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第8話 夜の温室
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夜の館は、静寂に包まれていた。
外はまだ冷たい風が吹き抜けているが、温室の中だけは、昼の陽射しのぬくもりを抱いていた。
ガラス越しに映る月は、白い光を落とし、咲き始めた花々の影を床に映している。
小さなスノードロップの蕾が、ほのかに開きかけていた。
「……もう、咲きそうだね」
ミカはしゃがみ込み、花の茎に指をそっと添えた。
まだ冷たいけれど、命の鼓動を感じる。
この場所に、春が訪れたのだ。
リアムが寝静まったあと、どうしてもこの花の様子が気になって、つい足を運んでしまったのだった。
温室の扉の外では、夜の風が鳴る。
ミカは息を吐き、月を見上げる。
「……“ゆう”として生きていたときも、
きっとこんな夜、あったんだろうな……」
ぽつりとこぼれた言葉が、静けさに溶けて消える。
そのとき、背後で足音がした。
「こんな時間に、どうした?」
振り向くと、ダリウスが立っていた。
寝間着の上に外套を羽織り、手にはランタンを持っている。
柔らかな光が、彼の灰色の瞳を照らしていた。
「あ……すみません。眠れなくて……花の様子を見に来ました。」
「体調でも悪いのか?」
「いいえ、体調は大丈夫です」
「そうか、ならいい。お前は……笑顔が一番似合う」
「なっ……、そ、そんなこと!」
ミカは真っ赤な顔になって、俯く。
その赤らめた顔に、ダリウスの表情がわずかにやわらいだ。
彼は静かに温室へ足を踏み入れた。
夜気が少し動き、ランタンの炎が揺れる。
「咲いているな」
「はい、スノードロップです。冬の終わりを知らせる花なんです」
「……雪の国に、春を告げる花か」
二人は並んで花壇を見下ろした。
白い小さな花が、夜の光に浮かび上がっている。
ミカがそっと言う。
「この花、意味があるんです。――“希望”って」
ダリウスがその言葉に目を向けた。
「希望、か」
「はい。どんなに寒くても、春は必ず来る。
……それを信じて咲く花なんです」
ミカの声は穏やかだった。
その言葉の奥にはこれまでの孤独や痛みが、そっと滲んでいた。
ダリウスは少しの沈黙のあと、まっすぐにミカを見つめた。
「……ミカ」
「はい」
「お前の“本当の名前”は、なんというんだ?」
ミカは驚いたように目を見開く。
「どうして……」
「この館で“ミカ”として生きることを選んだお前が、
それでも時々、何かを思い出すように空を見ている。
……だから、気になっていた」
ミカはしばらく言葉を失った。
指先で花弁をなぞり、小さく息を吸い込む。
「……“ゆう”です」
「ゆう」
ダリウスがゆっくりとその名を繰り返す。
その声音に、ミカの心臓が大きく鳴った。
「日本という国の……僕が生きていた世界の名前です」
「そうか。綺麗な名だ」
その一言が、思いがけないほど優しく響いた。
ミカは唇を震わせた。
「……ありがとうございます。」
ダリウスはほんの少し視線を落とし、小さく息をついたあとで言った。
「ゆう」
呼ばれた瞬間、胸の奥に何かが溶けていくような感覚があった。
まるで長い間、誰にも呼ばれなかった名前が、ようやく居場所を見つけたようだった。
「2人のときは、“ゆう”と呼んでいいか?」
その低い声が、夜の静けさの中でまっすぐに響く。
ミカの言葉はほとんど音にならず、ただ小さく頷いた。
「……はい」
胸の奥からあたたかいものがあふれてきた。
涙がひとすじ、頬を伝って落ちる。
ダリウスが驚いたように目を見開く。
「泣いているのか?」
「……ごめんなさい。嬉しくて。
本当の名前を、もう二度と誰にも呼ばれないと思ってたから」
ミカは恥ずかしそうに笑って、ダリウスを見た。
「僕、“ゆう”としても、“ミカ”としても、
ここにいていいんだって思えたから……」
その言葉に、ダリウスはそっと手を伸ばした。
指先で、ミカの涙を拭う。
温かい掌が、頬に触れる。
「お前がどの名であっても、変わらない」
静かな声が、胸の奥を震わせる。
「この館に、お前がいてくれることが――嬉しい」
その言葉にミカの目からまた一粒、涙がこぼれた。
それを見たダリウスが、小さく笑って「泣き虫だな」と囁く。
温室のガラスに、月光が反射して揺れた。
咲き始めた花々が、二人の影を淡く照らす。
「ありがとう……ございます」
そっとミカの涙を拭い、上を向かせた。
ダリウスはそのままミカの頬を撫でながら、呟くように言った。
「俺のことも、ダリウスと呼んでくれないだろうか……」
「え?」
「……俺のことを名前で呼んでくれ、と言ったんだ」
「そ、それはさすがに……」
「なぜ?……2人の時だけでいい。名前で呼んでほしい」
「……あ、え?」
ダリウスの低い声と熱が籠った視線にミカは身体の力が抜け、その場に座り込みそうになった。
瞬時に力強い腕がミカの腰を支え、引き寄せられる。
ダリウスに抱き締められるような形になり、ミカはあまりの驚きに涙は止まり、思考停止状態になる。
「どうした?大丈夫か?」
「……」
「ゆう?」
「……あ、あの」
「名を。ほら、早く」
至近距離で視線が重なる。ほんの少しだけ意地悪な顔をしたダリウスがミカを急かす。
そんなダリウスに、ミカは窒息しそうなくらい激しい胸の動悸に眩暈がする。
この甘い拘束は呼ぶまで解放されないと察したミカは意を決して、呼んでみることにした。
「……ダ、ダリウス様」
上目遣いで名を呼ばれ、ダリウスはその可愛さに思わず、キスをしてしまいそうになるのを耐えた。
代わりにミカの柔らかな髪に指を絡ませる。
「……名前を呼ばれるのは、悪くないな」
「本当にもう……恥ずかしいです」
ダリウスは自分の腕の中で真っ赤な顔をするミカが可愛くて、なかなか腕を離せなかった。
「あの、ダ、ダリウス様?……明日リアムくんと3人でお花を見れたら、嬉しいです」
「あぁ、時間作ろう」
「ありがとうございます」
ミカは嬉しそうに微笑んだ。
ダリウスは名残惜し気にミカを解放する。
「もう遅い。部屋まで送ろう」
「……はい」
――このまま、一緒に居られたら……
(……え?今、自分は何を思って?もしかして……僕……)
外の風がやわらかく窓を叩く。
春の香りがほんの少しだけ混じっていた。
外はまだ冷たい風が吹き抜けているが、温室の中だけは、昼の陽射しのぬくもりを抱いていた。
ガラス越しに映る月は、白い光を落とし、咲き始めた花々の影を床に映している。
小さなスノードロップの蕾が、ほのかに開きかけていた。
「……もう、咲きそうだね」
ミカはしゃがみ込み、花の茎に指をそっと添えた。
まだ冷たいけれど、命の鼓動を感じる。
この場所に、春が訪れたのだ。
リアムが寝静まったあと、どうしてもこの花の様子が気になって、つい足を運んでしまったのだった。
温室の扉の外では、夜の風が鳴る。
ミカは息を吐き、月を見上げる。
「……“ゆう”として生きていたときも、
きっとこんな夜、あったんだろうな……」
ぽつりとこぼれた言葉が、静けさに溶けて消える。
そのとき、背後で足音がした。
「こんな時間に、どうした?」
振り向くと、ダリウスが立っていた。
寝間着の上に外套を羽織り、手にはランタンを持っている。
柔らかな光が、彼の灰色の瞳を照らしていた。
「あ……すみません。眠れなくて……花の様子を見に来ました。」
「体調でも悪いのか?」
「いいえ、体調は大丈夫です」
「そうか、ならいい。お前は……笑顔が一番似合う」
「なっ……、そ、そんなこと!」
ミカは真っ赤な顔になって、俯く。
その赤らめた顔に、ダリウスの表情がわずかにやわらいだ。
彼は静かに温室へ足を踏み入れた。
夜気が少し動き、ランタンの炎が揺れる。
「咲いているな」
「はい、スノードロップです。冬の終わりを知らせる花なんです」
「……雪の国に、春を告げる花か」
二人は並んで花壇を見下ろした。
白い小さな花が、夜の光に浮かび上がっている。
ミカがそっと言う。
「この花、意味があるんです。――“希望”って」
ダリウスがその言葉に目を向けた。
「希望、か」
「はい。どんなに寒くても、春は必ず来る。
……それを信じて咲く花なんです」
ミカの声は穏やかだった。
その言葉の奥にはこれまでの孤独や痛みが、そっと滲んでいた。
ダリウスは少しの沈黙のあと、まっすぐにミカを見つめた。
「……ミカ」
「はい」
「お前の“本当の名前”は、なんというんだ?」
ミカは驚いたように目を見開く。
「どうして……」
「この館で“ミカ”として生きることを選んだお前が、
それでも時々、何かを思い出すように空を見ている。
……だから、気になっていた」
ミカはしばらく言葉を失った。
指先で花弁をなぞり、小さく息を吸い込む。
「……“ゆう”です」
「ゆう」
ダリウスがゆっくりとその名を繰り返す。
その声音に、ミカの心臓が大きく鳴った。
「日本という国の……僕が生きていた世界の名前です」
「そうか。綺麗な名だ」
その一言が、思いがけないほど優しく響いた。
ミカは唇を震わせた。
「……ありがとうございます。」
ダリウスはほんの少し視線を落とし、小さく息をついたあとで言った。
「ゆう」
呼ばれた瞬間、胸の奥に何かが溶けていくような感覚があった。
まるで長い間、誰にも呼ばれなかった名前が、ようやく居場所を見つけたようだった。
「2人のときは、“ゆう”と呼んでいいか?」
その低い声が、夜の静けさの中でまっすぐに響く。
ミカの言葉はほとんど音にならず、ただ小さく頷いた。
「……はい」
胸の奥からあたたかいものがあふれてきた。
涙がひとすじ、頬を伝って落ちる。
ダリウスが驚いたように目を見開く。
「泣いているのか?」
「……ごめんなさい。嬉しくて。
本当の名前を、もう二度と誰にも呼ばれないと思ってたから」
ミカは恥ずかしそうに笑って、ダリウスを見た。
「僕、“ゆう”としても、“ミカ”としても、
ここにいていいんだって思えたから……」
その言葉に、ダリウスはそっと手を伸ばした。
指先で、ミカの涙を拭う。
温かい掌が、頬に触れる。
「お前がどの名であっても、変わらない」
静かな声が、胸の奥を震わせる。
「この館に、お前がいてくれることが――嬉しい」
その言葉にミカの目からまた一粒、涙がこぼれた。
それを見たダリウスが、小さく笑って「泣き虫だな」と囁く。
温室のガラスに、月光が反射して揺れた。
咲き始めた花々が、二人の影を淡く照らす。
「ありがとう……ございます」
そっとミカの涙を拭い、上を向かせた。
ダリウスはそのままミカの頬を撫でながら、呟くように言った。
「俺のことも、ダリウスと呼んでくれないだろうか……」
「え?」
「……俺のことを名前で呼んでくれ、と言ったんだ」
「そ、それはさすがに……」
「なぜ?……2人の時だけでいい。名前で呼んでほしい」
「……あ、え?」
ダリウスの低い声と熱が籠った視線にミカは身体の力が抜け、その場に座り込みそうになった。
瞬時に力強い腕がミカの腰を支え、引き寄せられる。
ダリウスに抱き締められるような形になり、ミカはあまりの驚きに涙は止まり、思考停止状態になる。
「どうした?大丈夫か?」
「……」
「ゆう?」
「……あ、あの」
「名を。ほら、早く」
至近距離で視線が重なる。ほんの少しだけ意地悪な顔をしたダリウスがミカを急かす。
そんなダリウスに、ミカは窒息しそうなくらい激しい胸の動悸に眩暈がする。
この甘い拘束は呼ぶまで解放されないと察したミカは意を決して、呼んでみることにした。
「……ダ、ダリウス様」
上目遣いで名を呼ばれ、ダリウスはその可愛さに思わず、キスをしてしまいそうになるのを耐えた。
代わりにミカの柔らかな髪に指を絡ませる。
「……名前を呼ばれるのは、悪くないな」
「本当にもう……恥ずかしいです」
ダリウスは自分の腕の中で真っ赤な顔をするミカが可愛くて、なかなか腕を離せなかった。
「あの、ダ、ダリウス様?……明日リアムくんと3人でお花を見れたら、嬉しいです」
「あぁ、時間作ろう」
「ありがとうございます」
ミカは嬉しそうに微笑んだ。
ダリウスは名残惜し気にミカを解放する。
「もう遅い。部屋まで送ろう」
「……はい」
――このまま、一緒に居られたら……
(……え?今、自分は何を思って?もしかして……僕……)
外の風がやわらかく窓を叩く。
春の香りがほんの少しだけ混じっていた。
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