もう一度、その腕に

結衣可

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第7話 ふたりの距離

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 翌日から、カインの様子はわずかに変わった。
 廊下を歩くときは、これまで半歩後ろにいた距離が、一歩分に広がっている。
 食事の席でも、必要最低限のやり取りしか交わさない。
 護衛としての動きは完璧なのに、その眼差しはどこか遠かった。

(……どうして)

 リオネルは机に広げた書類に手を置いたまま、部屋の隅で静かに立つカインを見つめた。
 いつもなら、視線が合えばほんのわずかに口角を上げてくれる。
 今日は、一度もその微笑を見ていない。

 その日の午後、庭園での視察を終え、人払いが済んだ瞬間を狙って、リオネルは思い切って声をかけた。

「カイン。朝から……少し、距離を感じるんだけど?」

 問いに、カインは一瞬だけ眉を寄せる。
 すぐに表情を整え、冷静な声音を返した。

「……公務中ですから」

「前から公務中だっただろう?」

「……殿下のためです」

 短く、意味を含んだ言葉の、その意味は説明されず、答えにならない沈黙だけが残った。
 リオネルは唇を噛み、言葉を飲み込むしかなかった。

***

 その夜、カインは自室で鎧の手入れをしていた。布越しに磨かれる金具が、月明かりを反射して淡く光る。
 手の動作は正確だが、心は穏やかではなかった。

(……このままでは、いずれ境界を越えてしまう)

 リオネルの無防備な笑顔、真っ直ぐな言葉、そして近すぎる距離。
 すべてが職務と感情の線を曖昧にしていく。
 ならば、少し距離を取るしかない。護衛としての自分を保つために。

 そう決めたはずだった。
 なのに、頭に浮かぶのは庭園で、納得できない顔をしていたリオネルの姿だった。
 カインは額に手を当て、深いため息をついた。

***

 翌日からも、カインは意識的に公務的な距離を保ち続けた。
 廊下で話しかけられても、必要以上に立ち止まらない。
 休憩時間も近くには座らず、控えの間で待機する。

 リオネルはその変化に気づきながらも、理由を聞けない。
 聞いたところで「公務中だから」と返されるのが目に見えている。
 胸の奥のもやは、日に日に濃くなっていった。

 夕刻、長い回廊の窓から差し込む夕陽が、床を黄金色に染めていた。
 リオネルは足を止め、その光の中に立つカインを見つめる。

 距離はたった数歩。
 その数歩がこれまでになく遠く感じられた。

(……戻ってきてよ)

 心の中でそう願っても、声にはならない。
 黄金色に伸びた影は、重なりかけてはまた離れていった。

***

 その夜、リオネルは何度目かの寝返りを打っていた。
 枕の感触も、窓から入る月明かりも、どこか落ち着かない。胸の奥に引っかかっているのは――ここ数日のカインの距離。

(……なんで、避けるんだろう)

 昼間は平然と公務をこなしている。視線を向ければ、いつも通りの冷静な瞳。
 でも、その瞳の奥にあった温かい色は、最近見えていない。
 それが、ひどく寂しかった。

 とうとう我慢できず、寝間着姿のまま部屋を抜け出す。
 静まり返った回廊に、自分の足音だけが響く。
 突き当たり――専属護衛の詰所の扉を、そっと叩いた。

「……殿下?」

 すぐに扉が開く。
 カインは鎧を脱ぎ、簡素なシャツ姿で立っていた。髪は少し乱れ、寝る前だったのだろう。

「……あの、眠れなくて」

 小さく呟き、視線を落とす。

「温かい飲み物をお持ちしましょうか」

「……違う。カインがいないと……眠れない」

 その一言で、空気が変わった。
 カインの手が扉の縁で止まる。
 何気ない言葉のはずなのに、胸の奥を直撃した。

「……殿下」

 呼ぶ声は低く、いつもの冷静さを欠いている。
 一歩踏み出し、距離を詰める。
 大きな手が首筋に触れ、リオネルは顔を上げて琥珀色の瞳を見つめ返した。

「そんなことを……簡単に言ってはいけません」

「簡単に言ってない!本当にそう思ってる!」

 真っ直ぐで、打算のない瞳。
 だからこそ、危うい。

 カインの指先がわずかに震える。
 このまま抱き寄せれば、もう離せない。
 理性が崩れそうになるのを、必死に食い止める。

「……だめだ」

 低く呟き、首を振る。
 それでも手を離せない。リオネルの体温が掌に沁み込み、決意を揺らす。

 沈黙の中、回廊を吹き抜ける風が二人の髪を揺らす。
 ほんの一瞬、カインは顔を近づけ――しかし寸前で踏みとどまり、深く息を吐いた。

「……部屋までお送りします」

 かすれた声。

 リオネルはベッドに戻ってからもしばらく眠れなかった。
 胸の奥に残る熱と、カインの指先の感触が何度も蘇る。

(……もっと、自分に触れてくれたらいいのに)

 そんな想いを抱えたまま、月明かりの下で目を閉じた。

 一方、リオネルを送り届けた後、廊下を歩くカインは、拳を握りしめていた。

(……あの顔を、もう一度見たら。次は止められないかもしれない)

 胸の奥で疼く熱を必死に押し殺しながら、夜の城を歩き続けた。
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