祖国に棄てられた少年は賢者に愛される

結衣可

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第3話 閉じられた世界

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 結界の家で暮らし始めてから、数日が経った。
 ユリアンはまだ疲れや恐怖を完全に癒やせてはいなかったが、朝に目を覚ますたび「生きている」と実感できることが、ただ嬉しかった。

 家の中は、静かだが温もりがあった。
 棚には乾燥させた薬草や瓶詰めが整然と並び、窓辺には森の花が一輪、無造作に挿してある。
 ヴァルターの生活は質素で無骨だが、不思議なほど清潔で、心地よい秩序に満ちていた。

 ユリアンは、少しでも役に立ちたいと掃除を申し出た。
 しかしヴァルターは「余計なことをするな」と言ったまま、決して家事を任せてくれなかった。

 ――にもかかわらず、ユリアンは手持ちぶさたにしていられず、隙を見ては布巾で机を拭いたり、窓辺の花に水をやったりしていた。

「……ふぅ」

 床を磨き終え、背筋を伸ばすと、ヴァルターが背後から声をかけた。

「言ったはずだ。余計なことをするなと」

 ユリアンは振り返り、ばつの悪そうに微笑んだ。

「すみません。でも、ただ座っているだけでは……落ち着かなくて」

 ヴァルターは鋭い視線を向け、しばらく無言のままユリアンを見つめた。
 その視線に射抜かれ、ユリアンは思わず息を詰める。

 ヴァルターは溜息を吐き、頭を掻いた。

「……勝手にしろ。ただし、怪我をするな」

 それは叱責でも拒絶でもなく、不器用な譲歩だった。
 ユリアンは胸の奥に温かなものを覚え、思わず笑みをこぼした。

「はい、気をつけます」

 小さなやり取りだったが、それは彼にとって何よりも救いだった。

***

 夕暮れ、外は茜色に染まっていた。
 ユリアンは窓から外を眺め、結界の外に広がる森の影を見つめる。
 そこには目に見えぬ境界線があり、無意識に足が竦む。

(あの先に、僕を追ってくる者たちがいるのだろうか……)

 胸の奥に、重苦しい不安が広がる。
 ヴァルターが無言で守ってくれているという安心感――その事実が、彼を生かしていた。

「……何を見ている」

 背後から低い声。振り返ると、ヴァルターが薬草の束を抱え、冷たい視線を向けていた。

「あ……いえ。空がきれいだなと思って」

 慌てて取り繕うユリアンに、ヴァルターは「そうか」とだけ答え、花瓶に薬草を挿した。
 その仕草は無骨だが、どこか生活の温かみを感じさせた。

***

 その夜、暖炉の火が落ち、部屋に静寂が戻った頃、ヴァルターは一人、外の結界の縁に立っていた。
 森の奥から忍び寄る気配を、鋭い瞳が見据える。

 人影。数人。短剣や弓を携えた追手たち。
 彼らは結界に触れた途端、光に弾かれ、炎のような魔術の罠に飲み込まれていった。
 呻き声が短く響き、すぐに静寂が戻る。

 ヴァルターは表情を変えず、その場を背にした。

「……愚か者どもが」

 低く呟き、結界の中へと戻る。
 窓辺では、ユリアンが安らかに眠っていた。

 その寝顔を一瞥したヴァルターは、ほんの一瞬だけ瞳を細めた。
 そっと抱き上げると、奥の部屋のベッドに寝かせる。

「……外に興味を持つな。ここにいる限りは……守ってやれる」

 囁きは誰にも聞かれないまま、夜の静けさと共に消えていった。

***

 結界の家での暮らしにも、ようやく慣れ始めたある日のことだった。
 ユリアンは窓辺に座り、外の森をじっと眺めていた。

 厚い木々の向こうには何があるのだろう。
 王都で育った彼にとって、この森は未知と恐怖の象徴だった。

(……僕は、ずっとここに閉じ込められて生きていくのだろうか)

 胸の奥がざわつく。
 この家に保護され、確かに安らぎを得ている。
 でも何か役に立ちたい。生きている意味を確かめたい。

 意を決して立ち上がり、ユリアンは暖炉の前に座るヴァルターに向き直った。

「ヴァルターさん……どうして僕は、外に出てはいけないんですか」

 薬草を仕分けていたヴァルターの手が止まる。
 その背は大きいのに、孤独な影をまとっているように見えた。

「理由は問うな」

「でも、それじゃ納得できません。僕は、ただ守られているだけで……何の役にも立てていない。そんなのは……」
 
 ヴァルターはゆっくりと立ち上がり、鋭い瞳でユリアンを射抜いた。

「今外に出れば――お前は死ぬぞ」

 冷徹な声。しかしその奥に焦燥が滲んでいた。

「死ぬ……? なぜ、そんなことを……」

「理由を知ってどうする。知ったところで、お前に抗える力はない」

 ユリアンの心臓が痛む。
 確かに、自分には力がない。剣も魔術も使えない。
 それでも――

「それでも、僕は知りたいんです。追放された理由も、なぜ命を狙われたのかも……」

 叫ぶように言った。
 ヴァルターの瞳が一瞬揺らぎ、彼は唇を強く噛みしめる。

「……人は平然と裏切る。仲間を、家族を、友を――。まだ幼いお前にはわからないだろうが」

 低く押し殺した声。
 ユリアンはその言葉の重みに息を呑んだ。
 ヴァルターの過去に、深い傷があることを悟る。

「……お前を殺そうとしている人間のことなど知る必要はない。外には出るな」

 それは冷たい拒絶ではなく、痛切な願いに聞こえた。
 ユリアンは胸が震え、思わず一歩近づく。

「……守ってくれるのは嬉しいです。だけど、僕は――あなたに守られるだけじゃなく、自分の意志で理由を知りたい。このまま何も知らず、生きていくのは――」

 ヴァルターは返事をしなかった。
 ただ黙ってユリアンを見つめ、やがて背を向けた。

「勝手に思えばいい。外へ出ることは許さない」

 重い扉が閉ざされるような言葉。
 ユリアンの胸に切なさが募り、瞳が滲む。

 暖炉の火がぱちぱちと音を立てる中、二人の間には沈黙が落ちた。
 それはまるで、結界そのもののように厚く、越えられない壁だった。
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