滝川家の人びと

卯花月影

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3 甲賀攻め

3-1 火種と雨

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 伊勢湾の北西、揖斐川・長良川・木曽川の三つの川が流れ込み、無数の水路に絡み合う低湿地帯に、ひときわ異質な勢力が根を張っていた―長島願証寺である。
 長島は、いわば「陸の孤島」。
 陸路はぬかるみ、舟を使わねば往来もままならぬ。
 この地に暮らす者たちは、日々の移動や荷運びにまで小舟を用い、水とともに生きる独特の生活文化を築いていた。

 その中にあって、願証寺は民衆の心の拠りどころであり、また、一向宗門徒の結束の中心でもあった。
 寺と門徒が一体となって築く防衛体制は強固で、しかもその守りは、武具ではなく土地そのものが担っている。
 入り組んだ水郷、葦の生い茂る迷路のような湿地――軍勢が踏み込むには、あまりにも不利な地形だ。

 そして何よりも、長島は信長の足元にある「火種」に他ならない。
 願証寺を中心とする一向一揆は、信長の勢力圏である尾張・美濃・北伊勢の境界に食い込み、城を落とし、人を襲い、国境を揺るがす「内側の敵」だ。
 単なる宗教の砦ではない。
 ここは、貧しき者、追われし者、世を恨む者が身を寄せあい、死にもの狂いで生きる場。
 信長の力がいかに広がろうと、この地を制せぬ限り、真の安寧は訪れない――

 だからこそ、信長は長島を「討つ」ではなく、「潰す」と言う。
 願証寺は、信長にとって喉元に突き刺さる棘であり、領内統治の最大の障壁だった。
 一度芽吹けば、すぐには抜けぬ――
 長島はまさに、泥の中に潜む雑草のような存在である。その根を断ち切らぬかぎり、いずれ尾張も、美濃も、火の海と化すだろう。
 そして今、信長はその『根』を焼き払う覚悟を決めた。

 冬が深まり、伊勢の野に凍てつく風が吹きすさぶ頃。北近江の戦が落ち着きつつあり、信長の視線は再び南へ向けられようとしていた。
 目指すは、弟・彦七郎を喪った地――長島。
 かつての失地、そして未だ屈せぬ門徒の拠点。それを今度こそ、完全に殲滅する。信長はそう誓っていた。

 その信長から、一益のもとに密使がやってきたのは、二月を迎えた頃だった。
「備えよ。五月には、大軍をもって長島を掃討する」
 一益は文を読み終えると、黙って目を閉じた。そのまぶたの裏に浮かぶのは、燃え落ちる小木江城。
 逃げ惑う人々の中に、風花と八郎――妻と子の姿は、ついに見えなかった。
 誰かに助けられたのか、逃げ延びたのか、それとも……。
 答えのないまま、日々だけが過ぎていった。
(ならば――迷うことはない)
 燃えた城と共に奪われたすべてを、この手で取り戻す。
 胸に渦巻くのは、戦への渇望ともつかぬ焦燥。
 だがその気迫とは裏腹に、一益は未だ尾張へも桑名へも戻れずにいた。

 願証寺、甲賀衆――落ち延びた先で襲われる可能性を孕みながら、滝川勢は伊勢の地を流浪した。
 尾張に戻ろうと思えば、戻ることもできた。だが、妻子を失い、信長の弟を討たれ、桑名を奪われた身。信長に対し、どんな顔向けができるだろうか。
 そんな滝川主従に手を差し伸べたのは、弟・菊之助――今は「休天」と名を改めた僧だった。
 桑名が攻め落とされた日、城に火の手が上がる中、難を逃れた菊之助は、四日市の安国寺に駆け込んでそのまま出家。
 半月後、流行り病で住職が世を去ると、その跡を継ぎ、今では立派に寺の柱石となっていた。
「それがしは、槍働きは苦手でござります」
 仏門に入ったと聞いたときには、一益も家臣たちも落胆したものの、休天の尽力により、四日市の安国寺は滝川勢の隠れ里となった。
 今や一益はここを拠点に、北伊勢の奪還を密かに図っている。

***

 雪混じりの風が、ひゅうと、本堂に吹き込む。
 その寒さの中、二人の男が向かい合って座していた。
「兄上。怒りに任せて戦を急げば、また民草の血が流れることになりましょうぞ」
 休天の声は穏やかで、落ち着いていた。
 一益は何も言わず、膝の上で握った拳を固くする。
(……守れなかった)
 風花も、八郎も、彦七郎も、民も、城も――
 すべてが燃え、すべてを失った。
(長島願証寺は、そのすべてを呑み込んだ)
 そして今、信長はその地に刃を向けようとしている。
 自らの弟を殺された地。
 一益もまた、同じ想いを抱いていた。

 だが、そのとき、休天が静かに言った。
「長島に籠るすべてが敵とは限りませぬ。食を求めて寺に身を寄せた者、家族を抱えた者……その中には、かつて兄上が治めた伊勢の民も混じっておりましょう」
 一益は、静かに目を閉じた。
「……存じておる」
 だが、と小さく続けた。
「それでも、戦わねばならぬ」
「されど兄上。民を押さえつけ、刀の下で築く平穏が、果たして道理に適っておりましょうか。桑名が落ちたあの日、兄上が見た光景こそが、その果てにござりまする」
 一益は、言葉を返さない。
「上様の命に従うことも、また理にございましょう。されど、その矛先が穿つものは何か。兄上は、かつてそれがしに教えてくだされたではありませぬか――力だけでは世は動かぬ、と」
 休天の言葉に、一益の胸中に、古い記憶がふっとよみがえる。
 幼い日、鷹に襲われる小鳥を見て、菊之助が言った。
「戦国と同じ、弱肉強食じゃ」
 そのとき自分は、何と言ったか。
『それは短慮というもの。弱肉強食が理であるならば、空には猛禽ばかり、海には鮫しか残らぬはず』
 しかし、現実はそうではない。
 小鳥も、小魚も、時に庇護され、時に共存して生きている。
 力がすべてならば、この世に多様な命など存在しない。
 それはつまり、「弱肉強食」は理ではなく、力だけで世は構成されていないという証である。
『子々孫々まで命をつなぐには、さまざまな術があってしかるべき。人のこころには多くの計画があるが、成るのは天のはかりごとだけだ――世は、そうできておる』

 そう、あのとき、そう語ったのは他でもない、自分だった。
「……わしは、変わったか」
 ぼそりと漏れた言葉に、休天は静かに首を横に振った。
「変わってはおられぬ。ただ――見ぬふりをしておられるだけにございます」
 一益は長く息を吐いた。
 その目は、風の先にある何かを見つめていた。
(風花……八郎……生きているなら、きっとあの地に)
 ならばなおさら、自らの目で確かめねばならない。
 たとえ、そこに何が待っていようとも。

 本堂の灯が、ひとつ、ふるりと揺れた。

***

 そのころ――
 信長の矛先が再び南へ向けられようとしていた頃、長島攻めの準備が進む中で、近江の片隅ではひとりの若武者が、静かに過去を思い返していた。

  近江の海 夕波千鳥 汝《な》が鳴けば
                              心もしのに 古《いにしへ》思ほゆ

  近江の国。霊峰綿向山はいにしえより山岳信仰の対象としてあがめられてきた。その綿向山に抱かれた緑豊かな稲作の里、日野谷。
 戦国の世にあっても旱魃を知らず、鈴鹿の山々に抱かれたその地は、戦火の手からも守られてきた。
 今からおよそ九百年前、渡来した百済人たちがここを稲作に適した土地と見定め、根を下ろしたと伝えられている。
 この穏やかな谷は、蒲生氏のふるさとだった。

 ――あの日も、こうして陽が穏やかだった。
 蒲生忠三郎は、広縁に腰を下ろし、春の陽を浴びながら、ふと記憶の片隅にある風景を追いかけていた。

 年の頃、十歳くらいの少年が、木の枝を手にして地面に鳥の絵を描いていた。
 その様子を、鶴千代と呼ばれる別の少年が不思議そうに眺めていた。
「何を書いておる?」
 問いかけると、少年はにっこりと笑い、答えた。
「鶴じゃ。我らのご先祖様を救った鳥じゃ。だから、鶴が家紋となった。鶴千代と名付けられたのも、鶴が我が家の証だからじゃ」

 二羽の鶴が向かい合い、羽を広げている。
 その幼い手で描かれた絵を、鶴千代はじっと見つめた。やがて、ふと空を見上げながら口を開く。
「そなたのほうが年長ではないか。何故に、わしが名を継ぐ?」
 少年は少し困ったように笑い、黙って鳥の絵に手を加えた。
「これは、わしと鶴千代。ふたりでこの日野の民を守り、蒲生を支えるのじゃ。鶴千代は、よき領主となれ」
 肩をポンと叩かれ、鶴千代は素直にうなずいた。

 それから十年――。
 蒲生忠三郎は、うららかな陽射しの中、一人で縁側に座っていた。
 風が通り抜けるたび、どこからか千鳥の声が聞こえるような気がする。
(…あれは、誰だったのか)
 記憶の中の声も、姿も、輪郭はぼやけている。
 けれど、あの言葉だけは、いまだに胸の奥に残っていた。
 ――ふたりで、この地を守るのじゃ。
  

 「雪か雲かとばかり見せて山風の 花に吹き立つ 春の夕暮」
 
 忠三郎は、短冊に筆を走らせながら、どこか遠い記憶を辿ろうとしていた。胸の奥に残るあの約束、その相手の顔は、なぜか思い出せない。
 その時、足音もなく吹雪が現れた。
「若殿。またこのようなところで、物思いにふけっておられたか」
 吹雪は、何か言いたげな顔をして立っている。
 忠三郎はいつもの穏やかな笑みを浮かべ、顔を向けた。
「如何いたした?」
 すると、吹雪は不満げな顔をする。
「若殿は……わらわの寝所にお泊まりになったことが、一度もありませぬな」
 忠三郎は笑っているが、答えは分かっている。夜、吹雪の部屋を訪れても、必ず自室に戻って寝る――。
「わらわが若殿の寝首をかくとでも?」
 口を尖らせる吹雪に、忠三郎は肩をすくめて笑った。
「いやいや。そうではない。わしは寝所が変わるとよう寝付けぬ」
「戦場で野宿もされるお方が、それを申されますか」
 忠三郎は「困ったな」といったように目を細めた。
「これではまた雪に嫌われそうじゃな」
 まるで他人事のような物言いに、吹雪は一歩踏み出し、少し語気を強めた。
「大殿が病みがちというに、若殿がこれではのう…」
 日々の忠三郎の飄々とした態度を見ていると、父・信長がなぜこの男を高く買ったのか、理解に苦しむ。
 忠三郎は、空を見上げて、答えた。
「案ずるな。この日野が守られておるのも上様の御威光あってこそじゃ」
 その言葉に、吹雪はまた深く息を吐いた。
「朝から空を見ては歌を詠み、口を開けば他力本願…。左近殿も若殿も、まっこと、頼り甲斐なき婿殿じゃ」
「そう申すな。わしは兎も角…義兄上も今が正念場であろう」
 忠三郎の目が、ふと遠くを見た。
 その視線の先にあるのは、伊勢の空か、それとも――

 尾張小木江城の落城後、北伊勢の要・桑名城が一向宗の手に落ち、そのまま年を越した。
 一益の胸中を想えば、吹雪もそれ以上は口にできなかった。
 あの戦は、一益にとっては極めて重い失策となった。共に戦っていた、信長の弟・織田彦七郎が命を落としたのだ。
 しかも、その混乱のさなか、一益の正室・風花と一子・八郎も行方知れずとなった。
 確かに、あれは一向宗の突然の蜂起という、誰にも予測できぬ事態だった。
 だが世の噂は無慈悲である。
「上様の弟と娘を見捨てて、城も捨て、身一人で逃げたそうな……」
「妻や子を失っても顔色一つ変えぬ。あれは呪われた姫と聞いた。捨て殺しにしたのでは―」
 まことしやかな噂は、尾張から伊勢へ、京へと広まり、耳に入るはずのない一益のもとにまで届いていた。
 事実、一益は小木江城の落城後、執念のように生き残りの侍女を探し出した。その証言により、彦七郎が風花と八郎を密かに落としたことまでは分かった。
 だが、そこから先の足取りは、まるで霧に紛れたかのように途絶えている。

 その一方で、信長もまた苦境に立たされていた。
 一向宗に桑名を奪われ、朝倉・浅井・六角の三方に包囲され、信長はかつてない孤立無援の状態に追い込まれる。
 ついには『天下は朝倉殿持ち給え。我には二度と望みなし』と起請文を書き、三家と一時的に和睦せざるを得なかった。
 そして半年後の五月。
 織田彦七郎の弔い合戦として、信長は五万の兵を率い、伊勢・長島願証寺へ進軍する。
 それを受けて、滝川一益も旧領・桑名を奪い返さんと兵を挙げた。しかし、待ち構えていたのは、想像以上に複雑で厳しい現実だった。海からは紀州の門徒たちが小舟で押し寄せ、長島の入り江から兵を上陸させる。
 陸からは、六角義賢の命を受けた甲賀の素破が動き、一益の行軍に妨害を加えた。
 さらには、一益がかつて臣従させた北勢四十八家までもが、手のひらを返すように敵方に回った。北勢の国衆は、力を失いかけた織田家に見切りをつけたのだ。

 信長は戦果を挙げぬまま撤退を決断。だがその退き際を、甲賀の素破が見逃さなかった。
 奇襲を受け、柴田勝家が深手を負い、氏家卜全は討死。
 織田勢は伊勢を後にし、尾張へと退いた。
 そして伊勢は――尾張から分断されたまま、宙に浮いた形となった。
 一益もまた、桑名奪還に失敗し、城も領地も得ることができなかった。味方は次々と去り、かつての与力たちはあっさりと手のひらを返した。
 かつて臣従を誓った者たちでさえ、今では織田家の命に耳を貸そうとしない。
(呪われているのは風花ではない…)
 繰り返し胸の内に渦巻く思い。風花が呪われていると囁く声を、笑うことも否定することもできずにきた。だが、何もかもを失ってなお生き長らえている己こそが、最も呪われた存在ではないのかと――幾度となく、そう思わされた。

「我らはこの半年、苦い胆を嘗めるがごとき日々を送っておるというのに――峠の向こうにおわすご仁は、他人事のように、穏やかな日々を過ごしておられると聞き申す」
 佐治新介が、皮肉まじりに吐き捨てた。誰のことかは言うまでもない。忠三郎のことだろう。義太夫が、いやはや、と苦笑する。
 蒲生勢は柴田勝家の軍に従っていたが、その中で忠三郎の動きだけが、明らかに鈍い。
 それゆえ、六角の背後を牽制することも、甲賀や北勢四十八家の策動を止めることも叶わなかった。
 だが、その理由を――皆、なんとなく察している。

「もはや桑名を奪い返すなどは夢のまた夢でござりましょう」
 そう言って茶碗を置いたのは休天和尚だ。一益は顔を上げず、黙ってその言葉を受けた。
 否定もしない。ただ、沈黙がすべてを物語る。
「されど……」
 休天は静かに続けた。
「そろそろ上様が、痺れを切らして兵を挙げる頃かと」
 一益はそれに応えるように、無言でうなずく。
 下準備は整っていた。
 甲賀攻略のための布石は、何年も前から一益自身が打っていたものだ。
 甲賀衆は一枚岩ではない。密かに篠山家や幾つかの家々とは、水面下でつながりを持っていた。

 その日――。
 安国寺を訪れた男がいた。
 甲賀・鳥居野、篠山家の理兵衛という男である。広間に通された理兵衛は、無駄口も叩かず、座るなり開口一番、こう告げた。
「そなたの妻子は生きておる」
 一益は目を見開いた。
 茶を持っていた義太夫が、思わず手を止める。
「何某という素破も一緒じゃったな」
 風花につけた山村一朗太のことだろう。
「どこにおる?何故存じておるのじゃ」
「小木江が囲まれる前、織田彦七郎が、奥方と八郎殿を落とした。それを、三九郎が見つけ、甲賀へと連れ去った」
 湯の面がかすかに鳴り、広間に沈黙が落ちた。義太夫が茶をすすりかけて止まり、「……熱っ」と小さく漏らす。誰も触れず、理兵衛だけが薄笑いを浮かべた。
「重丸は快幹の子じゃよ」
 理兵衛は出された茶をゆっくりと啜りながら、続けた。
「快幹がお桐を手籠めにして、生まれた子が重丸じゃ」
「お桐とは後藤の娘。鶴の母御か」
「然様。それを知った父の左兵衛大夫が重丸を殺めて鶴千代に家督を継がせようとしたのじゃ」
 賢秀は重丸が実子ではないと知り、正嫡である忠三郎に家を継がせようとした。そのために、兄弟同士の命を巡る争いが始まった。
「…祖父・快幹は逆に、鶴を殺めて重丸に家督を継がせようとしておる」
 だいたい、予想の範囲内だった。
 快幹はどこかに重丸を匿い、忠三郎の命を今も狙っている。
 風花が話していた。忠三郎は、菓子ひとつも毒見なくして口にせず、寝るときは必ず自室に戻るのだと。
『しかも、理由を尋ねると、「寝所が変わると眠れぬ」と、そう申されて……』
 吹雪が呆れて、文を寄こしてきた。
 一益は無言のまま、茶の湯気を見つめていた。
(刺客を恐れている)
  忠三郎が時折見せる、あの陰のある表情。その理由が、いまなら分かる。
「名家に生まれるとは、大変なことでござりますな」
 義太夫が苦笑する。
 そもそも快幹は、蒲生宗家を暗殺して家督を奪った、分家出の人間だ。
(孫の命など、なんのためらいもなく奪える――そういう男か)
 戦国を生き抜き、血で血を洗いながらも生き残ってきた謀将。一益は、相手が何枚も上手であることを、改めて感じる。
「お桐は、なぜ始末された?」
 しばしの沈黙のあと、理兵衛が淡々と応じる。
「…鶴千代を庇って、命を落としたと聞いた」
「そ、それでは……」
 義太夫が目を白黒させながら、理兵衛に問う。
「理兵衛殿。己の命を狙っておるのが快幹だと、鶴は気づいておるのか?」
 理兵衛はふっと笑って、肩をすくめた。
「あれだけ巷で神童、鳳凰と持て囃されている小童じゃ。気づかぬはずがあるまい」
 一益と義太夫は、思わず顔を見合わせた。
 同じ城内に、自らの命を狙う者が潜んでいるというのに、なお平然と振る舞えるものなのか――。
 そんな二人の心中を見透かしたように、理兵衛が声を低くした。
「左近。義太夫。おぬしら蒲生の小童に肩入れしておるようじゃがな。つまらぬ情にほだされて、無用なことをするでない。まずは己らの身の回りを片付けることじゃ」
「三九郎がことか」
 理兵衛は無言で頷いた。
「放っておけば、また杉谷が動き出す」
「千草で上様のお命を狙ったのは三九郎なのか?」
「さて…あれは杉谷の手の者とは聞いたが、信長を狙う者は、杉谷一派に限らん」
 一益は短く頷き、話題を切り替えた。
「甲賀衆のほうは?」
「案ずるな。今の織田家の勢いにあらがうほど、甲賀は愚かではない。表向きは六角に雇われておるが、銭を出すなら話は別じゃ。甲賀二十一家の半分は、こちらに引き込めよう」
 半数が味方になる。それはすなわち、勝利の半ばが手に入ったことを意味する。
「…では、頼みたいことがある」
 一益は背筋を正すと、来たるべき甲賀攻めに備え、胸の内に温めていた策を語り始めた。
 遠煙は消えず、まだ名を呼ぶことはない。
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