元カノの弟と同居を始めます?

結衣可

文字の大きさ
7 / 17

第7話 ソファで二人

しおりを挟む

 コンビニから帰宅してすぐに、濡れた体を拭き、部屋着に着替えた。
 洗濯機に濡れたタオルとシャツを放り込む。洗剤を入れてスイッチを押すと、低い回転音が部屋の奥へ流れていった。
 雨上がりの匂いが、まだ靴箱の辺りに残っている。

「お茶、淹れる」

「あ、俺、拭き掃除します。床が濡れてました」

「あぁ、気が利くな」

 蒼は雑巾で玄関の水滴をさっと拭って、リビングに来た。
 前髪がまだ少し濡れている。タオルを渡すと、「ありがとうございます」と髪を押さえる。
 その仕草がやけに落ち着いていて、心臓の鼓動だけが場違いに騒いだ。

「何見る?」

 テレビを指さすと、蒼は少し考えてから「音がうるさくないやつ」と言った。

「ドキュメンタリーでいいか」

「好きです。誰も死なないやつがいいです」

「物騒な基準だな」

 ソファに腰を下ろす。
 蒼はいつものように一呼吸おいてから、俺の隣に座った。
 端でもなく、くっつくでもなく、今の二人のような曖昧な距離。
 テーブルの湯呑みから立ちのぼる湯気が、二人の間で丸く揺れた。

 洗濯機の「ゴウン、ゴウン」が一定のリズムを刻む。
 画面では、海鳥が風に乗って滑空している。ナレーションが低く、眠気を誘うテンポで続く。

「……傘、やっぱり必要でしたね。入れてくれてありがとうございました」

「いや、二人ともずぶ濡れにならなくてよかったよ。牛乳も濡れなかったしな」

「大事なの、牛乳」

「生活に必須だろ」

 他愛ない会話のあと、短い沈黙。
 その沈黙が今日は妙に柔らかい。
 蒼が湯呑みを両手で包んで、俺の肩のほうをちらりと見た。

「篠原さん」

「ん」

「傘、狭かったですね」

「狭かったな」

「でも、嫌じゃなかった」

 画面の海が一瞬白く波立って、部屋の明るさがふっと変わる。
 俺はそれを言い訳にして目を逸らした。
 言葉が喉元まで上がって、そこでほどける。

「……お前、寒くないか」

「少し」

 ソファの背からブランケットを取って、自分と蒼の膝へ落とす。
 布が触れた瞬間に、蒼の指が一瞬固まって、それからそっとブランケットの端をつまんだ。
 距離はさっきと同じ。けれど、布一枚を共有しただけで、熱の流れかたが変わる。

 洗濯機が回り続ける。
 湯呑みの縁に口をつけた蒼が、小さな声で言った。

「この音、好きかもしれない」

「洗濯機?」

「うん。寝そうになる」

「寝るな。干せなくなる」

「……干しそこねたら、しわしわになっちゃいますね」

「それは困る」

「ふふ、頑張って起きてなきゃ」

 蒼の笑いが、いつもより低く、落ち着いていた。
 俺はテレビのリモコンをテーブルに戻して、指先でブランケットの端を整える。
 指と指が、端の布越しにすれ違った。
 布越しの温度は、直接触れるよりもずっと鮮明だ。

「篠原さんって、目、やさしいですよね」

「どこ見て言ってる」

「なんかさっきから、テレビじゃなくて、反射で映る俺の顔のほう見てる気がします」

 どきり、とした。
 画面の黒い縁取りに、確かに俺の横顔が薄く映っている。
 ごまかすために咳払いをしたが、何の役にも立たない。

「……気のせいだ」

「ふふ、はーい」

 蒼は笑って、ブランケットの端をもう少し手前に寄せた。
 俺の腿に、布越しの重さが加わる。
 重さ、と言っても羽根みたいなものだ。なのに、やけに存在感がある。

 洗濯機が音を落とし、最後のすすぎに入る。
 それに紛れるように、蒼がぽつりと話し始めた。

「俺、昔から“待つ”の。
 姉ちゃんって、急に予定変えるんですよ。会う約束してても、仕事入ったとか言って。
 分かってるのに、毎回ちょっとだけ、寂しいって思っちゃうんです」

「分かる」

「分かります?」

「分かるさ。俺も、急な予定変更は苦手だ。
 でも最近はこうして二人で暮らしてると、予定がずれても、“おかえり”が待ってるから、帳尻が合う」

「……“おかえり”、ですか」

 蒼の声が少しだけ低くなった。
 指先がブランケットの上を、行儀よく一センチだけ移動する。
 触れない距離のまま、そっと寄ってくる。

「その“おかえり”は俺に言わせてください」

「毎日言ってくれ」

「はい、毎日、言います」

 短い会話。
 それだけで、体の芯に何かが落ちていく音がした。

 ピッ、と電子音。
 洗濯機が終わりを告げる。
 俺は立ち上がりかけて、それでも一拍置いた。
 蒼の横顔が、思いのほか近い。

「干すか」

「行きます」

 二人で立つ。ブランケットが膝から滑り落ちて、柔らかい音を立てた。
 洗濯機の前で、湯気みたいな湿気が顔に当たる。
 タオルを一枚取って、軽く振る。
 蒼も同じ動きをする。肩が当たって、今度はどちらも離れなかった。

「……ねえ、篠原さん」

「ん」

「俺が何か、間違えそうになったら、止めてくださいね」

 唐突な言葉だった。
 でも、唐突さの奥に、丁寧な意図が見えた。
 俺は少しだけ笑って、洗濯ばさみを渡す。

「お前、……いや、わかった」

 タオルが二人分のリズムで揺れる。
 竿に並ぶ白が、窓の方へ小さくたなびいた。
 湿度の高い空気に、石鹸の匂いが薄く溶け込む。

 全部干し終えて、リビングに戻る。
 ソファに座ると、ブランケットはもう冷えていた。
 蒼が自分の側の端を持ち上げて、何も言わずに俺の膝へ返す。
 ほんの数センチ、距離が縮まる。

 テレビの海は、いつの間にか夕景になっていた。
 光が水平線でちぎれ、画面の中の世界がゆっくりと夜に沈んでいく。

「明日、早い?」

「ちょっとな」

「起こしますね」

「お前、起きれんのか」

「起きます。……多分」

「多分かよ」

「じゃあ、頑張ります」

 蒼が小さく欠伸をした。
 肩が触れたまま、ゆっくり呼吸が整っていく。
 寝息、ではない。安心しているときの呼吸だ。

 言葉にしないまま、分かってしまうことが増えていく。
 それが怖いのか、嬉しいのか、自分でも判別がつかない。

「このまま寝るには少し早いな」

「ふふ、そうですね。でも、少し眠いです」

「寝るか?」

「……夜中起きちゃうかも」

「そうだな」

「おやすみ、篠原さん」

「あぁ、おやすみ」

 部屋の空気が一段柔らかくなって、外の道路を走る車の音さえ遠くなる。
 雨上がりの夜は、こうして静かに積み上がっていく。
 洗濯物が乾くころには、きっとまた、ひとつ何かが近づいている。

 俺はブランケットの端を広げ、蒼が冷えないように掛け直した。
 目を閉じた蒼はまだ幼い顔つきをしている。
 俺はしばらく隣で眺めていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

透きとおる泉

小貝川リン子
BL
 生まれる前に父を亡くした泉。母の再婚により、透という弟ができる。同い年ながらも、透の兄として振る舞う泉。二人は仲の良い兄弟だった。  ある年の夏、家族でキャンプに出かける。そこで起きたとある事故により、泉と透は心身に深い傷を負う。互いに相手に対して責任を感じる二人。そのことが原因の一端となり、大喧嘩をしてしまう。それ以降、まともに口も利いていない。  高校生になった今でも、兄弟仲は冷え切ったままだ。

愛と猛毒(仮)

万里
BL
オフィスビルの非常階段。冷え切った踊り場で煙草をくゆらせる水原七瀬(みずはらななせ)は、部下たちのやり取りを静かに見守っていた。 そこでは村上和弥(むらかみかずや)が、長年想い続けてきた和泉に別れを告げられていた。和泉は「ありがとう」と優しく微笑みながらも、決意をもって彼を突き放す。和弥は矜持を守ろうと、営業スマイルを貼り付けて必死に言葉を紡ぐが、その姿は痛々しいほどに惨めだった。 和泉が去った後、七瀬は姿を現し、冷徹な言葉で和弥を追い詰める。 「お前はただの予備だった」「純愛なんて綺麗な言葉で誤魔化してるだけだ」――七瀬の毒舌は、和弥の心を抉り、憎悪を引き出す。和弥は「嫌いだ」と叫び、七瀬を突き放して階段を駆け下りていく。 「……本当、バカだよな。お前も、俺も」 七瀬は独り言を漏らすと、和弥が触れた手首を愛おしそうに、そして自嘲気味に強く握りしめた。 その指先に残る熱は、嫌悪という仮面の下で燃え盛る執着の証だった。 毒を吐き続けることでしか伝えられない――「好きだ」という言葉を、七瀬は永遠に飲み込んだまま、胸の奥で腐らせていた。

【完結】I adore you

ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。 そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。 ※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。

【完結】君の穿ったインソムニア

古都まとい
BL
建設会社の事務として働く佐野純平(さの じゅんぺい)は、上司のパワハラによって眠れない日々を過ごしていた。後輩の勧めで病院を受診した純平は不眠症の診断を受け、処方された薬を受け取りに薬局を訪れる。 純平が訪れた薬局には担当薬剤師制度があり、純平の担当薬剤師となったのは水瀬隼人(みなせ はやと)という茶髪の明るい青年だった。 「佐野さんの全部、俺が支えてあげますよ?」 陽キャ薬剤師×不眠症会社員の社会人BL。

思い出して欲しい二人

春色悠
BL
 喫茶店でアルバイトをしている鷹木翠(たかぎ みどり)。ある日、喫茶店に初恋の人、白河朱鳥(しらかわ あすか)が女性を伴って入ってきた。しかも朱鳥は翠の事を覚えていない様で、幼い頃の約束をずっと覚えていた翠はショックを受ける。  そして恋心を忘れようと努力するが、昔と変わったのに変わっていない朱鳥に寧ろ、どんどん惚れてしまう。  一方朱鳥は、バッチリと翠の事を覚えていた。まさか取引先との昼食を食べに行った先で、再会すると思わず、緩む頬を引き締めて翠にかっこいい所を見せようと頑張ったが、翠は朱鳥の事を覚えていない様。それでも全く愛が冷めず、今度は本当に結婚するために翠を落としにかかる。  そんな二人の、もだもだ、じれったい、さっさとくっつけ!と、言いたくなるようなラブロマンス。

青龍将軍の新婚生活

蒼井あざらし
BL
犬猿の仲だった青辰国と涼白国は長年の争いに終止符を打ち、友好を結ぶこととなった。その友好の証として、それぞれの国を代表する二人の将軍――青龍将軍と白虎将軍の婚姻話が持ち上がる。 武勇名高い二人の将軍の婚姻は政略結婚であることが火を見るより明らかで、国民の誰もが「国境沿いで睨み合いをしていた将軍同士の結婚など上手くいくはずがない」と心の中では思っていた。 そんな国民たちの心配と期待を背負い、青辰の青龍将軍・星燐は家族に高らかに宣言し母国を旅立った。 「私は……良き伴侶となり幸せな家庭を築いて参ります!」 幼少期から伴侶となる人に尽くしたいという願望を持っていた星燐の願いは叶うのか。 中華風政略結婚ラブコメ。 ※他のサイトにも投稿しています。

僕を守るのは、イケメン先輩!?

八乙女 忍
BL
 僕は、なぜか男からモテる。僕は嫌なのに、しつこい男たちから、守ってくれるのは一つ上の先輩。最初怖いと思っていたが、守られているうち先輩に、惹かれていってしまう。僕は、いったいどうしちゃったんだろう?

あなたのいちばんすきなひと

名衛 澄
BL
亜食有誠(あじきゆうせい)は幼なじみの与木実晴(よぎみはる)に好意を寄せている。 ある日、有誠が冗談のつもりで実晴に付き合おうかと提案したところ、まさかのOKをもらってしまった。 有誠が混乱している間にお付き合いが始まってしまうが、実晴の態度はいつもと変わらない。 俺のことを好きでもないくせに、なぜ付き合う気になったんだ。 実晴の考えていることがわからず、不安に苛まれる有誠。 そんなとき、実晴の元カノから実晴との復縁に協力してほしいと相談を受ける。 また友人に、幼なじみに戻ったとしても、実晴のとなりにいたい。 自分の気持ちを隠して実晴との"恋人ごっこ"の関係を続ける有誠は―― 隠れ執着攻め×不器用一生懸命受けの、学園青春ストーリー。

処理中です...