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3 甲賀攻め
3-8 百済寺焼き討ち
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冬の近江に、火の気が忍び寄っていた。
その後も滝川勢は北勢の攻略を順調に進め、やがて年の瀬を迎えた。
一益が年賀の挨拶のため岐阜の屋敷へ入ると、案の定、先に蒲生忠三郎が訪れていた。
「何ゆえに忠三郎殿が我が屋敷にお泊まりになるのじゃ」
風花が少し怒った様子で言う。風花は先月、女の子を出産したばかりだ。その姫は葉月と名付けられ、兄の八郎とともに岐阜の屋敷で暮らしている。
「そう申すな。丁度よいところじゃ。――義太夫、鶴を呼んでまいれ」
「ハハッ。御台様のお怒りも、尤もなことで…」
義太夫は笑いを堪えつつ、奥へと引き返していく。確かに、ここ数年、風花や八郎の顔よりも忠三郎の顔を見ている時間のほうが多い気もする。
やがて、
「義兄上、久方ぶりにございます」
そう言って現れた忠三郎は、ここ半年ほどで背丈が一段と伸びたように見えた。
「そう久方ぶりでもなかろう」
義太夫が笑いながらそう返す。
まもなく、侍女が現れ、温めた汁椀と、菓子の乗った小皿を静かに差し出した。
「これは……なんであろうか?」
小皿に盛られた見慣れぬ漬物をじっと見つめ、義太夫が訝しげに侍女へ尋ねる。その傍らで、忠三郎が思わず声を上げた。
「――桜漬じゃ」
「桜漬?」
義太夫が首をかしげると、忠三郎は少しばつが悪そうに視線を伏せ、口の端を引きつらせるようにして答えた。
「お爺様が、日野でこしらえておるもので…」
言葉を口にしながらも、忠三郎の表情には複雑な色が浮かんでいた。椀から立つ湯気がそっと顔を包む。視線をその向こうに逃がすその仕草に、居心地の悪さが滲んでいた。
どうやら、吹雪から送られてきたものを、風花が無言の皮肉を込めて出したのだろう。
(……風も、容赦がない)
一益は苦笑しながら、桜漬をひとつ箸でつまんだ。口に含むと、酸味のなかに、あの頑固な老人――快幹の顔がふと脳裏に浮かぶ。そして同時に、向かいに座る忠三郎の気まずそうな表情にちらりと目をやった。
視線に気づいた忠三郎は、ほんのわずかに目を伏せて箸を置いた。顔には出さぬつもりでも、耳のあたりがわずかに赤くなっているのが見えた。
「六角承禎は日野の傍におる」
淡々とした一益の言葉に、忠三郎は瞬時に顔を上げた。
「それは……まことで?」
杉谷一派は六角義賢とともにいる――そう睨んでいた。忠三郎自身もその線を追い、各地を探らせてはいたが、決め手となる情報には至っていなかった。
一益は湯をすすり、静かに続ける。
「北勢の国人と素破どもの報せによれば、六角義賢は日野の近辺に身を潜めておるようじゃ」
「…何処に?」
「日野の目と鼻の先に資金源があり、六角とともに潜んでおる。釈迦山百済寺と、その傍の鯰江城じゃ」
忠三郎は、思わず声を失った。
あの百済寺――幼き日、祖父に連れられて幾度も詣でた、静寂の山寺。
その寺が、反逆の巣と化しているというのか。
「百済寺は、上様が特別に寺領を安堵し、税を免除されたと……」
「そうよ。上様が初めてあの地に足を運んだときから、特別に扱われておった。寺域から見下ろす近江の景色がいたくお気に召したらしい。行くたびに天下を語っておられた」
一益は、懐かしむように微笑を浮かべた。
忠三郎は、肩の奥に冷たいものが差すのを感じた。百済寺と六角氏――確かに、それは古くからの繋がりだ。鎌倉の昔から、その縁は絶えていない。だとすれば――快幹の背後に、やはり六角義賢がいるのか。
「鯰江城の鯰江貞景が六角父子を迎え入れたのであろう」
忠三郎の顔色が変わる。
比叡山延暦寺の焼き討ち後、信長は湖南で六角義賢に味方した寺社を次々に焼き払ってきている。
「それが明るみに出れば……恩を仇で返したと、上様は烈火のごとくお怒りになろう」
忠三郎は怒り狂う信長の姿を脳裏に思い描き、口を噤んだ。
「北勢は火攻めで平らげよと言っておきながら、己が故郷を焦土にされるのは、やはり堪えられぬか」
責めるでもなくそう言われ、忠三郎は上目遣いに一益を見る。
「いかにも……あの戦の後、北勢より戻り、柴田殿、佐久間殿とともに湖南の寺をことごとく焼き払った」
忠三郎は茶碗の縁に視線を落とし、ひとり苦笑した。故国で焼き討ちを繰り返すことで自責の念に駆られているようだった。
「されど百済寺は延暦寺などとは比べようもなき真っ当な寺。幼き頃より幾度となく訪れた寺を焼くようなことは…」
その目は、「できぬ」と言っていた。百済寺は日野に近い。ここで火の手があがれば、日野に住む者たちは皆、それを目にする。由緒ある寺を焼き討ちしたとなれば、当然、世人の批判は必至だ。領国を治めていくことを考えると、今後、蒲生家はやりにくくなるだろう。
「百済寺が鯰江城に物資を渡しておる。止めさせなければ焼き討ちは免れまい」
一益がそう言うと、
「鯰江城はともかく、百済寺を咎めようにも、物資を渡していることが明るみにならねば、兵を向けるわけにはいきますまい」
「…であれば、どう動くつもりか」
「義兄上なら…。もし、三九郎がそこにいたら如何なさる所存で?」
義太夫が少し眉を上げた。
「斬って構わぬ。そのほうも、此度は重丸を仕留めよ」
一益の冷ややかな命に、忠三郎は目を逸らし、力なく笑った。できないだろうことは分かっている。
「鶴…上様の眼は、そう長くは誤魔化せぬぞ」
義太夫がそういうと、忠三郎はしばらく息をつめて考え、
「上様には鯰江城に六角承禎がいることをお伝えせねばなるまい」
その上で、百済寺に警告するしかない。一益は、
「やるだけのことをやってみよ。されど鶴、いかなる仕儀となっても民を愛する者は強く、民を愛さざる者は弱し。そのことを忘るるな」
そう言うものの、もちろん、全てを忠三郎に任せておくつもりはない。すでに百済寺には滝川藤九郎を送り込んでいる。
忠三郎は答えを持たぬまま、目の焦点を宙に彷徨わせ、ただ静かに頷いた。
岐阜からの帰途、一益は義太夫を呼び寄せた。
「義太夫、江南から峠を越え、北勢へ戻れ」
「…はっ。江南からでございますか?」
義太夫は首を傾げた。江南から峠を越えるとなれば、岐阜から伊勢に真っ直ぐ戻るよりも、道のりは長く、時間もかかる。
しかしすぐに察した。
「もしや、鶴とともに、鶴とともに百済寺へ?」
「然様。百済寺には藤九郎を遣わしてある。落ち合い、状況を見極めよ」
「承知つかまつる」
それ以上、言葉にはしなかった。これは、忠三郎を一人にしておけぬ、という心配からだろう。遠回りをさせてまでも、すぐ傍に人を置きたい――そういう思いが、言外に滲んでいた。
その夜、義太夫は皆から離れ、単騎、百済寺へと向かった。
風光明媚にして荘厳。宣教師が地上のパラダイスと称えた百済寺は、鈴鹿の山あいに隠れるように構えていた。
広大な境内には千にも及ぶ僧坊が立ち並び、僧侶のみならず、国衆の妻子や近隣の民たちも暮らしている。もはや寺院というより、ひとつの町、あるいは山間の小国といった趣きだ。
義太夫は山門の前に立ち、険しい山肌に抱かれた堂宇を仰ぎ見た。石段の先、深い木立に埋もれるようにして伽藍が沈む。
その奥から、ひとつ、鐘の音が鳴った。
冬の風がその響きを抱き、山の骨まで冷たくする。
百済寺――信長が特に庇護した古刹にして、かの六角承禎と縁深い寺。今、その静寂の奥に、火薬の匂いが紛れている。
義太夫は百済寺が見渡せる場所に狼煙をあげ、合図を送った。しばらくして、木陰から滝川藤九郎が姿を見せる。
「義太夫殿」
「どうじゃ?」
義太夫が問いかけると、藤九郎は周囲を一瞥し、声を潜めて答えた。
「やはり、兵糧が鯰江城へ運び出されております。日ごとに荷が出ておる」
「不味いのう。…で、甲賀衆は?」
「重丸の姿は確認いたしました。甲賀者どもも時折、山門の陰に現れます。恐らく、鯰江城からの出入りかと」
義太夫は思案深げに唸った。甲賀の素破がうろつくとなれば、むやみに寺内を探るのは危険だ。だが、この好機を逃すわけにもいかない。
「わかった。また使いをおくる。くれぐれも目立たぬように」
藤九郎と別れた義太夫は、身なりを整え、何食わぬ顔で忠三郎の一行に合流した。
表向きは蒲生家の一員として、百済寺の巡見に随行する形を取りながらも、義太夫は内心、ただの視察では済まぬことをよくわきまえていた。
忠三郎は寺に到着すると、何度か顔を合わせたことのある導師を呼び出し、静かに切り出した。
「ここより鯰江へ兵糧が運ばれているとの噂がある。もし、それが真実であれば……今すぐ止めねばならぬ。叡山のようになってからでは、遅い」
導師は一瞬、目を見開いたが、やがて静かに首を振った。
「忠三郎様もご存じの通り、六角のお館様とは百済寺創建の昔より深きご縁。お困りとあれば、力を尽くすは道理にござります」
――まさか、百済寺ほどの由緒ある寺が、延暦寺の二の舞になると本気で考えてはおるまい。
忠三郎は唇を引き結んだ。
「叡山のようになっても構わぬ、と申すか」
声に怒りが滲んだ。導師はその気配を悟ってか、気色ばむことなく、なおも静かに頭を下げた。
「この寺には、百年、千年の祈りが宿っております。争いの外にあるべき存在にございます」
一瞬、導師の声がかすかに揺れた。その瞳の奥に宿る影は、信仰を背負う者の強さではなく、現実の重圧に押しつぶされそうな人間の弱さだった。
「忠三郎様……この寺を護るには、もはや清浄の理《ことわり》だけでは叶いませぬ。理想と現の狭間にて、我らもまた…選ばねばなりませぬ」
それは導師なりの告白だった。多くの矛盾を背負いながら、それでもこの寺を守ろうとしている。
「それを守るために、敵へ兵糧を渡すか」
忠三郎の問いに、導師は静かに頭を下げたまま、答えなかった。否定も肯定もせず、ただその沈黙で、百済寺の今の立場を語っていた。
話は堂々巡りとなり、やがて導師が言葉を変えた。
「それよりも、お気づきとは存じまするが、こちらには、兄上が住まわれております」
「……重丸が?」
忠三郎はハッと顔を上げ、辺りを見回した。
「無事なのか?」
「はい。ここにて、静かにお過ごしです。どうか、このままに…お目通りは叶いませぬ」
「会わせてくれ。話がしたい」
だが、導師はやはり首を横に振った。
「いえ、それは叶いませぬ。……どうか、もうお引き取りを」
言外に、これ以上深入りすれば、百済寺も、重丸も危うくなる――そう諫めている。
忠三郎は、その場に立ち尽くしたまま、言葉を失った。
導師が一礼して去っていくと、忠三郎は義太夫の袖をとらえ、小声で問い詰めた。
「ここに重丸がおる。おぬし、存じておったな。何故、隠し立てした?」
義太夫は視線をそらさず、淡々と応じた。
「言うてどうなる。重丸を討つ気など、おぬしにはあるまい」
図星を突かれ、忠三郎は何も言い返せなかった。
沈黙ののち、忠三郎がそっと声を落とす。
「上様には……鯰江に六角承禎がおると報せた。浅井の動向を見て、間もなく兵を動かすおつもりじゃ」
「承知した。殿にお伝えしよう」
義太夫はうなずきかけて、忠三郎の目をのぞき込むように言った。
「それと――ここに三九郎殿も潜んでおるやもしれぬ」
一益の一子、滝川三九郎。甲賀攻めののち姿をくらまし、消息を絶っていた。
「そのことよ。杉谷衆もこの辺りに潜むという。此度はどう転ぶか……じゃがな、鶴、殿はそなたのことを案じておられる。わしには、そう思える」
「義兄上がわしを?」
「然様。おぬし、北勢ではあっさり火攻めを進言していた。だが今は違う。…領主たる者、君子の道を忘れてはならぬ」
「君子の道、か…」
忠三郎がつぶやくと、義太夫は力強く続けた。
「領主たるものは家臣を教え、常日頃から民を愛すべきじゃ。さすれば間者が領内を窺うことも難しくなり、民は領主の命に従い国は強うなる。領主がそれを心得ておれば、容易く戦さをしようとは思わぬ。まして領内で焼き討ちを行おうとは思わぬはず」
「それでも……義兄上は村も寺も、焼かれた」
「それゆえじゃ。おぬしが今、同じ思いをしておると知って、殿は案じておられる」
忠三郎は、義太夫の言葉を胸のうちで何度も反芻し、静かに頷いた。
風が一層冷たくなった。琵琶湖の湖面に、鈍い光がちらついている。もう夕暮れが近いのだ。
「存じておるか、義太夫。この寺は百済から渡ってきた僧が、方術によりこの地を選んで建てたという。あの比叡山のさらに向こう――あの彼方に、かつて百済という国があった」
その百済も九百年前に唐と新羅により攻め滅ぼされた。祖国を追われた渡来の僧は、失われた地を偲び、この山上に寺を開いた。
「…義太夫。この景色を、美しいと思わぬか」
忠三郎がそう言うと、義太夫はしばし、山門や雪に覆われた木々に目をやり、ふっと微笑んだ。
「美しい。……だからこそ、守りたい」
粉雪の積もる石段、静かに咲く寒椿。何もかもが、今にも戦火に呑まれそうに脆く見えた。忠三郎は寂しげに笑みを浮かべた。
「鶴、そのような顔をするな。ここへ来る途中、よいものを見つけたわい」
義太夫が、いたずらっ子のような顔で言う。忠三郎が片眉を上げて言い当てた。
「酒であろう?」
「然様! 百済寺で造っておるという、百済寺樽とかいう酒じゃ。都人も舌鼓を打つ名酒と聞く。我等もひとつ、ご相伴に預かろうではないか」
百済寺樽。忠三郎にとっては馴染みの深い酒であったが、義太夫のあまりに嬉しそうな様子に、つい笑いを洩らし、その背を追った。
四月、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀らの軍勢が、ついに鯰江城攻撃に動いた。蒲生賢秀と忠三郎も、柴田勝家に従って出陣していた。
「元より堅固な城だ。それに加え、我らの攻撃を見越して、城の改築まで行っておる。ここは兵糧攻めがよかろう」
軍議の席上、丹羽長秀が静かに口を開く。
「兵糧攻め……。それは…」
忠三郎が反応すると、父・賢秀が鋭く問いかけた。
「わしもそう考えたが、そなた、異論があるか?」
忠三郎は言葉に詰まった。
――百済寺から、密かに兵糧が鯰江城へ運ばれている。それを止めなければ、兵糧攻めなど意味をなさない。
(されど、ここでそれを口にすれば…)
百済寺の背信が信長の耳に入る。即座に焼き討ちの命が下るだろう。あの導師も、重丸も、寺に暮らす者たちも、無に帰す。
忠三郎が答えを探しあぐねているところへ、柴田勝家が慌ただしく帷幕の中へ飛び込んだ。
「一大事じゃ。上様が自ら出馬され、百済寺に本陣を置かれるとのこと!」
「百済寺に本陣を?」
忠三郎の顔から、見る間に血の気が引いた。
導師の穏やかな眼差しと、雪の庇に佇む兄の影が脳裏をよぎった。
信長が百済寺に入れば、全てが水泡に帰する。導師の言葉、重丸の存在、寺を包む静けさ――すべてが崩れる。
忠三郎は席を蹴って軍議の間を出ると、急ぎ自陣に戻り、滝川助太郎を呼んだ。
「如何なさりました?」
「上様が……百済寺に陣を敷かれると仰せじゃ。急ぎ北勢の義兄上に伝えてくれ!」
忠三郎の声音は震え、肩を掴む手に力がこもっていた。助太郎は一瞬面食らったが、すぐに事の重大さを悟った。
「…上様は、もう岐阜を発たれたのでは?」
「然様。だからこそ、急げ、急ぎ義兄上に――!」
取り乱した様子の忠三郎に、助太郎は思わず両腕を掴み返し、叱咤した。
「しっかりなされませ! いま伝令を飛ばしても、間に合いませぬ。これより先、江南を治めていくのは殿ではなく、忠三郎様ご自身でありましょう!」
他国を攻めるときには鬼神のごとく勇ましい忠三郎が、身内や領内のことになると、少年のように心を乱す――助太郎は内心不思議に思いながらも、静かに諭す。
「殿は、忠三郎様に何とお伝えになっておられましたか?」
「…領主たる者、常日頃より民を愛せ、と…」
忠三郎は、ふと目を伏せて考え込んだ。そして顔を上げると、きっぱりと命じた。
「百済寺の導師に、織田勢が寺に入る前に山を下りるよう伝えよ。北近江まで逃れれば、上様も追撃はなさらぬはずじゃ」
「ハハッ」
助太郎は力強くうなずき、駆け去っていった。
百済寺から鯰江城への兵糧輸送が露見し、激怒した信長の命により、四月十一日、百済寺の焼き討ちが断行された。
その数、千に及ぶ僧房、僧院すべてが灰燼に帰した。
鯰江城攻撃は中止され、信長は岐阜へ帰陣、諸将もそれぞれの領国へと戻っていった。
百済寺から立ちのぼる黒煙は、日野の町からもはっきりと見えた。
蒲生勢が日野へ戻ると、町の空気は出立前とは明らかに異なっていた。
「あの寺を焼いたのも、殿の差し金か」――そんな声が、風に紛れて聞こえた。
「若殿……民の目が、いささか冷たいように思われます」
町野左近が小声で告げる。
「爺、気にしすぎじゃ。疲れておるのだろう。城に戻ったら休め」
忠三郎は軽く笑って返したが、自らもその視線の重さを感じていた。
囁き交わされる声が、胸の奥をひっそりと刺す。
(――これでは、人心が離れる)
兵を先に帰すと、忠三郎はひとり馬を返し、若松の森へ向かった。
祖父・快幹が忠三郎の誕生を祝して植えた松の林。その参道は、馬見岡綿向神社に続き、かつて町衆が総出で祭礼を営んだという。幼き日の記憶を刻む森は、今も変わらずそこにあった。
(わしは、この地に生まれ、すべてを与えられたはずだった)
だが現実は、母の早逝、叔父の戦死、織田の侵攻、そして幾度となく命を狙う祖父。
倒錯する乱世を生き抜いてきたはずなのに、故郷の視線はいま、痛いほど冷たい。
忠三郎は松林を抜け、綿向山を仰いだ。
鈴鹿の峰々は、百済寺が焦土となっても、世が移ろいゆこうとも、ただ静かに連なり立っている。
その不動の姿に、思わず口をついて和歌が洩れた。
「世間を憂しと恥しと思へども
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」
憂き世を逃れたい。けれど自分は鳥ではない。飛び去ることもできず、ただこの地に根を張るしかない。
(民は逃げられぬ。焼き払われ、踏みにじられても、生きねばならぬ)
義兄・一益の言葉が胸に甦る。
――「領主たる者、常日頃より民を愛せ」
視線の先、黒煙に霞む稜線の上で、陽は暮れかかっていた。
その赤々と燃える夕映えは、焼け跡を照らす炎にも似ていた。
だが忠三郎には、それがやがて芽吹く若松の色にも見えた。
民を愛する者は強く、愛さぬ者は弱い。
どれほどのそしりを受けようとも、この地とともに歩もう――。
忠三郎は胸の奥に、静かに決意を刻んだ。
綿向山は、その決意を抱きとめるように、夕闇の中に静かにたたずんでいた。
焼け跡に漂う灰の匂いを、夜風が静かにさらってゆく。
ふと空を仰ぐと、雲の切れ間から一条の光が山肌を照らした。
それは、滅びの中から甦る命を示すかのようであった。
忠三郎はその光を見つめながら、胸の内でそっと呟いた。
――民を愛する者は強く、愛さぬ者は弱い。
やがて風が止み、山々の稜線が夜に溶けていった。
その静けさの底に、百済寺の鐘の余韻が、かすかに響いたような気がした。
その後も滝川勢は北勢の攻略を順調に進め、やがて年の瀬を迎えた。
一益が年賀の挨拶のため岐阜の屋敷へ入ると、案の定、先に蒲生忠三郎が訪れていた。
「何ゆえに忠三郎殿が我が屋敷にお泊まりになるのじゃ」
風花が少し怒った様子で言う。風花は先月、女の子を出産したばかりだ。その姫は葉月と名付けられ、兄の八郎とともに岐阜の屋敷で暮らしている。
「そう申すな。丁度よいところじゃ。――義太夫、鶴を呼んでまいれ」
「ハハッ。御台様のお怒りも、尤もなことで…」
義太夫は笑いを堪えつつ、奥へと引き返していく。確かに、ここ数年、風花や八郎の顔よりも忠三郎の顔を見ている時間のほうが多い気もする。
やがて、
「義兄上、久方ぶりにございます」
そう言って現れた忠三郎は、ここ半年ほどで背丈が一段と伸びたように見えた。
「そう久方ぶりでもなかろう」
義太夫が笑いながらそう返す。
まもなく、侍女が現れ、温めた汁椀と、菓子の乗った小皿を静かに差し出した。
「これは……なんであろうか?」
小皿に盛られた見慣れぬ漬物をじっと見つめ、義太夫が訝しげに侍女へ尋ねる。その傍らで、忠三郎が思わず声を上げた。
「――桜漬じゃ」
「桜漬?」
義太夫が首をかしげると、忠三郎は少しばつが悪そうに視線を伏せ、口の端を引きつらせるようにして答えた。
「お爺様が、日野でこしらえておるもので…」
言葉を口にしながらも、忠三郎の表情には複雑な色が浮かんでいた。椀から立つ湯気がそっと顔を包む。視線をその向こうに逃がすその仕草に、居心地の悪さが滲んでいた。
どうやら、吹雪から送られてきたものを、風花が無言の皮肉を込めて出したのだろう。
(……風も、容赦がない)
一益は苦笑しながら、桜漬をひとつ箸でつまんだ。口に含むと、酸味のなかに、あの頑固な老人――快幹の顔がふと脳裏に浮かぶ。そして同時に、向かいに座る忠三郎の気まずそうな表情にちらりと目をやった。
視線に気づいた忠三郎は、ほんのわずかに目を伏せて箸を置いた。顔には出さぬつもりでも、耳のあたりがわずかに赤くなっているのが見えた。
「六角承禎は日野の傍におる」
淡々とした一益の言葉に、忠三郎は瞬時に顔を上げた。
「それは……まことで?」
杉谷一派は六角義賢とともにいる――そう睨んでいた。忠三郎自身もその線を追い、各地を探らせてはいたが、決め手となる情報には至っていなかった。
一益は湯をすすり、静かに続ける。
「北勢の国人と素破どもの報せによれば、六角義賢は日野の近辺に身を潜めておるようじゃ」
「…何処に?」
「日野の目と鼻の先に資金源があり、六角とともに潜んでおる。釈迦山百済寺と、その傍の鯰江城じゃ」
忠三郎は、思わず声を失った。
あの百済寺――幼き日、祖父に連れられて幾度も詣でた、静寂の山寺。
その寺が、反逆の巣と化しているというのか。
「百済寺は、上様が特別に寺領を安堵し、税を免除されたと……」
「そうよ。上様が初めてあの地に足を運んだときから、特別に扱われておった。寺域から見下ろす近江の景色がいたくお気に召したらしい。行くたびに天下を語っておられた」
一益は、懐かしむように微笑を浮かべた。
忠三郎は、肩の奥に冷たいものが差すのを感じた。百済寺と六角氏――確かに、それは古くからの繋がりだ。鎌倉の昔から、その縁は絶えていない。だとすれば――快幹の背後に、やはり六角義賢がいるのか。
「鯰江城の鯰江貞景が六角父子を迎え入れたのであろう」
忠三郎の顔色が変わる。
比叡山延暦寺の焼き討ち後、信長は湖南で六角義賢に味方した寺社を次々に焼き払ってきている。
「それが明るみに出れば……恩を仇で返したと、上様は烈火のごとくお怒りになろう」
忠三郎は怒り狂う信長の姿を脳裏に思い描き、口を噤んだ。
「北勢は火攻めで平らげよと言っておきながら、己が故郷を焦土にされるのは、やはり堪えられぬか」
責めるでもなくそう言われ、忠三郎は上目遣いに一益を見る。
「いかにも……あの戦の後、北勢より戻り、柴田殿、佐久間殿とともに湖南の寺をことごとく焼き払った」
忠三郎は茶碗の縁に視線を落とし、ひとり苦笑した。故国で焼き討ちを繰り返すことで自責の念に駆られているようだった。
「されど百済寺は延暦寺などとは比べようもなき真っ当な寺。幼き頃より幾度となく訪れた寺を焼くようなことは…」
その目は、「できぬ」と言っていた。百済寺は日野に近い。ここで火の手があがれば、日野に住む者たちは皆、それを目にする。由緒ある寺を焼き討ちしたとなれば、当然、世人の批判は必至だ。領国を治めていくことを考えると、今後、蒲生家はやりにくくなるだろう。
「百済寺が鯰江城に物資を渡しておる。止めさせなければ焼き討ちは免れまい」
一益がそう言うと、
「鯰江城はともかく、百済寺を咎めようにも、物資を渡していることが明るみにならねば、兵を向けるわけにはいきますまい」
「…であれば、どう動くつもりか」
「義兄上なら…。もし、三九郎がそこにいたら如何なさる所存で?」
義太夫が少し眉を上げた。
「斬って構わぬ。そのほうも、此度は重丸を仕留めよ」
一益の冷ややかな命に、忠三郎は目を逸らし、力なく笑った。できないだろうことは分かっている。
「鶴…上様の眼は、そう長くは誤魔化せぬぞ」
義太夫がそういうと、忠三郎はしばらく息をつめて考え、
「上様には鯰江城に六角承禎がいることをお伝えせねばなるまい」
その上で、百済寺に警告するしかない。一益は、
「やるだけのことをやってみよ。されど鶴、いかなる仕儀となっても民を愛する者は強く、民を愛さざる者は弱し。そのことを忘るるな」
そう言うものの、もちろん、全てを忠三郎に任せておくつもりはない。すでに百済寺には滝川藤九郎を送り込んでいる。
忠三郎は答えを持たぬまま、目の焦点を宙に彷徨わせ、ただ静かに頷いた。
岐阜からの帰途、一益は義太夫を呼び寄せた。
「義太夫、江南から峠を越え、北勢へ戻れ」
「…はっ。江南からでございますか?」
義太夫は首を傾げた。江南から峠を越えるとなれば、岐阜から伊勢に真っ直ぐ戻るよりも、道のりは長く、時間もかかる。
しかしすぐに察した。
「もしや、鶴とともに、鶴とともに百済寺へ?」
「然様。百済寺には藤九郎を遣わしてある。落ち合い、状況を見極めよ」
「承知つかまつる」
それ以上、言葉にはしなかった。これは、忠三郎を一人にしておけぬ、という心配からだろう。遠回りをさせてまでも、すぐ傍に人を置きたい――そういう思いが、言外に滲んでいた。
その夜、義太夫は皆から離れ、単騎、百済寺へと向かった。
風光明媚にして荘厳。宣教師が地上のパラダイスと称えた百済寺は、鈴鹿の山あいに隠れるように構えていた。
広大な境内には千にも及ぶ僧坊が立ち並び、僧侶のみならず、国衆の妻子や近隣の民たちも暮らしている。もはや寺院というより、ひとつの町、あるいは山間の小国といった趣きだ。
義太夫は山門の前に立ち、険しい山肌に抱かれた堂宇を仰ぎ見た。石段の先、深い木立に埋もれるようにして伽藍が沈む。
その奥から、ひとつ、鐘の音が鳴った。
冬の風がその響きを抱き、山の骨まで冷たくする。
百済寺――信長が特に庇護した古刹にして、かの六角承禎と縁深い寺。今、その静寂の奥に、火薬の匂いが紛れている。
義太夫は百済寺が見渡せる場所に狼煙をあげ、合図を送った。しばらくして、木陰から滝川藤九郎が姿を見せる。
「義太夫殿」
「どうじゃ?」
義太夫が問いかけると、藤九郎は周囲を一瞥し、声を潜めて答えた。
「やはり、兵糧が鯰江城へ運び出されております。日ごとに荷が出ておる」
「不味いのう。…で、甲賀衆は?」
「重丸の姿は確認いたしました。甲賀者どもも時折、山門の陰に現れます。恐らく、鯰江城からの出入りかと」
義太夫は思案深げに唸った。甲賀の素破がうろつくとなれば、むやみに寺内を探るのは危険だ。だが、この好機を逃すわけにもいかない。
「わかった。また使いをおくる。くれぐれも目立たぬように」
藤九郎と別れた義太夫は、身なりを整え、何食わぬ顔で忠三郎の一行に合流した。
表向きは蒲生家の一員として、百済寺の巡見に随行する形を取りながらも、義太夫は内心、ただの視察では済まぬことをよくわきまえていた。
忠三郎は寺に到着すると、何度か顔を合わせたことのある導師を呼び出し、静かに切り出した。
「ここより鯰江へ兵糧が運ばれているとの噂がある。もし、それが真実であれば……今すぐ止めねばならぬ。叡山のようになってからでは、遅い」
導師は一瞬、目を見開いたが、やがて静かに首を振った。
「忠三郎様もご存じの通り、六角のお館様とは百済寺創建の昔より深きご縁。お困りとあれば、力を尽くすは道理にござります」
――まさか、百済寺ほどの由緒ある寺が、延暦寺の二の舞になると本気で考えてはおるまい。
忠三郎は唇を引き結んだ。
「叡山のようになっても構わぬ、と申すか」
声に怒りが滲んだ。導師はその気配を悟ってか、気色ばむことなく、なおも静かに頭を下げた。
「この寺には、百年、千年の祈りが宿っております。争いの外にあるべき存在にございます」
一瞬、導師の声がかすかに揺れた。その瞳の奥に宿る影は、信仰を背負う者の強さではなく、現実の重圧に押しつぶされそうな人間の弱さだった。
「忠三郎様……この寺を護るには、もはや清浄の理《ことわり》だけでは叶いませぬ。理想と現の狭間にて、我らもまた…選ばねばなりませぬ」
それは導師なりの告白だった。多くの矛盾を背負いながら、それでもこの寺を守ろうとしている。
「それを守るために、敵へ兵糧を渡すか」
忠三郎の問いに、導師は静かに頭を下げたまま、答えなかった。否定も肯定もせず、ただその沈黙で、百済寺の今の立場を語っていた。
話は堂々巡りとなり、やがて導師が言葉を変えた。
「それよりも、お気づきとは存じまするが、こちらには、兄上が住まわれております」
「……重丸が?」
忠三郎はハッと顔を上げ、辺りを見回した。
「無事なのか?」
「はい。ここにて、静かにお過ごしです。どうか、このままに…お目通りは叶いませぬ」
「会わせてくれ。話がしたい」
だが、導師はやはり首を横に振った。
「いえ、それは叶いませぬ。……どうか、もうお引き取りを」
言外に、これ以上深入りすれば、百済寺も、重丸も危うくなる――そう諫めている。
忠三郎は、その場に立ち尽くしたまま、言葉を失った。
導師が一礼して去っていくと、忠三郎は義太夫の袖をとらえ、小声で問い詰めた。
「ここに重丸がおる。おぬし、存じておったな。何故、隠し立てした?」
義太夫は視線をそらさず、淡々と応じた。
「言うてどうなる。重丸を討つ気など、おぬしにはあるまい」
図星を突かれ、忠三郎は何も言い返せなかった。
沈黙ののち、忠三郎がそっと声を落とす。
「上様には……鯰江に六角承禎がおると報せた。浅井の動向を見て、間もなく兵を動かすおつもりじゃ」
「承知した。殿にお伝えしよう」
義太夫はうなずきかけて、忠三郎の目をのぞき込むように言った。
「それと――ここに三九郎殿も潜んでおるやもしれぬ」
一益の一子、滝川三九郎。甲賀攻めののち姿をくらまし、消息を絶っていた。
「そのことよ。杉谷衆もこの辺りに潜むという。此度はどう転ぶか……じゃがな、鶴、殿はそなたのことを案じておられる。わしには、そう思える」
「義兄上がわしを?」
「然様。おぬし、北勢ではあっさり火攻めを進言していた。だが今は違う。…領主たる者、君子の道を忘れてはならぬ」
「君子の道、か…」
忠三郎がつぶやくと、義太夫は力強く続けた。
「領主たるものは家臣を教え、常日頃から民を愛すべきじゃ。さすれば間者が領内を窺うことも難しくなり、民は領主の命に従い国は強うなる。領主がそれを心得ておれば、容易く戦さをしようとは思わぬ。まして領内で焼き討ちを行おうとは思わぬはず」
「それでも……義兄上は村も寺も、焼かれた」
「それゆえじゃ。おぬしが今、同じ思いをしておると知って、殿は案じておられる」
忠三郎は、義太夫の言葉を胸のうちで何度も反芻し、静かに頷いた。
風が一層冷たくなった。琵琶湖の湖面に、鈍い光がちらついている。もう夕暮れが近いのだ。
「存じておるか、義太夫。この寺は百済から渡ってきた僧が、方術によりこの地を選んで建てたという。あの比叡山のさらに向こう――あの彼方に、かつて百済という国があった」
その百済も九百年前に唐と新羅により攻め滅ぼされた。祖国を追われた渡来の僧は、失われた地を偲び、この山上に寺を開いた。
「…義太夫。この景色を、美しいと思わぬか」
忠三郎がそう言うと、義太夫はしばし、山門や雪に覆われた木々に目をやり、ふっと微笑んだ。
「美しい。……だからこそ、守りたい」
粉雪の積もる石段、静かに咲く寒椿。何もかもが、今にも戦火に呑まれそうに脆く見えた。忠三郎は寂しげに笑みを浮かべた。
「鶴、そのような顔をするな。ここへ来る途中、よいものを見つけたわい」
義太夫が、いたずらっ子のような顔で言う。忠三郎が片眉を上げて言い当てた。
「酒であろう?」
「然様! 百済寺で造っておるという、百済寺樽とかいう酒じゃ。都人も舌鼓を打つ名酒と聞く。我等もひとつ、ご相伴に預かろうではないか」
百済寺樽。忠三郎にとっては馴染みの深い酒であったが、義太夫のあまりに嬉しそうな様子に、つい笑いを洩らし、その背を追った。
四月、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀らの軍勢が、ついに鯰江城攻撃に動いた。蒲生賢秀と忠三郎も、柴田勝家に従って出陣していた。
「元より堅固な城だ。それに加え、我らの攻撃を見越して、城の改築まで行っておる。ここは兵糧攻めがよかろう」
軍議の席上、丹羽長秀が静かに口を開く。
「兵糧攻め……。それは…」
忠三郎が反応すると、父・賢秀が鋭く問いかけた。
「わしもそう考えたが、そなた、異論があるか?」
忠三郎は言葉に詰まった。
――百済寺から、密かに兵糧が鯰江城へ運ばれている。それを止めなければ、兵糧攻めなど意味をなさない。
(されど、ここでそれを口にすれば…)
百済寺の背信が信長の耳に入る。即座に焼き討ちの命が下るだろう。あの導師も、重丸も、寺に暮らす者たちも、無に帰す。
忠三郎が答えを探しあぐねているところへ、柴田勝家が慌ただしく帷幕の中へ飛び込んだ。
「一大事じゃ。上様が自ら出馬され、百済寺に本陣を置かれるとのこと!」
「百済寺に本陣を?」
忠三郎の顔から、見る間に血の気が引いた。
導師の穏やかな眼差しと、雪の庇に佇む兄の影が脳裏をよぎった。
信長が百済寺に入れば、全てが水泡に帰する。導師の言葉、重丸の存在、寺を包む静けさ――すべてが崩れる。
忠三郎は席を蹴って軍議の間を出ると、急ぎ自陣に戻り、滝川助太郎を呼んだ。
「如何なさりました?」
「上様が……百済寺に陣を敷かれると仰せじゃ。急ぎ北勢の義兄上に伝えてくれ!」
忠三郎の声音は震え、肩を掴む手に力がこもっていた。助太郎は一瞬面食らったが、すぐに事の重大さを悟った。
「…上様は、もう岐阜を発たれたのでは?」
「然様。だからこそ、急げ、急ぎ義兄上に――!」
取り乱した様子の忠三郎に、助太郎は思わず両腕を掴み返し、叱咤した。
「しっかりなされませ! いま伝令を飛ばしても、間に合いませぬ。これより先、江南を治めていくのは殿ではなく、忠三郎様ご自身でありましょう!」
他国を攻めるときには鬼神のごとく勇ましい忠三郎が、身内や領内のことになると、少年のように心を乱す――助太郎は内心不思議に思いながらも、静かに諭す。
「殿は、忠三郎様に何とお伝えになっておられましたか?」
「…領主たる者、常日頃より民を愛せ、と…」
忠三郎は、ふと目を伏せて考え込んだ。そして顔を上げると、きっぱりと命じた。
「百済寺の導師に、織田勢が寺に入る前に山を下りるよう伝えよ。北近江まで逃れれば、上様も追撃はなさらぬはずじゃ」
「ハハッ」
助太郎は力強くうなずき、駆け去っていった。
百済寺から鯰江城への兵糧輸送が露見し、激怒した信長の命により、四月十一日、百済寺の焼き討ちが断行された。
その数、千に及ぶ僧房、僧院すべてが灰燼に帰した。
鯰江城攻撃は中止され、信長は岐阜へ帰陣、諸将もそれぞれの領国へと戻っていった。
百済寺から立ちのぼる黒煙は、日野の町からもはっきりと見えた。
蒲生勢が日野へ戻ると、町の空気は出立前とは明らかに異なっていた。
「あの寺を焼いたのも、殿の差し金か」――そんな声が、風に紛れて聞こえた。
「若殿……民の目が、いささか冷たいように思われます」
町野左近が小声で告げる。
「爺、気にしすぎじゃ。疲れておるのだろう。城に戻ったら休め」
忠三郎は軽く笑って返したが、自らもその視線の重さを感じていた。
囁き交わされる声が、胸の奥をひっそりと刺す。
(――これでは、人心が離れる)
兵を先に帰すと、忠三郎はひとり馬を返し、若松の森へ向かった。
祖父・快幹が忠三郎の誕生を祝して植えた松の林。その参道は、馬見岡綿向神社に続き、かつて町衆が総出で祭礼を営んだという。幼き日の記憶を刻む森は、今も変わらずそこにあった。
(わしは、この地に生まれ、すべてを与えられたはずだった)
だが現実は、母の早逝、叔父の戦死、織田の侵攻、そして幾度となく命を狙う祖父。
倒錯する乱世を生き抜いてきたはずなのに、故郷の視線はいま、痛いほど冷たい。
忠三郎は松林を抜け、綿向山を仰いだ。
鈴鹿の峰々は、百済寺が焦土となっても、世が移ろいゆこうとも、ただ静かに連なり立っている。
その不動の姿に、思わず口をついて和歌が洩れた。
「世間を憂しと恥しと思へども
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」
憂き世を逃れたい。けれど自分は鳥ではない。飛び去ることもできず、ただこの地に根を張るしかない。
(民は逃げられぬ。焼き払われ、踏みにじられても、生きねばならぬ)
義兄・一益の言葉が胸に甦る。
――「領主たる者、常日頃より民を愛せ」
視線の先、黒煙に霞む稜線の上で、陽は暮れかかっていた。
その赤々と燃える夕映えは、焼け跡を照らす炎にも似ていた。
だが忠三郎には、それがやがて芽吹く若松の色にも見えた。
民を愛する者は強く、愛さぬ者は弱い。
どれほどのそしりを受けようとも、この地とともに歩もう――。
忠三郎は胸の奥に、静かに決意を刻んだ。
綿向山は、その決意を抱きとめるように、夕闇の中に静かにたたずんでいた。
焼け跡に漂う灰の匂いを、夜風が静かにさらってゆく。
ふと空を仰ぐと、雲の切れ間から一条の光が山肌を照らした。
それは、滅びの中から甦る命を示すかのようであった。
忠三郎はその光を見つめながら、胸の内でそっと呟いた。
――民を愛する者は強く、愛さぬ者は弱い。
やがて風が止み、山々の稜線が夜に溶けていった。
その静けさの底に、百済寺の鐘の余韻が、かすかに響いたような気がした。
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