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第3話 壊れた傘と夜明けの匂い
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夜半から降り出した雨は、予報よりもずっと強かった。
外灯の下で光る舗道はまるで水面のようで、車のヘッドライトが通るたびに一瞬だけ銀色に輝いた。
芹沢智也は、ビニール傘を斜めに傾けながら歩いていた。
仕事帰り、遅い時間に残業を終えても、帰る場所は変わらない。
自分の部屋、薄暗い灯り、無音の冷蔵庫。
誰もいない家は、雨の音が響くといっそう広く感じる。
せめて、あの店に寄ってから帰ろう。
そう思うようになったのは、いつからだろう。
傘の骨が風で折れ、カサリと嫌な音がした。
視界の端で布がめくれ、雨粒が頬を打つ。
ため息をつきながら、濡れた肩を気にせず歩いた。
ふと視線の先に、白い光が見える。
──あのコンビニだ。
蛍光灯の灯りは、どんな天気の日も変わらず眩しい。
冷たい雨の中でそこだけが、世界から切り離されたように暖かく見える。
自動ドアが開き、ピン、と電子音が鳴る。
冷たい空気から一歩足を踏み入れた瞬間、コーヒーと揚げ物の香りがふわりと包む。
智也は、思わず肩の力を抜いた。
「……いらっしゃいませ」
カウンターの奥、成瀬海が顔を上げる。
「雨、ひどいですね。」
その一言が、妙に心に沁みた。
智也は軽く頷きながら、髪についた水滴を指で払う。
「ええ、傘が壊れてしまいました」
「え、壊れたんですか?」
「はい。骨が折れて……もう、だめそうです」
そう言って笑ってみせたが、笑顔はうまく作れなかった。
海はしばらく彼の傘を見て、それから小さく息をついた。
「ちょっと待っててください」
そう言ってバックヤードに消える。
智也はその背中を見送りながら、指先の冷たさに気づいた。
外は寒い。
でも、今の一言に心が少しだけ温かくなっている。
海が戻ってきたのは数分後だった。
手には、黒い折りたたみ傘がひとつ。
「これ、使ってください。僕のです」
「……え?」
「帰るときに使わないと、風邪引きますよ」
「でも……あなたは?」
「朝には上がりそうだし、家も近いので濡れても平気です」
そう言って笑う。
無邪気な笑みだったが、どこかまっすぐで、嘘がない。
「いえ、悪いです。ただの客にそんな──」
「そんなことを言わないでください」
智也が言葉を詰まらせる。
海の声が、いつになく真剣だった。
「いつも来てくださってるじゃないですか。……それに、傘くらい、いいですよ」
海は差し出した傘を軽く振ってみせる。
手のひらから水滴が落ち、床に小さな跡を残した。
断りきれず、智也はゆっくりとそれを受け取った。
折りたたみ傘は、海の体温を含んでいたのか、ほんのり温かい。
「……ありがとうございます。」
そう言うと、海はふっと目を細めた。
その笑顔に、胸がじんわりと熱くなる。
レジの照明が二人の間に落ち、外の雨音が遠くに霞む。
智也は、言葉にできない想いを抱えたまま傘を握りしめた。
「返すの……またこの時間で、いいですか?」
自分でも驚くほど、自然にその言葉が口から出た。
海の表情が少し和らぐ。
「もちろん。僕、ここにいますから」
智也が外へ出ると、雨は少し弱まっていた。
海が貸してくれた傘の下は、まるで別世界のように静かだった。
布に当たる雨の音が、妙に優しい。
家までの道は短いのに、いつもより長く感じた。
足取りが軽い。
心の中で、繰り返し浮かぶのはあの笑顔と声。
──「僕、ここにいますから」
帰宅しても、その声が耳に残っていた。
机の上に傘をそっと置き、見つめる。
自分が人から何かを“借りた”のは、いつぶりだろう。
もしかすると、心まで預けてしまったのかもしれない。
智也は深く息を吐き、ソファに身を沈めた。
傘の持ち手には、まだ海の手の温もりが残っている気がする。
それが現実か幻かはどうでもよかった。
ただ、眠れない夜のはずが、今夜は少しだけ静かに目を閉じられそうだった。
***
一方、コンビニのバックヤードで海は小さく息をついた。
棚の影に置いた自分のもう一本の傘を見やって、苦笑した。
実はもう一本、予備の傘を持っていたのだ。
貸す口実が欲しかっただけ。
彼があの時間に現れるのを待っていた。
週に一度だけ会える“常連客”。
けれど、彼の無表情の奥にある静かな孤独を見ているうちに、自分までその世界に引き込まれてしまった。
──「返すの、またこの時間でいいですか」
あの言葉を思い出すと、胸の奥が熱くなる。
自分でも理由はわからない。
けれど、次の金曜が楽しみで仕方なかった。
──午前2時、コンビニの灯りの下で。
小さな約束が、二人の夜を繋ぎはじめていた。
外灯の下で光る舗道はまるで水面のようで、車のヘッドライトが通るたびに一瞬だけ銀色に輝いた。
芹沢智也は、ビニール傘を斜めに傾けながら歩いていた。
仕事帰り、遅い時間に残業を終えても、帰る場所は変わらない。
自分の部屋、薄暗い灯り、無音の冷蔵庫。
誰もいない家は、雨の音が響くといっそう広く感じる。
せめて、あの店に寄ってから帰ろう。
そう思うようになったのは、いつからだろう。
傘の骨が風で折れ、カサリと嫌な音がした。
視界の端で布がめくれ、雨粒が頬を打つ。
ため息をつきながら、濡れた肩を気にせず歩いた。
ふと視線の先に、白い光が見える。
──あのコンビニだ。
蛍光灯の灯りは、どんな天気の日も変わらず眩しい。
冷たい雨の中でそこだけが、世界から切り離されたように暖かく見える。
自動ドアが開き、ピン、と電子音が鳴る。
冷たい空気から一歩足を踏み入れた瞬間、コーヒーと揚げ物の香りがふわりと包む。
智也は、思わず肩の力を抜いた。
「……いらっしゃいませ」
カウンターの奥、成瀬海が顔を上げる。
「雨、ひどいですね。」
その一言が、妙に心に沁みた。
智也は軽く頷きながら、髪についた水滴を指で払う。
「ええ、傘が壊れてしまいました」
「え、壊れたんですか?」
「はい。骨が折れて……もう、だめそうです」
そう言って笑ってみせたが、笑顔はうまく作れなかった。
海はしばらく彼の傘を見て、それから小さく息をついた。
「ちょっと待っててください」
そう言ってバックヤードに消える。
智也はその背中を見送りながら、指先の冷たさに気づいた。
外は寒い。
でも、今の一言に心が少しだけ温かくなっている。
海が戻ってきたのは数分後だった。
手には、黒い折りたたみ傘がひとつ。
「これ、使ってください。僕のです」
「……え?」
「帰るときに使わないと、風邪引きますよ」
「でも……あなたは?」
「朝には上がりそうだし、家も近いので濡れても平気です」
そう言って笑う。
無邪気な笑みだったが、どこかまっすぐで、嘘がない。
「いえ、悪いです。ただの客にそんな──」
「そんなことを言わないでください」
智也が言葉を詰まらせる。
海の声が、いつになく真剣だった。
「いつも来てくださってるじゃないですか。……それに、傘くらい、いいですよ」
海は差し出した傘を軽く振ってみせる。
手のひらから水滴が落ち、床に小さな跡を残した。
断りきれず、智也はゆっくりとそれを受け取った。
折りたたみ傘は、海の体温を含んでいたのか、ほんのり温かい。
「……ありがとうございます。」
そう言うと、海はふっと目を細めた。
その笑顔に、胸がじんわりと熱くなる。
レジの照明が二人の間に落ち、外の雨音が遠くに霞む。
智也は、言葉にできない想いを抱えたまま傘を握りしめた。
「返すの……またこの時間で、いいですか?」
自分でも驚くほど、自然にその言葉が口から出た。
海の表情が少し和らぐ。
「もちろん。僕、ここにいますから」
智也が外へ出ると、雨は少し弱まっていた。
海が貸してくれた傘の下は、まるで別世界のように静かだった。
布に当たる雨の音が、妙に優しい。
家までの道は短いのに、いつもより長く感じた。
足取りが軽い。
心の中で、繰り返し浮かぶのはあの笑顔と声。
──「僕、ここにいますから」
帰宅しても、その声が耳に残っていた。
机の上に傘をそっと置き、見つめる。
自分が人から何かを“借りた”のは、いつぶりだろう。
もしかすると、心まで預けてしまったのかもしれない。
智也は深く息を吐き、ソファに身を沈めた。
傘の持ち手には、まだ海の手の温もりが残っている気がする。
それが現実か幻かはどうでもよかった。
ただ、眠れない夜のはずが、今夜は少しだけ静かに目を閉じられそうだった。
***
一方、コンビニのバックヤードで海は小さく息をついた。
棚の影に置いた自分のもう一本の傘を見やって、苦笑した。
実はもう一本、予備の傘を持っていたのだ。
貸す口実が欲しかっただけ。
彼があの時間に現れるのを待っていた。
週に一度だけ会える“常連客”。
けれど、彼の無表情の奥にある静かな孤独を見ているうちに、自分までその世界に引き込まれてしまった。
──「返すの、またこの時間でいいですか」
あの言葉を思い出すと、胸の奥が熱くなる。
自分でも理由はわからない。
けれど、次の金曜が楽しみで仕方なかった。
──午前2時、コンビニの灯りの下で。
小さな約束が、二人の夜を繋ぎはじめていた。
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