午前2時、 コンビニの灯りの下で

結衣可

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第5話 眠れない理由

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 夜風が、肌を刺すように冷たかった。
 金曜の仕事帰り。駅から自宅までの道を、芹沢智也はほとんど惰性で歩いていた。
 体が重い。
 昼間から続いていた頭痛が、夕方を過ぎてさらに鋭くなっていた。
 熱はない。しかし、倦怠感と眠気の狭間に沈むような感覚があった。

 ここしばらく、また眠れていない。
 寝床に入っても、体が眠りを拒むように動悸だけが増していく。
 明かりを落としても、思考のざわめきが止まらない。
 目を閉じるほど、静寂がうるさくなる。

 息苦しくなって、外に出た。
 夜風に当たれば少しは落ち着くと思った。
 気づけば足は、あのコンビニへ向かっている。
 街の灯りが途切れた先で、白く浮かぶ蛍光灯が見えた。
 それを見ると、ほんの少しだけ心拍が整う。

「いらっしゃいませ」

 自動ドアをくぐった瞬間、いつもの声が出迎えた。
 レジの奥で作業していた彼が、顔を上げて微笑んだ。
 それだけで、肩の力が抜ける。

「こんばんは」

 智也はいつも通りの声を出そうとしたが、喉が乾いて上手く響かない。
 自分の声がかすれていることに気づき、苦笑する。

「大丈夫ですか?」

 海が少し心配そうに眉を寄せた。
 智也はすぐに首を振る。

「ええ、少し疲れてるだけです」

 そう言いながらも、足取りがふらつく。
 商品を手に取っても、視界の焦点が定まらない。
 棚の光が滲んで、世界が白くにじんで見える。
 自分の身体が、まるで他人のもののようだ。

 コーヒーを選び、サンドイッチを取る。
 それをレジに置いた瞬間、息が浅くなるのを感じた。
 空気が足りない。
 海が何かを話している声が遠くで聞こえる。

 支払いを終え、袋を受け取る。
 その重さが指先から抜け落ちた。
 足が揺れ、膝が折れる。
 意識が暗く沈んでいく。

「……芹沢さん!」

 誰かの声で、世界が揺れ戻った。
 冷たい風。コンクリートの匂い。
 気づけば、外の歩道に座り込んでいた。
 海が慌てて駆け寄り、肩を支えている。

「立てますか?」

「……すみません、少し……」

 力が入らない。
 体の奥の疲労が、一気に表面へ押し出されてくる。
 ずっと無理をしてきた体が、ようやく悲鳴を上げたようだった。

 海はためらわずに言った。

「このままだと危ないですよ。うち、すぐそこなんで……来てください」

「いや、そんな、ご迷惑を──」

「迷惑じゃないです。お願いですから」

 言葉に込められた必死さに、抵抗する力が抜けた。
 海が腕を取って立ち上がらせる。
 手のひらは驚くほど温かかった。

***

 彼の部屋は、コンビニの裏手にある小さなアパートだった。
 外階段を上がった二階の一室。
 靴を脱ぐと、木の床のひんやりとした感触が足裏に伝わる。
 部屋には洗い立ての布とコーヒーの香りが混ざっていた。

「ここ、座ってください。すぐ水、持ってきます」

 海が台所へ向かう。
 智也はソファに腰を下ろし、周囲を見渡した。
 教科書やノート、乾かしたマグカップ。
 狭いが、整った部屋だった。

「智也さん、一度店に戻ります。そのままにして来ちゃったので。すぐに戻ってきますから」

 水の入ったコップを智也に渡すと、海はコンビニに戻っていった。

 受け取った水をゆっくり口に含む。
 冷たさが喉を通り抜け、頭の熱が少し引く。
 コップをテーブルに置くと、ソファに寄り掛かり、力を抜いた。
 頭痛と倦怠感はあるのに、目を閉じても眠れる気がしない。
 呼吸が苦しいような感覚になる。

「智也さん?」

 いつの間にか帰ってきたのか、海の声がして、智也はゆっくり身体を起こした。

「海くん?」

「はい、すいません、一人してしまって」

「コンビニは?」

「オーナーがすぐに交代してくれたので、大丈夫ですよ」

 海は上着を脱ぎながら、智也を安心させるように言う。

「すみません……急に倒れて」

「そんなことより、どこか痛いとか、ないですか?」

「大丈夫です。……ただ、眠れなくて。最近、ずっと。でも、こんな迷惑をかけるなんて」

 海は黙って頷き、正面にしゃがみ込んだ。
 膝の高さにある彼の視線が、まっすぐこちらを見上げる。

「迷惑なんて思ってません。智也さん……無理してませんか」

 その問いは、静かな夜気の中で思いのほか強く響いた。
 智也は返事ができなかった。
 頷くことも、否定することもできずに、ただ目を伏せた。

 海はしばらく黙っていたが、やがてそっと立ち上がった。
 そして、ためらいがちに言う。

「少しだけ、リラックスしましょう。……触ってもいいですか?」

 不意の提案に、胸が波打った。
 その声音は穏やかで、まるで“おまじない”のように聞こえた。
 智也は小さく頷いた。

 海の腕がゆっくり背中にまわる。
 そっと抱き寄せられた。
 その抱擁は力ではなく、体温だけで包み込むような柔らかさだった。
 背中を撫でる手のひらが、ゆっくりと一定のリズムで動く。
 髪にかかる息が、規則正しく落ちる。
 何も言葉を交わさないまま、時間が静かに流れた。
 やがて海が囁くように言った。

「眠れないときは、呼吸が浅くなるんです。こうしてると、少し落ち着くと思います」

 智也は頷く代わりに、目を閉じた。
 鼓動の音が、相手の胸の鼓動と重なる。
 背中を撫でる手の感触が、遠くの波音のように一定だ。
 額に、そっと唇が触れた。

 驚くより先に、涙が滲みそうになる。
 優しさに触れると、張りつめていたものが一気にほどける。
 泣きたくなるほど、安心する。

「大丈夫ですよ、もう何も考えなくていいです」

 その声を聞いた瞬間、智也の意識がゆるやかに沈んだ。
 抵抗も恥じらいも、すべて眠気に溶けていく。

 ──こんなふうに眠れるのは、いつ以来だろう。

 夢の境界で、誰かの腕の中にいるという感覚だけが残る。
 夜が静まり返っても、そこには灯りがあった。

***

 朝、窓の隙間から射す薄い光で目を覚ますと、ソファの上に毛布がかけられていた。
 海はテーブルに伏して眠っている。
 片手には開いたノート。
 勉強をしていたのだろう。

 胸がじんわりと温かくなる。
 毛布の下から手を出すと、まだ自分の体に海の体温が残っているような気がした。
 喉が乾いて、水を一口飲む。
 その冷たさが、現実を少しだけ確かなものにする。

 ゆっくり起き上がり、眠る海を見つめた。
 彼の髪が前に落ち、頬に影を作っている。
 こんなにも近いのに、触れる勇気はない。
 昨夜のぬくもりが、あまりに優しかったから。

 「……ありがとう」

 誰にも届かない小さな声で呟く。
 海がわずかに眉を動かしたが、起きはしなかった。
 智也は静かに立ち上がり、玄関で靴を履く。
 出る前に振り返ると、机の上のノートに小さな文字が書きかけのまま残っていた。
 きっと授業のテーマか、海自身のメモだろう。
 智也は、その文字を心に刻むように目で追い、ドアノブに手をかけた。

 外に出ると、朝の空気が冷たく清い。
 太陽はまだ低く、街全体がまどろみの中にある。
 あれだけ辛かった頭痛も倦怠感も、今はどちらも感じられず、不思議と身体が軽かった。
 それが錯覚でも構わない。
 彼の腕の中があたたかくて、安心できたから。

 智也は小さく息を吐き、朝の風を胸いっぱいに吸い込んだ。
 心の中で呟く。
 ──眠れない理由が、ひとつ減った気がする。
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