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三章
11. 北欧神話と退職について①
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「先生、折り入ってご相談があります」
「ええ、何でしょう」
「僕、TAを辞めます」
10月も半分ほどが過ぎ去り、3番目の季節がやっと主役味の増す頃。
逢宮大学外国語学部准教授である鳴成秋史とそのTAの月落渉の姿は、鳴成の研究室にあった。
夕方すぎ、窓際に置いてあるスモークチェアに座り、久しぶりにゆっくりと読書をしている。
「オーディン、トール、グングニルとか意外と聞いたことのある名前も多いですね」
「北欧神話を題材にした小説や漫画、ゲームが沢山ありますから、図らずも出会っている単語が多いんでしょうね」
火曜日2限の講義が終わり、昼食を食べた二人はその足で大学図書館へと繰り出した。
『メイン館』と呼ばれる横長に大きな第一校舎を正面に見て右側に位置するその図書館は、理系キャンパスに建つ図書館と合わせると私立大学一の蔵書数を誇る。
書架5階建て、地下1階から4層が書庫という構造で、学生証や教職員証をかざして通る入館ゲートを通ると見えてくるのは、ネオゴシック様式と現代建築が調和した円形ドームだ。
半円の壁にはぎっしりと書架が並び、長方形の長いテーブルと椅子が何十脚も並べて置かれている。
読書を楽しむ空間として、個人学習スペースとして、さらには共同作業の場として大学に集う全ての人が使いやすようにと数年前に大規模改修が行われた。
ゆったりとしたソファ席、パーテーションで区切られた自習用の席、座ってそのまま本が読める大階段、大人数で会話しながら作業できる防音室、飲食スペース、AV室なども備えられている。
内装とは相反して、和風の格子柄が配されたモダンな外見の建物は中央がすっぽりと開いていて、陽だまりのテラス席として学生の間では人気だ。
「北欧神話に関する本を探すんですか?」
「ええ、そうです」
教員証をゲートにかざして図書館内に入った鳴成は、目立つ前方のドームへは向かわず、すぐ横の階段を上る。
初めて訪れた月落は物珍しそうにデコラティブな館内をぐるりと見渡したが、足を止めたのは僅かで、すぐに端正な後ろ姿を追いかけた。
2階の地を踏むと、取り出したスマホで目指す場所を確認しながら進む。
火曜日3限に当たる時間帯だ。
一般的に授業が盛んに行われている時刻、図書館を訪れる生徒も少ないようだ。
木漏れ陽に照らされる丸いテーブルでは、勉強をしている学生が数名いるのみ。
ホワイトベージュのカーペットに足音を吸い込ませながら、奥まった場所にある書架を目指す。
「神話ごとに別れてますね。ギリシャ神話、エジプト、インド……あ、ここですね」
声なのか息なのか、断定できぬほどの囁き声で月落が喋る。
それに応えるように発する鳴成の声も極控えめだ。
自然と距離が近くなる。
「日本の神話もありますね。日本の神様に関する本というのは興味を引かれるな……読んでみようかな、時間あるかな……」
そう言いながら、目当ての北欧神話以外の本を手に取ってぱらぱらと捲っていく鳴成つられて、月落も気になった本を手に取る。
挿絵付きのインド神話のカラフルかつ独特な世界観の描写に好奇心をそそられて、細部まで見たいという気持ちにさせられる。
聞いたことのある神様の名前に遭遇すると、思わず概要を読んでしまう。
しばらく気になる本を立ったまま読み耽っていた准教授とTAだったが、同じタイミングで我に返った。
「読んでしまって駄目ですね。今日は北欧神話だけを注視して選びましょう」
「かしこまりました。授業で使うとなると、英語で書かれてるのがあると好都合ですけど、ここにあるかな……?」
今日、鳴成と月落が図書館を訪れたのには理由がある。
鳴成が翻訳家として秋の仕事に選んだのは、意外にもゲーム関連だった。
今年の初めにイギリスで大流行した、北欧神話をモチーフにしたRPGの日本版が来春日本でも発売されることが決定した。
ゲームの世界観の序章となる短編小説が本国では初回限定特典として付属されていて、それが日本でも同様の特典として同封されることとなった。
その翻訳依頼が、懇意の小説家を通して鳴成の元に舞い込んだのだ。
いつもとは異ジャンルではあるが、RPGの荘厳なストーリーや魅力的な世界観に惹かれ、鳴成は快諾した。
そして、翻訳をするならばまずは題材となっている北欧神話を知らなければ、と資料探しをすることにした。
「あ、あった。教材になるかな……先生、どうですか?」
「もし適さなさそうなら、私が学生用に書き換えます」
鳴成の視線の高さまで下げられた一冊の本を、身体をくっつけるようにして覗き込む。
読むスピードは変わらないだろうと、月落は自分のペースでページを捲っていく。
「ここら辺なら授業にも使えそうですね」
「ええ。年末か年明け頃なら習熟度も上がっているので、このくらいの難易度でも理解できると思います」
翻訳の仕事を受けた際に守秘義務のある部分は伏せて神話の話をしたら、月落の瞳が輝いた。
それを受けて、もしかしたら神話というジャンルは今の若者にとって意外と遠くない存在なのかと思い、鳴成は先日の学部間共通講座で学生に質問をしてみた。
「いつもは小説を中心に英語に触れているが、もしかして神話や外国の伝説にも興味があるか」と。
すると、各学生の表情が想像以上に明るかったので、ならばと大学図書館にて文献を探すことにしたのだ。
北欧神話に関する鳴成用の参考資料と、授業用に使用できそうな本を検討している。
「学生用に登場キャラクターの説明と前提については、別途で用意することにしましょう」
「挿絵が多い方が生徒だけでなく、先生の理解にも繋がりますよね?」
「ええ、人物像や背景が文字だけでなくデザインとしても頭の中にあると、翻訳する際の言葉選びも違ってくるので」
「じゃあ、この辺はどうでしょうか?」
コミックっぽいものから『入門』と書かれたもの、解説の多そうなものなど、日本語と英語の本をそれぞれ開いて互いに確認しながら選んでいく。
昼下がり、秋の陽射しが螺旋形で降る室内、本の匂い。
頬の質感までも分かるほどに寄り添う、意中の人。
文字をなぞるように動く指先に視線を絡め取られた月落は、頭の片隅の小宇宙で詮無いことを考えていた。
知識の差がほとんどないと、こういう時に遠慮も虚栄も時差もなく意見を交わせるのが心地良い。
そして何より、本の感想を言う時に自然な上目遣いで見上げてくる年上の恋人が可愛すぎて、いっそ時が止まれば良い。
戦神トールにハンマーで打たれたくはないので、邪心は心の底に仕舞っておくけれど。
ちなみに、人気のない図書館といえば、隠れて手を繋いだりキスをしたりという描写がドラマや漫画のときめき供給では鉄板であろうが、自分たちの身には起こらないし、事実起こす気はない。
健全な場では振る舞いも健全に。
人気がないとは言え、いつ誰が通るかも知れない公共の場でプライベートを晒す気はない。
鳴成との仲を深めるのに、スリルは必要ない。
公序良俗を守ってこその、大人の愛の物語だ。
「締め切りから逆算して、一週間で読むとなるとこれくらいですね」
鳴成が下から辿るように動かす視線の先には、月落の腕の中で積み上がった厚みのさまざまな10冊の本。
半分持とうとする鳴成に、筋トレになるからと断った結果だ。
さほど重くはないのだが、さすがに10冊となると腕の長さがギリギリで足元が見えづらかったので、帰りは階段ではなくエレベーターを使った。
貸出カウンターへと持っていくと、まるで珍獣が現れたかの如く周辺が見るからにざわりとした。
図書館内には滅多に姿を現さない外国語学部の准教授と、その隣に昨年からぴたりと寄り添う噂のTAの襲来は、図書館職員の虚を衝く事件だったのだろう。
担当者の手が震えて、本の裏表紙に貼ってあるバーコードが上手く読み込めず時間が掛かったのはご愛敬だ。
こういう状況に慣れている二人は、話をしながら気長に待った。
「教職員の方への貸し出しは30日間となっています。延長も可能ですので、必要があればネット申請を行ってください」
「承知しました。ありがとうございました」
受け取った本は再び、月落の腕の中で塔を成す。
笑顔で運ぶTAと、彼の見えにくい足元周りの情報を逐一言葉にしながら歩く准教授の背中を、数多の瞳が見送った。
図書館から帰ってきたのは、14時30分を過ぎた頃だった。
それほど口寂しくないからとミネラルウォーターを置いた鳴成と、ブラックコーヒーを用意した月落は、窓際の席で早速ハードカバーの表紙を開いた。
北欧神話の全容を一旦把握してから授業用のレジュメに落とし込むつもりなので、基本的な背景構造とキャラクター概要から手をつける。
「世界樹、ユグドラシル。世界はこの枝の上に成り立っている」
「鷲の姿をした巨人、フレースヴェルグ。羽ばたきが世界の風となる……バタフライエフェクトみたいですね」
「現代的に脚色されて味付けの増したオマージュ作品は多くあれど、オリジナルに一番設定の強さを感じますね。これは他の、ギリシャ神話などにも言えることですが」
「終焉がきっちりあって完結のピリオドを打てるのも、読み物としてひとつの閉じられた物語性を感じられますね。神と怪物の戦いなんて、男子は皆好きだと思います。先生も好きですか?」
「ええ、大好きです。出来れば怪物側で参戦したいです」
「え……先生それは、エルフとかドワーフ的なことですか?」
「いいえ、もう少し生物っぽくて二足歩行ではない……ああ、こういう感じの怪物ですね」
ページを何枚か捲って見開きで見せられる。
そこには、大きく口を開けた片目のウミヘビが描かれていた。
不気味な色の空を背負う、不気味な色の鱗が黒光りする大蛇。
「えーっと、先生。今の先生の姿とこの挿絵の怪物があまりにリンクしなさすぎて、ちょっと頭痛がします。想像するのを僕の脳が全力拒否してます」
「おかしいですか?見るからに凶悪そうな見た目が悪役まっしぐらで、分かりやすくて良いなと思うんですが」
「先生は悪役になりたいんですか?」
「人生はどうしたって善を追い求めてしまいますし、善で在らなければならないという若干の窮屈さもありますよね。なので、生まれながらの悪というのは中々に清々しいのではと思っていて、それを体験するのも未知との遭遇かな、と」
「悪役が清々しいと表現されているの、初めて聞きました」
「そう言えばそうですね。私も初めて言いました」
鳴成はペットボトルを開けて、水を一口飲む。
――訂正。開けたのは、月落だ。
「きみはどのキャラクターになりたいですか?」
「北欧神話なら、そうですね……ケルムト、ですね」
「神のひとりですか?」
「川です」
「川?……流れてるあの?」
「はい、河川の川です」
「生き物じゃないんですね。もしかして、水が好きだから?」
「大正解です」
「あはは、ブレないですね」
本を丸テーブルに置いてお腹を抱えて笑う鳴成を、つられて笑みを乗せた顔で月落は見遣る。
しばし肩を震わせていた人が元の体勢に戻ったとき、その睫毛はしっとりと潤っていた。
「私のウミヘビも大概ですが、きみのはもっと大概でした」
「主役級や人気っぽいキャラを選ばなかった時点でどっちもどっちです、先生」
「そうですか?そうかな……」
首を傾げて考える鳴成。
その胸元から着信音が聞こえてきたのは、数秒経ってからだった。
「篠井ひとみさん……お久しぶりですね」
取り出したスマホを見た鳴成の表情には何の変化もない。
聞こえた名前の響きを記憶の中で辿ると、一度だけ聞き覚えがあった。
前任者、つまり昨年鳴成のTAを辞めた女性だ。
「出ても構いませんか?」
「はい、どうぞ」
聞かれてまずいことは一切ないと語っているようなその態度に、月落はすぐさま返答した。
けれど電話の様子をじっと見ているのは無礼だろうと思い、月落は意識を手の中の本へと戻した。
「鳴成です。ええ、お久しぶりです。どうされたでしょうか…………もちろん、忘れていません。義理のご実家を継ぐと、ええ……あちらの弟さんが……」
途切れる言葉。
まばたきだけを静かに繰り返す。
静寂が気になった月落が顔を上げると、鳴成と目が合う。
組んでいた足を解いて席を立った鳴成が、静かにドアを開けて外へと出て行った。
「え?先生……?」
予想していなかった事態に、残された月落はぽつんと愛しい人の名を呼んだ。
「ええ、何でしょう」
「僕、TAを辞めます」
10月も半分ほどが過ぎ去り、3番目の季節がやっと主役味の増す頃。
逢宮大学外国語学部准教授である鳴成秋史とそのTAの月落渉の姿は、鳴成の研究室にあった。
夕方すぎ、窓際に置いてあるスモークチェアに座り、久しぶりにゆっくりと読書をしている。
「オーディン、トール、グングニルとか意外と聞いたことのある名前も多いですね」
「北欧神話を題材にした小説や漫画、ゲームが沢山ありますから、図らずも出会っている単語が多いんでしょうね」
火曜日2限の講義が終わり、昼食を食べた二人はその足で大学図書館へと繰り出した。
『メイン館』と呼ばれる横長に大きな第一校舎を正面に見て右側に位置するその図書館は、理系キャンパスに建つ図書館と合わせると私立大学一の蔵書数を誇る。
書架5階建て、地下1階から4層が書庫という構造で、学生証や教職員証をかざして通る入館ゲートを通ると見えてくるのは、ネオゴシック様式と現代建築が調和した円形ドームだ。
半円の壁にはぎっしりと書架が並び、長方形の長いテーブルと椅子が何十脚も並べて置かれている。
読書を楽しむ空間として、個人学習スペースとして、さらには共同作業の場として大学に集う全ての人が使いやすようにと数年前に大規模改修が行われた。
ゆったりとしたソファ席、パーテーションで区切られた自習用の席、座ってそのまま本が読める大階段、大人数で会話しながら作業できる防音室、飲食スペース、AV室なども備えられている。
内装とは相反して、和風の格子柄が配されたモダンな外見の建物は中央がすっぽりと開いていて、陽だまりのテラス席として学生の間では人気だ。
「北欧神話に関する本を探すんですか?」
「ええ、そうです」
教員証をゲートにかざして図書館内に入った鳴成は、目立つ前方のドームへは向かわず、すぐ横の階段を上る。
初めて訪れた月落は物珍しそうにデコラティブな館内をぐるりと見渡したが、足を止めたのは僅かで、すぐに端正な後ろ姿を追いかけた。
2階の地を踏むと、取り出したスマホで目指す場所を確認しながら進む。
火曜日3限に当たる時間帯だ。
一般的に授業が盛んに行われている時刻、図書館を訪れる生徒も少ないようだ。
木漏れ陽に照らされる丸いテーブルでは、勉強をしている学生が数名いるのみ。
ホワイトベージュのカーペットに足音を吸い込ませながら、奥まった場所にある書架を目指す。
「神話ごとに別れてますね。ギリシャ神話、エジプト、インド……あ、ここですね」
声なのか息なのか、断定できぬほどの囁き声で月落が喋る。
それに応えるように発する鳴成の声も極控えめだ。
自然と距離が近くなる。
「日本の神話もありますね。日本の神様に関する本というのは興味を引かれるな……読んでみようかな、時間あるかな……」
そう言いながら、目当ての北欧神話以外の本を手に取ってぱらぱらと捲っていく鳴成つられて、月落も気になった本を手に取る。
挿絵付きのインド神話のカラフルかつ独特な世界観の描写に好奇心をそそられて、細部まで見たいという気持ちにさせられる。
聞いたことのある神様の名前に遭遇すると、思わず概要を読んでしまう。
しばらく気になる本を立ったまま読み耽っていた准教授とTAだったが、同じタイミングで我に返った。
「読んでしまって駄目ですね。今日は北欧神話だけを注視して選びましょう」
「かしこまりました。授業で使うとなると、英語で書かれてるのがあると好都合ですけど、ここにあるかな……?」
今日、鳴成と月落が図書館を訪れたのには理由がある。
鳴成が翻訳家として秋の仕事に選んだのは、意外にもゲーム関連だった。
今年の初めにイギリスで大流行した、北欧神話をモチーフにしたRPGの日本版が来春日本でも発売されることが決定した。
ゲームの世界観の序章となる短編小説が本国では初回限定特典として付属されていて、それが日本でも同様の特典として同封されることとなった。
その翻訳依頼が、懇意の小説家を通して鳴成の元に舞い込んだのだ。
いつもとは異ジャンルではあるが、RPGの荘厳なストーリーや魅力的な世界観に惹かれ、鳴成は快諾した。
そして、翻訳をするならばまずは題材となっている北欧神話を知らなければ、と資料探しをすることにした。
「あ、あった。教材になるかな……先生、どうですか?」
「もし適さなさそうなら、私が学生用に書き換えます」
鳴成の視線の高さまで下げられた一冊の本を、身体をくっつけるようにして覗き込む。
読むスピードは変わらないだろうと、月落は自分のペースでページを捲っていく。
「ここら辺なら授業にも使えそうですね」
「ええ。年末か年明け頃なら習熟度も上がっているので、このくらいの難易度でも理解できると思います」
翻訳の仕事を受けた際に守秘義務のある部分は伏せて神話の話をしたら、月落の瞳が輝いた。
それを受けて、もしかしたら神話というジャンルは今の若者にとって意外と遠くない存在なのかと思い、鳴成は先日の学部間共通講座で学生に質問をしてみた。
「いつもは小説を中心に英語に触れているが、もしかして神話や外国の伝説にも興味があるか」と。
すると、各学生の表情が想像以上に明るかったので、ならばと大学図書館にて文献を探すことにしたのだ。
北欧神話に関する鳴成用の参考資料と、授業用に使用できそうな本を検討している。
「学生用に登場キャラクターの説明と前提については、別途で用意することにしましょう」
「挿絵が多い方が生徒だけでなく、先生の理解にも繋がりますよね?」
「ええ、人物像や背景が文字だけでなくデザインとしても頭の中にあると、翻訳する際の言葉選びも違ってくるので」
「じゃあ、この辺はどうでしょうか?」
コミックっぽいものから『入門』と書かれたもの、解説の多そうなものなど、日本語と英語の本をそれぞれ開いて互いに確認しながら選んでいく。
昼下がり、秋の陽射しが螺旋形で降る室内、本の匂い。
頬の質感までも分かるほどに寄り添う、意中の人。
文字をなぞるように動く指先に視線を絡め取られた月落は、頭の片隅の小宇宙で詮無いことを考えていた。
知識の差がほとんどないと、こういう時に遠慮も虚栄も時差もなく意見を交わせるのが心地良い。
そして何より、本の感想を言う時に自然な上目遣いで見上げてくる年上の恋人が可愛すぎて、いっそ時が止まれば良い。
戦神トールにハンマーで打たれたくはないので、邪心は心の底に仕舞っておくけれど。
ちなみに、人気のない図書館といえば、隠れて手を繋いだりキスをしたりという描写がドラマや漫画のときめき供給では鉄板であろうが、自分たちの身には起こらないし、事実起こす気はない。
健全な場では振る舞いも健全に。
人気がないとは言え、いつ誰が通るかも知れない公共の場でプライベートを晒す気はない。
鳴成との仲を深めるのに、スリルは必要ない。
公序良俗を守ってこその、大人の愛の物語だ。
「締め切りから逆算して、一週間で読むとなるとこれくらいですね」
鳴成が下から辿るように動かす視線の先には、月落の腕の中で積み上がった厚みのさまざまな10冊の本。
半分持とうとする鳴成に、筋トレになるからと断った結果だ。
さほど重くはないのだが、さすがに10冊となると腕の長さがギリギリで足元が見えづらかったので、帰りは階段ではなくエレベーターを使った。
貸出カウンターへと持っていくと、まるで珍獣が現れたかの如く周辺が見るからにざわりとした。
図書館内には滅多に姿を現さない外国語学部の准教授と、その隣に昨年からぴたりと寄り添う噂のTAの襲来は、図書館職員の虚を衝く事件だったのだろう。
担当者の手が震えて、本の裏表紙に貼ってあるバーコードが上手く読み込めず時間が掛かったのはご愛敬だ。
こういう状況に慣れている二人は、話をしながら気長に待った。
「教職員の方への貸し出しは30日間となっています。延長も可能ですので、必要があればネット申請を行ってください」
「承知しました。ありがとうございました」
受け取った本は再び、月落の腕の中で塔を成す。
笑顔で運ぶTAと、彼の見えにくい足元周りの情報を逐一言葉にしながら歩く准教授の背中を、数多の瞳が見送った。
図書館から帰ってきたのは、14時30分を過ぎた頃だった。
それほど口寂しくないからとミネラルウォーターを置いた鳴成と、ブラックコーヒーを用意した月落は、窓際の席で早速ハードカバーの表紙を開いた。
北欧神話の全容を一旦把握してから授業用のレジュメに落とし込むつもりなので、基本的な背景構造とキャラクター概要から手をつける。
「世界樹、ユグドラシル。世界はこの枝の上に成り立っている」
「鷲の姿をした巨人、フレースヴェルグ。羽ばたきが世界の風となる……バタフライエフェクトみたいですね」
「現代的に脚色されて味付けの増したオマージュ作品は多くあれど、オリジナルに一番設定の強さを感じますね。これは他の、ギリシャ神話などにも言えることですが」
「終焉がきっちりあって完結のピリオドを打てるのも、読み物としてひとつの閉じられた物語性を感じられますね。神と怪物の戦いなんて、男子は皆好きだと思います。先生も好きですか?」
「ええ、大好きです。出来れば怪物側で参戦したいです」
「え……先生それは、エルフとかドワーフ的なことですか?」
「いいえ、もう少し生物っぽくて二足歩行ではない……ああ、こういう感じの怪物ですね」
ページを何枚か捲って見開きで見せられる。
そこには、大きく口を開けた片目のウミヘビが描かれていた。
不気味な色の空を背負う、不気味な色の鱗が黒光りする大蛇。
「えーっと、先生。今の先生の姿とこの挿絵の怪物があまりにリンクしなさすぎて、ちょっと頭痛がします。想像するのを僕の脳が全力拒否してます」
「おかしいですか?見るからに凶悪そうな見た目が悪役まっしぐらで、分かりやすくて良いなと思うんですが」
「先生は悪役になりたいんですか?」
「人生はどうしたって善を追い求めてしまいますし、善で在らなければならないという若干の窮屈さもありますよね。なので、生まれながらの悪というのは中々に清々しいのではと思っていて、それを体験するのも未知との遭遇かな、と」
「悪役が清々しいと表現されているの、初めて聞きました」
「そう言えばそうですね。私も初めて言いました」
鳴成はペットボトルを開けて、水を一口飲む。
――訂正。開けたのは、月落だ。
「きみはどのキャラクターになりたいですか?」
「北欧神話なら、そうですね……ケルムト、ですね」
「神のひとりですか?」
「川です」
「川?……流れてるあの?」
「はい、河川の川です」
「生き物じゃないんですね。もしかして、水が好きだから?」
「大正解です」
「あはは、ブレないですね」
本を丸テーブルに置いてお腹を抱えて笑う鳴成を、つられて笑みを乗せた顔で月落は見遣る。
しばし肩を震わせていた人が元の体勢に戻ったとき、その睫毛はしっとりと潤っていた。
「私のウミヘビも大概ですが、きみのはもっと大概でした」
「主役級や人気っぽいキャラを選ばなかった時点でどっちもどっちです、先生」
「そうですか?そうかな……」
首を傾げて考える鳴成。
その胸元から着信音が聞こえてきたのは、数秒経ってからだった。
「篠井ひとみさん……お久しぶりですね」
取り出したスマホを見た鳴成の表情には何の変化もない。
聞こえた名前の響きを記憶の中で辿ると、一度だけ聞き覚えがあった。
前任者、つまり昨年鳴成のTAを辞めた女性だ。
「出ても構いませんか?」
「はい、どうぞ」
聞かれてまずいことは一切ないと語っているようなその態度に、月落はすぐさま返答した。
けれど電話の様子をじっと見ているのは無礼だろうと思い、月落は意識を手の中の本へと戻した。
「鳴成です。ええ、お久しぶりです。どうされたでしょうか…………もちろん、忘れていません。義理のご実家を継ぐと、ええ……あちらの弟さんが……」
途切れる言葉。
まばたきだけを静かに繰り返す。
静寂が気になった月落が顔を上げると、鳴成と目が合う。
組んでいた足を解いて席を立った鳴成が、静かにドアを開けて外へと出て行った。
「え?先生……?」
予想していなかった事態に、残された月落はぽつんと愛しい人の名を呼んだ。
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