鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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三章

11. 北欧神話と退職について②

 15分ほどで、鳴成は戻ってきた。
 窓際へ来るなり、立ったままペットボトルの水を飲み干す。
 そしてそのまま、スモークチェアへと力なく座った。

「先生、非常事態発生ですか?」
「ええ、思いもよらぬことが起きてしまいました。これは私の力ではどうにもならない気がします」
「えーっと、何があったかお聞きしても?」
「ええ、きみに隠し事はありませんので。けれど、きみの現状に無関係という訳ではありませんので、私の説明次第で気を悪くさせてしまったら申し訳ないです」
「大丈夫です。僕は先生のすることなすこと全肯定派筆頭ですので。何もお気になさらず、どうぞ。お水用意するので、その間に気持ちを落ち着かせてください」

 そう言いながらドア付近に置いてあるボックスから新しいミネラルウォーターを取り出すと、戻ってきた月落はペットボトルの蓋を開けてテーブルへと置いた。

「ありがとうございます。きみの以前に私のTAとして勤務してくれていた、篠井ひとみさんと言う方がいます。彼女は義理のご実家の農業を継ぐという理由で退職しました」
「確か、あちらのお父様がぎっくり腰になってお手伝いに行って、そのまま移住されたと記憶しています」
「ええ、そうです。ご夫君がご長男ということもあり話はスムーズに進んで、無事に跡を継いだそうです。ご実家はブランドメロンを育てている農家さんで、今年の収穫も問題なく終えられて。篠井さん曰く、収入が予想以上でとても安定していて、だからこそ問題が起きた、と」
「……問題、ですか」
「ご夫君の下に弟さんがいらっしゃるんですが、その収入について執念深く尋ねられたそうで、根負けしたご夫君がつい口走ってしまったと。ご実家は質素倹約をモットーに子育てをされたらしく、ご夫君や弟さんは農業がそんなにも高収入だと知らなかったようで。そしたら後日、その弟さんが……」

 説明の歯切れが悪くなる。
 事態が悪い方へと進む合図だ。

「弟さんが?」
「弟さんが、本当は自分も家業を継ぎたかった、と」
「それは泥沼兄弟喧嘩の様相を呈してますね」
「呈してます。元々ご兄弟の仲はさほど良くはなく、農家を継ぐという話も事前に弟さんにはしなかったようなんです。弟さんは大学入学と共に上京して連絡もマメなタイプではなく、お正月やお盆も帰省することは稀だったそうで。自営業をされているので農業には興味ないだろうというのが、ご両親やご親戚の間でのコンセンサスでもあったようです」
「もしかしてその弟さんの自営業、上手く行ってなかったりしますか?」
「まさしく。経営難だそうです」

 月落はため息を吐いたあと、スモークチェアの肘掛けに腕を乗せて頬杖をついた。
 終演までストーリーが見えてしまったとでも言いたげな顔で。
 鳴成は深く座り直すと、組んでいた足を組み換えた。

「それで、ご長男は跡継ぎの座を奪われてしまった?」
「ええ、結局のところ」
「どういう手を使ったんでしょうか。農業に乗り気でご実家の危機にすぐさま駆け付けたご長男よりも、ほとんど実家に寄らず不誠実だったご次男の方が選ばれたのは、理解に難いですね」
「元々お母上が可愛がってらしたのが弟さんで、そこに付け入ったのでは、というのが篠井さんの推察です。お母上はご健在で農作業もされるので、それなら弟さん夫婦と一緒にやりたいと言われてしまった、と」
「あ、ご次男もご結婚されてるんですね」
「ええ。篠井さんにはお子さんはいらっしゃらないんですが、弟さんには息子さんが二人いらっしゃるらしく、そこもアピールポイントで使われたようです」
「うーん、世知辛い結果ですね」

 鳴成がペットボトルの水を飲む。
 月落もコーヒーを飲むが、生憎とぬるくなってしまった。

「跡継ぎ争いに負けた篠井さんご夫婦が東京に戻ってきたのが、先週のことです」
「篠井さんは職探しのために、先生に電話を掛けてこられたんですね」
「きみの勘が良すぎて、若干寒気がしますね」
「すみません。三手先まで読め、と教えられて育ったので」
「ご夫君は昨年までメーカーの研究部門に勤務されていて、どうにかその会社に再就職できる運びとなったんですが、契約社員スタートが条件だと。生活自体は何とかやっていけるけれど、万が一の時のために手放さずにいた持ち家のローンの支払いが厳しいということで、篠井さんも仕事を探さねばならない状況のようです。もし私に新規のTAがいないなら、来年度から雇ってほしいという内容でした」
「僕、邪魔者ですね」
「渉くん、言い方」

 いつもはプライベートな場でしか登場しない名前呼びに、月落の眉がぴくりと反応する。
 公私の境が曖昧になるほどに、鳴成の内心は揺らいでいるのだろうと理解する。

「私にはきみがいますのでお断りをしました。もし他で探していらっしゃる先生方がいないか、事務の許斐さんに連絡してみたんですが、どなたもTAが辞める様子はないらしくて」
「困りましたね、先生」
「困っているのは私というより、篠井さんですね。ご両親のために順風満帆だった生活を捨てたのに、結局この1年が無駄になってしまったのは不運以外の何物でもないですから」

 憂う表情で窓の外を見る。
 そろそろ秋の夕方という時間帯だ。
 夏の原色とは違う、彩度の低い空の色が暮れていく。

「分かりました。先生、折り入ってご相談があります」
「ええ、何でしょう」
「僕、TAを辞めます」

 綺麗な横顔がぱっと向きを変える。
 数秒、ヘーゼルの視線と真っ直ぐに対峙する。
 少しだけ目を瞠った顔には意外にも、濃い驚愕の色は映し出されていない。
 悔しさと諦めが混ざったような、微妙な表情だ。

 もっとはっきりと驚かれると思っていた月落の方が、逆に驚いてしまいそうだ。

「きみが席を譲ることはありません」

 目尻を歪める表情の説明は、「意表を突かれた」が一番適切そうである。
 いつかは必ず訪れる未来であることは明白だったけれど、まさか今この場で告げられるとは。
 そんな思いが乗っているように見える。

「きみがいるせいで篠井さんが戻ってこられない訳ではないんです」

 鳴成の口から零れる、引き止めるような言葉。
 それはほぼ無意識だ。

 その場を去る人間にはある程度の覚悟が必要だが、去られる人間にはそれ以上の覚悟が必要だ。
 大切な人がいなくなった空白を感じながら、これからも同じ場所に居続けなければいけない人間には特に。

 鳴成はその覚悟を、流れる日々の中でしっかりと組み立てていたし、いたつもりだった。
 いたつもりだったけれど、やはりいざ直面すると無性に寂しい。
 月落がそう言うからにはきっと決定事項なのだろうけれど、一度触れてしまった心地良さには未練がつきまとう。

「篠井さんのことはこちらで何とかします……何とかならないかもしれませんが、一旦事務側でも処遇の検討をすると許斐さんから提案を頂いたので、きみが退く必要は全くありません」
「先生にそう言っていただけて、正直心底嬉しいです。先生らしくないことを仰ってるのは気づいてますよね?」
「ええ、気づいています。でも、未練がましいとは自覚していますが、言葉が勝手に出てしまうので致し方ありません。本意ではないですが、本心なので」
「天にも昇る気持ちです、もういっそ、召されてもいい……」
「きみはまだ地上でしなければならないことが沢山あるので、魂を手放さないでください」
「そうでした。それで、僕の今後のことですが、実は篠井さんのことはあまり関係がないんです。もう少し話し合いを重ねてから先生にもご相談しようと思ってたんですが、タイミングの妙もあるのでこの場を借りさせてください。ここからは僕のターンになってしまいますが、よろしいですか?」
「ええ、どうぞ」

 マグカップに入っているコーヒーを、月落が飲み干す。
 コトリ、と陶器の音がした。

「おとといの夜に、うちで首脳会談が行われまして」
「一般家庭だと絶対にお目見えしない文字の並びですが、月落家ならば納得です」
「各部門のトップがオンラインで行う定例会議なんですが、そこでなぜか僕の話題が出たようなんです」
「……きみのグループ入りがいつになるか、ですか?」
「それを飛び越えて、僕をどこの部門が獲るかで白熱した、と父から聞かされました。それと同時に、あれは来年度からグループに入る前提で話が進んでいて誰も疑ってなかった、とも言われました」
「引く手数多で、相変わらず人気者ですね?」
「本人がいないところで重要事項を決定するのは本気で止めてほしいんですが、親戚もそれ以外の方々も同じ穴の狢でして。盛り上がるとジェットエンジンに切り替えて、天高く舞い上がってしまう傾向にあって」
「お会いしたことのある方々と、今までに教えてもらった話から察するに、全く不思議に感じません」

 キャラクター色の強い一族の本領発揮は、実は今現在で鳴成の知る高さのもう少し上なのだが黙っておく。
 後退りされないように、今後小出しにして行くつもりだ。
 皆、仕事に関しては謹厳実直なのだが、羽目の外し方の癖が強すぎて玄人向けなのだ。

「父と弓子伯母さんで牽制してくれたみたいなんですが、どうやら効果は薄そうです。それで、急で申し訳ないんですが、この後期の期間を以て先生のTAとしての職を辞したいと考えています」
「……迷子の期間は終わりですね」
「そういえば、採用面接の時にそれを実家から逃げる口実にしたんでした。懐かしいです」
「採用した時はまさかきみと、こんなに個人的な付き合いをするとは思ってもみませんでした」
「本当はもっと、先生と一緒に働きたかったです」

 少なくともあと1年隣で、公私をサポートしたかった。
 大学という閉ざされた特殊な空間で、伸びしろしかない学生の目覚ましい成長に感嘆しながら、鮮やかな日々を過ごしたかった。

 けれど、周囲に望まれた椅子に座るのも己の宿命だ。
 月落として生まれたからには組織の一員として貢献したい、という思いもある。
 幼少期から惜しみなく施された教育と過ぎるほどに与えられた恩恵を社会に還元する、という義務もある。

 宿命、そして。
 その横に生まれた、新たな願い。
 鳴成と出会ったことで芽生えた、覚悟。

「私も同じ気持ちです。きみがそばで支えてくれて、どんなに助かったことか。この研究室で、そして教室で、共に過ごした時間はとても有意義でした」

 穏やかに笑う、最愛の人。
 守るべき存在ができた今、手に入れたいものがある。

 自分のそばにいるというだけで無慈悲に投げつけられる嫉妬や罠で、愛しい恋人が傷つかないように。
 もし傷ついても、すぐに癒せるように。
 一族の名ではなく、自分の名だけで護れるように。
 一生、喜ばせ続けられるように。
 今までと変わらず穏やかに、穏やかなままで添い遂げられるように。

 手に入れなければならないもの。

 明け透けに言えば、絶対的地位。
 権力と統率力、影響力、捻じ伏せられる力。
 光を浴びるためには、影を掌握しなければ。
 二人で幸せになるために必要なものは、これから全て手に入れる。

 そのためには、安息の地を去らなければならない。

「職場が変わるだけなんですが、とっても寂しいですね」

 月落はそう言って立ち上がると、鳴成の前に跪いてその手を握った。

「雇ってくださってありがとうございました。あの日に先生が即決してくださらなかったら、僕たちは今頃こうなっていなかったかもしれません」
「きみのことです。もし仮に採用されなかったとしても、あらゆるルートを試して私の前に現われてくれるような気がしますが」
「先生、大正解です。どんな手段を使っても、というとちょっと怖いですね。でも、諦めなかったと思います」
「あの日は運命でしたね」
「はい。運命の巡り合わせでした」

 指先を握り合う。
 こうしてこの部屋で想い出を作れるのも残り実質4か月だと実感すると、前言撤回してしまいそうなほどに胸に冷たい風が吹く。
 けれど、もの悲しさは自分たちには似合わない。

「後期の授業は何だかひとつひとつに特別な感情が入ってしまいそうです。教員としては失格なので、TAの月落くんが上手にコントロールしてください」
「それは些か無理難題です、鳴成准教授」

 しんみりした空気を流すように軽口を叩く。
 恋人としての関係性には何も変化はないけれど、准教授とTAという立場は互いにとって、宝物のように特別だった。
 終止符を打つのはまだ先だけれど、その日が来るまでの一日一日を大切にしたい。
 隣で仕事をしない日々が当たり前になっても、その存在を確かに近くに感じられるように。

「篠井さんには再雇用の連絡をしておきます」
「あ、次の人がもう控えてると思うと、なんだかちょっと地団太踏みたくなりますね」
「いじけないでください」
「無理かもしれません。先生が慰めてくれなければ」
「……それは、家に帰ってからね」
「え、今日もしかして僕の家に来てくれますか?」
「ええ、きみの了承を得られれば」
「じゃあ、もう帰りますか?今すぐ帰りませんか?先生、帰りましょう?」
「仕事が終わったら帰りましょうね。まずはこの本を読まなければ」
「せんせい……まじめなところも大好きです」

 項垂れる月落の黒髪を、するりと撫でる鳴成だった。
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