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3 甲賀攻め
外伝 堤中納言
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『堤中納言』(1554年ころ)
時は戦国。焦げた梁の匂いがまだ浮いている。火の手の消えかけた京を、ふたりの影が無言でわたる。
ひとりは、滝川義太夫。若さゆえか剽《ひょう》げた雰囲気を感じさせるが、その言葉遣いや振る舞いには、若干の武士らしさも見え隠れする。だが、その口調はどこか軽薄で、常に何かを茶化すような態度を崩さない。
「左近様、さすがにここも変わりませぬ。荒れ果てた戦場のような有様で、どこもかしこも気が抜けておるようにて」
義太夫は皮肉を込めて微笑んだ。その顔には少しの遊び心が現れ、周囲の状況を嘲笑するかのようだ。
もうひとりは、滝川一益。年嵩を思わせる風貌で、言葉少なに歩みを進める。その目にはすでに、数多の戦場で修羅場を潜り抜けてきた冷徹さと、世の無常を見透かしたような鋭さが漂っている。
「おぬしは、何事も軽く見すぎじゃ」
一益の言葉は皮肉っぽく、冷徹に響いたが、義太夫のことを心底嫌っているわけではないことが、微かに感じ取れる。
「義太夫。見よ、あれを」
一益が指差した先には、風化し、崩れかけた廃屋が見えた。
「今宵はあれで夜を明かすとしよう」
「いえ。あれは、公家の屋敷で。今も住んでいる者がおるものかと」
義太夫はそう言って一益の言葉に反論したが、一益は微笑を浮かべて言った。
「たわけたことを。公家が、あのような獣の住処に……」
遠くで鐘がひとつ、斜面を伝って割れてきた。
言葉が切れる。塀の陰、白装束がこちらを見ていた。風はないのに、髪だけがかすかに息をしている――。
「……行こう」
一益は踵を返し、義太夫を促した。
「義太夫、いつまでも女子にばかり気を取られるでない」
一益の声は冷たく響いたが、義太夫はその背後で、少しばかり嬉しそうに口元をゆるめて歩き始めた。義太夫にとって、一益と共に歩く道は常に新しい冒険のようなものだ。命じられれば、どんな無茶でもこなす覚悟を持っている。
一益は今日、はじめてこの都に足を踏み入れた。父・滝川一勝の命により、甲賀を離れ、密命を帯びてこの都に来たのだ。
「都がここまで荒れておるとは…」
かつて栄華を誇ったこの京の姿は、想像とはまるで異なっていた。荒れ果て、焼け落ち、声なきものの気配に満ちている。
比叡山延暦寺の僧たちが法華宗の寺を焼き払ったと聞いた。応仁の乱の火はとっくに消えたはずが、都はなお、静かに、じわじわと焼け落ちているようだ。
「時が止まっておるかのようじゃ」
一益は目を細め、荒廃した景色を見つめながら呟いた。その目に浮かぶのは、どこか冷徹な観察眼。その心には、今の京の姿が予兆のように感じられた。
かろうじて柱の残った寺の跡に腰を下ろしながら、一益は懐の柄にそっと手を添えた。その手のひらに伝わる冷たさが、京の不穏な空気を一層引き立てる。
「何かが潜んでおるのか」
一益は低く呟いた。
京の闇は、ただの闇ではなかった。どこかに潜むものが、この土地に踏み込んだ者の心を、根の底から試してくるような気配があった。周囲に漂う不安と謎が、一益を一層鋭敏にさせている。義太夫がどれほど軽口を叩こうとも、この空気に浮かれることはない。この京の不気味さをひしひしと感じ取っていた。
義太夫はその静けさを破るように、少し明るい調子で言った。
「まあ、かように荒れた町でも、何か面白きことが転がっておるもので」
一益は苦笑したが、足を速めて先へと歩き出す。義太夫はその後を追いながら、口元に微かな笑みを浮かべた。どんな状況でも、義太夫にとって一益と一緒にいることが何よりの安心であり、楽しみでもある。
二人は荒れた寺の跡に腰を下ろす。一益は懐に手をあて、しばらく黙って目を閉じた。
その時、焚き火の向こうで何かが動く音がした。息をのんだその刹那、破れた壁の向こうから低く、かすれた声が響いた。
「どなたかな?」
一益と義太夫は息を潜め、その声に反応した。
そこには、ボロボロの衣を纏った盲目の法師がひとり、静かに座っていた。
「…坊主。驚かせるな」
一益は少し声を荒げると、義太夫はそれを制するように首を振った。
「あれなるは……琵琶法師でござりましょう」
だが、琵琶を持たぬその男は一体、何者なのか。襟に黒い粉がわずかについていた。灰か、砂か——。
「我らは旅の者じゃ。今宵はここで夜を明かそうと思うておる」
義太夫が答えると、法師は口元に笑みを浮かべて応じた。
「ちょうど退屈しておったところ。よいところに参られた」
その笑みはどこか不気味に感じられ、一益の胸に冷や汗が走った。爬虫類のような薄い笑顔に、どこかぞっとするものを覚えた。
「御坊は、何処より参られた?」
一益は冷たく尋ねた。その目は法師の姿を鋭く捉え、疑いの目を向けている。法師は少し間を置き、独特のなまりで答えた。
「肥前じゃ」
「肥前? たわけたことを申すな。その目で、どうやってここまで来た」
言っていることがどうにも怪しい。見たところ、盲目らしきその目で、長旅ができるものだろうか。
外見も、言うことも、すべてが怪しい。
「ある時は船に乗り、またある時は歩き……ようやく、京の都にたどりついたのじゃ」
口ぶりは穏やかだが、言っていることはおかしい。
「何ゆえに京へ参った?」
一益はさらに問い詰めた。だが、法師はますます荒唐無稽な話をはじめた。
「公方様に会うためじゃ」
「何? 生臭坊主が? 公方に会う?」
一益は吹き出し、腹を抱えて笑った。戯言にしても度が過ぎている。
ふいに、ぐぅと腹が鳴った。そういえば今日は何も食べていない。
「笑うたら余計に腹が減った。空腹じゃ。義太夫、何かないか」
「それゆえ、早うかような町は離れたほうがよいと申し上げました」
都では何を買うにも値がはり、持ってきた銭がみるみるうちになくなっていく。
このままでは国に戻ることもままならぬ。
二人の会話を聞いていた法師が、ホッホッとくぐもった声で笑い出した。
「かような生臭坊主にまで笑われておるわ……」
一益はつぶやいたが、怒る気力も湧かない。どうせ、これ以上どうにかできるわけでもない。
すると法師は、がさがさと衣の下を探り、懐から何かを取り出した。
「ほれ。これを食え」
それは雉だった。義太夫は少し驚きながら、それを受け取る。
「雉ではないか。どこで買うてきた?」
一益は雉を受け取り、じっと見る。羽の一部が焦げたように黒くなっていた。
矢傷ではない。
「これで仕留めたのじゃ」
と、傍らにあった鉄の棒を持ち上げる。近づいてみれば、筒尻には荒縄で括り付けた粗造の床尾が覗いていた。
「それで雉を殴ったと?……見えておるのか? 坊主のくせに殺生するとは。さては、どこぞの素破か」
素破にしても、あまりに汚れた格好だ。
この装いで将軍に会おうというのだから、まったく呆れる。
「心の目で見ておるのじゃ」
とぼけた口ぶりが、なおのこと怪しい。だが空腹には勝てず、二人はありがたく雉を受け取って口にした。
満腹にはほど遠かったが、ようやく人心地がついた。
火にあたっていると、からだの芯まで温まっていくのがわかる。義太夫は焚き火の前に座り、心地よさそうに目を閉じた。しかし、その姿からも、やはり都の居心地の悪さが伝わってくる。金がかかり、町のあちらこちらは荒れ果て、かつての栄華をほとんど感じさせない。
明日は少し離れた町へ移動したほうがいいかもしれない――そう考えているうちに、焚き火の熱が心地よく、まぶたが重くなってきた。
「左近様、こう荒れた町で寝泊まりするのは、やはり気が進みませんな」
義太夫は少し皮肉っぽく言いながらも、その目には不安が見え隠れしていた。都の空気が、義太夫のような若者に不穏な気配を感じさせるのだろうか。
一益はその言葉に答えることなく、黙って焚き火の炎を見つめていた。
かすかに風の音がする。遠くで犬が一声吠えた。
そのあと、しんと夜が深まり、何もかもが沈黙に飲まれてゆく――。
気づけば、いつしか二人とも、眠りに落ちていた。
翌朝早く、法師に起こされた。
「早う起きよ、行くぞ」
唐突な声に、一益と義太夫は寝ぼけ眼をこすりながら顔を見合わせた。
「……何? 行くとは?」
「わしを比叡山まで連れて行け」
法師は、目の前で淡々と言った。まるで自分が命じることが当たり前だと言わんばかりだ。
「何を申すか。何で我らが……」
一益はしばし呆然とした後、すぐに顔をしかめた。そのような命令に従うつもりは毛頭ない。
「昨夜、報酬を払うたであろう」
一益は一瞬、きょとんとしたが、すぐに思い至る。
雉のことだ。あの時、法師が気前よく差し出したあの肉のこと。気前がいいと思ったが、どうやらその背後には下心があったらしい。
「延暦寺は、おのれのような生臭坊主の行くところではないわ」
「よいから早う連れて行け」
そう言って鉄の棒で地面を突き鳴らすと、その先で砂がぱらぱらと飛んだ。
「何をするか、無礼な……」
義太夫が刀に手をかけたが、一益はそれを目で制した。
「もうよい。さっさと連れて行こう」
口の減らない法師を相手にしても埒が明かぬ。それに、どうにも気になる。
この法師、ただの盲目の琵琶法師とは思えぬ何かがあるが、その正体をつかみきれずにいた。
歩き出してしばらく経ってから、一益は思わず頭を抱えることになった。どうやら、法師は本当に見えていないらしく、歩みが遅すぎる。あまりにも遅く、いつ延暦寺に着くのか見当もつかない。
「こやつ、どうにも遅い…」
一益は声を出して呟きながら、困ったように法師を見つめた。
「まことに。されど左近様、坊主に速さは求められませぬ。されど、これでは先にも進めず…」
義太夫は、少し焦りながらも笑って言った。
仕方なく、一益と義太夫で交代で法師を背負うことになった。義太夫が背負い、一益が歩を進める。どこか滑稽でもあり、この状況が不安を呼び起こすものでもあった。
その道中、一益が法師を背負いながら、ふと尋ねた。
「……で、何をしに延暦寺へ行くのだ?」
「堕落した坊主の過ちを正しに行くのじゃ」
「何?」
またも不可解なことを口にした。だが、延暦寺の僧侶が奢り高ぶり、金や権威におぼれているという噂は確かにある。
「念仏を唱えても、極楽には行けぬしな」
「坊主がそれを言うか」
一益は呆れ、思わず笑ってしまった。
しばらく歩きながら、その言葉の真意を測ろうとしていたが、すぐに一益の意識は目の前の延暦寺に向けられた。ようやく、延暦寺の門前に辿り着いたのだ。
鐘の残響が、山肌を撫でおろしながら遅れて降りてくる。
「では、ここで待っておれ」
そう言い残し、法師は門の中に進んで行った。
「妙な坊主じゃ」
一益はその後ろ姿を見送ってから、ぽつりとつぶやいた。
「いえ。あれは坊主ではありますまい。恐らくはどこぞの間諜かと」
一益は首を傾げた。あの動きで間諜が務まるとは思えない。
「間諜ならもう少し間諜らしくしそうなものじゃが……」
そう言って肩をすくめたとき、山の上からかすかに鐘の音が響いてきた。どこか遠くから伝わってくるその音は、何とも不穏で、耳に残る。
「鐘の音か」
一益は音に耳を傾けながらつぶやいた。鐘の音が何かを告げているように感じたが、それが何かはまだ分からなかった。
それから二刻ほどが過ぎ、法師がふたたび現れた。袈裟の袖には煤がつき、鉄の棒の先は土か灰のようなもので汚れていた。その姿から、何か不穏な動きが感じられた。
「坊主の悪事は正されたか?」
義太夫が軽く言うと、法師は肩を竦めて答えた。
「今日も同じじゃのう」
「今日も……? 何度も来ておるのか」
その言葉に、一益は改めて、目の前のこの男が何者なのか分からなくなった。
盲目の琵琶法師にしては、よく喋りすぎるし、何より――見えぬはずのものを、見すぎている。
一体、何をたくらみ、何を見ようとしているのか――。
こんな貧相な法師が、比叡山の高僧たちに言葉をかけて耳を貸すような相手とは到底思えない。
それなのに、何度も延暦寺を訪れているのは、なぜだろう。
そんな話をしていた矢先、法師は背負われたままぐうぐうといびきをかき始めた。
その寝顔には、子供のような無邪気ささえ浮かんでいる。義太夫は思わず苦笑を漏らした。
「やれやれ、無駄に喋るかと思えば、いびきをかきだす。驚くほど厚かましい坊主で」
義太夫が呆れたように言うと、一益は肩をすくめた。法師が何者で、何を企んでいるのか、ますます分からなくなっていた。
「坊主とも思えぬが……それより、昨夜の首尾はどうだ」
昨夜、義太夫は二条御所の周辺を偵察していた。その報告を受けねば、次の行動が決められない。
義太夫は少し考えた後、答えた。
「思った以上の警備の固さ。忍び込むのは造作もないこと。されど、蔵に入って目当てのものを盗み出し、無事に戻るのは骨が折れるかと」
「然様か……」
今回の旅の目的はただ一つ。
将軍が南蛮人から手に入れたという、火薬を用いた不可思議な武器――火縄筒と、その設計図を盗み出すこと。それが、一益に下された密命だった。
「公方がいない今が好機。戻ったら、御所の見取り図を書いてくれ」
「心得ました」
義太夫が即答する。
一益はうなずきかけて、ふと、昨夜の法師の言葉を思い出した。
『公方に会いにきた』――法師は、そう言っていた。その言葉が胸に引っかかる。
(この坊主……まさか、公方が都を離れていることを知らぬのではあるまいな)
京に戻り、法師を横に寝かせたあと、二人は灯の下で御所の見取り図を広げた。
侵入口、番所の位置、見張りの動線――義太夫が頭に叩き込んできた内容を紙に起こしていく。計画が具体的に進行する中、静かな夜の空気がその場を包み込んでいた。
そこへ、突然の声が響いた。
「やめておけ、中将」
驚いて振り向くと、寝ていたはずの法師が、半身を起こしてこちらを向いている。その目は、暗闇の中でも異様に鋭く、何かを見透かしているかのようだった。
「中将……? わしのことか?」
一益は戸惑いながら法師に目を向けた。
「そうじゃ。花桜折る中将」
法師は無表情で言い放つ。その言葉に、さらに困惑が広がる。
「花桜折る中将?」
一益は首をかしげ、意味がわからないといった顔をする。
「ぬしらのような未熟者が、御所から盗み出すなど、できようはずもない」
法師は冷ややかな眼差しで二人を見た。
義太夫は顔をしかめ、不満そうに言った。
「何を申すか、生臭坊主の分際で――」
一益は不意に吹き出して笑った。
「では、生臭坊主は公方に目通り叶うと、そう思うておるのか」
「必ず叶う」
「笑止千万」
一益は一息に笑い飛ばした。
「公方は今、御所にはおらぬぞ」
法師がくったくない笑顔を見せる。
「存じておるわい。わしは待っておるのじゃ」
「……公方の帰りを?」
「そうではない。時を、じゃ」
一益は黙り込んだ。
待つというのは、ただ立ち止まることではない――その言葉の奥に、奇妙な静けさを感じた。
天の下では、何事にも定まった時があり、すべての営みには時がある。神が動く時があり、人の策では届かぬ時がある。
この男は、ただ何もせずにいるのではない。神の時を待っているのだ。
義太夫が不機嫌そうに言った。
「そのような悪たれ坊主、捨て置きなされ。それよりも先ほど、御所から兵が洛外へ向けて出ていきました。御所の中が手薄になるのは、今宵から明朝にかけてかと」
「なるほど……」
一益は短く答えた。義太夫の言葉に耳を傾けながらも、頭の中では次に何をすべきかが渦巻いていた。
「義太夫。そのほう、南蛮の武器とやら、見たことがあるか」
「遠目には」
義太夫は少し考え、答える。
「…たしか、筒のような形で、先に火縄がついていたような…。火を放つ道具であるらしく。あれを盗み出せばよいかと」
「火縄筒……か」
一益はその言葉に反応し、記憶をたどる。あやふやな記憶が浮かぶが、手がかりはそれだけ。情報がいささか少ないことが懸念される。二人は互いに視線を交わし、再び灯の下で計画を練り直し始めた。法師の不気味な言葉が頭の中に残りつつも、今は目の前の目標を達成することが最優先だ。
その夜――深夜。
一益は物音に目を覚ました。どこかで、ぶつぶつと呟くような声がしている。眠気を振り払い、耳を澄ませると、その声は間違いなく法師の声だった。
見れば、義太夫も気づいて起きていた。
「……あの坊主が、なにやら数珠のようなものを手にして、怪しげな呪文を唱えておりまする」
義太夫が低い声で言った。
「念仏ではないのか」
「いえ……どうにも、仏の名を呼んでおるようには聞こえませぬ。声の調子も、どこか違います」
小声でそう告げた義太夫の顔には、警戒が浮かんでいた。
確かに、僧には見えぬ。修験者とも、陰陽師とも異なる。
呪術師とも思えぬが――
それでも、法師の口から洩れる呟きは、どこか人の心に波紋を広げるような響きがある。
(何者だ、あの男……)
一益は、再び粗末な床に戻りながらも、どこか心に引っかかるのを感じた。それは単なる呪文ではない。何か、未知の力を感じさせる
眠りに落ちようとするたび、その声がふっと現実と夢の合間に響き、一益を引き戻す。頭の中で、法師の呟きがしばらく残り続けた。
とうとう深く眠ることはできなかった。目を閉じても、あの声が耳の奥で鳴り続け、眠りを奪っていった。
気になって何度か目を覚ましながら、ようやく夜が白み始める。夜の帳が薄れ、明け方が訪れた。待ちに待った時が、ついに来た。
御所は将軍不在もあり、警備が幾分か手薄になっていた。これが好機だと、一益は判断し、慎重に動き出す。
手筈通り、義太夫が表門付近に焙烙玉を投げて見張りの兵を引きつけ、火矢で小火を起こす。
その間に兵たちは慌てて消火に向かい、隙間ができる。義太夫の計略通り、警備の目が一瞬、蔵から逸れた。
その隙を逃すまいと、一益は裏手の塀を越え、素早く蔵のある方角へと駆け込む。忍び足で、足音を立てず、冷静に進む。
蔵番を一人、無音で倒し、そのまま忍び入った先には、夥しい数の櫃が並んでいた。どれもこれも厳重に封がなされており、目当ての火縄筒がどこにあるのか、全く見当がつかない。
(間に合わぬぞ……)
焦る気持ちを抑えながら、端から手早く袋を探る。あまりに多くの櫃があり、どこから手をつけるべきか迷いが生じるが、時間がない。
ようやく何かしら細長いものが入っていそうな袋をいくつか見つけ、それを抱えて飛び出した。息を切らさずに、気配を消しながら出口を目指す。足元に注意を払い、足音すらも最小限に抑えて進む。
寺に戻ると、義太夫はすでに戻っていた。
「おぉ。これが火縄筒でござりますか」
一益が抱えてきた袋を広げ、ひとつひとつ中身を取り出していく。
だが――
「…違うておるな」
そこから現れたのは、いずれも高価な唐織物や古文書の断片ばかり。期待していた火縄筒とは全く異なるものが入っていた。
黙って、項垂れる。一益。灰がふっと吸い込み、火がわずかに沈む。静けさだけが残った。
「この唐物を売って、何か仕入れて参りまする。流石に腹が減りました」
義太夫は唐物を一抱え取り、踵を返す。
「腹は鳴れども懐は鳴らず……せめて銭だけは鳴らして参りまする」
軽口を残して、町の方へ歩み出す。
すると背後から、くぐもった笑い声が聞こえた。
「だから言うたじゃろう、中将」
謎の法師だった。どこからともなく現れ、すでに近くに立っていた。
「何故わしが中将じゃ?」
一益は冷たく返した。一益の目が、再びあの不気味な坊主を鋭く見据えた。
「ぬしは堤中納言を知らぬか」
法師は、何かを思い出したかのように言った。
「知らぬわ、そのような者」
一益が吐き捨てるように言うと、法師は無言で鉄の棒のようなものを目の前に放り投げた。
「ほれ。くれてやる」
一益がいぶかしげにそれを拾い上げ、じっと見つめる。
「わからぬか。それが、ぬしらが求めておる火縄銃じゃ」
「なに……? これが……」
重みのある鉄の筒には、話に聞いた通り、火縄をかける仕掛けがついていた。
一益は火縄銃を手に取ると、驚きと興奮の入り混じった表情を浮かべた。その異様な武器の重さ、そして見慣れぬ仕掛けに、唖然としていた。目の前にある道具が、まさに南蛮の武器そのものであることを理解し始めていた。
「これが……」
一益は声を漏らしながら、火縄銃をじっと見つめる。
法師は無言で、もう一つ、粗末な袋を放ってよこした。袋を開けると、中には黒い火薬と、円形の鉄の塊がいくつか入っている。
「これは…どのように使う?」
「見せて進ぜよう。山中に連れて行け」
法師は淡々と答え、再び一益に命じた。その目は、一益に背負われることを当然のように期待している。
「致し方ない」
一益はしばらく考えた後、再び法師を背に負い、山の中へと分け入った。その道のりは暗く静まり返り、足音が響くたびに冷たい風が吹き抜ける。無言のまま進む一益の頭の中には、法師の奇妙な発言と、初めて目にした火縄銃が浮かび上がっていた。
「ここいらでよかろう」
法師は、片手に火縄銃を持ち、風の向きを確かめるようにわずかに顔を上げた。火縄銃は法師の手の中で、不気味な存在感を放っている。
「ここで火をおこす」
法師は、するりと火打石を取り出し、たちまち火をおこす。
その手さばきは、見えているかのような迷いのなさ。その様子に、一益は再び不気味さを覚えた。
(やはり――盲目というのは偽りか?)
法師は静かに銃を構え、頬にかかる風を読むように一瞬だけ身じろぎした。
その筒先が、葉陰で虫をついばむ一羽の小鳥へと止まる。火蓋が切られた瞬間、乾いた爆音が谷に響いた。
小鳥が羽を散らして、ぱたりと落ちた。
一益は言葉を失い、その光景に目を奪われた。
煙が流れ、鼻を刺す硝煙の匂いが漂う。初めて見るその武器の威力に、胸が一気に熱くなった。
「……これが、南蛮の武器か。これがあれば、天下を取ることも夢ではないかもしれぬ」
興奮を隠せず呟いた一益に、法師が静かに口を開いた。
「されど、争いを避けることは人の誉れ。愚かな者はみな、争いを引き起こすという。その火縄銃を争いを招くためではなく——争いを避けるために使え。力は人を扶くためにこそ用いられるものじゃ」
一益はその言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに顔を上げ、再び法師を見つめた。
「仏法か? おぬし、どこの寺の者か。ただの坊主ではあるまい」
「わしは漁師じゃ」
「何、猟師?」
「わしは、人をとる漁師じゃ」
「人を食う猟師であろう?」
一益が苦笑を浮かべながら、冗談めかして言うと、法師がくつくつと笑った。
「中将、世話になった礼に、仕組みを教えて進ぜよう」
法師は火縄銃の構造を一つずつ説明し始めた。火縄を通す穴、火鋏、火皿……その語り口は端的で、明確だ。話を聞きながら、法師の記憶力の確かさと、思考の速さに驚かされた。一益は次第に驚きの表情を隠せなくなった。
やがて法師は、懐から南蛮細工らしき不思議な器具を取り出した。小さく透き通った器だ。透明な器の中には、細かい砂が詰まっている。
「それは?」
「砂時計じゃ。この砂が落ちる量で、時を計るのじゃ」
一益は、その細工の繊細さに思わず見入った。
「おぬし、まことは琵琶法師ではあるまい。呪術師か? 名は?」
「了斎じゃ。ロレンソ了斎。呪術師ではない。伊留満じゃ」
ロレンソが小瓶を指で弾き、「砂は止まらぬ」と静かに言う。さら、と一粒の砂が落ちた。
「伊留満?」
「中将は、伴天連を知らぬか」
ロレンソ了斎は、将軍より布教許可を得るため、はるばる肥前から京へとやって来た、キリスト教の修士だった。
「妙なことばかり言うと思うたら……おぬしは、伴天連か」
「然様。中将――また会うこともあろう。
『家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。
われら善をなすに倦《うと》まざれ。もし撓《うと》まずば、時いたりて刈り取るべし』」
それだけを言い残し、ロレンソ了斎は微笑をたたえたまま、山道の奥へと歩み去っていった。
一益は、手にした火縄銃の重みを噛みしめながら、しばしその背を見送っていた。ロレンソ了斎の姿は、すでに山の向こうに消えていた。
風がひとすじ、夏草をなでていく。山のどこかで、先ほどの鐘の余韻が長く尾を引く。
振り返るように揺れる草の先で、虫の音がかすかに鳴いた。
一益は手にした火縄銃を見つめたまま、しばらく動かなかった。
これはただの南蛮の兵器ではない。ひとつの思想と、世の記憶を帯びた道具だ。
「争いを避けるために使え、か……」
自らが歩む道が、はたして「争いを避ける道」であるのか、それとも「争いを加速させる道」なのか――答えはまだ出ない。
だが、あの男が何者であれ、確かにこの手に、何かを託していった。
「中将、また会うこともあろう」
その言葉だけが、耳の奥に残っていた。ひとしきりの静寂が過ぎた後、一益は複雑な思いを胸に秘め、歩き始めた。
寺に戻ると、義太夫が門前で腕を組み、待っていた。一益が何も告げずに姿を消したので心配していたようだ。一益の姿を見ると、くったくない笑みを浮かべた。
「案じておりました」
一益が黙って火縄銃を差し出すと、義太夫は目を見開き、驚きの表情を浮かべた。
「これが火縄銃じゃ」
「これは……! あの怪しげな坊主の……これが火縄銃とは」
銃を手に取り、しげしげと眺め、眉を寄せて悔しげに言った。
「あの坊主め、我らが火縄銃を狙うておると知っていながら、素知らぬ顔で――」
そう吐き捨てると、苛立ちを隠さず、庭石のそばで地団駄を踏む。
「まんまと手玉に取られましたなぁ」
一益は苦笑を浮かべながら、ふと頭の隅にひっかかっていた言葉を思い出した。
――『中将』『堤中納言』『花桜折る中将』
(……そういえば、なぜ『中将』などと呼ばれたのだろうか)
「義太夫。堤中納言なるものを、存じておるか?」
「ははあ、あれでございましたか。坊主が殿を『花桜折る中将』と呼んでいたのは、つまり……堤中納言」
「なんだ、それは?」
義太夫は少し改まった調子で口を開いた。
「平安の昔に伝わる小話集でございます。そのうちの一つ『花桜折る中将』では――」
原話では「少将」とも伝わる、と付け加えたところで、口角がわずかに上がる。
「今宵の坊主は、あえて『中将』と申しましたな」
語りながら、声の端に笑いが混じりはじめる。
「……ある中将が、恋いこがれる姫君を、ある夜こっそり盗み出す話で」
一益が促すように問う。
「……で、盗み出してどうなった?」
義太夫は息を整え、真面目な顔に戻そうとした。
「屋敷に帰って、いそいそと顔をのぞいてみれば――姫ではなく、頭を丸めた姫の祖母であった、という次第にて」
言い終えたところで堪えきれず、喉の奥から笑いが漏れる。肩が一度だけ揺れた。
その横で一益は火縄銃に視線を落とし、鼻で短く息を吐いた。
(帰するところ、最初から、わしが盗み出すのは『的を外す』と見抜いていたということか)
「……あの生臭坊主、やはり斬っておけばよかった」
一益は不快感を隠すことなく、火縄銃を片手に持ち直した。だが、心の底にはなぜか、切り捨てがたい男の姿が残っている。あの奇妙な法師――ロレンソのことが、どうしても気になって仕方がなかった。
「左近様の運命を見通しているようでしたな。あの坊主、いや、あのロレンソと申しましたか……奇妙な坊主で」
義太夫が少し困惑しながら言うと、一益はそれに静かに答えた。
「……否。奇妙なのは、我らかもしれぬ」
一益はそう呟き、ふと空を仰ぐ。青空は静かに広がり、雲がどこまでも流れていた。その流れに何かを感じ取るように、目を閉じ、心の中で何かを思索していた。
戦も、国も、人の心も――すべてが、どこかへ向かって流れていく。
その流れのなかに、自分の小さな歩みも、確かに刻まれていくのだ。
やがて時は巡り、誰かのもとに仕える日が来ようとも、今日のこの出会いは、心の奥に静かに残り続けるに違いない。ロレンソとの奇妙な邂逅が、これからの運命にどのように影響を与えるのかは分からないが、この瞬間が未来の一歩を形作るような気がする。
夏の終わりの風が吹いた。その風は、どこか寂しさを感じさせるが、同時に新たな始まりの兆しをもたらすように思えた。
一益は、火縄銃を布で包み、肩に背負った。これは、これからの乱世を歩むための、最初のひとつの荷だった。一益の目には、この火縄銃が意味するものが単なる武器ではないことがわかっていた。それは、未来の変革を示す象徴であり、一益自身が背負っていく運命の一部でもあった。
この火縄銃が、のちに大きな時代の節目を刻むとは、一益もまだ知る由もなかった。だが、運命がどのように展開していくのかを見届ける覚悟だけはあった。
ロレンソ了斎が将軍・足利義輝に謁見し、畿内での布教許可を得るのは、この五年後のことである。その時こそ、彼が『神の時』と呼んだものが訪れたのだ。
そして、一益が織田信長の家臣として台頭し、ふたたびロレンソと再会を果たすのは、さらにその先――乱世の嵐が、より激しく吹き荒れる頃のことになる。
時は戦国。焦げた梁の匂いがまだ浮いている。火の手の消えかけた京を、ふたりの影が無言でわたる。
ひとりは、滝川義太夫。若さゆえか剽《ひょう》げた雰囲気を感じさせるが、その言葉遣いや振る舞いには、若干の武士らしさも見え隠れする。だが、その口調はどこか軽薄で、常に何かを茶化すような態度を崩さない。
「左近様、さすがにここも変わりませぬ。荒れ果てた戦場のような有様で、どこもかしこも気が抜けておるようにて」
義太夫は皮肉を込めて微笑んだ。その顔には少しの遊び心が現れ、周囲の状況を嘲笑するかのようだ。
もうひとりは、滝川一益。年嵩を思わせる風貌で、言葉少なに歩みを進める。その目にはすでに、数多の戦場で修羅場を潜り抜けてきた冷徹さと、世の無常を見透かしたような鋭さが漂っている。
「おぬしは、何事も軽く見すぎじゃ」
一益の言葉は皮肉っぽく、冷徹に響いたが、義太夫のことを心底嫌っているわけではないことが、微かに感じ取れる。
「義太夫。見よ、あれを」
一益が指差した先には、風化し、崩れかけた廃屋が見えた。
「今宵はあれで夜を明かすとしよう」
「いえ。あれは、公家の屋敷で。今も住んでいる者がおるものかと」
義太夫はそう言って一益の言葉に反論したが、一益は微笑を浮かべて言った。
「たわけたことを。公家が、あのような獣の住処に……」
遠くで鐘がひとつ、斜面を伝って割れてきた。
言葉が切れる。塀の陰、白装束がこちらを見ていた。風はないのに、髪だけがかすかに息をしている――。
「……行こう」
一益は踵を返し、義太夫を促した。
「義太夫、いつまでも女子にばかり気を取られるでない」
一益の声は冷たく響いたが、義太夫はその背後で、少しばかり嬉しそうに口元をゆるめて歩き始めた。義太夫にとって、一益と共に歩く道は常に新しい冒険のようなものだ。命じられれば、どんな無茶でもこなす覚悟を持っている。
一益は今日、はじめてこの都に足を踏み入れた。父・滝川一勝の命により、甲賀を離れ、密命を帯びてこの都に来たのだ。
「都がここまで荒れておるとは…」
かつて栄華を誇ったこの京の姿は、想像とはまるで異なっていた。荒れ果て、焼け落ち、声なきものの気配に満ちている。
比叡山延暦寺の僧たちが法華宗の寺を焼き払ったと聞いた。応仁の乱の火はとっくに消えたはずが、都はなお、静かに、じわじわと焼け落ちているようだ。
「時が止まっておるかのようじゃ」
一益は目を細め、荒廃した景色を見つめながら呟いた。その目に浮かぶのは、どこか冷徹な観察眼。その心には、今の京の姿が予兆のように感じられた。
かろうじて柱の残った寺の跡に腰を下ろしながら、一益は懐の柄にそっと手を添えた。その手のひらに伝わる冷たさが、京の不穏な空気を一層引き立てる。
「何かが潜んでおるのか」
一益は低く呟いた。
京の闇は、ただの闇ではなかった。どこかに潜むものが、この土地に踏み込んだ者の心を、根の底から試してくるような気配があった。周囲に漂う不安と謎が、一益を一層鋭敏にさせている。義太夫がどれほど軽口を叩こうとも、この空気に浮かれることはない。この京の不気味さをひしひしと感じ取っていた。
義太夫はその静けさを破るように、少し明るい調子で言った。
「まあ、かように荒れた町でも、何か面白きことが転がっておるもので」
一益は苦笑したが、足を速めて先へと歩き出す。義太夫はその後を追いながら、口元に微かな笑みを浮かべた。どんな状況でも、義太夫にとって一益と一緒にいることが何よりの安心であり、楽しみでもある。
二人は荒れた寺の跡に腰を下ろす。一益は懐に手をあて、しばらく黙って目を閉じた。
その時、焚き火の向こうで何かが動く音がした。息をのんだその刹那、破れた壁の向こうから低く、かすれた声が響いた。
「どなたかな?」
一益と義太夫は息を潜め、その声に反応した。
そこには、ボロボロの衣を纏った盲目の法師がひとり、静かに座っていた。
「…坊主。驚かせるな」
一益は少し声を荒げると、義太夫はそれを制するように首を振った。
「あれなるは……琵琶法師でござりましょう」
だが、琵琶を持たぬその男は一体、何者なのか。襟に黒い粉がわずかについていた。灰か、砂か——。
「我らは旅の者じゃ。今宵はここで夜を明かそうと思うておる」
義太夫が答えると、法師は口元に笑みを浮かべて応じた。
「ちょうど退屈しておったところ。よいところに参られた」
その笑みはどこか不気味に感じられ、一益の胸に冷や汗が走った。爬虫類のような薄い笑顔に、どこかぞっとするものを覚えた。
「御坊は、何処より参られた?」
一益は冷たく尋ねた。その目は法師の姿を鋭く捉え、疑いの目を向けている。法師は少し間を置き、独特のなまりで答えた。
「肥前じゃ」
「肥前? たわけたことを申すな。その目で、どうやってここまで来た」
言っていることがどうにも怪しい。見たところ、盲目らしきその目で、長旅ができるものだろうか。
外見も、言うことも、すべてが怪しい。
「ある時は船に乗り、またある時は歩き……ようやく、京の都にたどりついたのじゃ」
口ぶりは穏やかだが、言っていることはおかしい。
「何ゆえに京へ参った?」
一益はさらに問い詰めた。だが、法師はますます荒唐無稽な話をはじめた。
「公方様に会うためじゃ」
「何? 生臭坊主が? 公方に会う?」
一益は吹き出し、腹を抱えて笑った。戯言にしても度が過ぎている。
ふいに、ぐぅと腹が鳴った。そういえば今日は何も食べていない。
「笑うたら余計に腹が減った。空腹じゃ。義太夫、何かないか」
「それゆえ、早うかような町は離れたほうがよいと申し上げました」
都では何を買うにも値がはり、持ってきた銭がみるみるうちになくなっていく。
このままでは国に戻ることもままならぬ。
二人の会話を聞いていた法師が、ホッホッとくぐもった声で笑い出した。
「かような生臭坊主にまで笑われておるわ……」
一益はつぶやいたが、怒る気力も湧かない。どうせ、これ以上どうにかできるわけでもない。
すると法師は、がさがさと衣の下を探り、懐から何かを取り出した。
「ほれ。これを食え」
それは雉だった。義太夫は少し驚きながら、それを受け取る。
「雉ではないか。どこで買うてきた?」
一益は雉を受け取り、じっと見る。羽の一部が焦げたように黒くなっていた。
矢傷ではない。
「これで仕留めたのじゃ」
と、傍らにあった鉄の棒を持ち上げる。近づいてみれば、筒尻には荒縄で括り付けた粗造の床尾が覗いていた。
「それで雉を殴ったと?……見えておるのか? 坊主のくせに殺生するとは。さては、どこぞの素破か」
素破にしても、あまりに汚れた格好だ。
この装いで将軍に会おうというのだから、まったく呆れる。
「心の目で見ておるのじゃ」
とぼけた口ぶりが、なおのこと怪しい。だが空腹には勝てず、二人はありがたく雉を受け取って口にした。
満腹にはほど遠かったが、ようやく人心地がついた。
火にあたっていると、からだの芯まで温まっていくのがわかる。義太夫は焚き火の前に座り、心地よさそうに目を閉じた。しかし、その姿からも、やはり都の居心地の悪さが伝わってくる。金がかかり、町のあちらこちらは荒れ果て、かつての栄華をほとんど感じさせない。
明日は少し離れた町へ移動したほうがいいかもしれない――そう考えているうちに、焚き火の熱が心地よく、まぶたが重くなってきた。
「左近様、こう荒れた町で寝泊まりするのは、やはり気が進みませんな」
義太夫は少し皮肉っぽく言いながらも、その目には不安が見え隠れしていた。都の空気が、義太夫のような若者に不穏な気配を感じさせるのだろうか。
一益はその言葉に答えることなく、黙って焚き火の炎を見つめていた。
かすかに風の音がする。遠くで犬が一声吠えた。
そのあと、しんと夜が深まり、何もかもが沈黙に飲まれてゆく――。
気づけば、いつしか二人とも、眠りに落ちていた。
翌朝早く、法師に起こされた。
「早う起きよ、行くぞ」
唐突な声に、一益と義太夫は寝ぼけ眼をこすりながら顔を見合わせた。
「……何? 行くとは?」
「わしを比叡山まで連れて行け」
法師は、目の前で淡々と言った。まるで自分が命じることが当たり前だと言わんばかりだ。
「何を申すか。何で我らが……」
一益はしばし呆然とした後、すぐに顔をしかめた。そのような命令に従うつもりは毛頭ない。
「昨夜、報酬を払うたであろう」
一益は一瞬、きょとんとしたが、すぐに思い至る。
雉のことだ。あの時、法師が気前よく差し出したあの肉のこと。気前がいいと思ったが、どうやらその背後には下心があったらしい。
「延暦寺は、おのれのような生臭坊主の行くところではないわ」
「よいから早う連れて行け」
そう言って鉄の棒で地面を突き鳴らすと、その先で砂がぱらぱらと飛んだ。
「何をするか、無礼な……」
義太夫が刀に手をかけたが、一益はそれを目で制した。
「もうよい。さっさと連れて行こう」
口の減らない法師を相手にしても埒が明かぬ。それに、どうにも気になる。
この法師、ただの盲目の琵琶法師とは思えぬ何かがあるが、その正体をつかみきれずにいた。
歩き出してしばらく経ってから、一益は思わず頭を抱えることになった。どうやら、法師は本当に見えていないらしく、歩みが遅すぎる。あまりにも遅く、いつ延暦寺に着くのか見当もつかない。
「こやつ、どうにも遅い…」
一益は声を出して呟きながら、困ったように法師を見つめた。
「まことに。されど左近様、坊主に速さは求められませぬ。されど、これでは先にも進めず…」
義太夫は、少し焦りながらも笑って言った。
仕方なく、一益と義太夫で交代で法師を背負うことになった。義太夫が背負い、一益が歩を進める。どこか滑稽でもあり、この状況が不安を呼び起こすものでもあった。
その道中、一益が法師を背負いながら、ふと尋ねた。
「……で、何をしに延暦寺へ行くのだ?」
「堕落した坊主の過ちを正しに行くのじゃ」
「何?」
またも不可解なことを口にした。だが、延暦寺の僧侶が奢り高ぶり、金や権威におぼれているという噂は確かにある。
「念仏を唱えても、極楽には行けぬしな」
「坊主がそれを言うか」
一益は呆れ、思わず笑ってしまった。
しばらく歩きながら、その言葉の真意を測ろうとしていたが、すぐに一益の意識は目の前の延暦寺に向けられた。ようやく、延暦寺の門前に辿り着いたのだ。
鐘の残響が、山肌を撫でおろしながら遅れて降りてくる。
「では、ここで待っておれ」
そう言い残し、法師は門の中に進んで行った。
「妙な坊主じゃ」
一益はその後ろ姿を見送ってから、ぽつりとつぶやいた。
「いえ。あれは坊主ではありますまい。恐らくはどこぞの間諜かと」
一益は首を傾げた。あの動きで間諜が務まるとは思えない。
「間諜ならもう少し間諜らしくしそうなものじゃが……」
そう言って肩をすくめたとき、山の上からかすかに鐘の音が響いてきた。どこか遠くから伝わってくるその音は、何とも不穏で、耳に残る。
「鐘の音か」
一益は音に耳を傾けながらつぶやいた。鐘の音が何かを告げているように感じたが、それが何かはまだ分からなかった。
それから二刻ほどが過ぎ、法師がふたたび現れた。袈裟の袖には煤がつき、鉄の棒の先は土か灰のようなもので汚れていた。その姿から、何か不穏な動きが感じられた。
「坊主の悪事は正されたか?」
義太夫が軽く言うと、法師は肩を竦めて答えた。
「今日も同じじゃのう」
「今日も……? 何度も来ておるのか」
その言葉に、一益は改めて、目の前のこの男が何者なのか分からなくなった。
盲目の琵琶法師にしては、よく喋りすぎるし、何より――見えぬはずのものを、見すぎている。
一体、何をたくらみ、何を見ようとしているのか――。
こんな貧相な法師が、比叡山の高僧たちに言葉をかけて耳を貸すような相手とは到底思えない。
それなのに、何度も延暦寺を訪れているのは、なぜだろう。
そんな話をしていた矢先、法師は背負われたままぐうぐうといびきをかき始めた。
その寝顔には、子供のような無邪気ささえ浮かんでいる。義太夫は思わず苦笑を漏らした。
「やれやれ、無駄に喋るかと思えば、いびきをかきだす。驚くほど厚かましい坊主で」
義太夫が呆れたように言うと、一益は肩をすくめた。法師が何者で、何を企んでいるのか、ますます分からなくなっていた。
「坊主とも思えぬが……それより、昨夜の首尾はどうだ」
昨夜、義太夫は二条御所の周辺を偵察していた。その報告を受けねば、次の行動が決められない。
義太夫は少し考えた後、答えた。
「思った以上の警備の固さ。忍び込むのは造作もないこと。されど、蔵に入って目当てのものを盗み出し、無事に戻るのは骨が折れるかと」
「然様か……」
今回の旅の目的はただ一つ。
将軍が南蛮人から手に入れたという、火薬を用いた不可思議な武器――火縄筒と、その設計図を盗み出すこと。それが、一益に下された密命だった。
「公方がいない今が好機。戻ったら、御所の見取り図を書いてくれ」
「心得ました」
義太夫が即答する。
一益はうなずきかけて、ふと、昨夜の法師の言葉を思い出した。
『公方に会いにきた』――法師は、そう言っていた。その言葉が胸に引っかかる。
(この坊主……まさか、公方が都を離れていることを知らぬのではあるまいな)
京に戻り、法師を横に寝かせたあと、二人は灯の下で御所の見取り図を広げた。
侵入口、番所の位置、見張りの動線――義太夫が頭に叩き込んできた内容を紙に起こしていく。計画が具体的に進行する中、静かな夜の空気がその場を包み込んでいた。
そこへ、突然の声が響いた。
「やめておけ、中将」
驚いて振り向くと、寝ていたはずの法師が、半身を起こしてこちらを向いている。その目は、暗闇の中でも異様に鋭く、何かを見透かしているかのようだった。
「中将……? わしのことか?」
一益は戸惑いながら法師に目を向けた。
「そうじゃ。花桜折る中将」
法師は無表情で言い放つ。その言葉に、さらに困惑が広がる。
「花桜折る中将?」
一益は首をかしげ、意味がわからないといった顔をする。
「ぬしらのような未熟者が、御所から盗み出すなど、できようはずもない」
法師は冷ややかな眼差しで二人を見た。
義太夫は顔をしかめ、不満そうに言った。
「何を申すか、生臭坊主の分際で――」
一益は不意に吹き出して笑った。
「では、生臭坊主は公方に目通り叶うと、そう思うておるのか」
「必ず叶う」
「笑止千万」
一益は一息に笑い飛ばした。
「公方は今、御所にはおらぬぞ」
法師がくったくない笑顔を見せる。
「存じておるわい。わしは待っておるのじゃ」
「……公方の帰りを?」
「そうではない。時を、じゃ」
一益は黙り込んだ。
待つというのは、ただ立ち止まることではない――その言葉の奥に、奇妙な静けさを感じた。
天の下では、何事にも定まった時があり、すべての営みには時がある。神が動く時があり、人の策では届かぬ時がある。
この男は、ただ何もせずにいるのではない。神の時を待っているのだ。
義太夫が不機嫌そうに言った。
「そのような悪たれ坊主、捨て置きなされ。それよりも先ほど、御所から兵が洛外へ向けて出ていきました。御所の中が手薄になるのは、今宵から明朝にかけてかと」
「なるほど……」
一益は短く答えた。義太夫の言葉に耳を傾けながらも、頭の中では次に何をすべきかが渦巻いていた。
「義太夫。そのほう、南蛮の武器とやら、見たことがあるか」
「遠目には」
義太夫は少し考え、答える。
「…たしか、筒のような形で、先に火縄がついていたような…。火を放つ道具であるらしく。あれを盗み出せばよいかと」
「火縄筒……か」
一益はその言葉に反応し、記憶をたどる。あやふやな記憶が浮かぶが、手がかりはそれだけ。情報がいささか少ないことが懸念される。二人は互いに視線を交わし、再び灯の下で計画を練り直し始めた。法師の不気味な言葉が頭の中に残りつつも、今は目の前の目標を達成することが最優先だ。
その夜――深夜。
一益は物音に目を覚ました。どこかで、ぶつぶつと呟くような声がしている。眠気を振り払い、耳を澄ませると、その声は間違いなく法師の声だった。
見れば、義太夫も気づいて起きていた。
「……あの坊主が、なにやら数珠のようなものを手にして、怪しげな呪文を唱えておりまする」
義太夫が低い声で言った。
「念仏ではないのか」
「いえ……どうにも、仏の名を呼んでおるようには聞こえませぬ。声の調子も、どこか違います」
小声でそう告げた義太夫の顔には、警戒が浮かんでいた。
確かに、僧には見えぬ。修験者とも、陰陽師とも異なる。
呪術師とも思えぬが――
それでも、法師の口から洩れる呟きは、どこか人の心に波紋を広げるような響きがある。
(何者だ、あの男……)
一益は、再び粗末な床に戻りながらも、どこか心に引っかかるのを感じた。それは単なる呪文ではない。何か、未知の力を感じさせる
眠りに落ちようとするたび、その声がふっと現実と夢の合間に響き、一益を引き戻す。頭の中で、法師の呟きがしばらく残り続けた。
とうとう深く眠ることはできなかった。目を閉じても、あの声が耳の奥で鳴り続け、眠りを奪っていった。
気になって何度か目を覚ましながら、ようやく夜が白み始める。夜の帳が薄れ、明け方が訪れた。待ちに待った時が、ついに来た。
御所は将軍不在もあり、警備が幾分か手薄になっていた。これが好機だと、一益は判断し、慎重に動き出す。
手筈通り、義太夫が表門付近に焙烙玉を投げて見張りの兵を引きつけ、火矢で小火を起こす。
その間に兵たちは慌てて消火に向かい、隙間ができる。義太夫の計略通り、警備の目が一瞬、蔵から逸れた。
その隙を逃すまいと、一益は裏手の塀を越え、素早く蔵のある方角へと駆け込む。忍び足で、足音を立てず、冷静に進む。
蔵番を一人、無音で倒し、そのまま忍び入った先には、夥しい数の櫃が並んでいた。どれもこれも厳重に封がなされており、目当ての火縄筒がどこにあるのか、全く見当がつかない。
(間に合わぬぞ……)
焦る気持ちを抑えながら、端から手早く袋を探る。あまりに多くの櫃があり、どこから手をつけるべきか迷いが生じるが、時間がない。
ようやく何かしら細長いものが入っていそうな袋をいくつか見つけ、それを抱えて飛び出した。息を切らさずに、気配を消しながら出口を目指す。足元に注意を払い、足音すらも最小限に抑えて進む。
寺に戻ると、義太夫はすでに戻っていた。
「おぉ。これが火縄筒でござりますか」
一益が抱えてきた袋を広げ、ひとつひとつ中身を取り出していく。
だが――
「…違うておるな」
そこから現れたのは、いずれも高価な唐織物や古文書の断片ばかり。期待していた火縄筒とは全く異なるものが入っていた。
黙って、項垂れる。一益。灰がふっと吸い込み、火がわずかに沈む。静けさだけが残った。
「この唐物を売って、何か仕入れて参りまする。流石に腹が減りました」
義太夫は唐物を一抱え取り、踵を返す。
「腹は鳴れども懐は鳴らず……せめて銭だけは鳴らして参りまする」
軽口を残して、町の方へ歩み出す。
すると背後から、くぐもった笑い声が聞こえた。
「だから言うたじゃろう、中将」
謎の法師だった。どこからともなく現れ、すでに近くに立っていた。
「何故わしが中将じゃ?」
一益は冷たく返した。一益の目が、再びあの不気味な坊主を鋭く見据えた。
「ぬしは堤中納言を知らぬか」
法師は、何かを思い出したかのように言った。
「知らぬわ、そのような者」
一益が吐き捨てるように言うと、法師は無言で鉄の棒のようなものを目の前に放り投げた。
「ほれ。くれてやる」
一益がいぶかしげにそれを拾い上げ、じっと見つめる。
「わからぬか。それが、ぬしらが求めておる火縄銃じゃ」
「なに……? これが……」
重みのある鉄の筒には、話に聞いた通り、火縄をかける仕掛けがついていた。
一益は火縄銃を手に取ると、驚きと興奮の入り混じった表情を浮かべた。その異様な武器の重さ、そして見慣れぬ仕掛けに、唖然としていた。目の前にある道具が、まさに南蛮の武器そのものであることを理解し始めていた。
「これが……」
一益は声を漏らしながら、火縄銃をじっと見つめる。
法師は無言で、もう一つ、粗末な袋を放ってよこした。袋を開けると、中には黒い火薬と、円形の鉄の塊がいくつか入っている。
「これは…どのように使う?」
「見せて進ぜよう。山中に連れて行け」
法師は淡々と答え、再び一益に命じた。その目は、一益に背負われることを当然のように期待している。
「致し方ない」
一益はしばらく考えた後、再び法師を背に負い、山の中へと分け入った。その道のりは暗く静まり返り、足音が響くたびに冷たい風が吹き抜ける。無言のまま進む一益の頭の中には、法師の奇妙な発言と、初めて目にした火縄銃が浮かび上がっていた。
「ここいらでよかろう」
法師は、片手に火縄銃を持ち、風の向きを確かめるようにわずかに顔を上げた。火縄銃は法師の手の中で、不気味な存在感を放っている。
「ここで火をおこす」
法師は、するりと火打石を取り出し、たちまち火をおこす。
その手さばきは、見えているかのような迷いのなさ。その様子に、一益は再び不気味さを覚えた。
(やはり――盲目というのは偽りか?)
法師は静かに銃を構え、頬にかかる風を読むように一瞬だけ身じろぎした。
その筒先が、葉陰で虫をついばむ一羽の小鳥へと止まる。火蓋が切られた瞬間、乾いた爆音が谷に響いた。
小鳥が羽を散らして、ぱたりと落ちた。
一益は言葉を失い、その光景に目を奪われた。
煙が流れ、鼻を刺す硝煙の匂いが漂う。初めて見るその武器の威力に、胸が一気に熱くなった。
「……これが、南蛮の武器か。これがあれば、天下を取ることも夢ではないかもしれぬ」
興奮を隠せず呟いた一益に、法師が静かに口を開いた。
「されど、争いを避けることは人の誉れ。愚かな者はみな、争いを引き起こすという。その火縄銃を争いを招くためではなく——争いを避けるために使え。力は人を扶くためにこそ用いられるものじゃ」
一益はその言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに顔を上げ、再び法師を見つめた。
「仏法か? おぬし、どこの寺の者か。ただの坊主ではあるまい」
「わしは漁師じゃ」
「何、猟師?」
「わしは、人をとる漁師じゃ」
「人を食う猟師であろう?」
一益が苦笑を浮かべながら、冗談めかして言うと、法師がくつくつと笑った。
「中将、世話になった礼に、仕組みを教えて進ぜよう」
法師は火縄銃の構造を一つずつ説明し始めた。火縄を通す穴、火鋏、火皿……その語り口は端的で、明確だ。話を聞きながら、法師の記憶力の確かさと、思考の速さに驚かされた。一益は次第に驚きの表情を隠せなくなった。
やがて法師は、懐から南蛮細工らしき不思議な器具を取り出した。小さく透き通った器だ。透明な器の中には、細かい砂が詰まっている。
「それは?」
「砂時計じゃ。この砂が落ちる量で、時を計るのじゃ」
一益は、その細工の繊細さに思わず見入った。
「おぬし、まことは琵琶法師ではあるまい。呪術師か? 名は?」
「了斎じゃ。ロレンソ了斎。呪術師ではない。伊留満じゃ」
ロレンソが小瓶を指で弾き、「砂は止まらぬ」と静かに言う。さら、と一粒の砂が落ちた。
「伊留満?」
「中将は、伴天連を知らぬか」
ロレンソ了斎は、将軍より布教許可を得るため、はるばる肥前から京へとやって来た、キリスト教の修士だった。
「妙なことばかり言うと思うたら……おぬしは、伴天連か」
「然様。中将――また会うこともあろう。
『家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。
われら善をなすに倦《うと》まざれ。もし撓《うと》まずば、時いたりて刈り取るべし』」
それだけを言い残し、ロレンソ了斎は微笑をたたえたまま、山道の奥へと歩み去っていった。
一益は、手にした火縄銃の重みを噛みしめながら、しばしその背を見送っていた。ロレンソ了斎の姿は、すでに山の向こうに消えていた。
風がひとすじ、夏草をなでていく。山のどこかで、先ほどの鐘の余韻が長く尾を引く。
振り返るように揺れる草の先で、虫の音がかすかに鳴いた。
一益は手にした火縄銃を見つめたまま、しばらく動かなかった。
これはただの南蛮の兵器ではない。ひとつの思想と、世の記憶を帯びた道具だ。
「争いを避けるために使え、か……」
自らが歩む道が、はたして「争いを避ける道」であるのか、それとも「争いを加速させる道」なのか――答えはまだ出ない。
だが、あの男が何者であれ、確かにこの手に、何かを託していった。
「中将、また会うこともあろう」
その言葉だけが、耳の奥に残っていた。ひとしきりの静寂が過ぎた後、一益は複雑な思いを胸に秘め、歩き始めた。
寺に戻ると、義太夫が門前で腕を組み、待っていた。一益が何も告げずに姿を消したので心配していたようだ。一益の姿を見ると、くったくない笑みを浮かべた。
「案じておりました」
一益が黙って火縄銃を差し出すと、義太夫は目を見開き、驚きの表情を浮かべた。
「これが火縄銃じゃ」
「これは……! あの怪しげな坊主の……これが火縄銃とは」
銃を手に取り、しげしげと眺め、眉を寄せて悔しげに言った。
「あの坊主め、我らが火縄銃を狙うておると知っていながら、素知らぬ顔で――」
そう吐き捨てると、苛立ちを隠さず、庭石のそばで地団駄を踏む。
「まんまと手玉に取られましたなぁ」
一益は苦笑を浮かべながら、ふと頭の隅にひっかかっていた言葉を思い出した。
――『中将』『堤中納言』『花桜折る中将』
(……そういえば、なぜ『中将』などと呼ばれたのだろうか)
「義太夫。堤中納言なるものを、存じておるか?」
「ははあ、あれでございましたか。坊主が殿を『花桜折る中将』と呼んでいたのは、つまり……堤中納言」
「なんだ、それは?」
義太夫は少し改まった調子で口を開いた。
「平安の昔に伝わる小話集でございます。そのうちの一つ『花桜折る中将』では――」
原話では「少将」とも伝わる、と付け加えたところで、口角がわずかに上がる。
「今宵の坊主は、あえて『中将』と申しましたな」
語りながら、声の端に笑いが混じりはじめる。
「……ある中将が、恋いこがれる姫君を、ある夜こっそり盗み出す話で」
一益が促すように問う。
「……で、盗み出してどうなった?」
義太夫は息を整え、真面目な顔に戻そうとした。
「屋敷に帰って、いそいそと顔をのぞいてみれば――姫ではなく、頭を丸めた姫の祖母であった、という次第にて」
言い終えたところで堪えきれず、喉の奥から笑いが漏れる。肩が一度だけ揺れた。
その横で一益は火縄銃に視線を落とし、鼻で短く息を吐いた。
(帰するところ、最初から、わしが盗み出すのは『的を外す』と見抜いていたということか)
「……あの生臭坊主、やはり斬っておけばよかった」
一益は不快感を隠すことなく、火縄銃を片手に持ち直した。だが、心の底にはなぜか、切り捨てがたい男の姿が残っている。あの奇妙な法師――ロレンソのことが、どうしても気になって仕方がなかった。
「左近様の運命を見通しているようでしたな。あの坊主、いや、あのロレンソと申しましたか……奇妙な坊主で」
義太夫が少し困惑しながら言うと、一益はそれに静かに答えた。
「……否。奇妙なのは、我らかもしれぬ」
一益はそう呟き、ふと空を仰ぐ。青空は静かに広がり、雲がどこまでも流れていた。その流れに何かを感じ取るように、目を閉じ、心の中で何かを思索していた。
戦も、国も、人の心も――すべてが、どこかへ向かって流れていく。
その流れのなかに、自分の小さな歩みも、確かに刻まれていくのだ。
やがて時は巡り、誰かのもとに仕える日が来ようとも、今日のこの出会いは、心の奥に静かに残り続けるに違いない。ロレンソとの奇妙な邂逅が、これからの運命にどのように影響を与えるのかは分からないが、この瞬間が未来の一歩を形作るような気がする。
夏の終わりの風が吹いた。その風は、どこか寂しさを感じさせるが、同時に新たな始まりの兆しをもたらすように思えた。
一益は、火縄銃を布で包み、肩に背負った。これは、これからの乱世を歩むための、最初のひとつの荷だった。一益の目には、この火縄銃が意味するものが単なる武器ではないことがわかっていた。それは、未来の変革を示す象徴であり、一益自身が背負っていく運命の一部でもあった。
この火縄銃が、のちに大きな時代の節目を刻むとは、一益もまだ知る由もなかった。だが、運命がどのように展開していくのかを見届ける覚悟だけはあった。
ロレンソ了斎が将軍・足利義輝に謁見し、畿内での布教許可を得るのは、この五年後のことである。その時こそ、彼が『神の時』と呼んだものが訪れたのだ。
そして、一益が織田信長の家臣として台頭し、ふたたびロレンソと再会を果たすのは、さらにその先――乱世の嵐が、より激しく吹き荒れる頃のことになる。
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