無口な愛情

結衣可

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第2話 自覚した想い

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 翌週の夜、会議を終え、律は重たい資料の入った鞄を肩に掛けてエレベーターに向かっていた。
 いつもなら気にも留めない重さなのに、その日は妙に疲れがたまっていた。

 ――あと少し。帰ったら熱い風呂に入って寝よう。

 そう考えたとき、不意に鞄の重みがふっと軽くなる。

「……え?」

 振り返ると、隼人が黙って鞄を持っていた。

「俺が持ちます」

 ただそれだけを言って、当たり前のように歩き出す。
 律は一瞬呆気に取られ、慌てて隣に並んだ。

「いや……悪いって。大人なんだし、自分で持てる」

「……疲れてそうなんで」

 その声音はあまりに自然で、律は反論を飲み込んだ。

 ――見てくれてたんだ、俺のこと

 心臓がわずかに早まる。
 そのことを悟られまいと、律は視線を前に向けた。

 エントランスを出ると、夜風がひんやりと頬を撫でた。
 自動ドアを抜けると、隼人がポケットから缶コーヒーを取り出し、無造作に差し出した。

「……これ、どうぞ」

 受け取った缶はまだ温かく、掌にじんわりと広がる熱に、律の喉がつまる。

「……桐生さん、いつ買ってたんだ」

「さっき声を掛ける前に」

 淡々と答えるだけの隼人。
 そこに特別な意図はないように見える。

「……ありがとな」

 小さく呟くと、隼人はわずかに頷いただけだった。
 無口だけど、ちゃんと自分を見ていてくれる人。
 その気づきが、律の胸に静かに広がっていった。


 週も半ばを過ぎ、連日の残業で、律はさすがに疲れを隠せなかった。
 夜遅くのオフィスには、またしても律と隼人の二人きり。

 「……そろそろ帰るか」

 資料を閉じて立ち上がると、背後から低い声が届いた。

「駅まで、一緒に行きます」

 ただそれだけ。
 気遣いなのか、習慣なのか、隼人の声音には余計な色がない。
 その一言だけで少し胸が軽くなった。

 夜の街を並んで歩く。
 無言の時間が続くのに、不思議と息苦しさはなかった。
 律はふと、隼人の横顔を盗み見た。
 街灯に照らされた輪郭は、寡黙な印象のまま。
 広い肩と長い足取り。隣を歩いているだけで、守られているような安心感があった。

「……桐生さんは」

 気づけば声が出ていた。

「どうして、そんなに黙って人の話を聞けるんだ」

 隼人は少し考えるように視線を落とし、やがて答えた。

「……言葉で励ますの、苦手なんです。でも、聞くくらいならできるから」

 その答えに、律の胸が締め付けられる。

 ――ああ、この人にもっと話を聞いてほしい。
 ――もっと、そばにいてほしい。

 不意に湧いた願望に、自分で驚いた。
 今まで誰かに「甘えたくなる」なんてことはなかったのに。
 歩く速度を合わせてくれる隼人の背中を見つめながら、律は小さく息を吐いた。

「……俺、どうしてこんな気持ちになってるんだろうな」

 その呟きは夜風に溶け、隼人の耳には届かなかった。

 ――もっと近づきたい。

 そんな気持ちを意識してしまったせいで、隼人と顔を合わせると胸がざわめくようになった。
 律は無意識に隼人の袖口に指先を触れさせていた。

「……」

 ただ、ほんの少し布を摘んだだけなのに、鼓動が跳ねる。
 隼人は気づいた様子もなく、いつも通りの歩幅で前を向いている。

(……気づいてない……?)

 律は顔を赤くし、慌てて手を離した。
 
 ――この人に、どうやったら気持ちが伝わるんだろう。


 金曜の夜、律は残業を終え、オフィスを出たあと、珍しくまっすぐ家に帰らずに居酒屋へ足を運んだ。
 一人きりで飲む酒は、喉を通っても心を温めてはくれなかった。

 ――誠は、今ごろ綾人と一緒にいるんだろうな。

 弟も親友も、もう自分のそばにはいない。
 酔いが回るほどに、胸の奥の空虚さが濃くなっていく。

「……葛城さん」

 不意にかけられた低い声に、律は驚いて顔を上げた。
 そこには、大きな影――隼人が立っていた。

「桐生……?」

「駅で見かけたので」

 そう言って、隼人はためらいなく律の隣に腰を下ろした。

「……俺、一人で飲みたいんだけど」

 口ではそう言ったが、声に力はなかった。
 隼人は何も返さず、ただ黙ってグラスに水を注いでくれる。
 その無言の仕草に、律の心は逆に揺れた。

「……なあ、桐生」

 酔いに任せて、ぽつりと漏れる。

「どうしよ……すごく寂しい」

 顔を伏せる律の表情を、隼人はじっと見つめていた。

「弟も、親友も……幸せそうで。
 俺はそれを喜ばなきゃいけないのに……置いてかれたみたいで……本当に寂しい」

 震える声。
 律の肩が小さく落ちる。
 普段なら決して見せない弱さだった。
 しばらく沈黙が続いたあと、隼人が低く言った。

「……葛城さんは、俺が思うよりずっと……一人で気を張っていたんですね」

 その言葉に、律の心臓が跳ねた。
 慰めの常套句じゃない。
 ただ隼人なりに感じ取ったことを口にしただけ。

 なのに――。
 その一言が、胸の奥に深く染み渡っていく。

「……桐生……」

 律はグラスを置き、視線を上げる。
 無口なはずの男の眼差しは、なぜかとても優しく見えた。


 居酒屋を出た夜道は、思った以上に冷え込んでいた。
 酔いも手伝って、律は少し足元がおぼつかなくなる。

「……ふらついてます」

 横に並んでいた隼人が、ごく自然に腕を伸ばした。
 広い手が肩を支え、律の体を安定させる。

「……悪い」

 律は赤くなった顔を逸らした。

「いえ」

 隼人はそれ以上何も言わず、ただ肩を貸して歩き続ける。
 その無言の支えが、不思議と心地よかった。
 無理に励まされるよりも、何倍も安心できる。

 駅までの道すがら、律は小さく呟いた。

「……俺みたいなやつ、面倒だろ」

 返事はない。
 肩に添えられた隼人の手が、わずかに強くなる。

「……面倒ではないです」

 低い声が、律の胸を深く震わせる。

「桐生……」

 言葉を探す間に、改札が近づいてくる。
 律はそこで立ち止まり、隼人を見上げた。

 大きな背中。
 無口で、鈍感そうで……でも、確かに自分を支えてくれている人。

 ――桐生に、俺は惹かれてるんだな。

 自覚した瞬間、心臓が早鐘を打ち始めた。

「……ありがと」

 小さな声でそう告げると、隼人はほんの少しだけ頷いた。
 それだけのやり取りなのに、律の胸は妙に温かく満たされていた。
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