午前2時、 コンビニの灯りの下で

結衣可

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第6話 忘れられない夜

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 目を閉じると、いまだに思い出す。
 あの夜、あの部屋の温度。
 毛布の下で聞いた心音のリズム。
 背中に残った指の感触。
 額に感じた熱。

 ほんの数時間の出来事なのに、
 それは夢よりもはっきりとした記憶として、身体に残っていた。

 ──眠れない夜。
   倒れそうになった自分を、あの人が抱きしめてくれた夜。

 あれから一週間。
 いつもの日常が、少しだけ形を変えたように感じる。

 会社の机に座っても、モニターの白がやけにまぶしい。
 同僚に話しかけられても、どこか上の空だ。
 心ここにあらず──まさにそれだった。

 眠りの中で、彼に支えられたときのあの静けさ。
 あれが「安心」というものだったのかもしれない。

 だが、思い出すたびに胸が締めつけられる。
 あの優しさは、自分のためだけではないと知っているから。
 彼は人に優しい。それはきっと“誰にでも”向けられるもの。

 だからこそ、特別と思ってはいけない。
 頭ではそうわかっている。

 それでも、あの温もりを思い出すと、呼吸がゆっくりになって、心が勝手にあの夜に戻っていく。
 夢だったと思いたい。
 でも、夢にしてしまうには、あまりにも身体が覚えている。

***

 週末、金曜の夜。
 時計の針が1時半を過ぎても、寝ることができなかった。
 布団の上で寝返りを打ち、スマートフォンの時刻を何度も確かめる。
 眠れない理由が、もう“孤独”ではなく“彼に会いたいから”に変わっていることに気づいて、苦笑がこぼれた。

 (……馬鹿だな)

 でも、足は動いてしまう。
 財布と傘を手に取り、外へ出る。

 空は曇っていて、風が少し冷たい。
 街灯がにじんで見えるのは、眠気のせいか、それとも心の揺れのせいか。

 コンビニの白い光が遠くに見えたとき、胸が痛くなる。
 見たい。けれど、見たらきっと、何かが崩れてしまう気がした。

 それでも、ドアの前に立っていた。
 ピン、とあのベルの音。
 冷たい外気から、いつもの空間へ。

「いらっしゃいませ」

 その声を聞いた瞬間、体が少し震えた。
 聞き慣れた声なのに、今夜は遠く感じる。

 レジの向こうで、海が微笑んでいた。
 制服姿。エプロンの紐。いつも通りの店員の顔。
 まるで、あの夜の出来事がなかったかのように。

 「こんばんは」

 ようやく絞り出した声は、自分でもぎこちなく聞こえた。

 「こんばんは。お元気そうでよかったです」

 その言葉が、少しだけ胸を刺した。
 “元気そうでよかった”──その一言が、線を引く。
 心配はしてくれている。でも、それは“お客さんへの気遣い”の範囲。
 あの夜の優しさは、やはり夢だったのだろうか。

 智也はサンドイッチとコーヒーを取ってレジに向かう。
 手の動きが硬い。何かを落とさないようにと意識すればするほど、動作がぎこちなくなる。

 「最近、眠れてますか?」

 不意に海がそう言った。
 手が止まる。

 「え……」

 「この前、眠れないって言ってたので。少し気になって」

 声は柔らかく、いつも通りだった。
 けれど、その優しさが、もうまっすぐ受け取れない。
 あの夜、彼の部屋でかけられた同じ言葉が蘇る。

 “もう何も考えなくていいです。”

 それを思い出した途端、胸の奥が熱くなる。

 「……少し、眠れるようになりました」

 やっとの思いで答えると、「それはよかった」と海が安堵したように笑う。
 その笑顔が、あまりにも眩しくて、目を逸らした。
 もう少し近づきたいと思う自分と、これ以上踏み込んではいけない自分が、せめぎ合う。

 袋を受け取り、会釈して店を出る。
 夜風が顔にあたり、少し冷たかった。

 振り返れば、ガラスの向こうで海が他の客を相手にしている。
 明るい蛍光灯に照らされたその姿は、現実の“店員”で、あの夜、自分を抱きしめてくれた“海”ではなかった。

 心が揺れる。
 優しさを返したいのに、その方法がわからない。
 “ありがとう”も、“また会いたい”も、どちらも言葉にならない。

 彼の前では、いつも理性的でいようとする。
 感情を出すのが怖い。
 もし、あの夜のことを彼がただの“同情”だと思っていたら。
 もし、自分だけが特別だと錯覚しているなら──。

 そんなことを考える自分が、嫌になる。

(いっそ、もう来なければいいのかもしれない)

 でも、来ないという選択肢が怖かった。
 あの場所に行かなくなったら、もう彼に触れる理由も、声を聞く機会もなくなる。
 それは、息をする方法を失うようなものだった。

 コンビニの灯りが遠ざかる。
 手に持ったコーヒー缶はまだ温かい。
 その温もりを、彼の体温と錯覚してしまいそうになる。

 ──夢だったのなら、なぜまだこんなにも鮮明なのか。
 ──現実だったのなら、なぜこんなにも遠いのか。

 夜風が吹くたびに、心の奥にその問いが刺さる。
 あの夜、眠れたのは安心したからじゃない。
 誰かに“委ねる”ことを、久しぶりに思い出したからだ。

 家に帰り、明かりをつける。
 小さなワンルームの部屋。
 窓際の椅子に腰を下ろし、缶コーヒーを開ける。

 あの夜、海がくれた水の味を思い出す。
 何も混じっていないはずなのに、妙に甘かった。
 それを思い出しただけで、胸が痛い。

 机の端に置いた傘の影。
 黒い布が静かに折りたたまれている。
 “返した”はずなのに、視界にあるのは、まるで同じ傘のように感じる。

 眠ろうとしても、目を閉じるたびに、あの声が蘇る。

 「大丈夫ですよ、もう何も考えなくていいです」
 「眠れない夜って、長いですよね」

 そのどちらも、今の自分には優しすぎた。

 布団に潜っても眠れず、スマートフォンの時計を見つめる。
 2時18分。
 あの店では、今も彼がレジに立っているだろう。
 他の誰かに、同じように笑いかけているのだろう。

 それを想像しただけで、胸がきゅっと痛くなった。
 会いたい。
 でも、行けない。

 彼の優しさが、遠い光のように思える。
 見上げれば届きそうで、けれど手を伸ばせば壊れてしまいそうな距離。

 目を閉じ、浅い呼吸を整える。
 静かな部屋の中で、自分の心臓の音だけが響いていた。

 “忘れたい”と“忘れたくない”の間で揺れる夜。
 それは、あのときよりもずっと長く、深い夜だった。
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