もう一度、その腕に

結衣可

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第6話 城下の午後

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 地方視察から戻った翌日、久しぶりに静かな朝を迎えていた。
 午前中の執務を終えたリオネルは、机に積まれた書状から視線を外し、窓辺へと歩み寄る。柔らかな風がカーテンを揺らし、青空に鳥の影が舞っていた。

(……こんな日に、部屋に閉じこもっているのはもったいない)

 胸の奥に芽生えた衝動をそのまま言葉にした。

「カイン。今日は城下に行こう」

 壁際に控えていた青年の眉が、わずかに動いた。

「殿下、護衛の配置を整える時間が必要です」

「二人で行けばいい。変装すれば大丈夫だろう?」

 唐突な提案。けれど、真っ直ぐな瞳で見つめられれば、拒絶の言葉は続かなかった。
 公務外――それでも危険があることは分かっている。
 しかし気づけば「わかりました」と答えていた。

 城下町は春祭りの準備で、すでに熱気を帯びていた。
 屋台から漂う菓子の甘い匂い、楽師が奏でる軽やかな笛の音、子どもたちの笑い声。
 カインは人混みの中、半歩後ろを歩きながら常にリオネルの肩越しに視線を巡らせていた。

「ほら、あれ美味しそうだ」

 リオネルが指差したのは蜂蜜をかけた揚げ菓子の屋台。
 人垣をかき分けて菓子を受け取ると、ふわりと甘い香りが広がる。

「カインも食べよう?」

 差し出された一切れに、カインは首を振る。
 リオネルは当然のように口元まで持ってきた。

「警戒しながらでも食べられるだろう?」

「……殿下」

「ほら、口を開けて」

 反論を許さぬ声音に、仕方なくかじる。
 外は香ばしく、中は熱く甘い。
 思わず眉をわずかに緩めた瞬間、リオネルが楽しげに笑った。

「ほら、美味しいだろう?」

 その笑顔が近い。
 口の中の甘さより、胸の奥に広がる熱の方が強かった。

 広場の噴水前では、大道芸人が曲芸を披露していた。
 リオネルは好奇心に目を輝かせ、子どものように見入っている。
 その横顔をカインは一瞬だけ見つめ、すぐに周囲へと視線を戻した。

 不意に、駆けてきた子どもがリオネルにぶつかり、体がよろめく。
 反射的にカインの腕が伸び、腰を支えた。
 強く抱き寄せられ、リオネルの心臓が跳ねる。

「……お気を付けください」

 低く落ちる声は、警告よりも温度を帯びていた。
 ほんの短い時間なのに、その腕の中で、高鳴る自分をリオネルは感じてしまう。

 さらに歩みを進めると、香辛料の店先から異国の香りが漂ってきた。
 赤い粉、黄金色の粒。色とりどりの香辛料が並ぶその場で、声がかかる。

「カインさん、お久しぶりです」

 屈強な青年商人がにこやかに笑った。
 カインは一瞬だけ表情を和らげる。

「……ロイドか。元気そうだな」

 普段より一段低く柔らかい声。その響きに、リオネルは足を止めた。
 聞いたことのない声色。自分には向けられない、誰かへの声。

「カインさんもお変わりないですね。新しい香辛料が入ったんですよ――」

「申し訳ないが、今は公務中だ」

 口調は冷静に戻っている。けれど口元には、旧友を前にしたわずかな緩み。
 ロイドと交わす空気は、まるで古くからの親しい友のよう。

 ――胸の奥が、ちくりと痛んだ。

 自分はカインの過去を何も知らない。
 護衛としての彼しか見ていない。
 そんな当たり前の事実が、不意に距離を突きつけてくる。

「……カイン、そろそろ行かないか?」

 遮るように声をかける。努めて穏やかに装ったが、わずかに硬さが混じっていた。

 カインは一瞬リオネルを見つめ、「ああ」と短く応じてロイドに別れを告げた。
 二人が歩き出すと、沈黙が落ちる。

「……殿下、どうされましたか」

 横顔を覗き込むようにカインが問う。
 リオネルは視線を前に向けたまま答える。

「別に。長居する必要はなかっただろう?」

 感情を隠すような言葉。
 けれど胸の奥ではざわめきが広がっていた。

(……なんだ、この気持ちは)

 祭りの飾り紐が風に揺れ、二人の間を横切る。
 リオネルは歩調をわずかに早めた。

 城へ戻る道中、カインは黙したまま歩いていた。
 隣に並ぶリオネルの耳がわずかに赤く染まっているのを見て、胸の奥で小さな熱が芽生える。

(……俺とロイドを見てから、様子が違う。まさか……)

 確信には至らない。その可能性を思った瞬間、戦場でも感じたことのない種類の高鳴りを覚える。

 夕暮れの空、二人の影は長く伸び、時折重なってはまた離れる。
 その距離は、あと一歩で埋まるのに、まだ埋められない。
 人通りの途切れた城壁の影で、リオネルが口を開いた。

「カイン、楽しかったね。また行きたいな」

「……護衛としては、危険が多いと考えます」

「でも、またカインが付いてくれるんでしょ? なら、大丈夫だよ」

 無邪気な信頼。その一言が、胸を静かに震わせる。
 カインはわずかに視線を逸らし、短く「はい」とだけ答えた。

 夕陽に染まる道で、二人の影は重なり、やがてひとつになった。
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