滝川家の人びと

卯花月影

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3 甲賀攻め

3-5 再会 ~ 再び堤中納言 ~

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 六角義賢を追い出し、甲賀を掌握した一益は、風花と八郎を伴い日野を発った。
 目指すは、美濃・岐阜城。
 とはいえ、一益の心は晴れなかった。
 本来ならば、風花と八郎を連れて伊勢へ戻りたかった。
 だが、自らの本拠たる桑名はいまだ願証寺の手にあり、領地の回復も道半ばにある。
 人の上に立つ身として、戦を終えぬまま私情に流されるわけにはいかぬ――
 そう己に言い聞かせながらも、風花と八郎の姿を見るたび、胸のうちに疼くものがあった。
「ややっ、殿、殿! あれを御覧なされませ。あれが噂の南蛮人では?」
 義太夫の視線の先には、南蛮装束の男――ルイス・フロイスが立っていた。
 信長が南蛮人を好み、遠き南蛮の話を聞くのを楽しんでいるとは、一益も噂に聞いていた。
 この時期、フロイスが京から岐阜へ移ってきたのには理由がある。
 信長の側近・朝山日乗が、帝がキリシタンを嫌っているとの風聞を受け、京で布教する者たちを成敗する許しを願い出た。
 それを知ったフロイスは、信長の庇護を求めて岐阜へ逃れてきたのである。
「しかしまぁ、実に涼しい顔をしておることで。命を狙われているとは思えませぬ」
 義太夫が肩をすくめてひとりごちる。
 そんなフロイスの傍らには、小柄な東洋人の男が杖を突いて歩いていた。
 一益は目を凝らし、思わず息を呑んだ。
「あれは、ロレンソではないか」
 もう十五年以上も経つだろうか。義太夫と二人で京へ行ったときに、偶然、物乞いのような琵琶法師に会った。
 将軍に会うために肥前からきたという琵琶法師は、口は悪かったが、一益に火縄銃を渡し、仕組みや使い方を教えてくれた。それがロレンソだった。
 分かりやすく機知に富み、そして道理にかなった話をするキリシタンが、畿内の武将を次々にキリシタンにしていると聞いてはいたが。
(まさかロレンソとは…)
「あやつ…何故に岐阜におるのでしょうな」
 義太夫が怪しむ。
「まったく、世の中はようよう分かりませぬなあ。物乞いがキリシタンとなり、上様の前に出るとは」
 そこへ、のんびりとした声が割り込んだ。
「義兄上。そのロレンソ殿とフロイス殿、どうやら人を集めて朝山日乗殿と話をされるようです」
 笑顔で現れた忠三郎がそう告げる。
「まことか。上様の前で朝山日乗と問答とは、なかなか命知らずな…」
 義太夫が苦笑する。
「聞きたい者は、誰でも広間へまかり越すようにと、上様のお達しで」
 朝山日乗は、日蓮宗の僧にして信長の側近の一人。これまで幾度となく、キリシタン追放を信長に進言している人物だ。
(上様の御前で問い詰めて、伴天連を追い出す腹か…)
 このところ、キリシタンになる者は日々増えていた。日乗はその流れに、強い危機感を抱いているのだろう。
「面白そうじゃ。わしは聞きに行く。義兄上も参られよ」
 忠三郎の軽い誘いに、一益はわずかに迷いながらも頷いた。
 広間へ赴くと、すでに宗論は始まっていた。
 日乗がやや興奮気味に声を上げ、キリスト教の教義や布教の在り方について、次々と詰問している。
 一方のロレンソはというと、瞳の焦点は定まらず、いよいよ目が見えなくなっている様子だったが――
 あの十五年前と、まるで変わっていなかった。
 静かで、理路整然とした物腰。
 熱に浮かされたような日乗の口調とは対照的に、ロレンソは語尾を濁すことなく、ひとつひとつの問いに誠実に、堂々と答えていた。
「伴天連は神仏を敬わぬと聞き及んだが――まことのことであるか」
 日乗が問いかける。その目にはすでに怒りの光が宿っている。対するロレンソは顔色一つ変えず、ゆるやかに答える。
「日の本の神々は、いずれも人として生まれ、妻を持ち、やがて死したものどもにございます。自らを死から救うことすらできなかった者が、果たして他者を救えるや――」
 ざわり、と人々の間に微かなざわめきが走る。
「日乗、如何であるか」
 信長が、興味深げに日乗を促す。
「では伴天連は何を敬うというのか」
「三位一体のデウスでござります。この天地を創りたもうた創造主を」
「ほう……では、その創造主とやらを、此処に見せてみよ」
 その一言に、人々の視線が一斉にロレンソに集まった。
「目で見ることは叶いませぬ。されど目に見えぬゆえに存在せぬと申すならば――風も魂も、なべて無きものとなりましょう」
「……ふむ」
 信長が口をつぐむ中、日乗がさらに問いを重ねる。
「その創造主とやらは、釈迦や阿弥陀よりも古くからあるものか」
「いかにも。デウスは無限にして永遠。始まりも終わりもなく、すべての命と理を、そのお方が創りたもうたものにございます」
 日乗はしばし沈黙した。
 その目には激しい思考の色が浮かび、拳はわずかに震えている。やがて日乗は信長に向き直り、声を強めて進言した。
「上様! この者どもは、虚言を弄し、人心を惑わす不埒な輩にございます!これを追放し、しかるべき処断を――流刑に処すことをお勧めいたしまする!」
 その言葉には、怒りと恐れが入り混じっていた。
(何を恐れているのであろうか…)
 一益は色を失って信長に訴えかける日乗を見ながら、考える。信長はどこ吹く風といった様子で、笑みを浮かべたまま答える。
「如何した、日乗。気おくれしたか。問答を続けよ」
 その軽い調子に、日乗は一瞬言葉を失う。再び黙し、眉間に深い皺を刻んで沈思している。
 そんな日乗を見たロレンソが、静かに問いかける。
「命を創りたもうたお方を存じておられるか」
 と尋ねた。
「…知らぬ」
「では知恵の源、世の善の始まりはどなたであるかは存じておられるか」
「然様なこと、分かる道理もなし」
 日乗の返答は短く、語気には苛立ちが混じっていた。
「上様。この者どもを追放してくだされ。かような悪しき者どもが都にとどまったがゆえに、前将軍・足利義輝公は殺められたのでござりまする」
 日乗の訴えに、信長は軽く鼻先で笑い、ロレンソを見る。
「そのデウスとやらは、善に対して報いるものか。また、悪に対しては罰を与えるものか」
 笑ってはいるがロレンソを見る信長の眼光は鋭い。ロレンソが何と答えるのか、皆、かたずを飲んで見守っている。
 信長の問いに対し、ロレンソが答えようとしたときだった。
 これまで平然と受け答えしていたロレンソの様子が、どこか鈍くなった。ことばの切れ目ごとに小さな息継ぎが増えた。瞼が重い。
「少し疲れましたゆえ、以後は伴天連フロイス殿が申し上げます」
 それを聞いたフロイスが自然な所作で前に進み出ると、落ち着いた口調で話し始めた。
「ご無礼つかまつりました。では、続けて申し上げます――」
 場には微かにざわめきが生じたが、信長が顎で促すと再び静けさが戻る。
「上様の御下問、『そのデウスとやらは、善に報い、悪を罰するか』――。仰せの通りでございます。ただし、それには二つございます。ひとつはこの世において、もうひとつは永遠の御国において、でございます」
 信長は扇をゆるやかにあおぎながら、興味深そうにフロイスを見つめていた。
 一方で、日乗の眉間には深い皺が刻まれていく。
「永遠の御国? 笑止。死人が帰ってきた話など聞いたこともない」
「然様でございましょう。さりながら、我らが信ずる神は、命の始まりであり、終わりの先にもおられるお方。来世とは、現世の果てに訪れる報いの場でもあります」
 それを聞いた日乗は、ロレンソを嘲笑う。
「来世とはまことに笑止千万。人に不滅なるものがあるはずもない」
 フロイスは少し言葉を置いてから、静かに語り始めた。
「これまで、この国では地・水・火・風のような見えるもののみ説かれておりまする。これらも存分に説かれているわけではありませぬ。さらに目には見えぬ不滅の霊については何も説かれてはおらぬかと。伴天連の教えはそうではなく、人には二つのものの見方があるものと教えておりまする。その一つは肉体の目。もうひとつは道理と知力による目。人のうちに宿る霊とは目で見ることもかなわず、悟ることも容易ではない。されど、このロレンソをご覧あれ。ロレンソが語るとき、内なる霊が燃やされ、語るべきことを語ることができるようになる。これはロレンソの弱き肉体と霊が同一のものであれば、なされぬこと。霊が不滅、そして肉体が滅んだあとにも残ることは、二つの事柄により、知ることができましょう。その一つは、霊は物を合成して出来ているわけではないこと、もう一つは病となり、肉体が衰えたとしても理性は衰えず、かえって力を得ること。これらをもって考えるに、人には不滅の霊魂があるということ、死後にもそれは残るということは、道理にかなっていると申せましょう」
 その言葉に、広間に集った者たちは「なるほど」と頷き合った。
 しかし、黙って聞いていた日乗は、うつむいたまま沈黙していた。
(……来る)
 一益は、日乗の肩に走る微かな震えを見て息を呑み、低く短く声を放つ。
「鶴!」
 その一声に、忠三郎の柔らかな微笑が消え、目の奥に鋼の色が宿る。あどけなさの残る顔つきから、武士の貌となる。
 座したまま、足の位置をずらし、手が自然と刀の鐔にかかる。
 次の瞬間、日乗は歯を食いしばり、顔を紅潮させて立ち上がった。
「まことに人に霊魂などというものがあるのであれば、今、この場で見せよ!この者を殺めるゆえ、死後に残る霊魂とやらを見せてみよ!」
 怒声とともに、日乗は広間の刀掛けにあった太刀を乱暴に引き抜いた。
 ざわりと空気が揺れる。
 顔色を変えたフロイスが思わず身を引く一方で、ロレンソはなおも平然と座したまま動かない。
(刀を持っているのが見えぬのか)
 ロレンソの目はほとんど見えていない。何が起きているのかも分からず、逃げようともしないのだろう。
 日乗が鞘を払おうとするその瞬間、忠三郎が踏み込み、万見仙千代と並んで日乗とロレンソの間に割って入る。
 信長も即座に腰を浮かせ、鋭い眼で日乗の背後にまわると、そのまま背中から腕を押さえつけ、力強く羽交い絞めにした。
「日乗、控えよ!」
 佐久間信盛も駆け寄り、近侍たちとともに日乗の手から刀をもぎ取る。
 静謐だった宗論の場は、一転して緊張に包まれた。
 その中にあって、ロレンソだけは表情を変えることなく、静かに口を開いた。
「聞き覚えのある声が…」
 ロレンソの視線はまっすぐ、一益の方を向いていた。
 万見仙千代が日乗から太刀を取り上げ、厳しい声で告げる。
「日乗殿、上様の御前にて刀を抜くとは、まさしく不届き千万」
 それを受けて、信長はあくまで平然とした顔で笑みを浮かべ、場に座す者たちを見渡す。
「皆、座れ。予の前で取り乱すとは、無礼な奴め」
 日乗は朝廷との摂政に関わっている身である。ゆえに信長とて、そう易々と手討ちに処することはできない。
 騒然とした広間に、しばし沈黙が流れる。
 フロイスはその場に立ち尽くしたまま、呆然とした様子を見せていたが、やがて静かに口を開いた。
「わたしは日乗殿を怒らせるつもりなどはござりませぬ。ただ、まことの神の教えを示そうとしたまでのこと」
 その穏やかな言葉が終わるか否かのうちに、日乗は再び激高し、万見仙千代の制止を振り切って、フロイスに詰め寄った。
「黙れ、小賢しい伴天連め!」
 両手でフロイスの胸を突き、ぐらりとよろけさせると、そのまま佐久間信盛の方へ押しやる。
「日乗、見苦しい!控えよ!」
 信長の声が、雷鳴のように響く。
 しかし日乗は収まらぬ怒りのまま、信長へ向き直り、激しく叫んだ。
「上様! この者どもは邪教の徒にござります! このままではこの都が、いや日ノ本が汚れ果ててしまいまする。今すぐ、この者どもを追放してくだされ!」
 そして憎悪をむき出しにしてフロイスを睨みつけ、
「釈迦を愚弄するとは恐れしらずな者どもよ。すぐにでも神罰がくだろう。されど、わしの弟子になれば、類まれなる名誉と恩恵を受けることとなろう」
 するとロレンソが顔をあげた。
「以前から申し上げている通り、我らはこの世のものを欲しておるのではありませぬ。我らはただ、まことの神のことばのみを欲しておりまする」
 ロレンソの受け答えに、場が再び静まり返る。だが日乗の怒りは鎮まらず、なおも信長に訴えた。
「かような者ども、今すぐ追放なされよ! 上様!」
 声は次第に掠れ、もはや哀願とも懇願ともつかぬ響きを帯びていた。

 扇の風が止む。長きに渡った宗論も、ようやく幕を下ろした。
 信長はフロイスとロレンソに軽く労いの言葉をかけると、足早に広間を後にした。居並んでいた者たちも次々と席を立ち、広間は静けさを取り戻していく。 そんな中、ロレンソが杖を頼りに、一益の方へとゆっくり歩み寄ってきた。
「おぬし、もしや…」
「なぜ逃げなかった? 見えておらぬのか?」
「やはり、中将であったか」
 と笑った。
 ロレンソはずっと、一益を中将と呼んでいた。思い返すと懐かしい。
「わが父は仇人より救わるることをえん。火縄銃は役に立っておるか」
 十五年前、ロレンソに火縄銃を託されたことで、道が開かれていったように思える。
「役に立っておる。そなたが思う以上に。ただ…」
 言いかけて、言葉を継げずにいた。あのときロレンソは、銃を手渡しながらこう言ったのだ。
『争いを避けるために使え』と。
 だが、果たして自分はそれを実践することができたのか。何度も思い返してはいたが、その通りにはできているとはいえない。
「然様か」
 ロレンソは何かを察したように頷いた。
 気がつけば、時刻はすでに深くなっていた。フロイスがそっとロレンソに近づき、促すように肩に手を添える。
 ロレンソはそれに応じて立ち上がり、一益の手を取った。
「中将。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け。悪に勝たるることなく、善をもって悪に勝て」
 それだけを言い残し、ロレンソはゆるゆると広間を後にした。
 その背を見送りながら、一益はふと目を伏せた。
(……神の時を待つとは、こういうことか)
 長く忘れていた祈りのような感情が、胸の奥で静かに息を吹き返していた。

 伴天連一行の姿が見えなくなったころ、忠三郎がそっと一益に近づいてきた。
「義兄上、あのロレンソ殿とは、旧知でござりましたか?」
「昔、世話になった――あの者に」
 一益が短く答えると、忠三郎は目を輝かせ、興味深そうに身を乗り出す。
「それは意外な取り合わせ……。それに『中将』とは?」
 できれば触れられたくない問いだったが、一益はふと苦笑して、こう返した。
「そなた、堤中納言物語を存じておるか?」
「堤中納言…たしか、風葉和歌集にその話にでてくる歌があったような…」
「ロレンソは、わしのことを『花桜折る中将』と呼んでおった」
「花桜折る中将……。懸想した姫君と間違えて、頭を丸めた老女を盗み出した話でござりますな」
 一益がかつて御所から火縄銃を盗み出そうとしていた頃――
 ロレンソはその一益を揶揄するように、そう呼んでいたのだった。
 忠三郎はしばし唖然とし、次の瞬間には腹を抱えて笑い出した。
「ロレンソ殿は、面白き御仁でありますな。ぜひとも、われらも話を聞いてみとうなりました」
 一益は「面白いどころか、ひどく厄介な男だ」と言いかけて、ふと口を閉ざした。
 ……いや、よいかもしれぬ。
 ロレンソの言葉は、謎めいてはいるが、世辞も方便もない。学があり、知恵もある。若き忠三郎にとっては、これ以上ない相手かもしれない。
「では、いずれ屋敷にロレンソを呼び、話を聞かせよう」
 忠三郎は満面の笑みを浮かべ、大きく頷いた。
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