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4 羅生門
4-1 羅生門
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滝川一益に任された尾張二郡、そして北勢の地は、長島を迂回するようにして次第に平定されつつあった。戦火で荒れた村々には、ようやく田植えの歌が戻りはじめている。
一益が桑名城に戻ると、蟹江城には、家老の義太夫が城代として据えられた。
「おお、義太夫殿もついに城持ち。祝着至極にござりまするな」
砦の庭先で、滝川助九郎がにこやかに言えば、義太夫も肩を揺らして笑った。
「いやいや、三日に一度は殿のもとへ顔を出さねばならぬでのう。何というても、わしは当家の一番家老じゃて。まこと落ち着かんわ」
伊勢湾に面した蟹江の湊からは、海路を使えば白子の湊にも容易に出られる。城と海が結ばれているこの地は、軍事にも流通にも好都合であった。
一益は城をひとつ落とすたび、焼け落ちた町を復旧させ、家臣を城代に任じて国人たちの所領を安堵し、また次の地へと進んでいった。着実な歩みに、尾張・北勢の風は日々静けさを取り戻していく。
そうした折、一益が神戸城近くまで兵を進めたところで、どこか待ち構えていたように使者が現れた。
「神戸三七郎殿の使者、まかり越しました」
使者の報せに、一益は手元の書状から目を離し、すぐ傍に控えていた義太夫へと目をやった。
「三七殿の使者? 誰が参った?」
「岡本下野守にござります」
義太夫は答えながら、苦笑した。
「……老骨を動かしたか。面倒な話であろう」
岡本下野守は三七郎が養子となって神戸家にきたときに補佐役として送り込まれた老臣だ。
老臣を使いによこしたということは、面倒な話だろう。
「神戸蔵人のことでは?」
信長は先年、神戸蔵人を無理やり隠居させて三七郎に家督を継がせようとしている。その手始めに蔵人を沢城に押し込めた。それ以来、譜代の家臣団との不仲が噂されている。
神戸家は伊勢北部の名家でありながら、内紛が絶えず、領内の統治も安定していなかった。伊勢平定を進める上でこの神戸家を織田方に組み込むことは急務だった。一益はその混乱を鎮めるため、信長に進言し、第三子・三七郎を神戸家の養子として送り込ませた。
だが、この養子縁組は家中に火種を残すことになった。蔵人を始めとする神戸家の譜代家臣たちは、信長の意向に逆らえぬまま従ったが、内心は到底納得していなかった。三七郎を迎えた当初から、彼らはことあるごとに若き養子を軽んじ、家中の風通しは悪くなる一方だった。
広間に行くと案の定、
「おお、左近殿。織田家でも大身のそこもとに是非とも力添えいただきたく、まかり越してござる」
顔を見るなり切り出してきた。これは益々、嫌な流れだ。
「老臣の岡本殿がわざわざ参られるとは、どういった用向きであろうか」
「されば、これは上様からの命であるが…」
初めに信長の命令だと言う。余程、面倒な問題だろう。
「蔵人殿のことじゃ」
やはりそうか、と黙っていると、岡本下野守が事の次第を話し出した。
信長に強引に養子を押し付けられた蔵人は、憤懣やるかたなく、なんとか家督を奪い返そうと各所に文書を送っている。
その中で、特に神戸蔵人に肩入れしているのが、神戸家の本家にあたる関家の関盛信だ。神戸蔵人は関盛信の三男・勝蔵を養子に迎え、家督を継がそうと働きかけているという。
関家もまた織田家に従属してはいるが、伊勢中部には古くからの名門・国府、峯、鹿伏兎、稲生といった諸家が点在しており、いずれも神戸・関両家と姻戚関係にある。下手に神戸家が動けば、それに引きずられる形で中勢がごっそり織田に背く可能性がある。
「神戸家が崩れれば、中勢の者どもが瓦解しかねない」
神戸、関、どちらも蒲生忠三郎の叔父にあたるため、簡単に始末するわけにもいかない。かといって、うかつに手を打てば、連鎖的な反発を招く。
(思った以上に、嫌な流れだ)
とは思ったが、元々、伊勢平定のために三七郎を神戸家の養子にすることを進言したのは一益である。今さら顔を背けることなどできはしない。
「わしに二名を斬れと?」
一益の声が低くなる。だが岡本下野守はすぐに首を振った。
「いやいや、それでは家中が乱れる。そうではなく、二名の身柄を抑え、蒲生殿の居城に幽閉せよとの上様の仰せじゃ」
「幽閉…忠三郎のところへ?」
近江日野――信長の娘婿である忠三郎の城へ送るということだ。つまりは伊勢から引き離せという策。
(自ら進言しておきながら、この始末を引き受けねばならぬとは――)
ただでさえ神経質な神戸家家臣団の前で、蔵人と関勝蔵を拘束するとなれば、それこそ一触即発。斬るより難しい。
(どこまで我らに火消しをさせるつもりか)
さすがに無茶な話で、一益は思わず笑った。
神戸家の内紛は、三七郎を押し込んだことで表面化した。が、当の三七郎は家督を継いだ後も内政には関わらず、旧臣たちの懐柔もせぬまま、一益と蒲生忠三郎に後始末を押しつけている。
「忠三郎にその話は」
「すでに上様から密書が届いておるはずでござる」
(ならば、あちらも今頃、頭を抱えておるか)
「相分かった。三七殿には、滝川左近がお引き受けしたとお伝えあれ」
「二つ返事とは流石は左近殿。これで神戸家も安泰じゃ」
信長の命令である以上、断れる道理はない。岡本下野守は満足げに礼を述べ、早々に帰っていった。
義太夫がやれやれとため息をついた。
「鶴の次は三七殿でござりまするか。上様はお命じになるばかりで、後始末はいつも我らにお任せで…」
「容易いことではない。日野の助太郎に知らせよ。鶴と信楽院で落ち合う」
早めに動いた方がいい。ぐずぐずしていれば、神戸家で血が流れるかもしれぬ。
(さて、次はどんな手を打つか…)
「ハハッ。我らは殿のお掃除奉行。海なり山なり、どこへでも参りまする!」
義太夫がおどけたように言うと、一益は口元を緩めた。
***
信楽院に入ると、一本松の前に蒲生忠三郎がしゃがみ込んでいた。さながら畑の様子を見る農夫のような、無心な背中。
その松は、蒲生家十四代当主・蒲生貞秀が自ら植え、墓所に定めたという。
「貞秀公はご自身でここを墓所に決め、辞世の句を詠まれたとか」
気配に気づいた忠三郎が、草むらから顔を上げるようにゆっくりと振り返り、にこりと笑った。
「引うべし 松の下はに 世をへれば 千とせの後の 人もたつねむ」
――千年の後も、人はここを訪れるだろう。
忠三郎は立ち上がり、土を払って、常の穏やかな笑みを向けた。
「千年ならずとも、百年先でも、誰かが思い起こしてくれるのであれば、それは喜ばしいことにて」
本気でそう思っているのだろう。のどかで、どこか浮世離れした言葉。
蒲生家は、この日野の地に六百年も根を張っている。蒲生貞秀が十四代目。血と地に守られた一門だからこそ、時間の流れを悠々と捉える。
――戦《いくさ》の場では獅子もかくやという武辺者だが、こうしているとまるで寺男のようだ。
一益には、とうてい真似のできぬ感覚だった。自分は、明日をどう乗り切るかを考えて生きてきた。
「さて、如何いたしましょう」
忠三郎ののんびりとした声に、一益は思わず息を吐いた。
「関盛信はともかく、神戸蔵人は隠居じゃ。呼び出す口実がない」
しかも、どちらか一方を先に拘束すれば、もう一方は必ず警戒して動かなくなる。狙うなら、同時に手を打つしかない。
「兵をあげれば伊勢がまた戦乱となる。義兄上は常より、百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして兵を屈するは善の善なる者なり、と仰せではありませぬか。ここは平和裏に事を運ばねばなりますまい」
一益は半ば呆れ、半ば感心しながら聞き返した。
「平和裏に…例えばどのような?」
「歌会を開くというのは?」
あまりに唐突な提案に、一瞬間が空く。
次の瞬間、義太夫が腹を抱えて笑い出した。
「鶴ならばともかく、殿が歌会を開くとなどと言えば、余計に怪しまれてしまうわい!」
笑いすぎなきらいはあるが、確かにもっともな話ではある。
忠三郎は腕を組み、少し考え込んだ。そしてぽつりと、
「では…猿楽では?ちょうど今年は元号が改まり都では祝言猿楽も演じられる。伊勢でも猿楽師を呼び、興行を行っては?」
その言葉に、今度は義太夫がポンと手を打った。
「それは妙案! 殿が戦ばかりの阿呆と思うている北勢の諸将も招き集めれば、文武に優れた知将と内外に知らしめる機会ともなりましょう」
ところどころ耳を塞ぎたくなる言い回しではあったが、案そのものは悪くない。
「猿楽師はそれがしが手配いたしましょう」
忠三郎は水を得た魚のように目を輝かせた。
「ではわしは猿楽舞台を用意いたしまする」
義太夫もまた張り切っている。
「よかろう。その方らで手筈を整えよ」
謀を表立って進めるのは本意ではない。しかし、今回ばかりは他に妙案もなく、なにより忠三郎と義太夫がすっかり乗り気になってしまった以上――。
一益は静かに目を閉じた。
(さて、猿楽の舞台が、戦の火種を鎮めることができるかどうか…)
猿楽の舞台が整えられてゆく。屋外に仮設の高座が組まれ、柱と橋掛りには松の枝がしつらえられた。
舞囃子のために笛や小鼓を運び入れる者たちの声が響く。
町人や武士らが詰めかけ、城下はひとときの華やぎに包まれていた。
だが、義太夫はその賑わいの裏に、妙な胸騒ぎを覚えていた。
面箱を運んできた義太夫が、鬼神の面に指をかけた刹那、ふと動きを止める。縁に刻まれた浅い疵に目が留まり、指先がわずかに震えた。
「……いや、何でもない」
すぐに蓋を戻したが、その顔にだけ笑みはなく、指の震えだけが、なお収まらなかった。
忠三郎は装束を整え、鏡板の松の前に立つ。
戦場では猛将と謳われた忠三郎だが、今はその表情もどこか浮ついて見える。
「装束は近江から送らせました。猿楽の舞台など久方ぶりで、少々浮かれておりまする」
と笑う忠三郎に、一益は苦笑をもらした。
「浮かれるのは勝ってからにしてもらいたいが」
「これは戦ではなく、舞台でございますから」
忠三郎はにこりと笑った。
しかし、その舞台を戦に変える算段が、静かに進んでいた。
祭りの支度が終わり、城下は一夜の静けさを迎えた。
七月二十八日――
元号が改まり、元亀から天正へと定められた。都では祝言猿楽が催され、戦塵もようやく収まりかけた空気が漂っている。
その空気を逃さず、一益は桑名城の庭に特設の猿楽舞台を設けた。
鼓が試しに打たれ、笛の音が細く立ちのぼる。その音に、空気が一段張りつめた。
陽は傾き、庭の松影が舞台を二つに分けている。
白布を張った仮設の橋掛りを、楽師らが静かに渡っていった。
祝宴のはずが、どこか張りつめた空気が漂う――。
義太夫は扇を開きながら、ちらと舞台袖を見やる。
その指がかすかに震えていた。
(……胸騒ぎか。いや、気のせいであろう)
忠三郎が言い出した「猿楽で人を呼び寄せる」策がここまでの規模になるとは、一益自身、予想していなかった。
城中では装束を背に抱えた楽師たちが行き交う。
本来の目的は、神戸家の旧当主神戸蔵人とその後ろ盾である関盛信を一堂に呼び出し、同時に拘束することにあった。
だが今や、北伊勢の諸将に加え、信長の次男・北畠三介までが家臣を連れて桑名入りしている。
「かように人が集まる前で、神戸蔵人と関盛信を捕えるのか…」
一益は城門の外に並ぶ馬列と輿を見下ろし、深く息を吐いた。
忠三郎と義太夫の案は、「演目の途中で、両人を控えの間に誘い、そのまま近江へ護送する」。
表向きは歓待、裏では拘束――綱渡りの策であった。
信長の命を受けて三七郎を神戸家に押し込んだのは自分。ならば、後始末も自らの責である。
(……思った以上に、大ごとになってきた)
裃の重みが、今日はことさら重く感じられる。
「では、いよいよ開始じゃな」
一益は手を差し伸べ、舞台へと視線を移した。
舞台の開幕を告げる太鼓の音が響き、演者たちの動きが始まる。
観客の息がぴたりと止まった。
やがて、最後の五番目――「切の物」が始まる。
切りの物は祝言の終幕を飾る荒事。観客が最も息を詰める場面――その緊張の最中に、二人を捕える段取りであった。
「そんなことでうまくいくのか?」
一益が眉をひそめると、
「演目次第かと」
義太夫が軽く言い、忠三郎が顎に手を当てて考え込む。
「シテとワキが刀を抜くことができればよい。例えば…羅生門…」
羅生門――
都の怪異、鬼神との戦いを描く荒事。
前半では頼光と家臣たちが酒宴の場で鬼の噂を語り、後半では家臣・渡辺綱が鬼神と相まみえる。
「美丈夫という評判の綱なれば――これはもう鶴でしょうな」
「シテは?」
一益が問い返すや、義太夫はすぐさま、
「皆が震え上がるような、得体の知れぬ恐ろしい魑魅魍魎。これはもう、殿以外におりませぬ」
忠三郎が肩を揺らして笑いをこらえる。
一益は額を押さえた。
義太夫はさらに調子づいて続ける。
「締めくくりには、やはり当家の主たる殿が登場されるのが自然にございます」
もはや、芝居なのか策略なのか分からない。
(まことに、斯様なことでうまくいくのか……)
舞台裏では太鼓が響きはじめ、出番がじわじわと近づいてくる――。
その時だった。
「殿――神戸蔵人と関盛信が、なにやら気づいた様子。席を立ちました」
報せに、一益の表情が険しくなる。
「何。気づかれたか」
義太夫と助太郎が顔を見合わせ、ほぼ同時に立ち上がった。
「捕えましょう。まだ間に合うはず」
義太夫が駆け出す。忠三郎も短く言って後を追った。
一益は舞台のほうに目をやる。出番が、まもなく始まる。
ほどなく三人が戻ってきた。何事もなかったかのような顔――。
(手際がよい……早、捕えたか)
やがて「羅生門」の幕が上がる。開演を告げる太鼓の音が鳴り響いた。
その太鼓を叩いているのは町野左近。
一益は静かに面をつけた。
装束の内に熱がこもり、視界が一気に狭まる。面越しでは他の者の表情も見えない。
ただ、皆が同じように面をつけている気配だけが、肌を伝って感じられた。
(……皆、面をつけているのか)
「是は源の頼光とは我が事なり――」
響いたのは頼光役、義太夫の声だ。こうした芸事にかけては、一益よりもはるかに長けている。
地謡が重なった。
「つはものの交わり 頼みあろ中の 酒宴かな……」
この一節は、かつての酒宴でもよく謡われた。
一益の脳裏に、酒と笑いの記憶がふっとよみがえる。
「一つは君の御ためなれば。標をたべと申しけり……」
渡辺綱の謡だ。これは忠三郎に違いない。
(声が……常とは異なる)
面のせいか、緊張のせいか。どこか上ずって聞こえる。
しかし観客は気づかず、食い入るように舞台を見つめている。
松明の火が揺れ、光と影が舞台の柱を交互に照らす。
――そして、鬼神の登場。
「その時、馬を乗り離し……」
地謡が続き、綱が静かに前へと進み出た。
「羅生門の石段にあがり……」
その背後から鬼神が追う。
「標の札を取り出だし、段上に立て置き帰らんとするに……」
本来ここで、鬼神は兜の錣を掴み取るはずだった。
(……何をしておる、鶴)
軽く引いたが、兜は動かない。手筈が狂っている。
次の瞬間、綱が唐突に振り返った。
太刀を抜き、振りぬく。
「はや鬼神と太刀抜き持って――」
咄嗟に身を引いた一益の袖口が裂けた。布が宙を舞い、観客席がざわめく。
(危なかった……真剣を使う話は戯れと思っていたが)
「取りたる兜の緒をひきちぎって――」
綱はまだ兜を被っている。地謡は容赦なく先へ進み、動きと詞章がずれはじめた。
「かくて鬼神は怒りをなして――」
観客の息づかいが変わる。
一益は仕方なく太刀の峰で綱の足を払う。
綱が転倒、片膝をついた瞬間、鬼神の手が兜を強引に引き剥がした。
だが、綱は跳ね起きた。
太刀を振るい、鬼神の足元に斬りつけてくる。
刃筋は真剣そのもの――戯れではない。
「おのれ、王威をおかす不届き者!」
地声の怒号。もはや演技ではなかった。
(おのれ?)
一益は後ずさる。面の向こうの顔は見えぬが、殺気が肌を刺す。
観客席は「見事だ」「迫真だ」と囁き合い、誰も異変を悟っていない。
(何かおかしい)
「遁るまじとてかかりければ――」
綱の太刀が閃く。
(やむなし)
「飛び違いちょうど斬る――」
一益は猿楽面を剥ぎ取り、体をひねってかわした。
そのまま綱の背後へ回り込み、舞台を滑るようにして飛び降りる。
会場にざわめきが走る。
「これも演出か」
観客の声が上がる。
(鶴ではない……)
動きも気配も、忠三郎ではない。
「切られて組みつくを、払う剣に腕打ち落され……」
地謡の津田秀重が困惑の面持ちで、一益と綱の間を見比べていた。
舞と謡が、完全に噛み合わなくなっていた。
「虚空をさしてあがりけるを…」
そこへ、渡辺綱が面をつけたまま、舞台から飛び降りる。
さらに、舞台上にいた演者たちまでもが、次々と太刀を抜いて一益を追い始めた。
ざわめきが悲鳴に変わる。
(皆、刺客か)
一益は口元を引き結ぶ。
装束の下に忍ばせていたのは脇差一本。鎧もなければ、助勢もいない。
目の前に広がるのは、祝賀の猿楽舞台ではない。血と謀が交差する、生きるか死ぬかの戦場だ。
一益は脇差を抜くと、ためらわず渡辺綱へ向けて投げつけた。
刃がうなる。咄嗟に身をよじった綱は、寸でのところでかわすが、足元が乱れて転倒する。
脇差はその背後にいた刺客の脇腹へ突き刺さった。
一益はその隙を見逃さず、丸腰では分が悪いと判断して踵を返す。
だが、猿楽装束の裾が邪魔で思うように走れない。
「殿!」
義太夫の声が響き、空を切って太刀が投げられた。一益は飛ぶようにしてそれを受け取り、鞘を払い抜く。
「何奴!」
振り向きざまに一喝すると、渡辺綱が面を剥がした。
面を外した綱の顔があらわになる。若い――だが、目に宿る光は獣のようだ。義太夫が血の気を失ったように呟く。
義太夫に続き、滝川助太郎、木全彦一郎が駆けつけてくる。
「神戸蔵人と関盛信は如何いたした?」
「二人とも、無事捕えておりまする!」
義太夫がそう答えながら、ふと間者の顔を見て、息を呑んだ。
「なんじゃ、義太夫」
義太夫が一歩、たじろいで後ずさる。
一益も改めてその顔を見たが、やはり見覚えはない。
――先刻、面箱の蓋に手が止まったのは、この気配を嗅いだからか。
あり得ぬはずの名が、喉の奥で音もなく形を成す。
間者は無言のまま、一益を睨み据える。
その若い顔に浮かぶのは、怒りか、恨みか、それとも覚悟か。
刹那、足を開いて構えをとると、刀をぐっと握り直した。
次々に家来たちが駆けつけてくるのが目に入ると、男はふっと構えを解いた。そしてくるりと身を翻し、走り出した。
「追え!逃がすな!」
呼応するように、家来たちが一斉に駆け出す。
猿楽装束をまとう一団の中で、刀の煌めきが次々に火花を散らす。斬り合いが始まった。
「殿!」
滝川助太郎が火縄を火皿に押し当て、銃を掲げた。
この距離なら、まず外すことはない。助太郎は銃を一益に手渡す。
一益は銃を構えた。狙いを定めたその先、男の背を追いながら、何かが胸をよぎった。
――あれは、風花が八郎を抱いたときの、あの肩の線に似ている。
その時、向こうから駆け込んでくる忠三郎の姿が目に映る。
「義兄上、ご無事か!」
間者がそれに気づいて振り返り、忠三郎に矛先を向けた。忠三郎はあわてて腰の刀を引き抜く。視線が交錯する。
「殿、お待ちを。あの間者は…」
義太夫が血の気を失ったようにつぶやく。だが、一益はもう引き金に指をかけていた。
「何じゃ、義太夫。早う言え!」
義太夫は言葉を失ったまま、口をぱくぱくと動かした。
そして、絞り出すように声を漏らした。
「……三九郎様でござりまする」
引き金にかけた指が、かすかに止まる。
一益の中で、何かがはじける音がした。
(三九郎……?)
だが、その刹那、男は忠三郎に斬りかかろうとしていた。
一瞬の迷いを断ち切り、一益は火蓋を切った。銃声が轟き、三九郎がよろめく。白布を張った舞台に、紅い点が滲んだ。
倒れはしない。まだ立っている。だが、一歩、二歩とふらつき、膝が折れる。
一益が駆け寄ろうとしたその時――。
辺り一面に白煙が広がった。
白く濁った靄が、猿楽舞台を呑み込むように立ちこめ、たちまち人の姿を曖昧にした。庭に集った客らのざわめきが波のように揺れる。
(鳥の子か…)
「義太夫。間者を取り押さえよ」
「ハッ」
義太夫は裾をさばいて霧の中へと踏み出し、手をかざして煙をかき分けていく。その姿もすぐに霞の向こうに消えていった。
やがて、風に押されるように霧が流れ、次第にあたりの景色が姿を取り戻し始める。舞台の縁先には血痕が点々と残されていたが、三九郎の姿も、他の間者たちの影も、もはやどこにもなかった。
「鶴、大事ないか」
一益が声をかけると、忠三郎はいつもの穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと刀を鞘に収めた。
「危ないところでございました。流石は義兄上。柱に開けた穴から鉄砲の弾を通すほどの腕前とはまことでござりまする」
一益は無言で小さく頷き、血の跡を目で追う。
(動いていたが――左肩だ。致命傷ではあるまい)
「殿!三介殿、三七殿がお待ちでござりまする」
津田秀重が猿楽舞台の脇から駆け寄ってきた。
一益は、再び舞台の方を振り返った。さきほどまで剣戟の火花が散っていた場所には、何事もなかったかのように蝉が鳴いている。風が吹き抜け、庭木がそよいだ。
「左近、忠三郎!天晴じゃ!」
北畠三介が、興奮を隠しきれぬ様子で声をかけてきた。一益と忠三郎がそろって一礼すると、三介は一歩進み出て、心底感動したように言った。
「二人とも猿楽師に勝るとも劣らぬ演技よ。鬼気迫るとはこのことじゃ!」
一益は、少し目を伏せた。
(……芝居に見えたか)
先ほどの騒動も、一益と三九郎の激しい立ち回りも、全て芝居の一部と思われているようだった。
「ハッ、ありがたきお言葉…」
忠三郎も神妙な顔つきになって頭を下げる。
「次は岐阜の父上の前で演じてくれ」
一益が言葉を返せずにいると、場をまるく収めるように忠三郎が楽しげに声をあげた。
「ハハッ!委細承知!」
あまりにも明るい返事に、三介はますます喜色満面になった。その様子に、一益はふと微笑みを漏らした。
庭に残されたのは、ほんのりと残る煙の匂いと、地ににじむ血痕だけだった。
一益はそれを見つめたまま、しばし動かなかった。
ふと、隣に立つ忠三郎がぽつりと洩らす。
「芝居としておくがよろしいかと。誰の心にも、残らぬように」
その言葉に、一益は頷いた。だが、胸中に残っていたのは煙と血の匂いだった。
(芝居ではない。わしは確かに、我が子を撃ったのだ)
夕暮れの光の中、庭に長く伸びる影が、なお揺れていた。その実感は、胸の奥で冷たく結晶した。
漂っていたのは、なお消えぬ煙の匂いだった。
一益が桑名城に戻ると、蟹江城には、家老の義太夫が城代として据えられた。
「おお、義太夫殿もついに城持ち。祝着至極にござりまするな」
砦の庭先で、滝川助九郎がにこやかに言えば、義太夫も肩を揺らして笑った。
「いやいや、三日に一度は殿のもとへ顔を出さねばならぬでのう。何というても、わしは当家の一番家老じゃて。まこと落ち着かんわ」
伊勢湾に面した蟹江の湊からは、海路を使えば白子の湊にも容易に出られる。城と海が結ばれているこの地は、軍事にも流通にも好都合であった。
一益は城をひとつ落とすたび、焼け落ちた町を復旧させ、家臣を城代に任じて国人たちの所領を安堵し、また次の地へと進んでいった。着実な歩みに、尾張・北勢の風は日々静けさを取り戻していく。
そうした折、一益が神戸城近くまで兵を進めたところで、どこか待ち構えていたように使者が現れた。
「神戸三七郎殿の使者、まかり越しました」
使者の報せに、一益は手元の書状から目を離し、すぐ傍に控えていた義太夫へと目をやった。
「三七殿の使者? 誰が参った?」
「岡本下野守にござります」
義太夫は答えながら、苦笑した。
「……老骨を動かしたか。面倒な話であろう」
岡本下野守は三七郎が養子となって神戸家にきたときに補佐役として送り込まれた老臣だ。
老臣を使いによこしたということは、面倒な話だろう。
「神戸蔵人のことでは?」
信長は先年、神戸蔵人を無理やり隠居させて三七郎に家督を継がせようとしている。その手始めに蔵人を沢城に押し込めた。それ以来、譜代の家臣団との不仲が噂されている。
神戸家は伊勢北部の名家でありながら、内紛が絶えず、領内の統治も安定していなかった。伊勢平定を進める上でこの神戸家を織田方に組み込むことは急務だった。一益はその混乱を鎮めるため、信長に進言し、第三子・三七郎を神戸家の養子として送り込ませた。
だが、この養子縁組は家中に火種を残すことになった。蔵人を始めとする神戸家の譜代家臣たちは、信長の意向に逆らえぬまま従ったが、内心は到底納得していなかった。三七郎を迎えた当初から、彼らはことあるごとに若き養子を軽んじ、家中の風通しは悪くなる一方だった。
広間に行くと案の定、
「おお、左近殿。織田家でも大身のそこもとに是非とも力添えいただきたく、まかり越してござる」
顔を見るなり切り出してきた。これは益々、嫌な流れだ。
「老臣の岡本殿がわざわざ参られるとは、どういった用向きであろうか」
「されば、これは上様からの命であるが…」
初めに信長の命令だと言う。余程、面倒な問題だろう。
「蔵人殿のことじゃ」
やはりそうか、と黙っていると、岡本下野守が事の次第を話し出した。
信長に強引に養子を押し付けられた蔵人は、憤懣やるかたなく、なんとか家督を奪い返そうと各所に文書を送っている。
その中で、特に神戸蔵人に肩入れしているのが、神戸家の本家にあたる関家の関盛信だ。神戸蔵人は関盛信の三男・勝蔵を養子に迎え、家督を継がそうと働きかけているという。
関家もまた織田家に従属してはいるが、伊勢中部には古くからの名門・国府、峯、鹿伏兎、稲生といった諸家が点在しており、いずれも神戸・関両家と姻戚関係にある。下手に神戸家が動けば、それに引きずられる形で中勢がごっそり織田に背く可能性がある。
「神戸家が崩れれば、中勢の者どもが瓦解しかねない」
神戸、関、どちらも蒲生忠三郎の叔父にあたるため、簡単に始末するわけにもいかない。かといって、うかつに手を打てば、連鎖的な反発を招く。
(思った以上に、嫌な流れだ)
とは思ったが、元々、伊勢平定のために三七郎を神戸家の養子にすることを進言したのは一益である。今さら顔を背けることなどできはしない。
「わしに二名を斬れと?」
一益の声が低くなる。だが岡本下野守はすぐに首を振った。
「いやいや、それでは家中が乱れる。そうではなく、二名の身柄を抑え、蒲生殿の居城に幽閉せよとの上様の仰せじゃ」
「幽閉…忠三郎のところへ?」
近江日野――信長の娘婿である忠三郎の城へ送るということだ。つまりは伊勢から引き離せという策。
(自ら進言しておきながら、この始末を引き受けねばならぬとは――)
ただでさえ神経質な神戸家家臣団の前で、蔵人と関勝蔵を拘束するとなれば、それこそ一触即発。斬るより難しい。
(どこまで我らに火消しをさせるつもりか)
さすがに無茶な話で、一益は思わず笑った。
神戸家の内紛は、三七郎を押し込んだことで表面化した。が、当の三七郎は家督を継いだ後も内政には関わらず、旧臣たちの懐柔もせぬまま、一益と蒲生忠三郎に後始末を押しつけている。
「忠三郎にその話は」
「すでに上様から密書が届いておるはずでござる」
(ならば、あちらも今頃、頭を抱えておるか)
「相分かった。三七殿には、滝川左近がお引き受けしたとお伝えあれ」
「二つ返事とは流石は左近殿。これで神戸家も安泰じゃ」
信長の命令である以上、断れる道理はない。岡本下野守は満足げに礼を述べ、早々に帰っていった。
義太夫がやれやれとため息をついた。
「鶴の次は三七殿でござりまするか。上様はお命じになるばかりで、後始末はいつも我らにお任せで…」
「容易いことではない。日野の助太郎に知らせよ。鶴と信楽院で落ち合う」
早めに動いた方がいい。ぐずぐずしていれば、神戸家で血が流れるかもしれぬ。
(さて、次はどんな手を打つか…)
「ハハッ。我らは殿のお掃除奉行。海なり山なり、どこへでも参りまする!」
義太夫がおどけたように言うと、一益は口元を緩めた。
***
信楽院に入ると、一本松の前に蒲生忠三郎がしゃがみ込んでいた。さながら畑の様子を見る農夫のような、無心な背中。
その松は、蒲生家十四代当主・蒲生貞秀が自ら植え、墓所に定めたという。
「貞秀公はご自身でここを墓所に決め、辞世の句を詠まれたとか」
気配に気づいた忠三郎が、草むらから顔を上げるようにゆっくりと振り返り、にこりと笑った。
「引うべし 松の下はに 世をへれば 千とせの後の 人もたつねむ」
――千年の後も、人はここを訪れるだろう。
忠三郎は立ち上がり、土を払って、常の穏やかな笑みを向けた。
「千年ならずとも、百年先でも、誰かが思い起こしてくれるのであれば、それは喜ばしいことにて」
本気でそう思っているのだろう。のどかで、どこか浮世離れした言葉。
蒲生家は、この日野の地に六百年も根を張っている。蒲生貞秀が十四代目。血と地に守られた一門だからこそ、時間の流れを悠々と捉える。
――戦《いくさ》の場では獅子もかくやという武辺者だが、こうしているとまるで寺男のようだ。
一益には、とうてい真似のできぬ感覚だった。自分は、明日をどう乗り切るかを考えて生きてきた。
「さて、如何いたしましょう」
忠三郎ののんびりとした声に、一益は思わず息を吐いた。
「関盛信はともかく、神戸蔵人は隠居じゃ。呼び出す口実がない」
しかも、どちらか一方を先に拘束すれば、もう一方は必ず警戒して動かなくなる。狙うなら、同時に手を打つしかない。
「兵をあげれば伊勢がまた戦乱となる。義兄上は常より、百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして兵を屈するは善の善なる者なり、と仰せではありませぬか。ここは平和裏に事を運ばねばなりますまい」
一益は半ば呆れ、半ば感心しながら聞き返した。
「平和裏に…例えばどのような?」
「歌会を開くというのは?」
あまりに唐突な提案に、一瞬間が空く。
次の瞬間、義太夫が腹を抱えて笑い出した。
「鶴ならばともかく、殿が歌会を開くとなどと言えば、余計に怪しまれてしまうわい!」
笑いすぎなきらいはあるが、確かにもっともな話ではある。
忠三郎は腕を組み、少し考え込んだ。そしてぽつりと、
「では…猿楽では?ちょうど今年は元号が改まり都では祝言猿楽も演じられる。伊勢でも猿楽師を呼び、興行を行っては?」
その言葉に、今度は義太夫がポンと手を打った。
「それは妙案! 殿が戦ばかりの阿呆と思うている北勢の諸将も招き集めれば、文武に優れた知将と内外に知らしめる機会ともなりましょう」
ところどころ耳を塞ぎたくなる言い回しではあったが、案そのものは悪くない。
「猿楽師はそれがしが手配いたしましょう」
忠三郎は水を得た魚のように目を輝かせた。
「ではわしは猿楽舞台を用意いたしまする」
義太夫もまた張り切っている。
「よかろう。その方らで手筈を整えよ」
謀を表立って進めるのは本意ではない。しかし、今回ばかりは他に妙案もなく、なにより忠三郎と義太夫がすっかり乗り気になってしまった以上――。
一益は静かに目を閉じた。
(さて、猿楽の舞台が、戦の火種を鎮めることができるかどうか…)
猿楽の舞台が整えられてゆく。屋外に仮設の高座が組まれ、柱と橋掛りには松の枝がしつらえられた。
舞囃子のために笛や小鼓を運び入れる者たちの声が響く。
町人や武士らが詰めかけ、城下はひとときの華やぎに包まれていた。
だが、義太夫はその賑わいの裏に、妙な胸騒ぎを覚えていた。
面箱を運んできた義太夫が、鬼神の面に指をかけた刹那、ふと動きを止める。縁に刻まれた浅い疵に目が留まり、指先がわずかに震えた。
「……いや、何でもない」
すぐに蓋を戻したが、その顔にだけ笑みはなく、指の震えだけが、なお収まらなかった。
忠三郎は装束を整え、鏡板の松の前に立つ。
戦場では猛将と謳われた忠三郎だが、今はその表情もどこか浮ついて見える。
「装束は近江から送らせました。猿楽の舞台など久方ぶりで、少々浮かれておりまする」
と笑う忠三郎に、一益は苦笑をもらした。
「浮かれるのは勝ってからにしてもらいたいが」
「これは戦ではなく、舞台でございますから」
忠三郎はにこりと笑った。
しかし、その舞台を戦に変える算段が、静かに進んでいた。
祭りの支度が終わり、城下は一夜の静けさを迎えた。
七月二十八日――
元号が改まり、元亀から天正へと定められた。都では祝言猿楽が催され、戦塵もようやく収まりかけた空気が漂っている。
その空気を逃さず、一益は桑名城の庭に特設の猿楽舞台を設けた。
鼓が試しに打たれ、笛の音が細く立ちのぼる。その音に、空気が一段張りつめた。
陽は傾き、庭の松影が舞台を二つに分けている。
白布を張った仮設の橋掛りを、楽師らが静かに渡っていった。
祝宴のはずが、どこか張りつめた空気が漂う――。
義太夫は扇を開きながら、ちらと舞台袖を見やる。
その指がかすかに震えていた。
(……胸騒ぎか。いや、気のせいであろう)
忠三郎が言い出した「猿楽で人を呼び寄せる」策がここまでの規模になるとは、一益自身、予想していなかった。
城中では装束を背に抱えた楽師たちが行き交う。
本来の目的は、神戸家の旧当主神戸蔵人とその後ろ盾である関盛信を一堂に呼び出し、同時に拘束することにあった。
だが今や、北伊勢の諸将に加え、信長の次男・北畠三介までが家臣を連れて桑名入りしている。
「かように人が集まる前で、神戸蔵人と関盛信を捕えるのか…」
一益は城門の外に並ぶ馬列と輿を見下ろし、深く息を吐いた。
忠三郎と義太夫の案は、「演目の途中で、両人を控えの間に誘い、そのまま近江へ護送する」。
表向きは歓待、裏では拘束――綱渡りの策であった。
信長の命を受けて三七郎を神戸家に押し込んだのは自分。ならば、後始末も自らの責である。
(……思った以上に、大ごとになってきた)
裃の重みが、今日はことさら重く感じられる。
「では、いよいよ開始じゃな」
一益は手を差し伸べ、舞台へと視線を移した。
舞台の開幕を告げる太鼓の音が響き、演者たちの動きが始まる。
観客の息がぴたりと止まった。
やがて、最後の五番目――「切の物」が始まる。
切りの物は祝言の終幕を飾る荒事。観客が最も息を詰める場面――その緊張の最中に、二人を捕える段取りであった。
「そんなことでうまくいくのか?」
一益が眉をひそめると、
「演目次第かと」
義太夫が軽く言い、忠三郎が顎に手を当てて考え込む。
「シテとワキが刀を抜くことができればよい。例えば…羅生門…」
羅生門――
都の怪異、鬼神との戦いを描く荒事。
前半では頼光と家臣たちが酒宴の場で鬼の噂を語り、後半では家臣・渡辺綱が鬼神と相まみえる。
「美丈夫という評判の綱なれば――これはもう鶴でしょうな」
「シテは?」
一益が問い返すや、義太夫はすぐさま、
「皆が震え上がるような、得体の知れぬ恐ろしい魑魅魍魎。これはもう、殿以外におりませぬ」
忠三郎が肩を揺らして笑いをこらえる。
一益は額を押さえた。
義太夫はさらに調子づいて続ける。
「締めくくりには、やはり当家の主たる殿が登場されるのが自然にございます」
もはや、芝居なのか策略なのか分からない。
(まことに、斯様なことでうまくいくのか……)
舞台裏では太鼓が響きはじめ、出番がじわじわと近づいてくる――。
その時だった。
「殿――神戸蔵人と関盛信が、なにやら気づいた様子。席を立ちました」
報せに、一益の表情が険しくなる。
「何。気づかれたか」
義太夫と助太郎が顔を見合わせ、ほぼ同時に立ち上がった。
「捕えましょう。まだ間に合うはず」
義太夫が駆け出す。忠三郎も短く言って後を追った。
一益は舞台のほうに目をやる。出番が、まもなく始まる。
ほどなく三人が戻ってきた。何事もなかったかのような顔――。
(手際がよい……早、捕えたか)
やがて「羅生門」の幕が上がる。開演を告げる太鼓の音が鳴り響いた。
その太鼓を叩いているのは町野左近。
一益は静かに面をつけた。
装束の内に熱がこもり、視界が一気に狭まる。面越しでは他の者の表情も見えない。
ただ、皆が同じように面をつけている気配だけが、肌を伝って感じられた。
(……皆、面をつけているのか)
「是は源の頼光とは我が事なり――」
響いたのは頼光役、義太夫の声だ。こうした芸事にかけては、一益よりもはるかに長けている。
地謡が重なった。
「つはものの交わり 頼みあろ中の 酒宴かな……」
この一節は、かつての酒宴でもよく謡われた。
一益の脳裏に、酒と笑いの記憶がふっとよみがえる。
「一つは君の御ためなれば。標をたべと申しけり……」
渡辺綱の謡だ。これは忠三郎に違いない。
(声が……常とは異なる)
面のせいか、緊張のせいか。どこか上ずって聞こえる。
しかし観客は気づかず、食い入るように舞台を見つめている。
松明の火が揺れ、光と影が舞台の柱を交互に照らす。
――そして、鬼神の登場。
「その時、馬を乗り離し……」
地謡が続き、綱が静かに前へと進み出た。
「羅生門の石段にあがり……」
その背後から鬼神が追う。
「標の札を取り出だし、段上に立て置き帰らんとするに……」
本来ここで、鬼神は兜の錣を掴み取るはずだった。
(……何をしておる、鶴)
軽く引いたが、兜は動かない。手筈が狂っている。
次の瞬間、綱が唐突に振り返った。
太刀を抜き、振りぬく。
「はや鬼神と太刀抜き持って――」
咄嗟に身を引いた一益の袖口が裂けた。布が宙を舞い、観客席がざわめく。
(危なかった……真剣を使う話は戯れと思っていたが)
「取りたる兜の緒をひきちぎって――」
綱はまだ兜を被っている。地謡は容赦なく先へ進み、動きと詞章がずれはじめた。
「かくて鬼神は怒りをなして――」
観客の息づかいが変わる。
一益は仕方なく太刀の峰で綱の足を払う。
綱が転倒、片膝をついた瞬間、鬼神の手が兜を強引に引き剥がした。
だが、綱は跳ね起きた。
太刀を振るい、鬼神の足元に斬りつけてくる。
刃筋は真剣そのもの――戯れではない。
「おのれ、王威をおかす不届き者!」
地声の怒号。もはや演技ではなかった。
(おのれ?)
一益は後ずさる。面の向こうの顔は見えぬが、殺気が肌を刺す。
観客席は「見事だ」「迫真だ」と囁き合い、誰も異変を悟っていない。
(何かおかしい)
「遁るまじとてかかりければ――」
綱の太刀が閃く。
(やむなし)
「飛び違いちょうど斬る――」
一益は猿楽面を剥ぎ取り、体をひねってかわした。
そのまま綱の背後へ回り込み、舞台を滑るようにして飛び降りる。
会場にざわめきが走る。
「これも演出か」
観客の声が上がる。
(鶴ではない……)
動きも気配も、忠三郎ではない。
「切られて組みつくを、払う剣に腕打ち落され……」
地謡の津田秀重が困惑の面持ちで、一益と綱の間を見比べていた。
舞と謡が、完全に噛み合わなくなっていた。
「虚空をさしてあがりけるを…」
そこへ、渡辺綱が面をつけたまま、舞台から飛び降りる。
さらに、舞台上にいた演者たちまでもが、次々と太刀を抜いて一益を追い始めた。
ざわめきが悲鳴に変わる。
(皆、刺客か)
一益は口元を引き結ぶ。
装束の下に忍ばせていたのは脇差一本。鎧もなければ、助勢もいない。
目の前に広がるのは、祝賀の猿楽舞台ではない。血と謀が交差する、生きるか死ぬかの戦場だ。
一益は脇差を抜くと、ためらわず渡辺綱へ向けて投げつけた。
刃がうなる。咄嗟に身をよじった綱は、寸でのところでかわすが、足元が乱れて転倒する。
脇差はその背後にいた刺客の脇腹へ突き刺さった。
一益はその隙を見逃さず、丸腰では分が悪いと判断して踵を返す。
だが、猿楽装束の裾が邪魔で思うように走れない。
「殿!」
義太夫の声が響き、空を切って太刀が投げられた。一益は飛ぶようにしてそれを受け取り、鞘を払い抜く。
「何奴!」
振り向きざまに一喝すると、渡辺綱が面を剥がした。
面を外した綱の顔があらわになる。若い――だが、目に宿る光は獣のようだ。義太夫が血の気を失ったように呟く。
義太夫に続き、滝川助太郎、木全彦一郎が駆けつけてくる。
「神戸蔵人と関盛信は如何いたした?」
「二人とも、無事捕えておりまする!」
義太夫がそう答えながら、ふと間者の顔を見て、息を呑んだ。
「なんじゃ、義太夫」
義太夫が一歩、たじろいで後ずさる。
一益も改めてその顔を見たが、やはり見覚えはない。
――先刻、面箱の蓋に手が止まったのは、この気配を嗅いだからか。
あり得ぬはずの名が、喉の奥で音もなく形を成す。
間者は無言のまま、一益を睨み据える。
その若い顔に浮かぶのは、怒りか、恨みか、それとも覚悟か。
刹那、足を開いて構えをとると、刀をぐっと握り直した。
次々に家来たちが駆けつけてくるのが目に入ると、男はふっと構えを解いた。そしてくるりと身を翻し、走り出した。
「追え!逃がすな!」
呼応するように、家来たちが一斉に駆け出す。
猿楽装束をまとう一団の中で、刀の煌めきが次々に火花を散らす。斬り合いが始まった。
「殿!」
滝川助太郎が火縄を火皿に押し当て、銃を掲げた。
この距離なら、まず外すことはない。助太郎は銃を一益に手渡す。
一益は銃を構えた。狙いを定めたその先、男の背を追いながら、何かが胸をよぎった。
――あれは、風花が八郎を抱いたときの、あの肩の線に似ている。
その時、向こうから駆け込んでくる忠三郎の姿が目に映る。
「義兄上、ご無事か!」
間者がそれに気づいて振り返り、忠三郎に矛先を向けた。忠三郎はあわてて腰の刀を引き抜く。視線が交錯する。
「殿、お待ちを。あの間者は…」
義太夫が血の気を失ったようにつぶやく。だが、一益はもう引き金に指をかけていた。
「何じゃ、義太夫。早う言え!」
義太夫は言葉を失ったまま、口をぱくぱくと動かした。
そして、絞り出すように声を漏らした。
「……三九郎様でござりまする」
引き金にかけた指が、かすかに止まる。
一益の中で、何かがはじける音がした。
(三九郎……?)
だが、その刹那、男は忠三郎に斬りかかろうとしていた。
一瞬の迷いを断ち切り、一益は火蓋を切った。銃声が轟き、三九郎がよろめく。白布を張った舞台に、紅い点が滲んだ。
倒れはしない。まだ立っている。だが、一歩、二歩とふらつき、膝が折れる。
一益が駆け寄ろうとしたその時――。
辺り一面に白煙が広がった。
白く濁った靄が、猿楽舞台を呑み込むように立ちこめ、たちまち人の姿を曖昧にした。庭に集った客らのざわめきが波のように揺れる。
(鳥の子か…)
「義太夫。間者を取り押さえよ」
「ハッ」
義太夫は裾をさばいて霧の中へと踏み出し、手をかざして煙をかき分けていく。その姿もすぐに霞の向こうに消えていった。
やがて、風に押されるように霧が流れ、次第にあたりの景色が姿を取り戻し始める。舞台の縁先には血痕が点々と残されていたが、三九郎の姿も、他の間者たちの影も、もはやどこにもなかった。
「鶴、大事ないか」
一益が声をかけると、忠三郎はいつもの穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと刀を鞘に収めた。
「危ないところでございました。流石は義兄上。柱に開けた穴から鉄砲の弾を通すほどの腕前とはまことでござりまする」
一益は無言で小さく頷き、血の跡を目で追う。
(動いていたが――左肩だ。致命傷ではあるまい)
「殿!三介殿、三七殿がお待ちでござりまする」
津田秀重が猿楽舞台の脇から駆け寄ってきた。
一益は、再び舞台の方を振り返った。さきほどまで剣戟の火花が散っていた場所には、何事もなかったかのように蝉が鳴いている。風が吹き抜け、庭木がそよいだ。
「左近、忠三郎!天晴じゃ!」
北畠三介が、興奮を隠しきれぬ様子で声をかけてきた。一益と忠三郎がそろって一礼すると、三介は一歩進み出て、心底感動したように言った。
「二人とも猿楽師に勝るとも劣らぬ演技よ。鬼気迫るとはこのことじゃ!」
一益は、少し目を伏せた。
(……芝居に見えたか)
先ほどの騒動も、一益と三九郎の激しい立ち回りも、全て芝居の一部と思われているようだった。
「ハッ、ありがたきお言葉…」
忠三郎も神妙な顔つきになって頭を下げる。
「次は岐阜の父上の前で演じてくれ」
一益が言葉を返せずにいると、場をまるく収めるように忠三郎が楽しげに声をあげた。
「ハハッ!委細承知!」
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庭に残されたのは、ほんのりと残る煙の匂いと、地ににじむ血痕だけだった。
一益はそれを見つめたまま、しばし動かなかった。
ふと、隣に立つ忠三郎がぽつりと洩らす。
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その言葉に、一益は頷いた。だが、胸中に残っていたのは煙と血の匂いだった。
(芝居ではない。わしは確かに、我が子を撃ったのだ)
夕暮れの光の中、庭に長く伸びる影が、なお揺れていた。その実感は、胸の奥で冷たく結晶した。
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