の皇帝が崩御した。 その皇帝の子供である第一皇女シャーロットはこの時をずっと待っていた。 シャーロットの母親は今は亡き皇后陛下で皇帝とは政略結婚だった。 皇帝は皇后を蔑ろにし身分の低い女を愛妾として囲った。 やがてその愛妾には子供が生まれた。それが第二皇女プリシラである。 愛妾は皇帝の寵愛を笠に着てやりたい放題でプリシラも両親に甘やかされて我儘に育った。 今までは皇帝の寵愛があったからこそ好きにさせていたが、これからはそうもいかない。 シャーロットは愛妾とプリシラに対する復讐を実行に移す― 一部タイトルを変更しました。

悪意には悪意で

12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。 私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。 ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。

処理中です...