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三章
19. 実家訪問と萩原の報告会③
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「同期ということで何かと比較して評価されるようで、教職員や学生が悪気なく鳴成様を持ち上げることに当人としては大いなる不満があるようです。自分は正当に評価されていない、と愚痴をこぼしていたという報告もあります」
「実際、その中垣講師の授業はどうなんだ?渉、知ってるか?」
「退屈ではないけど、学習意欲を膨らませるような内容じゃないっていうのは聞いたことある。会話はネイティブ並み、発音は綺麗だし知識も豊富なんだけど、面白味がないっていうか。溌溂としてないから、雰囲気が暗くてやる気にならないって」
「90分そんな感じだったら、現代の子は飽きちゃうでしょ。ファストな時代の集中力を保つには、小刻みに刺激がなくちゃね。ていうか、衛ちゃん、食べ終わるの早すぎない?掃除機なの?」
衛の前にあった甘味タワーは、いつの間にか忽然と姿を消していた。
それを若干ドン引きの表情で実咲は見遣る。
「俺、この最中大好物。創太くんはまた素晴らしい作品を作ったな。渉、期間限定が惜しいと抗議しておいてくれ」
「分かった」
「甘党おじさん。糖尿に気をつけてね」
「あ、そうだ、父さん。日曜日にうちに遊びにきた先生が手土産でブラウニー持ってきてくれたから、帰ったらあるよ」
「それは嬉しいな!でも、蛍に食べ尽くされてる気がしてならないな!」
「出張で不在の父さん用にって先生が分けて買ってくれたから、ちゃんとあるよ」
「さすが鳴成先生!もう一刻も早く親戚になってほしい!渉、プロポーズはいつだ?!父さんで良ければ一緒にシチュエーション考えるぞ?!」
「外野が急かすのは野暮ってもんでしょ。渉ちゃん、気にせず自分のペースでしなさいね」
「ありがとう。そうする」
放っておくと話が隣の隣の線路まで脱線する一族だ。
本筋に戻すタイミングを窺う萩原に気づいた月落が、苦笑いで謝りの言葉を述べた。
衛もそれに重ねる。
「すまん、萩原。それで、そのベクトルの間違った自分本位な嫉妬が、鳴成先生を陥れる元凶になったんだな?」
「はい。昨年、契約期間が5年目となったため、中垣講師は無期雇用への切り替えを大学側に申し入れたようですが、特例を持ち出されて却下となりました。今年が契約更新の年ですが、おそらく再契約はされない見通しです」
「それを中垣本人も勘づいているってこと?」
「昨年比で2コマ授業数を削られていますので、おそらく。ちなみに、削られた授業のひとつは鳴成様へとスライドした1年生の基礎英語です。鳴成様は授業数を増やすことには最後まで抵抗なさいましたが、大学関係者に土下座する勢いで押されたため、泣く泣くお引き受けになりました」
「……まさか、中垣はそれを盗られたって思ってるわけじゃないわよね?」
実咲の鋭い視線が細身のロマンスグレーへと突き刺さる。
それを真っ向から受け止めて、同じ強さの視線で跳ね返した。
カチリ、と線と線が結ばれる。
「思っているようです」
その言葉に、両の手の平を横に広げた実咲は、呆れたと言わんばかりの表情になる。
衛も親指でこめかみをぐりぐりと揉んでいる。
月落は無表情で押し黙るのみだ。
「それは鳴成准教授にとっては不運ね。それでなくても劣等感が作った矢で狙われてるのに、余計な登場人物がそれに火を焚いたも同然だわ」
「鳴成様に授業を横取りされたせいで自分は有期契約の講師という立場から上がれない、と考えているようです」
「大学側が勝手に決めたことに横取りも何もないだろう」
「中垣講師本人としては、将来が保障されない公募を受け続けることに疲弊していて、何としてでも逢宮大学で無期雇用を勝ち取りたい一心のようです。その気持ちが募りすぎて、大学教員という職に積極的な姿勢の見受けられない鳴成様が、それでもその座に悠々と座っていることに、一種の怨念に近い感情を抱いているようです」
「それで、鳴成准教授をストーカーして怖がらせて、大学を辞めろって?」
「そのようです」
月落は大きく大きく息を吸うと、ゆっくりゆっくりそれを吐き出した。
胸で発火する怒りを制御するために、6秒以上の時間を掛ける。
強く握った拳が、強く握りすぎて震えている。
「先生は授業数を増やすことには積極的じゃないけど、学生の英語運用能力を上げるっていうことに関しては人一倍骨を砕いてるのに。授業で配布する手作りの資料も毎回手が込んでて分厚いし、時々俺の本棚から参考文献持っていくこともあるくらい内容も多岐に渡って濃密だし、もちろん授業自体もとっても面白いし。そういうのを手を抜かずにきちんとやってるから、学生に人気なのに。それを知りもしない人間が過小評価するなんて、勘違い甚だしい……」
鳴成のこととなると、普段はフラットな感情の起伏が特に上振れに激しくなるのは自他共に認めるところではあり、それを自分自身や親戚は好意的に受け止めている。
けれど今回においては、その起伏は底の底へとたどり着き、アンガーマネジメントもお手上げ状態のようだ。
月落の背後では、胸中を飛び出した黒い炎が燃えている。
「渉ちゃん、落ち着きなさい。声を荒げない分余計に怖いから、ちょっと抑えて」
「先生の努力の結晶を、自分の授業内容を省みて改善することもせずにただ指咥えて見てる人間が、私欲のために奪おうとするのは我慢ならない。しかも、私生活を脅かして怖い思いをさせるなんて許せない」
「うん、それは父さんだってそうだ。分かってるから、渉、ちょっとだけ平常心を取り戻そうな」
「父さん。常識とか良識とかはいくらでも後からくっつけるから、早急に葬ってもいい?」
「渉、思慮分別っていうのはアタッチメントじゃないからな、それは無理だぞ」
「渉ちゃん、一旦スマホ開いて鳴成准教授の写真でも拝みなさい。そしたらちょっと落ち着くでしょ」
「そうする」
素直にスマホを取り出した月落は、昨日撮ったばかりの鳴成の寝顔の画像を開いた。
自分の腕の中ですやすやと眠る人。
「41のおじさんにもなって年下の子にすり寄って眠るなんて気恥ずかしい」と最初は少し距離を保ってベッドに入るけれど、眠りに落ちると無意識にくっついてくるのが可愛すぎて、ここ一週間毎晩スマホに収めている。
フォルダ内は同じ体勢の自分たちの画像しかなく変わり映えしないのだが、どれも大切な一枚だ。
抱き締めていた体温が手の平に戻ってくるようで、月落はしばし魂を手放した。
飛び散っていた火の粉の昂りが、大人しくなっていく。
「実際問題、どうするのがベストなのか考えなくちゃね。さすがに大学側の人事に介入するのは、ちょっと時間が必要でしょ」
「ある程度の寄付金は積んでるからやってやれないことはないが、早期解決を目指すなら穏便にとは行かないだろうな」
「中垣講師に関してはもう一点、ご報告がございます。昨年11月、逢宮大学では教職員におけるハラスメント調査が行われました。そこで学生から中垣講師によるアカデミックハラスメントや暴力に関する意見が寄せられ、12月に本人に対して聴き取り調査が行われています」
話を訊きながら、実咲はテーブルに乗っている写真を数枚拾い上げた。
特に面白くもなさそうな表情でそれらを眺める。
「アカハラに暴力。そんなことするようには見えないけどね?」
「学生から寄せられた意見っていうのは虚偽じゃないのか?」
「真実のようです。学生に対する暴言や机を叩くなどの行為を精神的圧迫と訴えた生徒や、鳴成様と自身を比べて卑下するような発言も多々見られるようです。大学側は、中垣講師が担当する授業を受講している生徒に再度調査を行ったのち、講師と面談を行っています。厳重注意としたようです」
「それはいつのことですか?」
旅に出ていた魂の紐を手繰り寄せて意識を戻した月落が、萩原に問う。
「昨年12月の下旬です」
「てことは、そこから冬休みに入ったとして……今年の授業が始まって1週間。中垣先生の授業の様子はどうですか?」
「好転してはいないようです。昨日の授業では、休み明けで気怠い雰囲気の学生に声を荒げる一幕もあった、と」
「もしや自滅するパターンか?大学側は来期の再契約はしない見込みだったな?」
「左様です」
「アカハラ疑惑……疑惑というかほぼ確定だけど、そんな先生は大学側だってリスクマネジメントで排除するでしょうね。好都合な言い訳が降って湧いたってところね」
「大学を辞めても先生への嫌がらせが無くなる確約にはならないから、物理的にどこかに隔離されてくれると安心なんだけど」
月落のその言葉に、衛が何かを閃いた表情で実咲を見遣る。
手元にある最中の包み紙を開けながらそれを迎え撃ち、けれど動作を止めるでもなく、実咲は綺麗にリップを塗った唇で最中を含む。
衛と見つめ合いながら、規則的な破裂音だけが木霊する。
「実咲、おととし新規オープンした北海道の温泉施設、従業員募集の必須条件が他言語話者だったな?」
「何だか嫌な予感がするけど、うん、そう。隣接するスキー場から流れてくる海外からのお客様が圧倒的に多いから、日本語以外の第二外国語をネイティブレベルで話せる人限定で雇ってる。衛ちゃん、まさか……」
「中垣講師をそこで雇ってみたらどうだ?」
「無理ね。暴力事件を起こす可能性のある男なんて、危険因子以外の何物でもないでしょ。危ない橋渡って拾った全員が全員、嶋ちゃんみたいに成功するわけじゃないんだから」
「嶋は別に危ない橋じゃなかっただろう?」
「裏社会と繋がってた上司の汚職突き止めて公表した報復でヤバいとこに首突っ込まされて死にかけた元刑事、のどこが危ない橋じゃないわけ?渉ちゃんもよく拾おうと思ったわね」
「良い人そうだったから」
「あのボロボロの見た目で人生に絶望しきってた男を、良い人そうって判断したの凄いわ。衛ちゃん家の帝王学って破天荒に振り切れてたりするの?」
「いや、ごく一般的なやつ」
「月落の中に一般的なんて項目ないでしょ?」
いや、俺たちはただの一般人だよ、と言いながら衛はカフェオレを飲み干す。
腕を組んで、箇条書きのような言葉をつらつらと零し始める。
「英語は話せる、ネイティブと同等レベル、好きなものには諦めない熱心さもある、人に何かを教えるという面に関しての嫌悪感はない。一方で人間性の昏さがあり、人付き合いは苦手、潜在的な暴力性を秘めている、か。今まで大学内に拘っていたからこそ自分の適性に上手く気づけなかった可能性はあるな」
「まぁ、それはあるでしょうね。狭い世界しか知らなかった人間が、別界隈に足を踏み入れたら実は天国だったなんて例はごまんとあるから。でも中垣にとってはそれが北海道かは分からな……分から……衛ちゃん、分からないからね?そんな目で見られても、私は契約書作らないからね?」
「俺の、このうるうるの懇願が目に入らぬか?」
「うん、入らないわ。ハラスメントで教員職をクビになった中垣がどういう行動を取るかもまだ予測不能だし、鳴成准教授に嫌がらせし続けるかも不明だから、とりあえず先のことはペンディングするのが賢明ね」
「そうだな、実際はそこが落としどころだろうな。写真撮っていやがらせするのも十分罪ではあるが、それ以上の実害を起こす様子はないようだから、大学人事を捻じまげて強制送還するのも大事になるだろう。渉、とりあえずは経過観察になるが、それでもいいか?」
父の言葉に、月落は細かく首を縦に振る。
「嫌がらせの犯人が分かっただけで対策は取りやすいから、十分。萩原さん、ありがとうございました」
「萩原、中垣講師側にも見張りを何人か回してくれ」
「かしこまりました」
「俺、先生を迎えに行く約束してるから、行くね」
立ち上がった青年は、結局ひとつしか開けなかった最中の残りを、父親の元へと移動させて足早に出て行った。
それを嬉々として開ける父親。
「衛ちゃん、仕事終わったらちゃんと運動してね」
「今日は家のジムにトレーナー呼んであるから、心配は無用だ。実咲は帰らないのか?」
「どうしようかな。何か他に面白い話ある?」
「それが、あるぞ。エコシステムがテーマの講演会で偶然会ったインドの財閥傘下の……」
タブレットを片付けたロマンスグレーが、テーブル中央のステンレスポットを持ち上げる。
中身のほぼないそれと共に、一礼をして部屋を出る。
給湯室へと向かう道すがらで、彼は次の飲み物を思案していた。
ここ1年ほどで棚に並ぶようになった、芳醇な香りの紅茶を思い浮かべながら。
―――――――――――――――
ダン!と机を強打する音が、しんと静まり返る教室を切り裂く。
「どうしてこんな簡単な問題も出来ないんだ!さっきから何回も説明してるじゃないか!」
ダン!ダン!ダン!と怒りを込めて打ち鳴らされるそれに、遠くの席で泣き出した少女の嗚咽は搔き消される。
皮肉るように笑みを浮かべて座っていた若者たちの顔も、次第に恐怖に染まり始めた。
「何でなにも言わない!何で誰も何も言わないんだ!」
温度を失くして沈黙の広がる空間に、教壇で怒り狂う男の狂気だけが渦巻いていく。
机に叩きつけられてひしゃげたノートは床に放り投げられた。
席に座る者たちの視線は、虚ろにそれを眺めただけ。
もはやそれを揶揄する声も聞こえてこない。
「僕の授業がつまらないならそう言えよ!必修科目だから仕方なく受けてやってるってお前らの顔に全部書いてあるんだよ!そんなんで英語が喋れるようになると思ってんのか!授業も真面目に受けない、課題も真面目にやってこないで身につくとでも思ってんのか!落単にしてやるからな!全員落単にしてやる!お前ら全員来年再履修して反省しろ!」
息を乱しながら、薄い肩を上下させて怒鳴る男性。
その男性に向かって、立ち上がった男子学生が歩いてくる。
周囲に座っていた友人たちが服の裾を引っ張って止めようとするが、意思は固い。
教壇の前で向き合うと、その学生は顔を近づけて明確にこう言った。
「中垣、お前これアカハラだぞ?大学に訴えてやるから覚悟しろよ」
骨の浮き出た手首を押さえつけるように掴んでいた男性は、学生から視線を外して下を向いた。
大きく深呼吸を繰り返していたが、その呼吸は徐々に噴かされるエンジンのように唸りを上げ始めた。
身の入っていない身体はわなわなと震えを起こし、不規則に跳ねる奇妙な動きも加わる。
その人間らしからぬ挙動に男子学生が後退りをしたとき、下を向いていた顔が予備動作なく持ち上がった。
「うるせぇよぉぉぉぉ!!!」
痩せた体躯で振りかぶった拳を寸でのところで避けた学生は、バランスを崩して床に転倒した。
座っていた他の学生から悲鳴が上がる。
「うるせえうるせえうるせえ!!!静かにしろぉ!俺の授業だろう!これは!俺の!授業なんだぁぁぁ!!!」
叫びながら手当たり次第に腕を振り回して暴れる男性と、逃げる生徒、泣く生徒、どこかへ連絡する生徒、動画を撮影する生徒。
夕方の逢宮大学教室は、阿鼻叫喚の地獄絵図となった。
「実際、その中垣講師の授業はどうなんだ?渉、知ってるか?」
「退屈ではないけど、学習意欲を膨らませるような内容じゃないっていうのは聞いたことある。会話はネイティブ並み、発音は綺麗だし知識も豊富なんだけど、面白味がないっていうか。溌溂としてないから、雰囲気が暗くてやる気にならないって」
「90分そんな感じだったら、現代の子は飽きちゃうでしょ。ファストな時代の集中力を保つには、小刻みに刺激がなくちゃね。ていうか、衛ちゃん、食べ終わるの早すぎない?掃除機なの?」
衛の前にあった甘味タワーは、いつの間にか忽然と姿を消していた。
それを若干ドン引きの表情で実咲は見遣る。
「俺、この最中大好物。創太くんはまた素晴らしい作品を作ったな。渉、期間限定が惜しいと抗議しておいてくれ」
「分かった」
「甘党おじさん。糖尿に気をつけてね」
「あ、そうだ、父さん。日曜日にうちに遊びにきた先生が手土産でブラウニー持ってきてくれたから、帰ったらあるよ」
「それは嬉しいな!でも、蛍に食べ尽くされてる気がしてならないな!」
「出張で不在の父さん用にって先生が分けて買ってくれたから、ちゃんとあるよ」
「さすが鳴成先生!もう一刻も早く親戚になってほしい!渉、プロポーズはいつだ?!父さんで良ければ一緒にシチュエーション考えるぞ?!」
「外野が急かすのは野暮ってもんでしょ。渉ちゃん、気にせず自分のペースでしなさいね」
「ありがとう。そうする」
放っておくと話が隣の隣の線路まで脱線する一族だ。
本筋に戻すタイミングを窺う萩原に気づいた月落が、苦笑いで謝りの言葉を述べた。
衛もそれに重ねる。
「すまん、萩原。それで、そのベクトルの間違った自分本位な嫉妬が、鳴成先生を陥れる元凶になったんだな?」
「はい。昨年、契約期間が5年目となったため、中垣講師は無期雇用への切り替えを大学側に申し入れたようですが、特例を持ち出されて却下となりました。今年が契約更新の年ですが、おそらく再契約はされない見通しです」
「それを中垣本人も勘づいているってこと?」
「昨年比で2コマ授業数を削られていますので、おそらく。ちなみに、削られた授業のひとつは鳴成様へとスライドした1年生の基礎英語です。鳴成様は授業数を増やすことには最後まで抵抗なさいましたが、大学関係者に土下座する勢いで押されたため、泣く泣くお引き受けになりました」
「……まさか、中垣はそれを盗られたって思ってるわけじゃないわよね?」
実咲の鋭い視線が細身のロマンスグレーへと突き刺さる。
それを真っ向から受け止めて、同じ強さの視線で跳ね返した。
カチリ、と線と線が結ばれる。
「思っているようです」
その言葉に、両の手の平を横に広げた実咲は、呆れたと言わんばかりの表情になる。
衛も親指でこめかみをぐりぐりと揉んでいる。
月落は無表情で押し黙るのみだ。
「それは鳴成准教授にとっては不運ね。それでなくても劣等感が作った矢で狙われてるのに、余計な登場人物がそれに火を焚いたも同然だわ」
「鳴成様に授業を横取りされたせいで自分は有期契約の講師という立場から上がれない、と考えているようです」
「大学側が勝手に決めたことに横取りも何もないだろう」
「中垣講師本人としては、将来が保障されない公募を受け続けることに疲弊していて、何としてでも逢宮大学で無期雇用を勝ち取りたい一心のようです。その気持ちが募りすぎて、大学教員という職に積極的な姿勢の見受けられない鳴成様が、それでもその座に悠々と座っていることに、一種の怨念に近い感情を抱いているようです」
「それで、鳴成准教授をストーカーして怖がらせて、大学を辞めろって?」
「そのようです」
月落は大きく大きく息を吸うと、ゆっくりゆっくりそれを吐き出した。
胸で発火する怒りを制御するために、6秒以上の時間を掛ける。
強く握った拳が、強く握りすぎて震えている。
「先生は授業数を増やすことには積極的じゃないけど、学生の英語運用能力を上げるっていうことに関しては人一倍骨を砕いてるのに。授業で配布する手作りの資料も毎回手が込んでて分厚いし、時々俺の本棚から参考文献持っていくこともあるくらい内容も多岐に渡って濃密だし、もちろん授業自体もとっても面白いし。そういうのを手を抜かずにきちんとやってるから、学生に人気なのに。それを知りもしない人間が過小評価するなんて、勘違い甚だしい……」
鳴成のこととなると、普段はフラットな感情の起伏が特に上振れに激しくなるのは自他共に認めるところではあり、それを自分自身や親戚は好意的に受け止めている。
けれど今回においては、その起伏は底の底へとたどり着き、アンガーマネジメントもお手上げ状態のようだ。
月落の背後では、胸中を飛び出した黒い炎が燃えている。
「渉ちゃん、落ち着きなさい。声を荒げない分余計に怖いから、ちょっと抑えて」
「先生の努力の結晶を、自分の授業内容を省みて改善することもせずにただ指咥えて見てる人間が、私欲のために奪おうとするのは我慢ならない。しかも、私生活を脅かして怖い思いをさせるなんて許せない」
「うん、それは父さんだってそうだ。分かってるから、渉、ちょっとだけ平常心を取り戻そうな」
「父さん。常識とか良識とかはいくらでも後からくっつけるから、早急に葬ってもいい?」
「渉、思慮分別っていうのはアタッチメントじゃないからな、それは無理だぞ」
「渉ちゃん、一旦スマホ開いて鳴成准教授の写真でも拝みなさい。そしたらちょっと落ち着くでしょ」
「そうする」
素直にスマホを取り出した月落は、昨日撮ったばかりの鳴成の寝顔の画像を開いた。
自分の腕の中ですやすやと眠る人。
「41のおじさんにもなって年下の子にすり寄って眠るなんて気恥ずかしい」と最初は少し距離を保ってベッドに入るけれど、眠りに落ちると無意識にくっついてくるのが可愛すぎて、ここ一週間毎晩スマホに収めている。
フォルダ内は同じ体勢の自分たちの画像しかなく変わり映えしないのだが、どれも大切な一枚だ。
抱き締めていた体温が手の平に戻ってくるようで、月落はしばし魂を手放した。
飛び散っていた火の粉の昂りが、大人しくなっていく。
「実際問題、どうするのがベストなのか考えなくちゃね。さすがに大学側の人事に介入するのは、ちょっと時間が必要でしょ」
「ある程度の寄付金は積んでるからやってやれないことはないが、早期解決を目指すなら穏便にとは行かないだろうな」
「中垣講師に関してはもう一点、ご報告がございます。昨年11月、逢宮大学では教職員におけるハラスメント調査が行われました。そこで学生から中垣講師によるアカデミックハラスメントや暴力に関する意見が寄せられ、12月に本人に対して聴き取り調査が行われています」
話を訊きながら、実咲はテーブルに乗っている写真を数枚拾い上げた。
特に面白くもなさそうな表情でそれらを眺める。
「アカハラに暴力。そんなことするようには見えないけどね?」
「学生から寄せられた意見っていうのは虚偽じゃないのか?」
「真実のようです。学生に対する暴言や机を叩くなどの行為を精神的圧迫と訴えた生徒や、鳴成様と自身を比べて卑下するような発言も多々見られるようです。大学側は、中垣講師が担当する授業を受講している生徒に再度調査を行ったのち、講師と面談を行っています。厳重注意としたようです」
「それはいつのことですか?」
旅に出ていた魂の紐を手繰り寄せて意識を戻した月落が、萩原に問う。
「昨年12月の下旬です」
「てことは、そこから冬休みに入ったとして……今年の授業が始まって1週間。中垣先生の授業の様子はどうですか?」
「好転してはいないようです。昨日の授業では、休み明けで気怠い雰囲気の学生に声を荒げる一幕もあった、と」
「もしや自滅するパターンか?大学側は来期の再契約はしない見込みだったな?」
「左様です」
「アカハラ疑惑……疑惑というかほぼ確定だけど、そんな先生は大学側だってリスクマネジメントで排除するでしょうね。好都合な言い訳が降って湧いたってところね」
「大学を辞めても先生への嫌がらせが無くなる確約にはならないから、物理的にどこかに隔離されてくれると安心なんだけど」
月落のその言葉に、衛が何かを閃いた表情で実咲を見遣る。
手元にある最中の包み紙を開けながらそれを迎え撃ち、けれど動作を止めるでもなく、実咲は綺麗にリップを塗った唇で最中を含む。
衛と見つめ合いながら、規則的な破裂音だけが木霊する。
「実咲、おととし新規オープンした北海道の温泉施設、従業員募集の必須条件が他言語話者だったな?」
「何だか嫌な予感がするけど、うん、そう。隣接するスキー場から流れてくる海外からのお客様が圧倒的に多いから、日本語以外の第二外国語をネイティブレベルで話せる人限定で雇ってる。衛ちゃん、まさか……」
「中垣講師をそこで雇ってみたらどうだ?」
「無理ね。暴力事件を起こす可能性のある男なんて、危険因子以外の何物でもないでしょ。危ない橋渡って拾った全員が全員、嶋ちゃんみたいに成功するわけじゃないんだから」
「嶋は別に危ない橋じゃなかっただろう?」
「裏社会と繋がってた上司の汚職突き止めて公表した報復でヤバいとこに首突っ込まされて死にかけた元刑事、のどこが危ない橋じゃないわけ?渉ちゃんもよく拾おうと思ったわね」
「良い人そうだったから」
「あのボロボロの見た目で人生に絶望しきってた男を、良い人そうって判断したの凄いわ。衛ちゃん家の帝王学って破天荒に振り切れてたりするの?」
「いや、ごく一般的なやつ」
「月落の中に一般的なんて項目ないでしょ?」
いや、俺たちはただの一般人だよ、と言いながら衛はカフェオレを飲み干す。
腕を組んで、箇条書きのような言葉をつらつらと零し始める。
「英語は話せる、ネイティブと同等レベル、好きなものには諦めない熱心さもある、人に何かを教えるという面に関しての嫌悪感はない。一方で人間性の昏さがあり、人付き合いは苦手、潜在的な暴力性を秘めている、か。今まで大学内に拘っていたからこそ自分の適性に上手く気づけなかった可能性はあるな」
「まぁ、それはあるでしょうね。狭い世界しか知らなかった人間が、別界隈に足を踏み入れたら実は天国だったなんて例はごまんとあるから。でも中垣にとってはそれが北海道かは分からな……分から……衛ちゃん、分からないからね?そんな目で見られても、私は契約書作らないからね?」
「俺の、このうるうるの懇願が目に入らぬか?」
「うん、入らないわ。ハラスメントで教員職をクビになった中垣がどういう行動を取るかもまだ予測不能だし、鳴成准教授に嫌がらせし続けるかも不明だから、とりあえず先のことはペンディングするのが賢明ね」
「そうだな、実際はそこが落としどころだろうな。写真撮っていやがらせするのも十分罪ではあるが、それ以上の実害を起こす様子はないようだから、大学人事を捻じまげて強制送還するのも大事になるだろう。渉、とりあえずは経過観察になるが、それでもいいか?」
父の言葉に、月落は細かく首を縦に振る。
「嫌がらせの犯人が分かっただけで対策は取りやすいから、十分。萩原さん、ありがとうございました」
「萩原、中垣講師側にも見張りを何人か回してくれ」
「かしこまりました」
「俺、先生を迎えに行く約束してるから、行くね」
立ち上がった青年は、結局ひとつしか開けなかった最中の残りを、父親の元へと移動させて足早に出て行った。
それを嬉々として開ける父親。
「衛ちゃん、仕事終わったらちゃんと運動してね」
「今日は家のジムにトレーナー呼んであるから、心配は無用だ。実咲は帰らないのか?」
「どうしようかな。何か他に面白い話ある?」
「それが、あるぞ。エコシステムがテーマの講演会で偶然会ったインドの財閥傘下の……」
タブレットを片付けたロマンスグレーが、テーブル中央のステンレスポットを持ち上げる。
中身のほぼないそれと共に、一礼をして部屋を出る。
給湯室へと向かう道すがらで、彼は次の飲み物を思案していた。
ここ1年ほどで棚に並ぶようになった、芳醇な香りの紅茶を思い浮かべながら。
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ダン!と机を強打する音が、しんと静まり返る教室を切り裂く。
「どうしてこんな簡単な問題も出来ないんだ!さっきから何回も説明してるじゃないか!」
ダン!ダン!ダン!と怒りを込めて打ち鳴らされるそれに、遠くの席で泣き出した少女の嗚咽は搔き消される。
皮肉るように笑みを浮かべて座っていた若者たちの顔も、次第に恐怖に染まり始めた。
「何でなにも言わない!何で誰も何も言わないんだ!」
温度を失くして沈黙の広がる空間に、教壇で怒り狂う男の狂気だけが渦巻いていく。
机に叩きつけられてひしゃげたノートは床に放り投げられた。
席に座る者たちの視線は、虚ろにそれを眺めただけ。
もはやそれを揶揄する声も聞こえてこない。
「僕の授業がつまらないならそう言えよ!必修科目だから仕方なく受けてやってるってお前らの顔に全部書いてあるんだよ!そんなんで英語が喋れるようになると思ってんのか!授業も真面目に受けない、課題も真面目にやってこないで身につくとでも思ってんのか!落単にしてやるからな!全員落単にしてやる!お前ら全員来年再履修して反省しろ!」
息を乱しながら、薄い肩を上下させて怒鳴る男性。
その男性に向かって、立ち上がった男子学生が歩いてくる。
周囲に座っていた友人たちが服の裾を引っ張って止めようとするが、意思は固い。
教壇の前で向き合うと、その学生は顔を近づけて明確にこう言った。
「中垣、お前これアカハラだぞ?大学に訴えてやるから覚悟しろよ」
骨の浮き出た手首を押さえつけるように掴んでいた男性は、学生から視線を外して下を向いた。
大きく深呼吸を繰り返していたが、その呼吸は徐々に噴かされるエンジンのように唸りを上げ始めた。
身の入っていない身体はわなわなと震えを起こし、不規則に跳ねる奇妙な動きも加わる。
その人間らしからぬ挙動に男子学生が後退りをしたとき、下を向いていた顔が予備動作なく持ち上がった。
「うるせぇよぉぉぉぉ!!!」
痩せた体躯で振りかぶった拳を寸でのところで避けた学生は、バランスを崩して床に転倒した。
座っていた他の学生から悲鳴が上がる。
「うるせえうるせえうるせえ!!!静かにしろぉ!俺の授業だろう!これは!俺の!授業なんだぁぁぁ!!!」
叫びながら手当たり次第に腕を振り回して暴れる男性と、逃げる生徒、泣く生徒、どこかへ連絡する生徒、動画を撮影する生徒。
夕方の逢宮大学教室は、阿鼻叫喚の地獄絵図となった。
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千秋がαアレルギーになったのは幼少期のトラウマが原因だった。その時から千秋はαに対し強い拒否反応を示すようになり、わざわざαのいない高校へ進学するなど、徹底してαを避け続けた。
そんなある日、千秋は体育の授業中に熱中症で倒れてしまう。保健室で目を覚ますと、そこには親友の向田翔(むこうだかける)ともう一人、初めて見る下級生の男がいた。
その男と、トラウマの原因となった人物の顔が重なり千秋は混乱するが、男は千秋の混乱をよそに急に距離を詰めてくる。
「やっと見つけた」
男は誰もが見惚れる顔でそう言った。
本気になった幼なじみがメロすぎます!
文月あお
BL
同じマンションに住む年下の幼なじみ・玲央は、イケメンで、生意気だけど根はいいやつだし、とてもモテる。
俺は失恋するたびに「玲央みたいな男に生まれたかったなぁ」なんて思う。
いいなぁ玲央は。きっと俺より経験豊富なんだろうな――と、つい出来心で聞いてしまったんだ。
「やっぱ唇ってさ、やわらけーの?」
その軽率な質問が、俺と玲央の幼なじみライフを、まるっと変えてしまった。
「忘れないでよ、今日のこと」
「唯くんは俺の隣しかだめだから」
「なんで邪魔してたか、わかんねーの?」
俺と玲央は幼なじみで。男同士で。生まれたときからずっと一緒で。
俺の恋の相手は女の子のはずだし、玲央の恋の相手は、もっと素敵な人であるはずなのに。
「素数でも数えてなきゃ、俺はふつーにこうなんだよ、唯くんといたら」
そんな必死な顔で迫ってくんなよ……メロすぎんだろーが……!
【攻め】倉田玲央(高一)×【受け】五十嵐唯(高三)
推しにプロポーズしていたなんて、何かの間違いです
一ノ瀬麻紀
BL
引きこもりの僕、麻倉 渚(あさくら なぎさ)と、人気アイドルの弟、麻倉 潮(あさくら うしお)
同じ双子だというのに、なぜこんなにも違ってしまったのだろう。
時々ふとそんな事を考えてしまうけど、それでも僕は、理解のある家族に恵まれ充実した引きこもり生活をエンジョイしていた。
僕は極度の人見知りであがり症だ。いつからこんなふうになってしまったのか、よく覚えていない。
本音を言うなら、弟のように表舞台に立ってみたいと思うこともある。けれどそんなのは無理に決まっている。
だから、安全な自宅という城の中で、僕は今の生活をエンジョイするんだ。高望みは一切しない。
なのに、弟がある日突然変なことを言い出した。
「今度の月曜日、俺の代わりに学校へ行ってくれないか?」
ありえない頼み事だから断ろうとしたのに、弟は僕の弱みに付け込んできた。
僕の推しは俳優の、葛城 結斗(かつらぎ ゆうと)くんだ。
その結斗くんのスペシャルグッズとサイン、というエサを目の前にちらつかせたんだ。
悔しいけど、僕は推しのサインにつられて首を縦に振ってしまった。
え?葛城くんが目の前に!?
どうしよう、人生最大のピンチだ!!
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「推し」「高校生BL」をテーマに書いたお話です。
全年齢向けの作品となっています。
一度短編として完結した作品ですが、既存部分の改稿と、新規エピソードを追加しました。
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