滝川家の人びと

卯花月影

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3 甲賀攻め

3-6 天魔

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 岐阜城・千畳敷。
 城内随一の広間に、中伊勢の関盛信、神戸蔵人、南近江の蒲生忠三郎が並んで座していた。
 三人、誰も口を開かない。
 ただ、場を支配する信長と、その前に控える滝川一益――。
 語られるのは、二人の言葉だけだった。
「左近、いつまで北伊勢を野放しにしておくつもりじゃ」
 信長の声が、冬の刃のように響いた。
 一益の眉がわずかに動く。
 北勢四十八家――。
 言葉にされずとも、その意味は察している。

 前年、大坂本願寺の檄文に呼応して一向宗に通じた北勢の国衆。
 援軍を断ち、兵糧を止め、中立を装いながら裏で兵を出した。
 信長は、そのすべてを「敵」として滅ぼせと言っている。
 一益は黙して座したまま、掌を重ね、視線を落とした。
(……義兄上は、いかなる策を描かれる)
 忠三郎はふと、一益の横顔を盗み見た。
 人は時に、静けさのうちに烈火を宿す。この日の広間に満ちていたのは、まさにその気であった。
 信長は、風見鶏のように日和見を決めこむ北勢四十八家を、根こそぎ従わせろと言っている。
「無論、北勢四十八家の動向は逐一、探らせておりまする。とは申せ、いずれも表向きには、当家に従うそぶりを見せておりますゆえ…」
 信長は床几に頬杖をつき、口の端を上げた。
「手ぬるい」
 一益は深く頭を垂れた。
「ハッ…」
「手心を加えれば、あやつらはまた、わしに逆う」
 その言葉が広間に落ちる。
 誰も続けようとはしない。

 やがて、沈黙を破ったのは忠三郎だった。
 一歩進み出て、澄んだ声で言う。
「ここは北勢の者どもに、織田家の恐ろしさを知らしめるべきと存じます。二度と逆心を起こさせぬために」
 声には動揺もためらいもなかった。
 信長が、わずかに首を傾けた。
 笑いとも沈思ともつかぬその仕草に、場の空気がわずかに揺れた。
「鶴、そなたに策があるか」
 信長がわずかに声を和らげた。その奥には試すような響きがある。
「はい。逆らう城は、火攻めにいたします。城を焼けば、北勢はもとより近隣諸国にも震えあがるかと。歯向かう者はおりませぬ」
 広間に一瞬のざわめきが走った。
 火攻め――。
 それは敵味方の区別なく、命と赦しを焼き尽くす策。
 比叡山が炎に包まれた頃から、人々は信長を「第六天魔王」と呼ぶようになった。
 その記憶が、関盛信の胸にもよぎったのだろう。
「鶴殿……北勢で火攻めとは…」
 忠三郎の叔父にあたる関盛信が、たまりかねて口を開いた。盛信の顔に恐れとも戸惑いとも取れる焦りがありありと現れている。
 盛信の中にも、忌避の念があるのだろう。
 忠三郎は穏やかな笑みを崩さぬまま、膝に置いた手をゆるりと重ねた。灯火がわずかに揺れ、掌の影が床に滲む。
 一益はその手を見た。静かで、血の気のない手だった。
 ――それでも、瞳だけが薄く光り、ためらいの色を欠いている。
 この若者の中にあるものを、誰が読み取れるだろうか。炎のごとき決意か、それとも、冷たく乾いた虚無か。
「幸い、甲賀衆を味方に引き入れておりまする」
 淡々とした声だった。
「甲賀の素破どもであれば、風の強き日を見計らい、敵城に火を放つなど、たやすいこと」
 不自然なまでに、冷静で、無感情な提案だった。一益はその言葉を聞きながら、ふと心の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。
(……大したものよ)
 驚き半ば、呆れ半ば。
 これが、まだ二十にも満たぬ若者の言葉とは。
 ――いや、若さゆえなのか。
 人の心がどう焼け、命がどう絶えるかを、まだ実感しておらぬがゆえなのか。
 忠三郎は、常と変わらぬ微笑のまま、一益のほうを見た。
 まるで、「そうでありましょう、義兄上」と問いかけてくるかのように。

 その目には、一片のためらいもない。忠三郎の進言は、一益に――北伊勢を焼け野原にしろと迫っているのと同じだ。
「…孫子は言うておる。火攻めは軍術の中でも下策である、とな」
 一益の声には、抑えきれぬ倦怠感が滲む。
 すると忠三郎は、口角をわずかに上げ、あっさりと言ってのけた。
「その続きもございますよ、義兄上。――『されど、用いるに止むを得ざる時は、火攻めを用いるべし』、と」
 その言葉には、飾り気も誇張もなかった。
 ただ事実を述べるように、自然な調子で口にした。
 だが、それが一益の胸を小さく衝いた。
(侮れぬ小童め)
 意外なことを知っている。―という驚きだけではない。
 その口ぶりからは、若さゆえの無鉄砲さではなく、冷静な判断と、冷酷な決断力が透けて見えた。
「今がまさに、止むを得ないときでござりましょう」
 忠三郎はそう結び、微笑みを消さぬまま頭を下げる。

 そのとき、信長が満足げに頷いた。
 まるで、自らの心の内を代弁してもらったとでも言わんばかりに、ゆっくりと、大きく首を振る。
「そのことよ」
 信長の声が場を支配する。
「左近よいな。わしが伊勢に行くまでに北勢四十八家を従わせよ」
 その場が、一瞬、凍ったように静まり返った。
 関盛信と神戸蔵人が、一益の横顔をじっと見つめている。
 この場で一益が「承知」と言えば、自分たちも血を流す覚悟を決めねばならない。逆に一益が言葉を濁せば、信長の怒りの矛先は、そのまま二人にも及ぶ。 一益はゆっくりと頭を下げた。
「北勢、この滝川左近の名にかけて鎮めてご覧に入れましょう。さりながら、焼け跡に民の怨嗟が残らぬよう、肝に銘じて事にあたりまする」
 焼き払うは易し。されど治めるは難し――その言葉を、あえて信長に投げ返した。
 信長は目を細め、面白げに笑った。
 忠三郎は黙って頷いた。
 そして誰よりも、一益自身が、これから向かう道の過酷さを知っていた。

 軍議が終わり、信長が広間を後にする。
 忠三郎がその背を追って姿を消すと、残された関盛信が、ふと溜息まじりに呟いた。
「…天魔は鶴殿じゃな」
 神戸蔵人が目をしばたかせる。
「天魔?」
 盛信は首を横に振り、声をひそめた。
「第六天魔王――甲斐の武田が書状でそう呼んだとか。叡山を焼いたあの日から、世ではそう呼ぶ者も多い」
「では、やはり上様を――」
「違うのじゃ」
 盛信は真顔になり、膝を寄せて囁く。
「…上様も恐ろしいが、あの齢で火攻めを進言する鶴殿は、もっと恐ろしい。笑みを浮かべたまま、焼け野原を語る。あれこそ、神も仏も畏れぬ本物の『天魔』よ」
 蔵人は息をのんだまま、言葉を失った。
 二人はともに、忠三郎の叔母を正室に迎える、蒲生家の縁者である。
 その身内ですら、これほどの畏れを抱くのだ。
(少しは……戦がやりやすくなるかもしれん)
 一益は、わずかに口の端を歪めた。それは、喜びではない。いましがた下された命が、どれほど冷酷なものか、誰よりも理解しているがゆえの苦笑だった。
 広間には、誰の声も残っていない。
 ただ、蝋燭の炎だけがわずかに揺れ、その影が壁に“二つの人影”を映していた――
 去った信長と、残る一益。
 天と地の間に置かれたその影は、赦しを失った人のかたちのようであった。

 前回の長島攻めの失敗で、北勢での織田家の威信は地に落ちていた。
(火攻めか……あるいは、もっと―)
 重い足取りで城下の屋敷に戻ると、先に戻っていた義弟の姿が目に入った。いつものように、何食わぬ顔で座敷にあがりこんでいる。
「鶴。ここはおぬしの屋敷ではないわい。城下に屋敷も持たぬ身にしては、ずいぶん馴れた様子じゃのう」
 義太夫が笑って言う。
 忠三郎は気にする風もなく、茶をすすりながら返した。
「そう申すな。わしも北勢に出兵するのじゃ」
「おお、それは目出度い。いよいよ北伊勢十四万石を、我らが手に取り戻すときが来たか!」
 義太夫が身を乗り出す。
 それを待っていたかのように、忠三郎は語り出した。
「江北が片付かねば、上様は動かれまい。だからこそ、今回は関殿、神戸殿、そして我ら蒲生勢が、伊勢に集う。上様のご出馬がない以上、落とすにも手間がかかろうな」
 一益はその言葉に、苦笑した。
 忠三郎は、もはや当然のように自分が采配を振るうものとして話している。
「時間をかけるとなれば、こちらも策を練らねばなるまい」
 義太夫がそう言いかけた、その言葉を遮るように、忠三郎があっさりと口にした。
「火攻めで片を付ければ済むことじゃ」
 平然と――まるで、ひとつ豆でも潰すが如く。
 その言葉に義太夫は思わず目を見開き、顔を一益へ向けた。
「火攻め……北勢で? ……待て、待て。殿、いくらなんでも北勢の城すべて火攻めというわけではありますまいな?」
 慌てた声には笑いよりも、どこか胸の奥に残る温かさがあった。

 織田彦七郎を大将にして北伊勢侵攻を始めたとき、滝川勢は各地で火をかけ、乱暴狼藉を働いた。
 甲賀衆の得意とする火攻めに加え、寄せ集めの兵――素破を除けば、元は盗人・強盗まがいの者たちばかり。
 田を焼き、村を焼き、逃げる者も、叫ぶ者も、容赦なく殺戮した。
 確かに、効果はあった。北勢四十八家は震え上がり、あっという間に四郡は織田家の手に落ちた。
 だが、燃えたのは敵だけではなかった。
 老いた者も、稚い子も、作物も、家も、夢も――みな、灰となった。
(あのとき、我らが踏みにじったのは、敵の城ばかりではない)
 そして――
 長島願証寺の門徒たちが桑名や小木江を取り囲んだとき、北勢四十八家は援軍を送るどころか、次々に叛旗を翻した。
(無理に従わせるにも限界がある)
 あれから幾度となく、義太夫は北勢の村に足を運んだ。
 荒れた用水を修理し、畑を手伝い、凍える民に衣を届けた。傷つけたものを、少しでも元に戻そうとした。
 笑顔を向けてくれる老女もいた。だがその傍らには、怯えた目を向ける童の姿もあった。
 火の記憶は、消えない。
(無理に従わせても、背かれれば終わり。焼き払えば、恨みが残る)
 この地に根を張り、耕し、子を育て、祭を守ってきたのは誰か――。
 兵ではない、民だ。
 そして――一益も、それを知っている。
 かつての失敗が、織田彦七郎を死に追いやった。その痛みを、最も強く抱えているのは、他ならぬ一益自身だった。
「殿……。火は、民まで焼いてしまいますぞ」
 ぽつりと、義太夫は言った。
 声はかすれていたが、どこかあたたかかった。
 言葉の裏には、『もう誰も焼きたくない』という願いが透けている。

 忠三郎は眉ひとつ動かさず、小椀を膝前に戻した。
 だが、義太夫の視線はあくまで一益に向いていた。問いかけていた。――あの日の灰を、忘れてはおられぬだろう、と。
「義太夫。伊勢へ戻ったら彦一郎たちに命じて滝川左近が、逆らうものは皆、焼き殺そうとしておると風聞を流せ」
「は、そのような風聞を、でございますか」
 二の足を踏む義太夫。だが比叡山焼き討ちの直後だ。効果はあるだろう。
「そのうえで諸家に降伏を促し、それでも恭順せぬ者があれば…」
 義太夫が恐る恐る尋ねた。
「義太夫、何をそのように焦っておるのじゃ。そのときは真に火をかけて、城を落とせばよいではないか」
 当たり前のように言い放つ忠三郎を、一益は横目で見た。
(変わった……)
 甲賀攻めからだ。天魔と呼ばれても無理はない。
 信長子飼いの近臣たちがそうであるように、忠三郎もまた、信長の影を映すようになっていた。
「明日、伊勢に戻り、来月には挙兵する。鶴もそれでよいな」
 珍しく黙り込んだままの義太夫をよそに、忠三郎は何の疑問も抱かぬ様子で嬉しそうに頷いた。
 その姿に、一益はふと、かつて草の上で昼寝をしていた元服前の忠三郎の顔を思い出す。
(あれが、ここまでの者となったか……いや、違う)
 ――ここまで「変わって」しまったのだ。
 火攻めとは、ただの戦術ではない。
 それは、土地を焼き、家を焼き、命と記憶を消し去るという『決別』だ。
 そして何より、焼いた者自身の心にも、黒く燻るものを残す。
 あの日の灰の匂いを、一益はまだ忘れていなかった。
「……鶴。そなた、焼け跡に咲く花を見たことはあるか?」
 一益は低く言った。言葉は風のように流れ、火の匂いを嗅いだあとの沈黙を呼び込む。忠三郎はきょとんと目を瞬かせ、すぐに笑みを戻した。
 その反応を見て、一益はもう何も言わなかった。
 口にはせずとも、どこかで――
 この若き義弟が、自らの手で灰を抱える日が来るだろうと、そう思わずにはいられなかった。

 伊勢に戻ると、津田秀重が山口四郎右衛門と共に帰りを待っていた。
「我が家の被官となった国衆の中に、密かに六角に呼応して兵をあげようとしている者がおりまする」
 まさに、好機であった。これから北勢四十八家を従わせようとしている最中。見せしめとしては格好の相手だ。
「それが誰であるか、わかっておるのか」
「四日市・茂福モチブクにいる朝倉掃部でござります」
 津田秀重が懐から密書を取り出す。一益が目を通すと、六角義賢宛てのその文には、朝倉掃部のほかにも複数の名が並んでいた。
 ――富田城主・南部兼綱、保々西ほぼにし城主・朝倉詮真、羽津城主・田原近宗、矢田城主・矢田俊元、千種城主・千種三郎左衛門の名前が連なっている。
(やることが遅い)
 一益が伊勢を離れ、甲賀に攻め入ったときこそが、好機だったはずだ。それなのに今に至るまで動きがないのは、足並みが揃わなかったのか、あるいは兵を集めきれなかったか。
(これだけ揃えても何もできぬとは……)
 結局のところ、誰かが先陣を切らねば、誰も動けぬのだろう。一益は鼻で笑い、密書をその場に置いた。
「朝倉掃部を呼び出せ。応ぜぬときは二心ありとみなして攻め滅ぼすと伝えよ」
 茂福から朝倉掃部を呼び出すと同時に、合戦の支度を命じた。

 三日後。
「城を含め、辺り一帯を焼き払う」との通達を受け、驚愕した朝倉掃部は、真っ青な顔で一益の仮城に駆け込んだ。
「こちらへ――」
 小姓に案内されて広間へ向かおうとしたとき、掃部は戸口で立ち止まり、戸惑いがちに口を開いた。
「太刀は……」
 当然、武家の礼として太刀を預けるものと思ったのだろう。
「朝倉殿。その心配は無用でござるよ。殿は、朝倉殿に二心なきこと、ようわかっておられる。そのままお進みくだされ」
 にこやかに応じたのは義太夫だった。
 掃部は安堵したように頷き、太刀を帯びたまま広間へ入り、脇に置いて座した。
 年の頃、三、四十。信長と同じくらいに見える。
「掃部、大儀であった。北伊勢平定のため、力を貸してくれるか」
 一益の声は穏やかだった。掃部は真っ直ぐに頷き、
「ハッ、滝川殿のお役に立つべく、参上仕りました」
 と答えた。
 一益はうなずき、小姓に盃を持たせると、
「互いに過去は洗い流し、力を尽くそう。では――一献」
 小姓から盃を受け取った掃部が、盃に唇を寄せたとき――
 義太夫が抜刀し、無言のまま、肩から腰までを一息に斬りつけた。
 掃部が呻き声とともに崩れ落ちる。
 すぐさま一益が背後の刀掛台から太刀を抜き、呻きながら這おうとする掃部にとどめを刺した。
「義太夫。秀重と四郎右衛門に使いを出せ。掃部は討ち取った。直ちに茂福城へ攻めかかれと」
 津田秀重と山口四郎右衛門の手勢は、あらかじめ茂福城周辺に伏せてある。
 一益自身も兵を率いて、すぐさま茂福へと向かった。

 主を失った茂福城は、ほとんど抵抗もなく開城した。
 一益はそのまま、山口四郎右衛門を茂福城の城代に据え、日が暮れるのを待って、次の標的――保々西城へと兵を進めた。

 その途上、蒲生忠三郎のもとに置かれていた滝川助太郎の使者が現れた。
「蒲生勢、すでに峠を越えて、伊勢へ入るとのことにございます」
 想定よりも動きが早い。関盛信も神戸蔵人もまだ兵を集めている最中だろう。
「鶴は――どこを目指しておると?」
「千種城に向かっておりまする」
「……千種?」
 一益が眉をひそめる。
 千種城には、北勢四十八家の一人、千種三郎左衛門が拠っているはずだ。
 首を傾げる一益の横で、義太夫が思い出したように口を開いた。
「たしか、千種殿は養子でござりましたな。元は、江南の後藤但馬殿の弟だったような――」
「何? 後藤の弟?」
 お桐――忠三郎の母は、後藤但馬守の妹であった。
 つまり、千種三郎左衛門は、忠三郎にとっては叔父にあたる。
「よもや、誘い出されたのではあるまいな……」
 一益は思わず息をついた。
 勝手な振る舞いも、ここまでくれば芸の域だ。
「使いを出せ。『わしが着くまで、動くな』と伝えよ」
「はっ……。されど殿、鶴は『待て』と言われて素直に待つような小童ではありませぬが……」
 義太夫の声には苦笑がまじる。
 戦場に出た忠三郎は、決して命令に従順ではない。
 掴みどころのない穏やかさの裏に、己の意を通す剛直さがある。
 一益は短く息を吐き、まぶたを伏せた。
「……彦一郎を呼べ」
 声には疲れの色ひとつなかった。

 保々西城は、八風街道を押さえる要地のひとつ。城主は、先に謀殺した朝倉掃部の一族、朝倉詮真である。
 城門が見える距離まで迫ると、塀の向こう、櫓の上に人影が見えた。こちらに気づいた兵が、鉄砲を放つ。
 パン、と乾いた音が響いたが、弾は手前の土に落ちるだけだった。
「これはひどい。弾が届いておらぬ。これなら弓のほうがましでは」
 義太夫が苦笑まじりに呟く。火縄銃の性能も、兵の訓練も頼りない。
「あれで我らに抗おうとは、侮られたものよ」
 一益は呟き、義太夫を横目で見た。
「義太夫、中筒を寄越せ」
 中筒――侍筒とも呼ばれるそれは、通常の火縄銃よりも射程が長く、威力も高い。義太夫が急いで差し出すと、一益はひざをつき、狙いを定めて櫓の兵を撃ち抜いた。
 ほどなくして、撃たれた兵が高所から転げ落ちる。城内から、ざわめきと悲鳴が上がった。
「お見事。流石でござりまする」
 義太夫が感心する。だがすぐに、一益は問いを投げる。
飛火炬とびひこの支度は整うておるな?」
 義太夫の目が一瞬泳ぐ。
「飛火炬、それは…。ござりますが、使うとなれば……」
 背後に控える素破へ目配せする。顔には逡巡しゅんじゅんが見える。

 一益は甲賀平定の折、大量の火薬を得ていた。火薬を紙筒に詰め、火縄を添えて弓矢で射れば、火矢の比ではない威力と飛距離を持つ――そう着想したのだ。素破たちと何度も試作を繰り返し、飛火炬を完成させた。竹筒に詰め、飛距離を調整すれば、五町(約五百メートル)先の草むらまで届く威力を確認している。
 義太夫は渋い顔で呟いた。
「やはり、火攻めにござりまするか……」
「然様」
 一益は短く、冷たく言い切った。
「飛火炬で一斉に射掛けよ。――降る者は赦して捕らえよ。されど、逃げる者は追うな」
 その命は静かで、容赦がない。義太夫は頭を垂れ、命を伝えに走った。

 夕闇が迫るころ、保々西城の空に火薬の匂いが上がった。櫓から屋根へと火が移り、乾いたぜ音とともに梁が崩れ落ちた。黒煙が空を覆い、遠くから狼狽する声が届いた。助かる望みを断った城主、朝倉詮真は、やがて自ら命を絶った。

 火は消えず、夜風に黒煙が流れていく。義太夫がぽつりと呟く。
「よう燃えておる……」
 その声音には、感心と嘆きが入り交じっていた。
 一益は炎の色を見据えたまま、淡々と言った。
「……天気にもよるが、火薬の配合は程よい」
 火勢は強いが、想定の範囲内。町家を焼いたときの配合では強すぎると見て、調整を加えてある。狙いは的確だった。だが義太夫の目には、一益が炎の中に別の何かを見ているように映った。
「彦一郎たちは、富田城に着いたか」
「はい。そろそろ到達しておりましょう」
 一益は短く頷き、燃え盛る城から静かに視線を外した。言葉はなく、ただ炎の照り返しを背に、馬を進めた。
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