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第3話 記憶のない名と告白
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雪の谷に、ようやく穏やかな日差しが戻っていた。
吹雪が収まって3日。
館の空気は、どこか柔らかくなっている。
その日の午後、体調が完全に回復したミカは執事に呼ばれて客間を出た。
扉を開けると、広間には館の使用人たちが並んでいた。
皆、暖炉の火を背にして、穏やかな笑みを浮かべている。
その中央に、黒い外套をまとったダリウスが立っていた。
「ミカ」
「……はい」
「改めて、紹介しておこう。彼らはこの館で働く者たちだ。
お前を家族の一員として迎える以上、互いに顔を知っておくべきだと思ってな」
その言葉に、ミカの胸が熱くなった。
“家族の一員”――
この世界で、そんなふうに言われたのは初めてだった。
使用人たちは順に名乗り、軽く会釈をしてくれた。
誰もがあたたかい目で彼を見ていた。
リアムがその列の端から駆け寄り、「ミカ、ぼくの部屋にも今度来てね!」と笑う。
笑い声が広間に小さく響いた。
ほんの一瞬、夢のように穏やかな時間だった。
だが、ダリウスの瞳が静かに彼を見つめる。
「ミカ」
「……はい」
「君のことを、少し教えてくれないか。」
その声は責めるものではなく、
ただ“知ろうとする”優しい響きだった。
ミカは両手を膝の上で握りしめた。
「皆さんに、本当に良くしていただいて……感謝しています。
でも……」
そこまで言って、言葉が途切れる。
静寂が落ちた。
暖炉の薪がぱちりと音を立てた。
ダリウスは少し歩み寄り、柔らかな声で言う。
「安心しろ。ここにはお前を傷つけるような者はいない」
その言葉に、ミカの喉の奥が熱くなった。
恐怖ではなく、あたたかさに押し流されそうになる。
ゆっくりと息を吸い、勇気を出して口を開く。
「……僕は、ミカとしての記憶がありません。」
その瞬間、広間の空気がわずかに揺れた。
「この世界とは、別の世界での記憶しかないのです。
信じられないかもしれないですが……僕自身、どうしていいのか分からないんです」
ミカの瞳から、一粒の涙がこぼれた。
頬を伝って、静かに落ちる。
「気がついたら知らない場所にいて、知らない人たちに囲まれて……
でも、前の世界のことだけは鮮明に覚えていて。
村の人たちはそれを恐れました。
僕を“気味が悪い”と言って、家を追い出しました」
声が震える。
言葉を紡ぐたびに、過去の痛みが溢れ出す。
「歩くしかなくて……
誰にも見つからずに、消えてしまいたいと思って……
でも、あなたが、助けてくれた」
ミカは顔を上げた。
涙に濡れた瞳が、まっすぐダリウスを映す。
「どうして僕なんかを、助けてくれたんですか……?」
ダリウスは少しのあいだ黙っていた。
やがて静かに息を吐き、椅子を引いた。
そのままミカの隣に腰を下ろす。
「……理由を言葉にするのは、難しいな」
低い声が、暖炉の音に溶ける。
「ただ、あの夜、お前を見たとき――助けなければいけないと思った。
それだけだ」
それは冷静な説明ではなく、人としての、まっすぐな想いだった。
ダリウスはそっと肩に手を置いた。
驚くほど大きく、温かい手だった。
「大丈夫だ。分かっていることだけでいい。
今の自分を、ゆっくり話してくれ。」
その優しい声に、今まで抑えてきた感情が一気に溢れた。
ミカの身体が震え、涙が止まらなくなる。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
言葉にならない嗚咽が、静かな部屋に響く。
ダリウスは何も言わず、彼の肩を抱いた。
まるで壊れものを包むように。
リアムが心配そうに駆け寄り、ミカの手を握った。
「泣かないで……ミカ」
その小さな手の温かさが、痛いほどにやさしい。
ダリウスはリアムの頭を撫でながら、ゆっくりと告げた。
「――ゆっくりでいい。ちゃんと教えてくれ。」
ミカは涙の中でうなずいた。
そして、途切れ途切れの言葉で、少しずつ語り始めた。
自分が覚えている“前の世界”のこと。
教壇に立っていたこと。子どもたちの笑い声。
帰り道に降っていた大雨のこと。
気がつけば雪の世界にいて、別の名前を名乗っていたこと。
聞いている者たちは誰ひとりとして嘲らなかった。
皆、ただ静かに耳を傾けていた。
やがて語り終えると、ミカの肩の力が抜け、長い吐息が零れた。
「……それが、僕のすべてです。」
沈黙ののち、ダリウスは言った。
「分かった。お前がどこの誰であろうと、ここでは“ミカ”だ」
その言葉が胸に沁みた。
名を与えられたような感覚だった。
ダリウスは立ち上がり、暖炉にくべた薪の火を見つめながら続けた。
「この館では、過去は問わない。
今ここにいる者が、互いに支え合えばそれでいい。」
ミカは涙の跡を袖で拭い、かすかに笑った。
「……ありがとうございます。
僕、ここで……もう一度やり直したいです。」
リアムがぱっと笑顔を見せた。
「じゃあ、今日からミカはぼくの先生だね!」
「せ、先生?」
「うん!ミカ、先生だったんでしょう? 文字、教えて!」
笑い声が弾けた。
重かった空気がふっと軽くなる。
ダリウスも口元を緩め、「悪くない役目だな」と静かに呟いた。
暖炉の火がまたひときわ明るく揺れた。
雪の国の館に、ようやく新しい春の音が、ほんの少しだけ届いたようだった。
吹雪が収まって3日。
館の空気は、どこか柔らかくなっている。
その日の午後、体調が完全に回復したミカは執事に呼ばれて客間を出た。
扉を開けると、広間には館の使用人たちが並んでいた。
皆、暖炉の火を背にして、穏やかな笑みを浮かべている。
その中央に、黒い外套をまとったダリウスが立っていた。
「ミカ」
「……はい」
「改めて、紹介しておこう。彼らはこの館で働く者たちだ。
お前を家族の一員として迎える以上、互いに顔を知っておくべきだと思ってな」
その言葉に、ミカの胸が熱くなった。
“家族の一員”――
この世界で、そんなふうに言われたのは初めてだった。
使用人たちは順に名乗り、軽く会釈をしてくれた。
誰もがあたたかい目で彼を見ていた。
リアムがその列の端から駆け寄り、「ミカ、ぼくの部屋にも今度来てね!」と笑う。
笑い声が広間に小さく響いた。
ほんの一瞬、夢のように穏やかな時間だった。
だが、ダリウスの瞳が静かに彼を見つめる。
「ミカ」
「……はい」
「君のことを、少し教えてくれないか。」
その声は責めるものではなく、
ただ“知ろうとする”優しい響きだった。
ミカは両手を膝の上で握りしめた。
「皆さんに、本当に良くしていただいて……感謝しています。
でも……」
そこまで言って、言葉が途切れる。
静寂が落ちた。
暖炉の薪がぱちりと音を立てた。
ダリウスは少し歩み寄り、柔らかな声で言う。
「安心しろ。ここにはお前を傷つけるような者はいない」
その言葉に、ミカの喉の奥が熱くなった。
恐怖ではなく、あたたかさに押し流されそうになる。
ゆっくりと息を吸い、勇気を出して口を開く。
「……僕は、ミカとしての記憶がありません。」
その瞬間、広間の空気がわずかに揺れた。
「この世界とは、別の世界での記憶しかないのです。
信じられないかもしれないですが……僕自身、どうしていいのか分からないんです」
ミカの瞳から、一粒の涙がこぼれた。
頬を伝って、静かに落ちる。
「気がついたら知らない場所にいて、知らない人たちに囲まれて……
でも、前の世界のことだけは鮮明に覚えていて。
村の人たちはそれを恐れました。
僕を“気味が悪い”と言って、家を追い出しました」
声が震える。
言葉を紡ぐたびに、過去の痛みが溢れ出す。
「歩くしかなくて……
誰にも見つからずに、消えてしまいたいと思って……
でも、あなたが、助けてくれた」
ミカは顔を上げた。
涙に濡れた瞳が、まっすぐダリウスを映す。
「どうして僕なんかを、助けてくれたんですか……?」
ダリウスは少しのあいだ黙っていた。
やがて静かに息を吐き、椅子を引いた。
そのままミカの隣に腰を下ろす。
「……理由を言葉にするのは、難しいな」
低い声が、暖炉の音に溶ける。
「ただ、あの夜、お前を見たとき――助けなければいけないと思った。
それだけだ」
それは冷静な説明ではなく、人としての、まっすぐな想いだった。
ダリウスはそっと肩に手を置いた。
驚くほど大きく、温かい手だった。
「大丈夫だ。分かっていることだけでいい。
今の自分を、ゆっくり話してくれ。」
その優しい声に、今まで抑えてきた感情が一気に溢れた。
ミカの身体が震え、涙が止まらなくなる。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
言葉にならない嗚咽が、静かな部屋に響く。
ダリウスは何も言わず、彼の肩を抱いた。
まるで壊れものを包むように。
リアムが心配そうに駆け寄り、ミカの手を握った。
「泣かないで……ミカ」
その小さな手の温かさが、痛いほどにやさしい。
ダリウスはリアムの頭を撫でながら、ゆっくりと告げた。
「――ゆっくりでいい。ちゃんと教えてくれ。」
ミカは涙の中でうなずいた。
そして、途切れ途切れの言葉で、少しずつ語り始めた。
自分が覚えている“前の世界”のこと。
教壇に立っていたこと。子どもたちの笑い声。
帰り道に降っていた大雨のこと。
気がつけば雪の世界にいて、別の名前を名乗っていたこと。
聞いている者たちは誰ひとりとして嘲らなかった。
皆、ただ静かに耳を傾けていた。
やがて語り終えると、ミカの肩の力が抜け、長い吐息が零れた。
「……それが、僕のすべてです。」
沈黙ののち、ダリウスは言った。
「分かった。お前がどこの誰であろうと、ここでは“ミカ”だ」
その言葉が胸に沁みた。
名を与えられたような感覚だった。
ダリウスは立ち上がり、暖炉にくべた薪の火を見つめながら続けた。
「この館では、過去は問わない。
今ここにいる者が、互いに支え合えばそれでいい。」
ミカは涙の跡を袖で拭い、かすかに笑った。
「……ありがとうございます。
僕、ここで……もう一度やり直したいです。」
リアムがぱっと笑顔を見せた。
「じゃあ、今日からミカはぼくの先生だね!」
「せ、先生?」
「うん!ミカ、先生だったんでしょう? 文字、教えて!」
笑い声が弾けた。
重かった空気がふっと軽くなる。
ダリウスも口元を緩め、「悪くない役目だな」と静かに呟いた。
暖炉の火がまたひときわ明るく揺れた。
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