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3 甲賀攻め
3-7 試される器
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時は一益が岐阜から北伊勢に戻ったころにさかのぼる。
岐阜から日野に戻った忠三郎は祖父快幹に呼び出された。
「今度は北勢に出兵すると聞いたが」
快幹は、甲賀攻めのときと同じ、何食わぬ顔だった。叱責も皮肉もない。
「はい。先年の戦の折、我らに刃向こうた者どもを、きっちりと討ち滅ぼして参りまする」
忠三郎もまた、屈託のない笑顔で返す。
快幹はうなずき、手文庫から一通を差し出した。
「これは北勢の千種三郎左衛門へ渡せ。あの者はそなたの叔父。もとより江南の後藤の血を引く。わしの言葉なら耳を貸そう。北勢平定にも、きっと力を貸してくれるはずじゃ」
「叔父上が…」
忠三郎は驚き、だがすぐに顔を綻ばせた。文を押し戴くと、快幹は穏やかに続ける。
「父御は病床にある。もとはこの老いぼれが出向かねばならぬところ、そなたに頼るばかりで済まぬな」
「お爺様のお志、しかと胸に受け止め、千種の叔父御にお伝えいたします」
「滝川左近殿にも、くれぐれもよろしく伝えおいてくれ」
その一言に、忠三郎の笑みはいよいよ明るくなった。
このときに限って、快幹の声色は柔らかかった。かつて疑った叛心も思い違いか――そう思いかけて、胸のどこかに引っかかるものが残った。快幹の本心は、まだ霧の向こうだ。
美濃・尾張にならい日野でも兵農分離は進み、動員は早い。忠三郎は支度を整え、兵を率いて城を出た。
「忠三郎様!」
背後から呼ばれ、手綱を引く。滝川助太郎であった。
助太郎は滝川家の郎党。一益の意向で動き、ここしばらく忠三郎を見張るように日野に詰めていた。
「どちらへ?」
「千種の叔父の元へ」
助太郎の眉間にしわが寄る。
「お待ちくだされ。我が殿にそのことをまずお伝えしてから向かわれるのが筋」
忠三郎は無言で視線を逸らした。
助太郎は小姑めいた口を挟む。だが、その背後には甲賀衆、そして滝川家。戦でも幾度も助けられた。ぞんざいには扱えない。
「ならば、そちが義兄上に伝えてくれ」
「ではせめて、お許しが出るまでは兵を進めぬと約束してくだされ」
食い下がる助太郎。忠三郎は静かに首を振った。
義兄・一益が、この出立を喜ぶはずがない。千種への訪問も「勝手」と退けられるだろう。
(されど、御爺様の願いは違う)
冷たかった祖父が、あのときは別人のようだった。
『よろしく頼む』
その言葉が胸に残る。裏があるかもしれない。それでも、快幹の頼みを無にしたくはなかった。血を分けた叔父と結べれば、一益にも悪い話ではない。
「すまぬ、助太郎。そのような約束はできぬ」
忠三郎が馬首を返すと、助太郎は叫ぶ。
「忠三郎様!」
振り返らず、忠三郎は町野左近に目配せした。
傅役の左近が頷く。合図の太鼓が打たれ、兵が動き出す。
忠三郎の胸には、どこか子どもじみた焦燥があった。――先に手を打っておかねば、また義兄上に先を越される。自分の意志で戦を動かす。そんな思いが奥で滾っていた。
千種峠を越え、伊勢の入口に差しかかったところで足が止まる。
要所要所の道が塞がれていた。折れた倒木、谷へ落ちかけた荷車、散らばる石。
一見、自然の仕業にも見えるが――どこか整いすぎていた。
風の流れすら計ったようなその配置に、忠三郎はわずかに眉をひそめる。
(……誰かの仕業か…)
まるで「進むな」と告げるかのように、道は閉ざされている。
一瞬、脳裏に浮かんだのは木全彦一郎の顔だった。
義兄上のもとで、常に素破を率いて動いていた男――。
(彦一郎の手の者か。いや、義兄上の命があったのかもしれぬ)
胸の奥に、ひやりとしたものが沈んだ。
助けるためか、止めるためか。
どちらにせよ、この道の静けさは、人の意志の匂いがする。
「若殿、いったんここで兵を整えては如何なもので?」
町野左近の進言に、忠三郎は小さく頷いた。
「……うむ」
忠三郎は馬を下り、振り返って峠の方を見やった。
その遠く、木立の奥。
幹の影に、一瞬だけ、見覚えのある人影があった気がする。
だが、それが誰だったのか――わからなかった。
やがて千種城に着くと、城門は開かれた。門を守る兵が主従を通す。
「これは祖父快幹から叔父上への書状」
忠三郎は小姓に文を渡し、広間へ通される。
しかし現れたのは家老だった。
「只今、家中にて協議中にござります。織田に従うべきか否か、意見が分かれておりまする。今しばらくお待ちあれ」
忠三郎は町野左近と視線を交わす。
「若殿。もし三郎左様が我らに従うおつもりならば、このように待たされることなどありませぬ。書状も受け取っておられように……出てこぬのは、いささか……」
左近が小声で憂えた。
「されど、お爺様の口添えがある。三郎左衛門殿は我が叔父御。裏切るような真似など……」
言葉のしっぽは細くなり、忠三郎は庭に視線をそらした。
自らに言い聞かせるように口にしても、胸の疼きは消えない。
それからも三郎左衛門は現れない。
町野左近は廊下を行き来し、城兵の顔を見、出入口を窺う。
「爺。おぬしはせわしないのう」
「いよいよ怪しい。待たせすぎにござる」
「家中が割れておるなら、致し方あるまい」
忠三郎も表には出さぬが、心穏やかではない。
母方の実家・後藤家は、かつて六角義治により滅ぼされ、母はその折に離縁された。以来、母方とは疎遠だ。
(叔父御は会ってくだされぬのか)
夜が更け、侍女が膳を運んでも、なお姿はない。静かすぎる城内。時折、軋む板の音だけが響く。遠くで誰かが見ているように――感じられた。
三日過ぎて、ようやく三郎左衛門が現れた。
「鶴、久しいのう。母に似てきた」
口にしたのは懐かしげな言葉。だが表情は固く、血縁に情をかける気配はない。
「叔父上。今の織田家の勢いに逆らうことはできませぬ。どうか、お味方を」
忠三郎は笑顔で語りかけたが、返ってきたのは冷笑だった。
「信長ずれに従うは我が家の名折れ。快幹殿も今の蒲生家を嘆いておられる」
「お爺様が?」
三郎左衛門は懐から文を出す。
それは忠三郎が携えた書状だった。目の前に差し出し、静かに声を落とした。
「そちはこの三日、出されたものに一切口をつけぬ。それほど用心深いのに――書状には目を通さなんだか」
文を開けば、無残な文字。
《孫は信長に心酔する不届き者。誅して、織田に反旗を翻すがよい》
筆跡は、祖父・快幹。
忠三郎は目を伏せた。思ったとおり――それでも、わずかな希望にすがっていた。信じてなどいなかった。それでも「違うかもしれない」と願っていたのだ。
(やはり、御爺様は…)
腹は立たなかった。ただ、血が引き、胸の底に風が吹き抜けた。。
「蒲生は俵藤太秀郷以来の名家。天魔信長に傾き、滝川左近の手足となるそちが、当主にふさわしいかのう」
唾を吐くように言い捨てる。
(当主にふさわしくない――また、それか)
忠三郎は目を伏せ、小さく笑った。
「…で、叔父上は、それがしを斬られるおつもりか」
その静かな問いに、町野左近が息をのんで振り返った。
三郎左衛門の視線が細く尖った。
「であれば如何に」
「元より命を惜しんでここへ参ったわけではござらぬ」
忠三郎は背を伸ばし、わずかに顎を上げた。
「ここで叔父上に討たれるのもまた弓矢取る身の習い。敵の手にかかって命を失うこと、まったく恥にて恥ならず。ただ、芳恩には、とくとく首をはねられるべし」
真っすぐ叔父を見て、朗々と『平家物語』を諳んじた。血で争う世にも、なお筋を通す覚悟があった。
三郎左衛門は黙って忠三郎の顔を見つめる。その奥に――姉・お桐の穏やかな光を一瞬、見た気がした。
やがて小さく息をつき、顔をそむける。
「……思いのほか、母似の面魂になっておるのう」
続く言葉に、忠三郎の胸に緊張が走る。
「快幹殿の文も見ず、わざわざ峠を越えて敵に首を差し出す――そのような者に、信長の家来が務まるか」
意味を測りかね、忠三郎は息を殺して叔父の動きを待つ。刃が振り下ろされてもおかしくない空気だ。
三郎左衛門は立ち、窓辺へ歩む。
「そちは何も知らぬ。もはや我が家に選ぶ道などない。あれを見よ」
指差す先、城壁の向こうに無数の旗がはためく。
(丸に竪木瓜……)
滝川勢が城を取り囲み、陣を敷いていた。
「滝川左近は茂福の朝倉掃部を騙し討ちにし、保々西、富田を焼き、ここへ来た」
「二つの城を……」
忠三郎の脳裏に、岐阜での軍議が浮かぶ。
(まさか、わしを助けるため――)
風に揺れる竪木瓜の旗が、何かを訴える。
「そちに手出しすれば、この城にも火を放つと脅しておる」
叔父の言葉が胸に深く染みた。
――お前に同じことができるか。できねば、信長の家来は務まらぬ。
「千種三郎左衛門、滝川左近殿にお味方すると伝えよ」
「忝うございます。ご案じめさるな。左近殿へ重々口添えいたしましょう」
忠三郎は旗印に目をやる。炎のように城を取り囲む竪木瓜が、風に翻った。
やがて城門が開き、忠三郎が現れると、佐治新介と助太郎が迎えた。
「案じておったぞ、鶴殿」
三日三晩ほとんど眠らぬ忠三郎は、新介の顔を見て力が抜けた。
「水をくれ」
そう言って、助太郎が差し出した竹筒の水を一気に飲み干す。
「義兄上は?」
「殿は富田城でお待ち。此度はさしもの殿もお怒りじゃ。よくよく詫びを入れるがよい」
忠三郎は力なく頷く。
「叔父上は……義兄上にお味方すると」
「城を取り囲まれては、そう言わざるを得まい。使者はすでに城内じゃ」
「使者?」
「二心なければ富田まで参れ、との仰せ。おぬしは三郎左を連れて向かえ。我らは城を受け取り、このまま残る」
城主を城外に出し、城を押さえる算段だ。
(降伏した者を、お手打ちなどは……)
一抹の不安が胸をよぎる。
「若殿。浮かぬ顔をなされますな」
水と兵糧丸で人心地ついた町野左近が言う。
「上様も左近様も、三郎左様が若殿の叔父御であることはご存じ。それを承知で始末なさるはずもない」
(そうであってほしい…)
では何故、城を接収するのか。
ほどなく、三郎左衛門が家臣を伴い城門を出る。忠三郎は叔父を連れ、一益の待つ富田城へ向かった。
四日市にある富田城は、北勢四十八家のひとつ・南部氏の居城だ。
木全彦一郎の軍勢が城下を焼き払い、城主・南部邦尚は抵抗を諦め切腹。残る三人の子と城兵は助命された。
一益は焼け残りの本丸を急ぎ修復し、すでに入城している。
到着すると義太夫が迎えた。
「これはこれは三郎左殿。ご足労、忝い」
三郎左衛門は緊張した面持ちで応じ、刀に手をかける。小姓に預けるつもりだろう――だが義太夫が手で制した。
「いや、それには及ばぬ。殿は、三郎左殿に二心なき由、よく心得ておられる。そのまま広間へ」
義太夫の声は乾いていた。笑みの奥に、測りがたい間がある。
三郎左は一瞬ためらいながらも、礼をして足を進めた。
そのやり取りを見て、忠三郎は義太夫の顔を見る。
(……やはり、あの言い回しか)
『二心なしと心得ておる』
帯刀を許されれば、多くは安堵する。だが、それは知らぬ者の安堵だ。
武家の作法では、刀を左に置くことはできない。刀の切っ先を向けるのと同じ無礼にあたる。
だからこそ、右に置くしかない。だが右に置いた刀は、もはや抜けない。
一益や義太夫のような素破の身のこなしを思えば、右に刀を置くということは、すなわち『持たない』に等しい。
それをわかっているのは、滝川家の流儀を肌で知る者だけだ。
よく知らぬ者ほど、帯刀してよいと言われて胸をなでおろす――それが、滝川流の罠とも知らずに。
(帯刀が許されたからといって、決して安心できるものではない……)
義太夫は何食わぬ顔で広間へ案内する。
「では、わしも――」
忠三郎が続こうとすると、小姓・木全彦次郎(彦一郎の長子)が立ちふさがる。
「蒲生様はこちらで」
「いや、わしも参ろう」
制止を振り切る忠三郎。義太夫が苦笑して振り返る。
「仕方ないのう、鶴は」
叱責も警戒もなく、柔らかな声。
忠三郎は、何かが始まる予感を胸に、一歩ずつ、板のきしむ音を確かめながら進んだ。
広間には一益が待っていた。
「三郎左衛門、よう参った」
一益は背後に控える忠三郎へちらと目をやり、やや棘のある口調で言う。三郎左は神妙に進み出て平伏した。
「千種三郎左衛門、お召しにより参上仕った」
一益は不機嫌そうに頷き、低く言い放つ。
「その方らは、いちいち挙動が遅い」
三郎左衛門は訝しげに、反論する。
「異なことを。使者の口上を聞き、即座に参り候」
一益は首を振る。
「さにあらず。そこにおる蒲生忠三郎――その者を斬って兵を挙げるなら、忠三郎が千種に入った時を措いて他はない」
いつもと異なる冷ややかな声。忠三郎は息を呑み、一益の顔を仰いだ。表は平静、内に押し殺した怒りが透ける。
三郎左も言葉を失い、返す言葉を探す。だが一益は小さく嘲る。
「にもかかわらず、年端もいかぬ甥を三日も引き留め、城を囲まれてから解放した。いまさら二心なしとは言わせぬ」
言うが早いか、従者から太刀を受け抜き放つ。
忠三郎は血の気が引き、咄嗟に二人の間へ飛び出して右手を高く上げた。
「お待ちを!」
刃を前に、声を張る。
「この忠三郎に免じ、叔父御の命をお助けくだされ!」
一益は仁王立ちのまま見下ろす。
「鶴、申すはそれだけか」
「数々の勝手、どうかお許しを」
忠三郎も、三郎左衛門も、深々と頭を垂れる。
そのとき、後方から義太夫が進み出て穏やかに問う。
「そもそも殿の許しなしに千種に向こうたおぬしが悪い。何故、かような真似をしたのじゃ」
忠三郎は唇を固く閉じ、答えない。
「また快幹に欺かれたのであろう」
一益が呆れたように呟く。
「そなたはいつまで快幹を野放しにする。手を下せぬなら、わしがやる」
「いや……それは……それには及ばぬ」
忠三郎は苦悩を顔に浮かべ、首を振る。
(できぬだろう)
一益はその様子を見据え、内心で断じた。
この期に及び決断できない忠三郎には、いずれ破滅が待つ――。
「敵になり、敵の心を取らねば戦さには勝てぬ」
「敵になる?」
「そなたは快幹に心を取られる。命を落とす羽目になろう。もう加勢は要らぬ。日野へ戻り、よう考え、始末をつけて参れ」
一益の言は怒声でも叱責でもない。静かに、重い。
忠三郎も今回の行動が軽率であったことは承知している。一益の怒りも覚悟の上で富田城に来た。
やがて一益は太刀を静かに鞘へ納め、何も言わず二人を広間から下がらせた。
あまりのことに、三郎左衛門は顔をこわばらせたまま、言葉を失う。忠三郎も一益の怒りを肌で感じ、息を呑むばかり。
沈黙の中、義太夫がふらりと現れ、声をかけた。
「如何した。目を開けたまま寝ておったような顔をしおって」
その剽軽な口調に、忠三郎は思わず笑みをこぼす。
「されば、もう帰ってよいと……?」
「然様。殿がお許しくださった。あれで済んだのは、おぬしの顔を立てたからよ」
義太夫はちらと三郎左へ目をやり、含みある声で言う。
忠三郎は叔父に声をかけ、館を辞す。義太夫は城門まで見送った。
「殿は、三郎左が鶴を斬るようなことはあるまいと仰せであった」
「え……?」
忠三郎が目を見張る。義太夫は肩をぽんと叩き、真顔に戻る。
「怒っておられたわい。三郎左を斬ろうとなされたのは口先だけではない。されど矛先は、おぬしに向いておる」
「……」
「この三日、昼夜おぬしの安否を気にしておられた。『火攻めは避けよ』とも最初は仰せじゃ。動くと決めたのは、殿なりの覚悟」
「ならば……わしを助けるために……」
「そこまでさせるな、ということよ。おぬしはまだ戦を知らぬ。情が先に立つ」
忠三郎は肩を落とし、静かに頷く。
「……ならば、次はかような真似はすまい」
義太夫は口元をわずかに緩めた。
「それが聞ければ十分。殿はこうも仰せじゃ。『あの小童、物覚えが早い。四、五年もすれば、こちらが手を焼くかもしれぬ』と」
「…義兄上が、わしを、将として…?」
「おぬしが思うより、ずっと目をかけておられる。ただし甘えは許されぬ。我らも、常に手を貸せるとも限らぬ」
義太夫はふっと笑い、背を向けて城の方へと歩み出した。
「ならば、手を借りぬよう精進いたそう」
忠三郎が頭を下げると、義太夫は立ち止まり、振り返らずに言う。
「わかっておるなら――もう我らに、ああいう真似はさせてくれるな」
その言葉を最後に、義太夫は城へ戻っていった。
一方、一益は居間に戻り、傍らの折鶴に目をやっていた。
伊勢が鎮まるまでは、風花と八郎を岐阜に留めておく――そう決めている。
折鶴の白い羽が、灯の影でわずかに金色に染まっていた。
そこへ義太夫が戻り、控えめに口を開いた。
「殿……一つ、お伺いしたき儀が。三郎左が、鶴を斬らぬと確信されていたのは、何故で?」
一益は折鶴を指先でひと回しし、静かに答えた。
「何故と思う?」
「いや、もしや……あの童に、何か特別な力でも?」
真顔の義太夫に、一益はふっと笑みを漏らす。
「分からぬか?」
「分かりませぬ」
一益はゆっくりと立ち上がり、障子を開けて外を見る。向こうの山の稜線に、小さく、蒲生の向かい鶴の旗が揺れていた。
「あやつの不可思議な力かもしれぬ。されど、それ以上に――物の理を読む目がある。兵の動かし方も、あの年にしては並ではない。此度も、密かに伏兵を置いておった」
「伏兵を……鶴が?」
「詰めが甘いが、学んでおる。四、五年後、いや三年でさえ――敵に回すと面倒になるやもしれぬ」
一益は小さく呟いた。
灯が揺れ、折鶴の影が板張りの床にひとすじ伸びる。
義太夫は何も言わなかった。
一益の視線の先では、夜風に向かい鶴の旗がゆっくりとなびいている。
その白が闇に溶け、やがて見えなくなったとき――
一益の胸に、言葉にできぬ静けさが落ちた。
岐阜から日野に戻った忠三郎は祖父快幹に呼び出された。
「今度は北勢に出兵すると聞いたが」
快幹は、甲賀攻めのときと同じ、何食わぬ顔だった。叱責も皮肉もない。
「はい。先年の戦の折、我らに刃向こうた者どもを、きっちりと討ち滅ぼして参りまする」
忠三郎もまた、屈託のない笑顔で返す。
快幹はうなずき、手文庫から一通を差し出した。
「これは北勢の千種三郎左衛門へ渡せ。あの者はそなたの叔父。もとより江南の後藤の血を引く。わしの言葉なら耳を貸そう。北勢平定にも、きっと力を貸してくれるはずじゃ」
「叔父上が…」
忠三郎は驚き、だがすぐに顔を綻ばせた。文を押し戴くと、快幹は穏やかに続ける。
「父御は病床にある。もとはこの老いぼれが出向かねばならぬところ、そなたに頼るばかりで済まぬな」
「お爺様のお志、しかと胸に受け止め、千種の叔父御にお伝えいたします」
「滝川左近殿にも、くれぐれもよろしく伝えおいてくれ」
その一言に、忠三郎の笑みはいよいよ明るくなった。
このときに限って、快幹の声色は柔らかかった。かつて疑った叛心も思い違いか――そう思いかけて、胸のどこかに引っかかるものが残った。快幹の本心は、まだ霧の向こうだ。
美濃・尾張にならい日野でも兵農分離は進み、動員は早い。忠三郎は支度を整え、兵を率いて城を出た。
「忠三郎様!」
背後から呼ばれ、手綱を引く。滝川助太郎であった。
助太郎は滝川家の郎党。一益の意向で動き、ここしばらく忠三郎を見張るように日野に詰めていた。
「どちらへ?」
「千種の叔父の元へ」
助太郎の眉間にしわが寄る。
「お待ちくだされ。我が殿にそのことをまずお伝えしてから向かわれるのが筋」
忠三郎は無言で視線を逸らした。
助太郎は小姑めいた口を挟む。だが、その背後には甲賀衆、そして滝川家。戦でも幾度も助けられた。ぞんざいには扱えない。
「ならば、そちが義兄上に伝えてくれ」
「ではせめて、お許しが出るまでは兵を進めぬと約束してくだされ」
食い下がる助太郎。忠三郎は静かに首を振った。
義兄・一益が、この出立を喜ぶはずがない。千種への訪問も「勝手」と退けられるだろう。
(されど、御爺様の願いは違う)
冷たかった祖父が、あのときは別人のようだった。
『よろしく頼む』
その言葉が胸に残る。裏があるかもしれない。それでも、快幹の頼みを無にしたくはなかった。血を分けた叔父と結べれば、一益にも悪い話ではない。
「すまぬ、助太郎。そのような約束はできぬ」
忠三郎が馬首を返すと、助太郎は叫ぶ。
「忠三郎様!」
振り返らず、忠三郎は町野左近に目配せした。
傅役の左近が頷く。合図の太鼓が打たれ、兵が動き出す。
忠三郎の胸には、どこか子どもじみた焦燥があった。――先に手を打っておかねば、また義兄上に先を越される。自分の意志で戦を動かす。そんな思いが奥で滾っていた。
千種峠を越え、伊勢の入口に差しかかったところで足が止まる。
要所要所の道が塞がれていた。折れた倒木、谷へ落ちかけた荷車、散らばる石。
一見、自然の仕業にも見えるが――どこか整いすぎていた。
風の流れすら計ったようなその配置に、忠三郎はわずかに眉をひそめる。
(……誰かの仕業か…)
まるで「進むな」と告げるかのように、道は閉ざされている。
一瞬、脳裏に浮かんだのは木全彦一郎の顔だった。
義兄上のもとで、常に素破を率いて動いていた男――。
(彦一郎の手の者か。いや、義兄上の命があったのかもしれぬ)
胸の奥に、ひやりとしたものが沈んだ。
助けるためか、止めるためか。
どちらにせよ、この道の静けさは、人の意志の匂いがする。
「若殿、いったんここで兵を整えては如何なもので?」
町野左近の進言に、忠三郎は小さく頷いた。
「……うむ」
忠三郎は馬を下り、振り返って峠の方を見やった。
その遠く、木立の奥。
幹の影に、一瞬だけ、見覚えのある人影があった気がする。
だが、それが誰だったのか――わからなかった。
やがて千種城に着くと、城門は開かれた。門を守る兵が主従を通す。
「これは祖父快幹から叔父上への書状」
忠三郎は小姓に文を渡し、広間へ通される。
しかし現れたのは家老だった。
「只今、家中にて協議中にござります。織田に従うべきか否か、意見が分かれておりまする。今しばらくお待ちあれ」
忠三郎は町野左近と視線を交わす。
「若殿。もし三郎左様が我らに従うおつもりならば、このように待たされることなどありませぬ。書状も受け取っておられように……出てこぬのは、いささか……」
左近が小声で憂えた。
「されど、お爺様の口添えがある。三郎左衛門殿は我が叔父御。裏切るような真似など……」
言葉のしっぽは細くなり、忠三郎は庭に視線をそらした。
自らに言い聞かせるように口にしても、胸の疼きは消えない。
それからも三郎左衛門は現れない。
町野左近は廊下を行き来し、城兵の顔を見、出入口を窺う。
「爺。おぬしはせわしないのう」
「いよいよ怪しい。待たせすぎにござる」
「家中が割れておるなら、致し方あるまい」
忠三郎も表には出さぬが、心穏やかではない。
母方の実家・後藤家は、かつて六角義治により滅ぼされ、母はその折に離縁された。以来、母方とは疎遠だ。
(叔父御は会ってくだされぬのか)
夜が更け、侍女が膳を運んでも、なお姿はない。静かすぎる城内。時折、軋む板の音だけが響く。遠くで誰かが見ているように――感じられた。
三日過ぎて、ようやく三郎左衛門が現れた。
「鶴、久しいのう。母に似てきた」
口にしたのは懐かしげな言葉。だが表情は固く、血縁に情をかける気配はない。
「叔父上。今の織田家の勢いに逆らうことはできませぬ。どうか、お味方を」
忠三郎は笑顔で語りかけたが、返ってきたのは冷笑だった。
「信長ずれに従うは我が家の名折れ。快幹殿も今の蒲生家を嘆いておられる」
「お爺様が?」
三郎左衛門は懐から文を出す。
それは忠三郎が携えた書状だった。目の前に差し出し、静かに声を落とした。
「そちはこの三日、出されたものに一切口をつけぬ。それほど用心深いのに――書状には目を通さなんだか」
文を開けば、無残な文字。
《孫は信長に心酔する不届き者。誅して、織田に反旗を翻すがよい》
筆跡は、祖父・快幹。
忠三郎は目を伏せた。思ったとおり――それでも、わずかな希望にすがっていた。信じてなどいなかった。それでも「違うかもしれない」と願っていたのだ。
(やはり、御爺様は…)
腹は立たなかった。ただ、血が引き、胸の底に風が吹き抜けた。。
「蒲生は俵藤太秀郷以来の名家。天魔信長に傾き、滝川左近の手足となるそちが、当主にふさわしいかのう」
唾を吐くように言い捨てる。
(当主にふさわしくない――また、それか)
忠三郎は目を伏せ、小さく笑った。
「…で、叔父上は、それがしを斬られるおつもりか」
その静かな問いに、町野左近が息をのんで振り返った。
三郎左衛門の視線が細く尖った。
「であれば如何に」
「元より命を惜しんでここへ参ったわけではござらぬ」
忠三郎は背を伸ばし、わずかに顎を上げた。
「ここで叔父上に討たれるのもまた弓矢取る身の習い。敵の手にかかって命を失うこと、まったく恥にて恥ならず。ただ、芳恩には、とくとく首をはねられるべし」
真っすぐ叔父を見て、朗々と『平家物語』を諳んじた。血で争う世にも、なお筋を通す覚悟があった。
三郎左衛門は黙って忠三郎の顔を見つめる。その奥に――姉・お桐の穏やかな光を一瞬、見た気がした。
やがて小さく息をつき、顔をそむける。
「……思いのほか、母似の面魂になっておるのう」
続く言葉に、忠三郎の胸に緊張が走る。
「快幹殿の文も見ず、わざわざ峠を越えて敵に首を差し出す――そのような者に、信長の家来が務まるか」
意味を測りかね、忠三郎は息を殺して叔父の動きを待つ。刃が振り下ろされてもおかしくない空気だ。
三郎左衛門は立ち、窓辺へ歩む。
「そちは何も知らぬ。もはや我が家に選ぶ道などない。あれを見よ」
指差す先、城壁の向こうに無数の旗がはためく。
(丸に竪木瓜……)
滝川勢が城を取り囲み、陣を敷いていた。
「滝川左近は茂福の朝倉掃部を騙し討ちにし、保々西、富田を焼き、ここへ来た」
「二つの城を……」
忠三郎の脳裏に、岐阜での軍議が浮かぶ。
(まさか、わしを助けるため――)
風に揺れる竪木瓜の旗が、何かを訴える。
「そちに手出しすれば、この城にも火を放つと脅しておる」
叔父の言葉が胸に深く染みた。
――お前に同じことができるか。できねば、信長の家来は務まらぬ。
「千種三郎左衛門、滝川左近殿にお味方すると伝えよ」
「忝うございます。ご案じめさるな。左近殿へ重々口添えいたしましょう」
忠三郎は旗印に目をやる。炎のように城を取り囲む竪木瓜が、風に翻った。
やがて城門が開き、忠三郎が現れると、佐治新介と助太郎が迎えた。
「案じておったぞ、鶴殿」
三日三晩ほとんど眠らぬ忠三郎は、新介の顔を見て力が抜けた。
「水をくれ」
そう言って、助太郎が差し出した竹筒の水を一気に飲み干す。
「義兄上は?」
「殿は富田城でお待ち。此度はさしもの殿もお怒りじゃ。よくよく詫びを入れるがよい」
忠三郎は力なく頷く。
「叔父上は……義兄上にお味方すると」
「城を取り囲まれては、そう言わざるを得まい。使者はすでに城内じゃ」
「使者?」
「二心なければ富田まで参れ、との仰せ。おぬしは三郎左を連れて向かえ。我らは城を受け取り、このまま残る」
城主を城外に出し、城を押さえる算段だ。
(降伏した者を、お手打ちなどは……)
一抹の不安が胸をよぎる。
「若殿。浮かぬ顔をなされますな」
水と兵糧丸で人心地ついた町野左近が言う。
「上様も左近様も、三郎左様が若殿の叔父御であることはご存じ。それを承知で始末なさるはずもない」
(そうであってほしい…)
では何故、城を接収するのか。
ほどなく、三郎左衛門が家臣を伴い城門を出る。忠三郎は叔父を連れ、一益の待つ富田城へ向かった。
四日市にある富田城は、北勢四十八家のひとつ・南部氏の居城だ。
木全彦一郎の軍勢が城下を焼き払い、城主・南部邦尚は抵抗を諦め切腹。残る三人の子と城兵は助命された。
一益は焼け残りの本丸を急ぎ修復し、すでに入城している。
到着すると義太夫が迎えた。
「これはこれは三郎左殿。ご足労、忝い」
三郎左衛門は緊張した面持ちで応じ、刀に手をかける。小姓に預けるつもりだろう――だが義太夫が手で制した。
「いや、それには及ばぬ。殿は、三郎左殿に二心なき由、よく心得ておられる。そのまま広間へ」
義太夫の声は乾いていた。笑みの奥に、測りがたい間がある。
三郎左は一瞬ためらいながらも、礼をして足を進めた。
そのやり取りを見て、忠三郎は義太夫の顔を見る。
(……やはり、あの言い回しか)
『二心なしと心得ておる』
帯刀を許されれば、多くは安堵する。だが、それは知らぬ者の安堵だ。
武家の作法では、刀を左に置くことはできない。刀の切っ先を向けるのと同じ無礼にあたる。
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義太夫は何食わぬ顔で広間へ案内する。
「では、わしも――」
忠三郎が続こうとすると、小姓・木全彦次郎(彦一郎の長子)が立ちふさがる。
「蒲生様はこちらで」
「いや、わしも参ろう」
制止を振り切る忠三郎。義太夫が苦笑して振り返る。
「仕方ないのう、鶴は」
叱責も警戒もなく、柔らかな声。
忠三郎は、何かが始まる予感を胸に、一歩ずつ、板のきしむ音を確かめながら進んだ。
広間には一益が待っていた。
「三郎左衛門、よう参った」
一益は背後に控える忠三郎へちらと目をやり、やや棘のある口調で言う。三郎左は神妙に進み出て平伏した。
「千種三郎左衛門、お召しにより参上仕った」
一益は不機嫌そうに頷き、低く言い放つ。
「その方らは、いちいち挙動が遅い」
三郎左衛門は訝しげに、反論する。
「異なことを。使者の口上を聞き、即座に参り候」
一益は首を振る。
「さにあらず。そこにおる蒲生忠三郎――その者を斬って兵を挙げるなら、忠三郎が千種に入った時を措いて他はない」
いつもと異なる冷ややかな声。忠三郎は息を呑み、一益の顔を仰いだ。表は平静、内に押し殺した怒りが透ける。
三郎左も言葉を失い、返す言葉を探す。だが一益は小さく嘲る。
「にもかかわらず、年端もいかぬ甥を三日も引き留め、城を囲まれてから解放した。いまさら二心なしとは言わせぬ」
言うが早いか、従者から太刀を受け抜き放つ。
忠三郎は血の気が引き、咄嗟に二人の間へ飛び出して右手を高く上げた。
「お待ちを!」
刃を前に、声を張る。
「この忠三郎に免じ、叔父御の命をお助けくだされ!」
一益は仁王立ちのまま見下ろす。
「鶴、申すはそれだけか」
「数々の勝手、どうかお許しを」
忠三郎も、三郎左衛門も、深々と頭を垂れる。
そのとき、後方から義太夫が進み出て穏やかに問う。
「そもそも殿の許しなしに千種に向こうたおぬしが悪い。何故、かような真似をしたのじゃ」
忠三郎は唇を固く閉じ、答えない。
「また快幹に欺かれたのであろう」
一益が呆れたように呟く。
「そなたはいつまで快幹を野放しにする。手を下せぬなら、わしがやる」
「いや……それは……それには及ばぬ」
忠三郎は苦悩を顔に浮かべ、首を振る。
(できぬだろう)
一益はその様子を見据え、内心で断じた。
この期に及び決断できない忠三郎には、いずれ破滅が待つ――。
「敵になり、敵の心を取らねば戦さには勝てぬ」
「敵になる?」
「そなたは快幹に心を取られる。命を落とす羽目になろう。もう加勢は要らぬ。日野へ戻り、よう考え、始末をつけて参れ」
一益の言は怒声でも叱責でもない。静かに、重い。
忠三郎も今回の行動が軽率であったことは承知している。一益の怒りも覚悟の上で富田城に来た。
やがて一益は太刀を静かに鞘へ納め、何も言わず二人を広間から下がらせた。
あまりのことに、三郎左衛門は顔をこわばらせたまま、言葉を失う。忠三郎も一益の怒りを肌で感じ、息を呑むばかり。
沈黙の中、義太夫がふらりと現れ、声をかけた。
「如何した。目を開けたまま寝ておったような顔をしおって」
その剽軽な口調に、忠三郎は思わず笑みをこぼす。
「されば、もう帰ってよいと……?」
「然様。殿がお許しくださった。あれで済んだのは、おぬしの顔を立てたからよ」
義太夫はちらと三郎左へ目をやり、含みある声で言う。
忠三郎は叔父に声をかけ、館を辞す。義太夫は城門まで見送った。
「殿は、三郎左が鶴を斬るようなことはあるまいと仰せであった」
「え……?」
忠三郎が目を見張る。義太夫は肩をぽんと叩き、真顔に戻る。
「怒っておられたわい。三郎左を斬ろうとなされたのは口先だけではない。されど矛先は、おぬしに向いておる」
「……」
「この三日、昼夜おぬしの安否を気にしておられた。『火攻めは避けよ』とも最初は仰せじゃ。動くと決めたのは、殿なりの覚悟」
「ならば……わしを助けるために……」
「そこまでさせるな、ということよ。おぬしはまだ戦を知らぬ。情が先に立つ」
忠三郎は肩を落とし、静かに頷く。
「……ならば、次はかような真似はすまい」
義太夫は口元をわずかに緩めた。
「それが聞ければ十分。殿はこうも仰せじゃ。『あの小童、物覚えが早い。四、五年もすれば、こちらが手を焼くかもしれぬ』と」
「…義兄上が、わしを、将として…?」
「おぬしが思うより、ずっと目をかけておられる。ただし甘えは許されぬ。我らも、常に手を貸せるとも限らぬ」
義太夫はふっと笑い、背を向けて城の方へと歩み出した。
「ならば、手を借りぬよう精進いたそう」
忠三郎が頭を下げると、義太夫は立ち止まり、振り返らずに言う。
「わかっておるなら――もう我らに、ああいう真似はさせてくれるな」
その言葉を最後に、義太夫は城へ戻っていった。
一方、一益は居間に戻り、傍らの折鶴に目をやっていた。
伊勢が鎮まるまでは、風花と八郎を岐阜に留めておく――そう決めている。
折鶴の白い羽が、灯の影でわずかに金色に染まっていた。
そこへ義太夫が戻り、控えめに口を開いた。
「殿……一つ、お伺いしたき儀が。三郎左が、鶴を斬らぬと確信されていたのは、何故で?」
一益は折鶴を指先でひと回しし、静かに答えた。
「何故と思う?」
「いや、もしや……あの童に、何か特別な力でも?」
真顔の義太夫に、一益はふっと笑みを漏らす。
「分からぬか?」
「分かりませぬ」
一益はゆっくりと立ち上がり、障子を開けて外を見る。向こうの山の稜線に、小さく、蒲生の向かい鶴の旗が揺れていた。
「あやつの不可思議な力かもしれぬ。されど、それ以上に――物の理を読む目がある。兵の動かし方も、あの年にしては並ではない。此度も、密かに伏兵を置いておった」
「伏兵を……鶴が?」
「詰めが甘いが、学んでおる。四、五年後、いや三年でさえ――敵に回すと面倒になるやもしれぬ」
一益は小さく呟いた。
灯が揺れ、折鶴の影が板張りの床にひとすじ伸びる。
義太夫は何も言わなかった。
一益の視線の先では、夜風に向かい鶴の旗がゆっくりとなびいている。
その白が闇に溶け、やがて見えなくなったとき――
一益の胸に、言葉にできぬ静けさが落ちた。
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