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3 甲賀攻め
3-4 奪還
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甲賀・滝城は滝御前の隠居後に廃れ、今は三九郎の住まいになっている。時折、六角方や甲賀者が出入りするほかは、風花と三九郎だけ――。
一年前、小木江から落ち延びた風花は『滝川家の縁者』と名乗る甲賀者に救われ、そのまま各所を転々とした。危害を加えられることはない。だが帰してもくれない——そう悟るまでに、長くはかからなかった。
音羽城に忠三郎たちが来たことに気づき、一朗太に八郎を託し、なんとか居場所を伝えたいと途中途中に折鶴を落としてきたのだが。
結局、助けがくることはなく、風花は三九郎に連れられて、また甲賀に戻ってきた。
(忠三郎殿は見つけてくだされたじゃろうか)
風花は、風花と吹雪の見分けもつけられない忠三郎にはあまり期待していない。父の信長や一益が高く評価しているのを知ってはいても、吹雪の便りで知る忠三郎はいかにも頼りがいなく、評判通りとは思えなかった。
(殿に…殿に知らせねば…)
風花は懐から大事そうに笛を取り出し、吹き始めた。
「風花殿、飯じゃ」
三九郎が皿を盆に載せて運んできた。
「餅じゃ。風花殿が好きだと聞いた」
素朴な一言。だが、その声音や仕草のどこかに、かすかに一益の面影があった。
(やはり……)
風花は一口餅を口に運び、意を決して切り出した。
「三九郎殿。そなたは我が殿――滝川左近の縁者と仰せであったな。ならば、何故わらわを殿の元へ帰してくださらぬのじゃ?」
三九郎は目を伏せた。困ったように唇をきつく結び、絞り出すように答える。
「風花殿がおれば、左近は甲賀に手を出せぬ、と聞いた」
「殿は甲賀の敵ではない。そなた、殿に会うて話してみてはどうじゃ」
風花のまっすぐな言葉に、三九郎はわずかにたじろいだ。
「滝川左近に会えば……わしは殺められる」
「なぜ?」
風花は目を見開いた。三九郎は肩を落とす。
「左近には八郎という嫡子がいる。わしなど…忌むべき存在じゃ。左近にとって、わしは……邪魔者でしかない」
風花はしばらく三九郎の顔を見つめた。
(やはり……)
物静かで、決して強い口調を使わぬ三九郎。だが、その心の内は複雑だった。
風花は柔らかく口を開いた。
「殿は寡黙なお方じゃ。無駄なことは語らぬゆえ、誤解されやすい。世の人は恐れ、悪く言う者も多い。されど、まことは――」
風花は胸に手を当てた。
「家臣を理不尽に罰したことは一度もない。無駄な戦を嫌い、民の声に耳を傾けられるお方。殿に命を救われた者は数知れぬ。わらわも、そのひとり。殿は、斬らずに済む道を探すお方じゃ」
三九郎は目を伏せたまま言った。
「……わしが聞かされてきた左近は、博打にふけり、弟や叔父を葬って甲賀を逃げたと。血も涙もない無法者と……」
三九郎の声は、どこか怯えたようでもあった。
風花は静かに首を振った。
「それは、そなたが聞かされてきた顔にすぎぬ。人は見たいように語るものじゃ。けれど、殿を直接知る者なら、誰もそのようには言わぬ」
三九郎が目を伏せたまま黙しているのを見て、風花は少し語調を強めた。
「『卒を視ること愛子の如し、故にこれと惧《とも》に死すべし』。殿が、常に口にされる言葉じゃ」
「それは?」
「孫子じゃ。甲斐の武田でも孫子を学ぶと言うが、孫子は戦をせずして勝つ道を説いておる、と殿は常々仰せになる」
『卒を視ること嬰児の如し、故にこれと深谿《しんけい》に赴くべし。卒を視ること愛子の如し、故にこれと惧《とも》に死すべし』。孫子の地形篇にある一節だ。将が兵を赤子のように思い、大事にすれば、兵はたとえ深い谷へでも共に赴く。わが子のように慈しめば、死をもいとわず共に戦う。孫子は、普段から将が兵を思いやることの大切さを説いている。
一益が生まれ育ったこの滝城。かつて、奥座敷の一角に、父の居間であったと伝え聞いた部屋があり、そこに古びた巻物が並んでいたのを三九郎は思い出した。確かに、その中に『孫子』と書かれたものがあった。
「我が殿は、戦を避ける知を何よりも重んじておられる。戦さが長引けば長引くほど、民が泣く。殿は、無用の殺生を何よりも嫌うておるのじゃ。そなたは殿を誤解しておる。のう、わらわが口添えするゆえ、殿に会うてみよ」
風花は信長の娘らしく、強引に話をもっていこうとする。三九郎は黙したまま、何かを押し殺すように立ち上がった。
風花はその背を見送りながら、そっと胸の笛に手を添えた。
***
三九郎は、ひとり滝城の奥へと向かった。父、一益が若き日に暮らしていたという一室。今では埃をかぶった書棚と、人の気配のない薄暗い空間だけが残っている。
部屋の隅、黒ずんだ桐の文箱の中に、何本かの巻物が丁寧に並べられていた。
その中に――あった。「孫子」と記された表紙。
三九郎はおそるおそるその巻物を開いた。紙は時の流れで黄ばみ、文字の一部は薄れていたが、地形篇の中に、風花が言ったその一節が確かに記されていた。古紙の乾いた匂いが、胸の奥にゆっくり沈む。
「卒を視ること嬰児の如し……」
口の中でそっとなぞるように読みながら、三九郎は巻物をそっと胸に抱いた。
恐ろしいと思っていた滝川左近。その人が、かつてこの場所で、この巻物に目を通していたのか。
(……わしは、何を怖れていたのじゃ……)
ふと、そんな思いが胸をよぎる。
暗がりの中で、微かに差し込む陽光が、巻物の文字を照らしていた。
にわかに外が騒がしくなった。近づいてくる足音が聞こえ、
「三九郎殿!」
声とともに襖が勢いよく開け放たれた。
「重丸殿か。如何いたした」
三九郎が顔を上げると、重丸が片足を引きずりながら部屋へと入ってくる。
「その足は、先日の音羽城での傷か」
三九郎が問うと、重丸は苦笑しながら応じた。
「手裏剣が刺さっただけで、大したことはないと思うたが……日に日に腫れが酷くなっておる」
見ると、重丸の足首は赤黒く腫れ上がり、熱を帯びている。
三九郎は頷きながら、懐から毒消しの包みを取り出し、重丸に差し出した。
(手裏剣に毒が塗ってあったのか……)
やはり滝川一益は恐ろしい。三九郎は無意識のうちに身震いした。
重丸は苦虫を噛み潰したような顔で、懐から一通の文を取り出し、三九郎に差し出した。
「忠三郎から文が届いた」
甲賀衆に対し、忠三郎が和睦の話を持ちかけてきたというのだ。
文書には、三つの条件が記されていた。
一、信長公の狙撃を行った者を差し出すこと
一、甲賀衆は六角家と手を切り、織田家に従うこと
一、人質(風花と八郎)を速やかに返還すること
三九郎は文を読み終えると、低くつぶやいた。
「これは和睦ではなく、恭順じゃ。……杉谷家がよしとは思うまいが」
文の末尾には、交渉が決裂した場合は、攻め滅ぼすと明記されていた。
ふと、三九郎の目が、重丸の手にあるもう一通の文に留まった。
「…そのもう一通は?」
重丸の親指が、紙の端を無意味に往復した。
重丸は一瞬、わずかに身を引き、文を背中に隠すようにして言った。
「これは……わし宛てのものじゃ」
「滝川左近はともかく、柴田や蒲生が攻め込んでくるやもしれぬな」
三九郎の声に、重丸が苦々しげに応じた。
「ようは脅しか。望むところ。ここは甲賀。寄せ手に滝川勢がいなければ、柴田や蒲生などは恐るるに足りず」
「ではわしが先手を取ろう」
重丸は踵を返し、去っていった。
部屋には再び静けさが戻り、ふと目の端に映った巻物へと手を伸ばした。
先ほど開いていた『孫子』。埃をかぶったその紙面を、もう一度めくってみる。
薄暗い室内に、差し込む陽がゆるやかに文字を浮かび上がらせる。
「主は怒りを以て師を興すからず。将は慍《いきどお》りを以て戦いを致すべからず。」
その一節が目に留まり、三九郎の胸に静かに沈んだ。
君主たる者は怒りに任せて戦を始めるべきではない。将たる者は、憤りに飲まれてはならない――
蒲生快幹も、重丸も、皆が己の感情に従って刀を抜こうとしている。
だが本当に、それでよいのか。
巻物の文字を指先でなぞりながら、三九郎は目を伏せた。
かつては、この滝城に、父がいたという。けれども、三九郎が滝城に迎えられたときには、すでにその人影はなかった。
ただ、城の柱や書の並ぶ棚の隅々に、どこか冷たい――それでいて、強く張り詰めた空気のようなものが残っている。
父が確かにここにいたという証。
「滝川の殿は、よくこの巻物を読んでおられた」
と、かつて甲賀の古老がそう言っていた。
だが、産みの母は一度もこの城を訪れることはなかった。村の片隅で静かに暮らしていた娘だったと聞いている。
父が何げなく声をかけたのがすべての始まり。母は名を伏せ、三九郎をこの世に残して病に倒れた。それを見かねた滝川義太夫が、祖母である滝御前に話をつけて三九郎を引き取った――というのが真実らしい。
父とは言えぬ、会ったこともない男。
それでも、この巻物を前にすると、不思議とその人の気配が伝わってくるようだった。
静かに巻物を巻き直し、机の上に置くと、三九郎は立ち上がった。
風花の言葉が脳裏に蘇る。
――「そなたは殿を誤解しておる。のう、わらわが口添えするゆえ、殿に会うてみよ」――
誤解か。
だとしても、自分はどれだけ知ろうとしてきたのだろうか。
この戦が始まる前に、もう一度だけ、あの男を見ておきたい――
そんな衝動が、胸の奥でじわりと膨らんでいた。
****
伊勢四日市・安国寺。
甲賀攻めの準備が着々と進むなか、山村一朗太が駆け戻ってきた。
「御台様を連れ戻すには至りませなんだ……あと一歩のところで、連れ去られましてござりまする」
悔しさを噛みしめるように一朗太が報告する。衣には土と血の跡が混ざり、逃走劇の険しさを物語っていた。
「…で、助太郎が放った手裏剣で、重丸は傷を負ったのじゃな?」
「はい。足を引きずって逃げ去る賊を、助太郎がこの目で見ておりまする。鶴殿の挙動から見ても、あの賊は恐らく重丸かと」
「然様か」
一益は短くそう返事をすると、一朗太が持ち帰った風花の打掛と折鶴を手に取った。風花が嫁入りのときに岐阜から持参した大切な品だ。その打掛には、まだ微かに香が残っている。
(風…そなたは、わしに見つけてほしかったのか)
自らを囮にし、一朗太と八郎を逃がした風花。この打掛は「待っている」と、そう告げているように思えた。
「八郎が無事でよかった。一朗太、大儀であった。今は、休め」
一益の声に、一朗太は深く頭を下げて部屋を下がった。
しばらくして、義太夫が顔を曇らせながら進み出た。
「殿、如何なされます。このまま攻め入れば、御台様が人質として―」
一益は聞こえていないかのように応じない。
「殿…?」
「乗り込むか……」
「は? え、今のは思案の声にて? それとも合図にて?」
一益は答えず、そっと打掛を抱き直した。
「秀重を呼べ」
一益のひと言に、義太夫は小さくうなずき、すぐさま津田秀重の元へ走った。
***
甲賀、滝城。
蒲生勢が土山を越え、数百の軍勢が甲賀衆の支城を焼き払っていた。
峠を越えた向こう側からは滝川勢。伊勢路から間道を伝ってすでに水口に迫るという。
滝城の空気は張り詰めていた。
城門は厳重に閉ざされ、兵たちは表情を硬くし、城内の通路には甲賀者たちが忍び歩く。
重丸は館の一室で地図を広げ、三九郎と対峙していた。
「滝川は今宵か、明朝には水口を抜ける。左近のことじゃ、手は抜かぬ。……待ち構えるのか、退くのか、三九郎殿」
三九郎は言葉を返さなかった。
重丸の顔をただ無言で見つめ、数拍置いてからそっと地図を巻く。
「風花殿は」
重丸が問うと、三九郎は城の奥を顎で指した。
「変わらぬ。何も、口にせぬ」
***
風花は、薄暗い座敷にひとり静かに腰を下ろしていた。障子の向こうで風が鳴り、遠くから銃声が響く。
誰かが走る音、甲高い命令の声が断片的に届いてくる。けれど、この部屋だけは異様な静けさに包まれていた。
やがて風花は、懐から小さな笛を取り出した。唇に当てて息を吹き込むと、か細い音が空気を切り裂くように広がっていく。
それは、まるで――誰かに届くのを願う祈りのようでもあった。
「風花殿」
襖が静かに開き、三九郎が現れる。
「滝川左近の軍勢が、この城めがけて向こうております」
三九郎は気の毒そうに風花を見やった。
「やはり左近は鬼じゃな」
そして、少し躊躇した後、言葉を続ける。
「……風花殿。左近に、見捨てられたな」
だが風花はその言葉が聞こえていないかのように、静かに笛を取り出し、再び音を奏でた。
三九郎はその姿を一瞥し、何も言わずに部屋を後にする。
外からは断続的に銃声が響いていた。
それでも風花の笛の音は、止まることがなかった。
風花の笛が、寂しく響く。
その音は、闇に沈む滝城の中を、静かに満たしていた。
だがその頃すでに、一益は動いていた。
素破姿の一益は、闇に紛れ、素破たち数名とともに滝城の堀を這い上がっていた。
人知れず築かれた間道――わずかに残された、かつての抜け穴の一つを使い、誰にも気づかれぬよう城内へと忍び込んだのだ。
「敵の見回りは、四半刻ごと。今しがた通ったばかりにて、しばらくは現れますまい」
一朗太が耳打ちする。
一益は小さく頷き、無音のまま走り出す。影が風に溶けるように、廊下を滑り抜ける。
どれほどの時が過ぎたか。
三九郎が去ってまもなく、城のどこかが騒がしくなり始める。
途中、番兵とすれ違いそうになった瞬間――
「――くっ」
一益が放った手裏剣が無音のまま敵の喉元に突き刺さる。
倒れた兵を受け止めたのは山村一朗太。音を立てぬように躯を壁際に隠し、即座に動き出す。
目指すは、風花が囚われている広間。城の間取りはすべて頭に入っている。だが、油断はならない。
「御台様は東棟の三の間。扉には杉谷の印があると」
助九郎が低く囁いた。
「開錠はそれがしが。――殿、お頼み申し上げます」
一朗太が懐から針金を取り出し、錠前にそっと触れさせる。錠の中で、砂を噛むような微かな音がした。ほどなく閂が外れ、襖が、音もなく引かれる。
部屋の奥――風花が、気づかず笛を吹いていた。
「風!」
一益の声が小さくも鋭く響き、風花がはっと振り向く。
「と、殿、そのお姿は……」
「忘れたか。わしは素破じゃ」
一益が風花の両肩を掴み、目を覗き込む。
「待たせた」
風花は首を横に大きく振ると、かすれた声で応えた。
「きっと殿が……来てくださると……信じておりました」
その目に、涙が溢れた。
「参ろう」
一益は風花の手を取り、静かに立ち上がらせる。そのとき風花はふと足を止めた。
「あの方は、わざと……わらわを残して行かれたのです。不憫と思い、殿のもとへ返そうとされたのでしょう。殿。どうか——三九郎殿を救ってやってくだされ」
一益は短くうなずいた。
「……うむ」
その瞬間、襖の向こうで鋭い叫び声と足音が響いた。
「敵襲――!」
見回りの兵に気づかれたのだ。
「風花、こちらへ!」
一益が叫び、風花の手を引く。
「助九郎、一朗太、殿を援護せよ!」
助太郎の声とともに、弓矢が飛ぶ。闇の中、短く火花が散る。
「天井裏を通る。皆、後に続け!」
一益は風花を抱きかかえ、広間の梁を蹴って跳びあがる。梁がひと呼吸だけ呻き、静まる。ふたりは開かれた天井の隙間へ、影のように滑り込んだ。
城内の喧騒は、次第に広がっていく。
だがそれも束の間。囮として残された津田秀重の指揮により、滝川勢の影武者隊が堂々と城門を制圧した時、城はすでに――空になっていた。
* ****
勝手知ったる滝城の裏手――
城門の前には、兵を率いた義太夫が待っていた。
「御台様。ご無事で……」
義太夫が深く頭を下げたあと、一益に向き直る。
「殿、杉谷衆はすでに逃げており、城はもぬけの殻でございます」
「……致し方あるまい」
一益は低く答える。
「もはや我らに逆らう甲賀者は、杉谷衆のみよ」
三九郎も、重丸も、すでに姿を消していた。
だが、甲賀の中枢を押さえた今、六角の背後は崩れたも同然。
戦は、終わった。
(次は、桑名を奪い返す……)
一益は静かに前を見据える。
北勢の沈静化――その先には、長島願証寺との戦いが待っている。
だが、胸の奥に、何かざわめくものがあった。
(三九郎――あやつの真意は、まことに風花を逃がすためだったのか…)
まだ何かが、終わっていない。背後から影がついてきているような気配すらある。
「殿。出立の刻は」
義太夫の声が思考を引き戻した。
「あす朝一番。甲賀を出る」
一益はそう告げると、風花の手をそっと握った。
風花が微笑み返す。そのとき、山村一朗太が駆け寄ってきた。
「殿、ただいま城下にて不審な影を見たとの報せ……」
「誰かの見間違いであろう」
一益は首を振ったが、しかし――
山風が、ひと呼吸だけ止んだ。夕陽の端で、黒ずくめを——見た。
(――まだ、終わってはおらぬな)
一益は、すでに鞘に収めた太刀の柄を、そっと握り直した。
一年前、小木江から落ち延びた風花は『滝川家の縁者』と名乗る甲賀者に救われ、そのまま各所を転々とした。危害を加えられることはない。だが帰してもくれない——そう悟るまでに、長くはかからなかった。
音羽城に忠三郎たちが来たことに気づき、一朗太に八郎を託し、なんとか居場所を伝えたいと途中途中に折鶴を落としてきたのだが。
結局、助けがくることはなく、風花は三九郎に連れられて、また甲賀に戻ってきた。
(忠三郎殿は見つけてくだされたじゃろうか)
風花は、風花と吹雪の見分けもつけられない忠三郎にはあまり期待していない。父の信長や一益が高く評価しているのを知ってはいても、吹雪の便りで知る忠三郎はいかにも頼りがいなく、評判通りとは思えなかった。
(殿に…殿に知らせねば…)
風花は懐から大事そうに笛を取り出し、吹き始めた。
「風花殿、飯じゃ」
三九郎が皿を盆に載せて運んできた。
「餅じゃ。風花殿が好きだと聞いた」
素朴な一言。だが、その声音や仕草のどこかに、かすかに一益の面影があった。
(やはり……)
風花は一口餅を口に運び、意を決して切り出した。
「三九郎殿。そなたは我が殿――滝川左近の縁者と仰せであったな。ならば、何故わらわを殿の元へ帰してくださらぬのじゃ?」
三九郎は目を伏せた。困ったように唇をきつく結び、絞り出すように答える。
「風花殿がおれば、左近は甲賀に手を出せぬ、と聞いた」
「殿は甲賀の敵ではない。そなた、殿に会うて話してみてはどうじゃ」
風花のまっすぐな言葉に、三九郎はわずかにたじろいだ。
「滝川左近に会えば……わしは殺められる」
「なぜ?」
風花は目を見開いた。三九郎は肩を落とす。
「左近には八郎という嫡子がいる。わしなど…忌むべき存在じゃ。左近にとって、わしは……邪魔者でしかない」
風花はしばらく三九郎の顔を見つめた。
(やはり……)
物静かで、決して強い口調を使わぬ三九郎。だが、その心の内は複雑だった。
風花は柔らかく口を開いた。
「殿は寡黙なお方じゃ。無駄なことは語らぬゆえ、誤解されやすい。世の人は恐れ、悪く言う者も多い。されど、まことは――」
風花は胸に手を当てた。
「家臣を理不尽に罰したことは一度もない。無駄な戦を嫌い、民の声に耳を傾けられるお方。殿に命を救われた者は数知れぬ。わらわも、そのひとり。殿は、斬らずに済む道を探すお方じゃ」
三九郎は目を伏せたまま言った。
「……わしが聞かされてきた左近は、博打にふけり、弟や叔父を葬って甲賀を逃げたと。血も涙もない無法者と……」
三九郎の声は、どこか怯えたようでもあった。
風花は静かに首を振った。
「それは、そなたが聞かされてきた顔にすぎぬ。人は見たいように語るものじゃ。けれど、殿を直接知る者なら、誰もそのようには言わぬ」
三九郎が目を伏せたまま黙しているのを見て、風花は少し語調を強めた。
「『卒を視ること愛子の如し、故にこれと惧《とも》に死すべし』。殿が、常に口にされる言葉じゃ」
「それは?」
「孫子じゃ。甲斐の武田でも孫子を学ぶと言うが、孫子は戦をせずして勝つ道を説いておる、と殿は常々仰せになる」
『卒を視ること嬰児の如し、故にこれと深谿《しんけい》に赴くべし。卒を視ること愛子の如し、故にこれと惧《とも》に死すべし』。孫子の地形篇にある一節だ。将が兵を赤子のように思い、大事にすれば、兵はたとえ深い谷へでも共に赴く。わが子のように慈しめば、死をもいとわず共に戦う。孫子は、普段から将が兵を思いやることの大切さを説いている。
一益が生まれ育ったこの滝城。かつて、奥座敷の一角に、父の居間であったと伝え聞いた部屋があり、そこに古びた巻物が並んでいたのを三九郎は思い出した。確かに、その中に『孫子』と書かれたものがあった。
「我が殿は、戦を避ける知を何よりも重んじておられる。戦さが長引けば長引くほど、民が泣く。殿は、無用の殺生を何よりも嫌うておるのじゃ。そなたは殿を誤解しておる。のう、わらわが口添えするゆえ、殿に会うてみよ」
風花は信長の娘らしく、強引に話をもっていこうとする。三九郎は黙したまま、何かを押し殺すように立ち上がった。
風花はその背を見送りながら、そっと胸の笛に手を添えた。
***
三九郎は、ひとり滝城の奥へと向かった。父、一益が若き日に暮らしていたという一室。今では埃をかぶった書棚と、人の気配のない薄暗い空間だけが残っている。
部屋の隅、黒ずんだ桐の文箱の中に、何本かの巻物が丁寧に並べられていた。
その中に――あった。「孫子」と記された表紙。
三九郎はおそるおそるその巻物を開いた。紙は時の流れで黄ばみ、文字の一部は薄れていたが、地形篇の中に、風花が言ったその一節が確かに記されていた。古紙の乾いた匂いが、胸の奥にゆっくり沈む。
「卒を視ること嬰児の如し……」
口の中でそっとなぞるように読みながら、三九郎は巻物をそっと胸に抱いた。
恐ろしいと思っていた滝川左近。その人が、かつてこの場所で、この巻物に目を通していたのか。
(……わしは、何を怖れていたのじゃ……)
ふと、そんな思いが胸をよぎる。
暗がりの中で、微かに差し込む陽光が、巻物の文字を照らしていた。
にわかに外が騒がしくなった。近づいてくる足音が聞こえ、
「三九郎殿!」
声とともに襖が勢いよく開け放たれた。
「重丸殿か。如何いたした」
三九郎が顔を上げると、重丸が片足を引きずりながら部屋へと入ってくる。
「その足は、先日の音羽城での傷か」
三九郎が問うと、重丸は苦笑しながら応じた。
「手裏剣が刺さっただけで、大したことはないと思うたが……日に日に腫れが酷くなっておる」
見ると、重丸の足首は赤黒く腫れ上がり、熱を帯びている。
三九郎は頷きながら、懐から毒消しの包みを取り出し、重丸に差し出した。
(手裏剣に毒が塗ってあったのか……)
やはり滝川一益は恐ろしい。三九郎は無意識のうちに身震いした。
重丸は苦虫を噛み潰したような顔で、懐から一通の文を取り出し、三九郎に差し出した。
「忠三郎から文が届いた」
甲賀衆に対し、忠三郎が和睦の話を持ちかけてきたというのだ。
文書には、三つの条件が記されていた。
一、信長公の狙撃を行った者を差し出すこと
一、甲賀衆は六角家と手を切り、織田家に従うこと
一、人質(風花と八郎)を速やかに返還すること
三九郎は文を読み終えると、低くつぶやいた。
「これは和睦ではなく、恭順じゃ。……杉谷家がよしとは思うまいが」
文の末尾には、交渉が決裂した場合は、攻め滅ぼすと明記されていた。
ふと、三九郎の目が、重丸の手にあるもう一通の文に留まった。
「…そのもう一通は?」
重丸の親指が、紙の端を無意味に往復した。
重丸は一瞬、わずかに身を引き、文を背中に隠すようにして言った。
「これは……わし宛てのものじゃ」
「滝川左近はともかく、柴田や蒲生が攻め込んでくるやもしれぬな」
三九郎の声に、重丸が苦々しげに応じた。
「ようは脅しか。望むところ。ここは甲賀。寄せ手に滝川勢がいなければ、柴田や蒲生などは恐るるに足りず」
「ではわしが先手を取ろう」
重丸は踵を返し、去っていった。
部屋には再び静けさが戻り、ふと目の端に映った巻物へと手を伸ばした。
先ほど開いていた『孫子』。埃をかぶったその紙面を、もう一度めくってみる。
薄暗い室内に、差し込む陽がゆるやかに文字を浮かび上がらせる。
「主は怒りを以て師を興すからず。将は慍《いきどお》りを以て戦いを致すべからず。」
その一節が目に留まり、三九郎の胸に静かに沈んだ。
君主たる者は怒りに任せて戦を始めるべきではない。将たる者は、憤りに飲まれてはならない――
蒲生快幹も、重丸も、皆が己の感情に従って刀を抜こうとしている。
だが本当に、それでよいのか。
巻物の文字を指先でなぞりながら、三九郎は目を伏せた。
かつては、この滝城に、父がいたという。けれども、三九郎が滝城に迎えられたときには、すでにその人影はなかった。
ただ、城の柱や書の並ぶ棚の隅々に、どこか冷たい――それでいて、強く張り詰めた空気のようなものが残っている。
父が確かにここにいたという証。
「滝川の殿は、よくこの巻物を読んでおられた」
と、かつて甲賀の古老がそう言っていた。
だが、産みの母は一度もこの城を訪れることはなかった。村の片隅で静かに暮らしていた娘だったと聞いている。
父が何げなく声をかけたのがすべての始まり。母は名を伏せ、三九郎をこの世に残して病に倒れた。それを見かねた滝川義太夫が、祖母である滝御前に話をつけて三九郎を引き取った――というのが真実らしい。
父とは言えぬ、会ったこともない男。
それでも、この巻物を前にすると、不思議とその人の気配が伝わってくるようだった。
静かに巻物を巻き直し、机の上に置くと、三九郎は立ち上がった。
風花の言葉が脳裏に蘇る。
――「そなたは殿を誤解しておる。のう、わらわが口添えするゆえ、殿に会うてみよ」――
誤解か。
だとしても、自分はどれだけ知ろうとしてきたのだろうか。
この戦が始まる前に、もう一度だけ、あの男を見ておきたい――
そんな衝動が、胸の奥でじわりと膨らんでいた。
****
伊勢四日市・安国寺。
甲賀攻めの準備が着々と進むなか、山村一朗太が駆け戻ってきた。
「御台様を連れ戻すには至りませなんだ……あと一歩のところで、連れ去られましてござりまする」
悔しさを噛みしめるように一朗太が報告する。衣には土と血の跡が混ざり、逃走劇の険しさを物語っていた。
「…で、助太郎が放った手裏剣で、重丸は傷を負ったのじゃな?」
「はい。足を引きずって逃げ去る賊を、助太郎がこの目で見ておりまする。鶴殿の挙動から見ても、あの賊は恐らく重丸かと」
「然様か」
一益は短くそう返事をすると、一朗太が持ち帰った風花の打掛と折鶴を手に取った。風花が嫁入りのときに岐阜から持参した大切な品だ。その打掛には、まだ微かに香が残っている。
(風…そなたは、わしに見つけてほしかったのか)
自らを囮にし、一朗太と八郎を逃がした風花。この打掛は「待っている」と、そう告げているように思えた。
「八郎が無事でよかった。一朗太、大儀であった。今は、休め」
一益の声に、一朗太は深く頭を下げて部屋を下がった。
しばらくして、義太夫が顔を曇らせながら進み出た。
「殿、如何なされます。このまま攻め入れば、御台様が人質として―」
一益は聞こえていないかのように応じない。
「殿…?」
「乗り込むか……」
「は? え、今のは思案の声にて? それとも合図にて?」
一益は答えず、そっと打掛を抱き直した。
「秀重を呼べ」
一益のひと言に、義太夫は小さくうなずき、すぐさま津田秀重の元へ走った。
***
甲賀、滝城。
蒲生勢が土山を越え、数百の軍勢が甲賀衆の支城を焼き払っていた。
峠を越えた向こう側からは滝川勢。伊勢路から間道を伝ってすでに水口に迫るという。
滝城の空気は張り詰めていた。
城門は厳重に閉ざされ、兵たちは表情を硬くし、城内の通路には甲賀者たちが忍び歩く。
重丸は館の一室で地図を広げ、三九郎と対峙していた。
「滝川は今宵か、明朝には水口を抜ける。左近のことじゃ、手は抜かぬ。……待ち構えるのか、退くのか、三九郎殿」
三九郎は言葉を返さなかった。
重丸の顔をただ無言で見つめ、数拍置いてからそっと地図を巻く。
「風花殿は」
重丸が問うと、三九郎は城の奥を顎で指した。
「変わらぬ。何も、口にせぬ」
***
風花は、薄暗い座敷にひとり静かに腰を下ろしていた。障子の向こうで風が鳴り、遠くから銃声が響く。
誰かが走る音、甲高い命令の声が断片的に届いてくる。けれど、この部屋だけは異様な静けさに包まれていた。
やがて風花は、懐から小さな笛を取り出した。唇に当てて息を吹き込むと、か細い音が空気を切り裂くように広がっていく。
それは、まるで――誰かに届くのを願う祈りのようでもあった。
「風花殿」
襖が静かに開き、三九郎が現れる。
「滝川左近の軍勢が、この城めがけて向こうております」
三九郎は気の毒そうに風花を見やった。
「やはり左近は鬼じゃな」
そして、少し躊躇した後、言葉を続ける。
「……風花殿。左近に、見捨てられたな」
だが風花はその言葉が聞こえていないかのように、静かに笛を取り出し、再び音を奏でた。
三九郎はその姿を一瞥し、何も言わずに部屋を後にする。
外からは断続的に銃声が響いていた。
それでも風花の笛の音は、止まることがなかった。
風花の笛が、寂しく響く。
その音は、闇に沈む滝城の中を、静かに満たしていた。
だがその頃すでに、一益は動いていた。
素破姿の一益は、闇に紛れ、素破たち数名とともに滝城の堀を這い上がっていた。
人知れず築かれた間道――わずかに残された、かつての抜け穴の一つを使い、誰にも気づかれぬよう城内へと忍び込んだのだ。
「敵の見回りは、四半刻ごと。今しがた通ったばかりにて、しばらくは現れますまい」
一朗太が耳打ちする。
一益は小さく頷き、無音のまま走り出す。影が風に溶けるように、廊下を滑り抜ける。
どれほどの時が過ぎたか。
三九郎が去ってまもなく、城のどこかが騒がしくなり始める。
途中、番兵とすれ違いそうになった瞬間――
「――くっ」
一益が放った手裏剣が無音のまま敵の喉元に突き刺さる。
倒れた兵を受け止めたのは山村一朗太。音を立てぬように躯を壁際に隠し、即座に動き出す。
目指すは、風花が囚われている広間。城の間取りはすべて頭に入っている。だが、油断はならない。
「御台様は東棟の三の間。扉には杉谷の印があると」
助九郎が低く囁いた。
「開錠はそれがしが。――殿、お頼み申し上げます」
一朗太が懐から針金を取り出し、錠前にそっと触れさせる。錠の中で、砂を噛むような微かな音がした。ほどなく閂が外れ、襖が、音もなく引かれる。
部屋の奥――風花が、気づかず笛を吹いていた。
「風!」
一益の声が小さくも鋭く響き、風花がはっと振り向く。
「と、殿、そのお姿は……」
「忘れたか。わしは素破じゃ」
一益が風花の両肩を掴み、目を覗き込む。
「待たせた」
風花は首を横に大きく振ると、かすれた声で応えた。
「きっと殿が……来てくださると……信じておりました」
その目に、涙が溢れた。
「参ろう」
一益は風花の手を取り、静かに立ち上がらせる。そのとき風花はふと足を止めた。
「あの方は、わざと……わらわを残して行かれたのです。不憫と思い、殿のもとへ返そうとされたのでしょう。殿。どうか——三九郎殿を救ってやってくだされ」
一益は短くうなずいた。
「……うむ」
その瞬間、襖の向こうで鋭い叫び声と足音が響いた。
「敵襲――!」
見回りの兵に気づかれたのだ。
「風花、こちらへ!」
一益が叫び、風花の手を引く。
「助九郎、一朗太、殿を援護せよ!」
助太郎の声とともに、弓矢が飛ぶ。闇の中、短く火花が散る。
「天井裏を通る。皆、後に続け!」
一益は風花を抱きかかえ、広間の梁を蹴って跳びあがる。梁がひと呼吸だけ呻き、静まる。ふたりは開かれた天井の隙間へ、影のように滑り込んだ。
城内の喧騒は、次第に広がっていく。
だがそれも束の間。囮として残された津田秀重の指揮により、滝川勢の影武者隊が堂々と城門を制圧した時、城はすでに――空になっていた。
* ****
勝手知ったる滝城の裏手――
城門の前には、兵を率いた義太夫が待っていた。
「御台様。ご無事で……」
義太夫が深く頭を下げたあと、一益に向き直る。
「殿、杉谷衆はすでに逃げており、城はもぬけの殻でございます」
「……致し方あるまい」
一益は低く答える。
「もはや我らに逆らう甲賀者は、杉谷衆のみよ」
三九郎も、重丸も、すでに姿を消していた。
だが、甲賀の中枢を押さえた今、六角の背後は崩れたも同然。
戦は、終わった。
(次は、桑名を奪い返す……)
一益は静かに前を見据える。
北勢の沈静化――その先には、長島願証寺との戦いが待っている。
だが、胸の奥に、何かざわめくものがあった。
(三九郎――あやつの真意は、まことに風花を逃がすためだったのか…)
まだ何かが、終わっていない。背後から影がついてきているような気配すらある。
「殿。出立の刻は」
義太夫の声が思考を引き戻した。
「あす朝一番。甲賀を出る」
一益はそう告げると、風花の手をそっと握った。
風花が微笑み返す。そのとき、山村一朗太が駆け寄ってきた。
「殿、ただいま城下にて不審な影を見たとの報せ……」
「誰かの見間違いであろう」
一益は首を振ったが、しかし――
山風が、ひと呼吸だけ止んだ。夕陽の端で、黒ずくめを——見た。
(――まだ、終わってはおらぬな)
一益は、すでに鞘に収めた太刀の柄を、そっと握り直した。
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