鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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二章

01. 天気雨。想いは防波堤を越えて①

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 浮足立つ80名というのは中々に圧巻で壮観だな、と教壇の横に立っている月落はそう感想を抱いた。
 4月第2週月曜日1限、これから新1年生の必修英語の授業が始まる。

 入学式や履修ガイダンス、各種オリエンテーションの数日間を終えて今日から前期授業開始となった1年生が、教壇に立つ鳴成の前にずらりと座っている。
 友達にはなったけれどまだそこまで親しくない数名ずつが、それでも興奮を隠せない様子できゃあきゃあと声を上げている。

 無理もない。
 モカベージュの三つ揃えに千鳥格子のネクタイを締めた鳴成は、それはそれは麗しい。

 声の発生源は主に女子学生ではあるけれど、一部の男子生徒も顔を見合わせて話しているのを見ると、鳴成の容姿はこれまでに出会ったどの類のものとも異なるのだと改めて実感する。
 月落が大学職員として働き始めたのは昨年9月下旬からで既に前期は終了していたため、後期はあれでも免疫のついた静かな滑り出しだったようだ。
 空気を震わせるざわつきに驚くとともに妙な感嘆まで憶えた月落だったが、鳴成はこの光景を何度も経験しているせいか全く微動だにしない。

「落ち着きましたか?皆さん」

 いつもの格好を崩さず穏やかな声量でそう発した鳴成の声は、不思議と大教室に響き渡る。
 一瞬でぴたりと騒がしさが止んだ。

「今日より1年間、皆さんの必修英語を担当します、鳴成秋史と申します。そちらに控えているのが、私のTAの月落渉さんです」
「よろしくお願いします」

 黒シャツ、グレーチェックのスラックス、ごつめのブーツを履いた月落が頭を下げると、先ほどの光景が巻き戻し再生される。
 それが面白くてつい笑ってしまうとより一層場が盛り上がってしまい、鳴成に人差し指で窘められた。

「履修ガイダンスでも触れたかと思いますが、再度説明します。外国語学部では皆さんの英語運用能力をネイティブと同等まで引き上げることを目標とし、4年間を通しての授業を行います。今日、皆さんが受けられる必修英語という授業は、基礎力の徹底構築を主目的とし、リスニング、スピーキング、ライティング、リーディングの4つの力を偏りなく身につけられるように進めていきます」

 耳に優しい中低音。
 それは、その人柄を濃縮も希釈もせず、ありのままを音にしたような実直さで奏でられる。
 ほんの1か月前までは高校生だった子供たちのため、言葉を選びながらゆっくりとする説明の仕方や、ひとりひとりの顔を見ながら話す姿は好感以外の何物もないだろう。
 叶うなら、月落の大学時代の英語も鳴成に授業をしてほしかった、などと他愛もないことを考える。

「では、早速授業に入りましょう。皆さん予習として、学部生用のページに掲載されているテキスト音声はお聴きになったでしょうか?」

 自信満々に頷く子や苦い顔を逸らす子などさまざまがいる。
 その全てを掬い上げて鳴成は約1年後、ここに座る全員の英語運用能力を今とは桁違いに上げるのだろう。
 1月の終わり、通年授業の集大成として行われた後期テスト。
 答案用紙を見ながら、学生達の実力の高さに素直に関心した月落は、そう確信している。

「実践的な言語習得にはリスニング力が最重要となります。人は聴いた単語や文章を例題として記憶に保管し、それを基盤にして文章構成や発音を行います。私たちが生まれてから喋り出すまでに要する期間は、早くて約9か月と言われています。それまでの間に何億という言葉や会話を聞きながら、言語のパターンや音の響きを学習します。皆さんも同じように出来るだけ多くの英語を聴いて、それを実践に活かしてください。まずは聴くこと、そのために予習を忘れずに授業に臨んでください」

 無言だけれど首を縦に振る学生たちの顔は、皆一様に明るい。
 優れた指導者の下では優れた追随者が育つ。
 金の卵が、きらりと光る。

「月落くん」

 呼ばれた月落は、手元にあったプリントを学生達へと配って行く。

「さて、リスニング力が最重要と話しましたが、どんなに聴きこんだところで言語の仕組みを正しく理解していないと正しくアウトプットすることはできません。今から私がテキストと同じ文章をネイティブの速度で読みますので、それをお配りしたプリントに書き写していただきます。その後テキストを開いて解説とスピーキングを行ったのち、最後にもう一度リスニングとアウトプットをしてどれだけ聴き取れるようになっているかをチェックします。そのプリントは提出とし、出席確認としても使用しますので、そのつもりでいてください」

 配り終えたタイミングで、鳴成も言葉を切る。

「質問は授業後に出来る限り受け付けますが、瞬発力が必要なものはTAに相談してください。それでは授業を始めます」




―――――――――――――――




 2限に当たる時間で回収したプリントの採点と出欠確認を終えた鳴成と月落は、昼食を食べようと食堂へと移動した。
 入口でメニューを確認していると、奥の方に小さな人だかりができているのが見えた。

「あれ……先生、パン屋さんができてますね」
「本当ですね。2月に入ってからあの辺りが工事中になったのはベーカリー増設のためだったんですね」
「行ってみますか?先生、確か大学の時はサンドイッチ中心の学生生活でしたよね?」
「よく憶えてますね。懐かしいので、今日はパンにしても良いですね」

 バターの香ばしい匂いが漂う一画にたどり着くと、そこは学生や教職員で賑わっていた。
 プラスチックのトレイいっぱいにパンの山を築いている者もいる。

「一緒に買っちゃうので、食べたいのあったら遠慮なくどうぞ」

 トングを持った月落がそう言うと、鳴成はさっそくBLTサンドを冷蔵ケースから取り出してトレイの上に乗せた。

「先生。僕、たまごサンド食べるので半分交換しませんか?」
「ええ、そうしましょう」
「それと、ブロッコリーとキーマカレーのエピに海老カツサンド、トマトと茄子のピザ、クロックムッシュ……先生は何にします?」
「カプレーゼとバジルソースのパニーニ、あとはクワトロチーズクロワッサンにします」
「甘いのは食べなくて良いですか?ヨーグルトクリームのシナモンロールも美味しそうですよ」
「うーん……今日のスイーツは何が出てくる予定ですか?」

 一緒に働き始めて半年が過ぎて、月落が用意する午後のおやつは鳴成の中で『出てくるのが当たり前』のカテゴリーとなったようだ。
 期待されていると思うと俄然想いを込めて準備する気が起きるし、愛しい人の日常の新しい要素を作り出したのだと思うと単純に嬉しい。

「本日は、ディアマンバニーユをご用意しております」

 まるで執事のように恭しくお辞儀をした月落に、鳴成は小さく声を出して笑った。

「きみはそういうのも様になりますね。将来はホテルに、と叔父上に言われてましたが、似合うと思います」
「これは先生専用なので、どうでしょう……お客様が全員先生だったなら誠心誠意お仕えするんですが」
「無茶を言っている自覚は?」
「大いにあります。でも、本心です」
「ありがたく心に留めておきます。クッキーなら味が被らなさそうなので、シナモンロールも頂こうと思います」
「食堂でサラダとスープも買いますか?」
「はい、そうします。きみはそれだけで足りるんです?この照り焼きチキンドッグ、好きそうですよ?」
「食べます。絶対に食べます。いの一番に食べます」

 即座にパンへと手を伸ばした月落のトレイを見ると、先ほど山を築いていた人に負けず劣らずの量である。
 二人分ではあるけれど、遠足前に張り切ってお菓子を腕いっぱいに抱えた小学生のようだ。

「お会計して来ます」
「お願いします。きみもサラダを食べますか?」
「はい、頂きます」
「飲み物はコーヒーで良いですか?水もいります?」
「お願いします」
「分かりました。それを買っていつもの辺りにいますね」
「持てますか?色々あって重いですけど」
「大丈夫です」

 男の自分に何を心配しているのか。
 けれど、こうして過保護に扱われるのにも正直この半年で慣れてしまった。
 時間を掛けて慣らされてしまった、と言った方が正しいかもしれない。

 必ず用意されているスイーツしかり、必ず締めてくれるシートベルトしかり。
 あれこれと気を遣われて、それが染み込んで当たり前になった。
 それのひとつひとつがとても自然で、とても不思議で、とても……


 とても、手放せそうになくて。
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