鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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三章

20. 諭旨解雇と万雷の雨

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「聞いた?中垣先生、授業中に生徒殴ったらしいよ」
「聞いた聞いた。危険人物度最高レベルで笑っちゃう。私の必修英語の先生がバカデカ拡声器でほんとよかったー」

「外国語学部の講師、解雇になるって」
「え、なんでなんで?」
「暴力クソ野郎だったって。生徒を殴る罵倒する、物壊すとかで一部で有名だったって」
「こわぁ。誠吾モンが天使のゆるキャラに見えてくる」
「今日も真冬なのに大汗かいてたけど、それも可愛いよね。崇め奉っておこ」

「ハハ先生ー!文系キャンパスで大事件ですー!先生が学生殴っちゃったって!」
「それは大変だね~!暴力は絶対にダメだ~!」
「第一報なんで事情は分かんないですけど、人間として大人として教員として失格ですねー!」
「うん、だねだね~!反面教師で僕らも気をつけよ~!」


 木曜日、逢宮大学は文系理系キャンパス問わず学部問わずで、朝から外国語学部の話題で持ちきりとなった。
 昨日の夕方に発生した暴力事件は、逃げた生徒が同じ階で授業をしていた教室へと逃げ込み、事情を説明された教員が警備員に連絡、暴れていた中垣謙介はその場で取り押さえられた。
 初めは半狂乱であった男は、制服の警備員に両腕を捕られた後に徐々に正気に戻り、「なんてこと……僕はなんてことを……」と青褪めながら大号泣したという。

 大学側は即日懲罰委員会を設置し、これから審査が行われる予定だ。

「朝早くからお集りいただき、誠にありがとうございます。昨晩、緊急連絡と題してお知らせした件につきまして、本日午後より中垣講師及び該当の講義を受けていた学生全員から事情聴取を行います」

 外国語学部の授業棟である17号館の一番大きな教室には、朝7時という時間帯にもかかわらず英語学科の全教員が召集されていた。
 1限が始まる前の会議であるため、この時間帯である。
 教壇でマイクを握るのは、学科長の女性教授だ。

「昨日起こった出来事に関しまして、概要を報告します。4限の必修科目授業中において、中垣講師の質問に答えられない学生が多数いたため、講師が机を叩く等の暴力行為をしました。アカハラに該当する発言もあり、一人の男子学生が苦言を呈すると、中垣講師はその学生へと殴りかかったようです。その手は空振りに終わったとのことですが、学生が転倒したため、職員付き添いの元で救急を受診しました。異常なしでした」

 異常なしの言葉を聞いて、ほっとしたようなため息が教室内を埋める。
 純粋に学生を心配する気持ちが円グラフのほぼ全てを占めてはいるが、ほんの数%は暴行事件にならずに良かったという安堵も含まれている。
 殴りかかったことは事実なので、その部分は黒寄りのグレーではあるが。

「中垣講師の処罰については今後委員会で判断が下されますが、今回先生方にお集りいただいたのは、テスト期間までの残り10日ほどの授業の代替と、後期テストの採点の代替をお願いしたいからです。選択授業5コマに関しては特別休講とし授業は行いません。残り2コマの必修科目につきましては、どなたかに代わりをお願いしたく。また、テストの採点作業も割り振りを行いたく、話し合いをさせてください」

 いつものように後方の席に影を潜めて座っていた鳴成秋史は、組んでいた右足を微かに揺らした。
 昨日の午後に自分を迎えにきた年下の恋人に、自宅に帰る車中で嫌がらせの写真を撮っていた犯人を聞かされ心底驚いた。
 あまり関りのなかった人物であったため、自分がライバル視されていることも教員として抱えている事情も、明かされるほとんど全てが初耳だった。

 「自己分析を怠って反省しないくせに、欲しいものを持ってる人を羨んで卑怯に脅してそれを強奪しようとする、愚か者の仕業でした」という凶悪極まりない台詞を中垣の名前と共に述べたその人は、不機嫌を通り越して輝く笑顔だった。
 親しくはないが身近な距離にいる人物が犯人と聞かされて戸惑っていた鳴成だったが、その笑顔を見て思わずくすりと笑みを零した。
 綻んだ目元を見つめられながら、長い指で撫でられる。
 その慰撫の仕草に、鳴成の心の海にはじんわりと温かい波が寄せては返した。

 そして、年下の恋人はこうも告げた。

「大学側は再契約は結ばない意向ですが、アカハラと暴力行為で厳重注意となっているので、もしかしたらそれを待たずして解雇されるかもしれません」と。

 まさかそれがこんなにも早く訪れるとは、言った本人も聞かされた鳴成も思ってもみなかった。




 翌週、懲罰委員会は中垣謙介講師への処分を大学ホームページ内に掲載した。

 『逢宮大学は、外国語学部の教員を、1月22日付けで、諭旨解雇の懲戒処分といたしましたのでお知らせします。』


 骨の浮き出た手首を潰すほどに握り締めた男性の姿はその後、東京から姿を消した。




――――――――――――――




 1月最終週の土曜日、昼すぎ。
 小雨のちらつく冷えた空の下。
 鳴成秋史と月落渉は、赤坂見附にある小料理屋に立ち寄った。
 尾びれの長い金魚の提灯だけが目印としてぶら下がっている『六麟』は、紹介限定のみで入店を許可される隠れきった名店だ。

「渉坊ちゃま、いらっしゃいませ」

 木製の引き戸を開けた途端に身体を包み込むぬくい温度に、両名がほっと縮こまった肩の力を抜いていると、カウンター内にいた小柄な女性に迎え入れられる。
 割烹着を着た古希にほど近い見た目のその女性は、この店の女将だ。
 総白髪を低いお団子にしている。

「こんにちは、小梅さん。こちらは俺がお世話になってる、逢宮大学の鳴成秋史准教授です」
「初めてご挨拶をさせていただきます。鳴成秋史と申します」
「女将の小梅です。とってもお会いしたかったのよ。寒かったでしょう?さ、お席にどうぞ」

 通されたのは、カウンターの奥の席だ。
 幼馴染である箱江創太と月落が食事をする際に主に座る場所である。
 ちなみに、父や親戚とこの店に立ち寄った際にも同じ区画に案内されるので、女将流の座席ルールであるのかも知れない。

 鳴成の着ていたブラッシュドウールの黒のショートコートと、シアリングの襟が付いた自分のアビエイタージャケットを壁のハンガーに掛けて月落は席に着いた。

「すごく大きな鍋でしたね。仕切りが長方形で10個あるのは、業務用の中でも大きいタイプですよね、きっと」

 カウンターの前を通る時に見えた厨房の様子を、鳴成は小声で月落に囁いた。

「ここ、春から秋は小料理屋なんですけど、小梅さん自身が生粋のおでん好きのおかげで冬はおでん屋になるんです。さすがに業務用の鍋は重いからって、冬限定で片付ける人を雇う徹底ぶりで」
「鍋に投入前の食材の多さも専門店の如きですね」

 基本的には女将ひとりで切り盛りをしている店だ。
 料理の提供と下準備を同時進行で行うため、古伊万里の大皿には串に刺さった大量のうずらの卵が仲良く整列している。
 年季の入った手が、おしぼりと箸を置く。

「お飲み物は何にします?鳴成さんはお酒はお好きでいらっしゃるの?」
「日本酒以外なら、比較的何でも好きです」
「日本酒とは仲がよろしくないのね」
「体質的に合わないようで、すぐに眠くなってしまうんです」
「まぁ、それは可愛いわねぇ。渉坊ちゃま、わざとお飲ませになってはだめよ」
「先生の前では一生紳士のままでいるつもりなので、やんちゃはしません」
「あらあら、愛されてらっしゃる」

 のどかな会話の矢印が自分に向いていることに鳴成は若干戸惑いつつ、月落と相談して瓶ビールを注文した。
 夜の時間帯ではないしこれから向かう場所もあるので、アルコールは控えめにするつもりだ。
 すぐにビールとグラス、白菜のコールスローとまぐろの山かけがお通しとして出される。
 ビールを注ぎ合い、乾杯をして喉を潤す。

「うんんん、美味しいです。寒い冬にあったかい場所で飲む冷えたビールは、無形文化遺産に登録されるべきですね」

 小さめのコップのほぼ全量を一気に飲み干した月落が唸る。

「もしそうなったら、積極的に保護に乗り出す人々の様子が容易に想像できまね」
「早割りとかハッピーアワーの並びで、保護飲み割りって銘打ったサービスとか出てきそうですよね」
「あはは、確かに。失くしてはならないですから、それはとても素晴らしいサービスですね」

 互いに2杯目のビールを注ぎ合っていると、白きくらげと胡瓜の中華和えの皿も追加で出された。

「鳴成さんは苦手な食材はおありになるのかしら?野菜とか貝とかお肉とか、私の好みをおでんの具にしてしまってるのだけど」
「ありません。こちらのおでんは珍しい食材も多くて楽しめると伺っているので、出来れば全種類出していただければと思っています」
「まぁ、それは嬉しい。アボカドも大丈夫そう?」
「それがまさしく楽しみの内のひとつです」
「よかったわぁ。ひとつずつを何皿かに分けてお出しするから、渉坊ちゃまと分けて召し上がってね」
「ありがとうございます」

 小さい身体で、けれど背筋の伸びたキビキビとした動きで、女将はおでんの準備を始める。
 その尊い光景含めて無形文化財に登録されたら尚良いのに、と思いながら鳴成は箸を動かす。
 コールスローの角の丸い酸味が美味しい。

「お料理、美味しいですね。皆さんが常連になりたいと思う気持ちが分かります」
「この店の存在の特異性が人を惹きつける一番の理由ですけど、小梅さんの料理の腕に夢中になる方も多いみたいです。ああ、今いらっしゃった方は超常連だっていう噂です」

 静かな音を立てて開いた引き戸からは、男女のペアが現れた。
 女将に短く挨拶をすると、店の奥にあるテーブル席に座った。
 とある外資企業の日本法人取締役であるが、普段着でとてもラフな佇まいだ。
 月落と男性は目が合った一瞬だけ、会釈での挨拶を交わす。

 面識があっても極簡単に済ます、それがこの店での暗黙の了解だ。
 以前、女将が厨房の奥で作業をしている隙を突いて他の客に商談を持ちかけた無礼者がいたが、紹介者もろとも出禁となっていた。
 格式張らない小料理屋ではあるが、客として通えるということそれ自体がステータスとなる場だ。
 もしかすると、どこぞの会員制クラブよりも審査は厳しいかもしれない。

「お待ちどおさま。あつあつなので、お気をつけて召し上がってくださいねぇ」

 薄水色のうず模様の入ったとんすいがいくつも並べられ、その中には湯気立ち昇るおでんの具が肩を寄せ合って入っている。
 どれもこれも一見しただけで味が染みているのが分かる色味だ。

 大根、はんぺん、ちくわ、結び昆布、糸こんにゃく、ごぼう巻き、餅巾着、たこ、焼き豆腐、海老しんじょ、イカ天、がんもどきの標準ラインナップ。
 玉ねぎ、じゃがいも、春菊、かぶ、えのきだけの野菜系。
 ロールキャベツ、ウィンナー、手羽先の肉系。
 そして、アボカド、だし巻き玉子の変わり種。

「これで最後ね。串はテーブルの上の入れ物に入れていただけると助かるわ」

 そう言って出された器には、うずらの卵、ミニトマト、牛すじ、つくね、花麩、芽キャベツ、つぶ貝がそれぞれ串に刺さった盛り合わせが乗っている。

「これは味変にお使いになってね。右から、粉からし、特製味噌だれ、柚子胡椒です」
「ありがとうございます。いただきます」
「渉坊ちゃま、お代わりの時は遠慮なくまたお呼びになってね」
「ありがとうございます」

 鳴成と月落は早速といった様子で茶色の海へと箸を投入する。
 半分に割れそうなものはひとつ、割れなさそうなものは初めからふたつ入っているのに女将の気遣いを感じる。

「アボカド、とろとろで美味しいですね。まったりした味と食感が、こんなにも出汁と合うなんて思いませんでした」
「先生、鰹節をかけても美味しいですよ」
「……うん、本当ですね。さらに和風の装いになりますが、それが絶妙にやみつきになる感じです」
「だし巻きも食べてください」
「ゆで卵は定番ですけど、だし巻きは初めてですね」

 半分こされた、黄色い層が綺麗に重なる四角を一口サイズに切って、鳴成は口に運んだ。

「…………食べ物を食べたのに、飲み物を飲んだ気持ちになります」
「あはは、分かります。ふわふわの生地が出汁を吸い過ぎて、もはや出汁そのものみたいになりますよね」
「美味しいです。味付け自体は全部一緒なのに、素材が違うだけでこんなに味わいが異なるのも鍋ならではだなと思います」
「小梅さんのおでんは中毒になる人が多くて、季節関係なく提供してほしいって毎年沢山要望があるみたいです。でも、鍋物は冬の風物詩だから、と断ってて。なので冬は特にお客さんが多くて、夜だけだと捌ききれないからって特別に昼も営業してるんです」
「あ、このお店は通常は夜限定なんですね」
「そうです。小梅さんもご高齢なので、夕方から夜までですね。でも、年末年始とお盆以外は毎日営業なので、パワフルお婆ちゃんです」
「それはもしかすると、私よりも体力がおありになりそうですね……」

 鳴成と月落が箸も会話も止めずにいる間にも、木製の扉は何度も開かれる。
 「今日は何があるの?」とカウンターに座りながら鍋を覗く客もいれば、注文を言わずとも皿一杯につぶ貝の串を出されている客もいる。
 皆、はふはふと熱い湯気を吐きながら酒を楽しむ土曜日の昼だ。

 鳴成は、アボカドとだし巻き玉子、大根を追加オーダーし、月落は初戦とほぼ同じ量を腹に収めた。




―――――――――――――――




「雨足、強くなりましたね」
「結構降ってますね……先生、電車移動にしますか?」

 女将に挨拶をして店を出た二人を待ち構えていたのは、水色の絵の具で線を書き足された空模様だった。
 時刻は14時を過ぎた辺り。
 お昼を堪能している間に、雲が一段階分厚くなった印象だ。
 これから虎ノ門方面へと向かうため、食後の有酸素運動も兼ねて歩いて移動する予定だった。

「寒くないと言えば正直嘘になりますけど、意外と歩けそうな気はしています。身体、あったまってますし」
「しめのカレーうどんのおかげで、芯から燃えてる感じしますね。じゃあ、歩いてみましょう」

 鳴成はシルバーグレイの、月落は黒のピンストライプの傘を開いて道を歩き出す。
 小道を抜けて外堀通りへと出ると、左手に神社を臨みながらビル群を進む。
 オフィスビル街である周辺一体は、土曜日である今日は人通りが少なく歩きやすい。

「まさか、おでんのしめでカレーうどんが出てくるとは驚きでした。うちでやる時は大概雑炊なので」
「あらゆる出汁を吸ったお米も美味しそうですね。利沙さんのお手製とあらば、洋風全開のチーズリゾットとかで出てくるのかと想像してました」
「母は洋風の人なんですが、父は和風の人なので、おでんは父の管轄なんです。得意ジャンルは垣根を越えず一任する、が夫婦間でのルールのようで、和食の時は父が采配を振るっています」
「お父様も料理されるんですね」
「ええ、時々ですが。月落家のおでんのしめは何ですか?」
「実はなくて。子供の頃はおでんをおかずとして食べるのが中々難しかったので、おでん以外のメインが食卓に並んでそれでご飯を食べてました。大人になった今はついついお酒と一緒に満腹まで食べてしまうので、しめまでたどり着くことは少ないです」
「おでんがおかずにならないの、分かります。煮物より味が濃くないので、あまりお米が進みませんよね。小学生の時に夕飯におでんが出て、私がおもむろに白米にふりかけをかけたことで我が家に雑炊文化が誕生しました」

 歩きながら、クリームに心を奪われた鳴成の母が作る生クリーム入りのカレーうどんの話などをしていると、急に雨が本降りとなった。
 それはもはや土砂降りに近い。
 一気に最大までボリュームを上げた雨の喧噪のなか、傘を差しながら小走りで去る何人もと擦れ違う。
 信号待ちで前に立つダウンジャケットを着ている男性の肩には、幾筋もの雫が流れ落ちている。

「先生、濡れてませんか?」
「ええ、傘が大きめなので大丈夫です。きみは?」
「えーっと……濡れてますね。あれ、もしかして傘差すの下手なのかな?俺」

 水に弱いラムスキンのアビエイタージャケットは、警告音が発せられそうなほどに濡れている。
 この雨の中ではどうしようもないと諦めつつ空を見上げていると、建設中のビルの上に顔を出すタワークレーンの頭上で弱い光が数度瞬いた。

「えぇぇ……雷だ」

 遅れて空気を切り裂く轟音。

 反射で竦めた身体のせいで傘が傾き、月落のジャケットはより一層被害に遭う。
 それを見た鳴成が、傘の柄を持っている月落の手ごと掴んで軌道修正した。

「どこか建物の中に入りましょうか。落雷の危険もありますから」
「じゃあ……先生、こっちに。うちのグループが買い取ったビルが近くにあります」

 辺りを見回した月落は、信号が変わるとともに方向を右に転換した。
 傘や地面を容赦なく叩きつける雨の音に包まれながら早歩きで辿り着いた先は、長方形のガラス窓が横にも縦にもずらりと並ぶオフィスビルだった。
 自動ドアを抜けてエントランスに入ると、右奥ではチェーン展開しているカフェが営業中だ。
 さすがに濡れ鼠すぎてこのままカフェに入るのは憚られたため、左奥の窓際に設置されているソファへと向かう。

「静かですね」
「オフィス分散のために契約したビルなんですが、まだ移転前なので現状あのカフェしか稼働してない状態なんです」

 ビル内の照明は必要最低限にまで絞られているため薄暗い。
 人も誰もいないので、ひっそりとした空間に窓を叩く雨音だけが響く。
 エレベーターホールへと続く死角になる場所で、しんと静まり返った空間に二人の声量は自然と小さくなる。

 誰もいないのに、内緒話をするように身を寄せ合う。

「まさかいきなり雷雨になると思いませんでした」
「冬に雷なんて珍しいですよね……積乱雲の発達しやすい夏は覚悟してますけど、これが冬もとなると、いよいよ油断ならない人生サバイバルが始まる鐘の音が聞こえてきます」
「覚悟を決めるには少し時期尚早な気がするので、その鐘の音はとりあえずこの雨に流して忘れてしまいましょうね」

 ジャケットから取り出したハンカチでお互いを拭き合う。
 圧倒的に月落の方が濡れているのは、傘を差すのが下手だと言ってたことが真実だからだろうか。

「そういえば、きみは傘を差すのが嫌いだと前に言ってましたね?嫌いを克服したんですか?」
「先生、記憶力が凄いですね」
「いま唐突に思い出しました。以前、大学に落雷があってセントラルキッチンに閉じ込められた日のことを」
「ああ、あの日のことは僕も憶えてます。傘は今でもあまり好きじゃないんですが、持たずに服の色を変えるっていうのは子供っぽくて格好悪いかなと思って、持つようになりました」
「大人になりましたね」
「はい、先生に釣り合う紳士になりたいです」
「きみはもう既に、立派で素敵な紳士ですよ?」
「先生!」

 月落が顔面いっぱいに喜色をあらわにしたとき、再びの稲妻が空を切り割いた。
 遅れて、天から巨石が転がり落ちるような爆音が聞こえる。
 反射で窓の外を見た黒髪の横顔を鳴成は両手で挟むと、自分と向き合うように位置を固定した。
 その行動が予想外だったのか、きょとんとした表情で見つめてくる月落に、鳴成はこう尋ねた。

「大学でのあの落雷の日、私がきみに対してどうしたか、憶えていますか?」

 頬を包んでいた手の平を首の後ろへとスライドさせて、距離を詰める。
 月落は心底驚いた顔になり、それでも鳴成の腰へと腕を回してその身体を支えた。

 珍しい。
 ルールを守って、節度を保って、きちんと自制する年上の恋人が、誰もいないとはいえ外でこんな行動に出るなんて。
 そんな気持ちが隠し切れていない表情の月落に、鳴成は再度質問をした。

「憶えていませんか?」
「めちゃくちゃ憶えてます。僕の耳を塞いで、雷から守ってくださいました」
「正解です。きみの記憶力も優秀ですね」
「というより、忘れられません、あんなの。今だから言えますけど、心臓がはち切れそうで本当にどうにかなっちゃいそうでした」
「そうなんですね。そんな風には全然見えませんでした」
「必死で隠しました。まだ僕の片想いだったので」

 片想い。
 そうだ、初めはそこから始まったのだ。
 ゆるりと穏やかな波に少しずつ少しずつ心を染められて、事件を乗り越えて、朝陽の中で想いを伝え合って。
 焦らず、けれど確実に段階を踏んで、距離を縮めて。
 ついには、命果てるまで共にいたいと願うようになった。
 どの方法を選択するかは今は明確ではないけれど、二人なりの形できちんと結婚したいと思っている。

 その気持ちの変化が、絆の深まりが、知り合ってわずか1年と少しの間に起こったというのは、改めて考えてみてもとても濃密だ。
 一昨年の9月まで全くの赤の他人だったなんて、嘘のよう。
 こんなにも短期間で人生が劇的に変わるなんて、まるで恋愛小説のようだ。

「今は両想いですね」
「はい……あの、先生、そんなこと絶対にないとは思いますけど、もしかして酔ってますか?」
「どうしてですか?」
「こういう状況も言動も、出先にいる先生にしては珍しいので」
「そうですか、珍しいですか……嫌ですか?」
「いいえ、全く。嬉しすぎて爆ぜそうです」
「爆ぜ?……若者の言葉は時に難解ですね。でも、そうですね。少し酔ってるかもしれません。もう、私たちを監視する人はいませんから……」

 月落が背を向ける窓の外、空が点滅する。
 白の閃光を目の端に捕らえながら、鳴成は月落の耳を両手で塞いだ。

「酔ったせいにして、しばらくきみとこうしていましょう」

 踵を上げる。
 顔を寄せて、愛しい人に口づけをした。
 まさかそんな行動までされると思っていなかったために全機能がフリーズした年下の恋人に、微笑みながらしばらく唇を重ねていると、色々と取り戻したその人に貪るように激しく唇を探られた。

 形勢逆転。

 上げていた踵は地面へと着地し、逆に仰け反るような姿勢で固定されて何度も角度を変えられて。



 時間を忘れて、雷を忘れて、しばしの戯れは続く。

 雨空の下、ふたりだけで、滝のように流れる雨に輪郭を隠して。
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