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第23話・静かにほどける夜
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その沈黙の中で、奏一がそっと椅子を引いた。
立ち上がり、迷いのない動作で琴葉の前に膝を折る。
視線の高さが、ゆっくりと揃えられた。
「……琴葉さん」
呼ばれた名前は、驚くほど静かだった。
責める気配も、苛立ちもない。
奏一はそっと手を伸ばし、震えたままの琴葉の指先に自分の手を重ねた。
その温度に、琴葉の肩がかすかに揺れる。
「私に連絡をくださったこと。……それだけで、十分です」
「え……?」
迷惑をかけたと、ずっと胸が痛かった。
勝手をして、仕事を抜けさせたことを、きっと責められると。
そう思っていた。
だからこそ、その言葉はあまりにも意外で――
琴葉はゆっくりと、顔を上げる。
視線が重なった。
奏一の表情はいつもとほとんど変わらない。
それでも、瞳の奥にかすかな柔らかさが宿っているのがわかった。
「誰よりも苦しかったはずのあなたが……私を頼ってくれた。
――それが、どれほど嬉しかったか。言葉では言い表せません」
その声音に、嘘の気配は一つもなかった。
建前でも、医者としての社交辞令でもない。
まるで胸の奥底から掬い上げた言葉のようだった。
(……どうしてだろう)
安心が、ほんのり灯るみたいに広がっていく。
弱っている身体に染み込むように、ゆっくりと、温かく。
「……そっか」
琴葉はそれしか言えなかった。
言葉にならない感情が多すぎて、他に何も言えなかった。
けれど――。
もう震えてはいなかった。
呼吸も落ち着き、頬のこわばりも解けている。
奏一は琴葉の様子を確認し、わずかに息を整えると、医者としての声音に切り替えた。
「――ですが、琴葉さん」
真っ直ぐに向けられる目。
「今回は結果的に軽く済みましたが……次はどうなるかわかりません。
予定が早く終わった時、変更があった時は、必ず私に連絡をしてください」
叱るような強さはない。
けれど、“守りたい”という意志だけは揺るぎなく伝わってくる。
琴葉は素直に頷いた。
「……うん。わかった」
その返事に、奏一の肩がほんのわずかに緩む。
深いところから安堵が抜けていくような息が、静かに落ちた。
奏一の言葉を胸の奥で転がしながら、琴葉はそっと視線を落とす。
安心したからなのか。
緊張の糸がゆるんだからなのか。
さっきまで重く沈んでいた胸のあたりが、少しだけ軽くなっていた。
ほんの一呼吸分の静けさが落ちる。
そして――
自分でも意外なほど小さく、弱い声がこぼれた。
「……あの、ちょっとだけ……お腹、空いたかも」
言ってから、琴葉ははっと息を呑む。
食欲なんてなかったはずだ。
不安と申し訳なさで押し潰されそうで、何も喉を通らないと思っていた。
でも今は、胸の奥の固い塊が、少しだけほどけている。
奏一は、驚いたように瞬きをした。
それは琴葉の変化を正確に捉えた証のようで、次の瞬間には、深い安堵が表情を柔らかく溶かした。
「……よかったです」
ほとんど聞き取れるかどうかの、小さな声。
医者としての冷静さの奥に、ふっと温度がにじむ。
そして、すぐに姿勢を正し、
「何か食べられそうなものを用意してきます。少し待っていてください」
と、落ち着いた声で告げた。
その“すぐ動いてくれる”気配に、琴葉はまた胸が温かくなった。
キッチンから、静かな水音と鍋に火が入る音が聞こえてくる。
しばらくすると、出汁のやわらかな香りが部屋に流れ込んできた。
昆布と鰹のやさしい香り。
ほどなくして奏一がトレイを持って戻ってきた。
「味は薄めにしてあります。……少しだけ、食べてみましょう」
そう言って差し出された器には、湯気をまとったお粥がふんわりと盛られている。
琴葉は一瞬、ためらった。
(……正直、お粥ってあんまり好きじゃないんだよね)
幼い頃から体調を崩すたびに、何度も食べさせられてきた。
味も薄いし、これまでの記憶のせいで“病気の象徴”みたいに感じてしまう。
それでも、匙を一口すくって口に運ぶ。
……あれ?
舌に落ちた瞬間、ほろっとほどける米粒。
出汁の旨味がほんのり広がって、後味は驚くほど軽い。
「……美味しい」
思わず、ぽつりと漏れた言葉に、奏一は少し驚いたように視線を動かした。
「よかった。味が濃すぎないか、心配でした」
「ううん……先生のお粥、なんか……食べやすい」
自分でも意外だった。
嫌いなはずのお粥が、するすると喉を通っていく。
奏一はほっと息をついた。
「無理しなくて大丈夫です。食べられる分だけで」
その声はひどく静かで、体調に配慮した“医者の声”なのに、どこか…ほのかなぬくもりがあった。
琴葉はもう一口、ゆっくりと口に運ぶ。
“食べられる”という事実が、それだけで救いのように思えた。
お粥を半分ほど食べ終えたころ、琴葉はふう、と小さく息を吐く。
体の奥にじわりと温かさが広がり、胸につかえていた重いものがようやく落ちていった。
「……なんか、落ち着いてきた」
ぽつりと漏れた言葉に、奏一は静かに頷いた。
「ええ。今日はもう何も考えず、休んでください。 体が回復することが、一番です」
穏やかな声。
ただ、心配してくれて、支えてくれる。
その事実だけで胸があたたかくなる。
奏一は器をそっと下げ、寝室の明かりを柔らかい光に調整してから、布団を整えた。
「横になりましょう。
眠れなくても、目を閉じているだけで体は休まります」
促されるまま布団に入ると、シーツの冷たさが心地よく肌に触れた。
まぶたを閉じると、今日一日の出来事がゆっくりと遠のいていく。
「……おやすみなさい、琴葉さん」
寝室の入り口で、奏一の声がやわらかく響いた。
返事をしようとしたけれど、あたたかい安心が体中に広がって、そのまま言葉はそっと眠りに溶けていく。
不安も、痛みも、息苦しさも――すべてがやわらいでいくようで。
今日は、ただ静かに眠れそうだった。
立ち上がり、迷いのない動作で琴葉の前に膝を折る。
視線の高さが、ゆっくりと揃えられた。
「……琴葉さん」
呼ばれた名前は、驚くほど静かだった。
責める気配も、苛立ちもない。
奏一はそっと手を伸ばし、震えたままの琴葉の指先に自分の手を重ねた。
その温度に、琴葉の肩がかすかに揺れる。
「私に連絡をくださったこと。……それだけで、十分です」
「え……?」
迷惑をかけたと、ずっと胸が痛かった。
勝手をして、仕事を抜けさせたことを、きっと責められると。
そう思っていた。
だからこそ、その言葉はあまりにも意外で――
琴葉はゆっくりと、顔を上げる。
視線が重なった。
奏一の表情はいつもとほとんど変わらない。
それでも、瞳の奥にかすかな柔らかさが宿っているのがわかった。
「誰よりも苦しかったはずのあなたが……私を頼ってくれた。
――それが、どれほど嬉しかったか。言葉では言い表せません」
その声音に、嘘の気配は一つもなかった。
建前でも、医者としての社交辞令でもない。
まるで胸の奥底から掬い上げた言葉のようだった。
(……どうしてだろう)
安心が、ほんのり灯るみたいに広がっていく。
弱っている身体に染み込むように、ゆっくりと、温かく。
「……そっか」
琴葉はそれしか言えなかった。
言葉にならない感情が多すぎて、他に何も言えなかった。
けれど――。
もう震えてはいなかった。
呼吸も落ち着き、頬のこわばりも解けている。
奏一は琴葉の様子を確認し、わずかに息を整えると、医者としての声音に切り替えた。
「――ですが、琴葉さん」
真っ直ぐに向けられる目。
「今回は結果的に軽く済みましたが……次はどうなるかわかりません。
予定が早く終わった時、変更があった時は、必ず私に連絡をしてください」
叱るような強さはない。
けれど、“守りたい”という意志だけは揺るぎなく伝わってくる。
琴葉は素直に頷いた。
「……うん。わかった」
その返事に、奏一の肩がほんのわずかに緩む。
深いところから安堵が抜けていくような息が、静かに落ちた。
奏一の言葉を胸の奥で転がしながら、琴葉はそっと視線を落とす。
安心したからなのか。
緊張の糸がゆるんだからなのか。
さっきまで重く沈んでいた胸のあたりが、少しだけ軽くなっていた。
ほんの一呼吸分の静けさが落ちる。
そして――
自分でも意外なほど小さく、弱い声がこぼれた。
「……あの、ちょっとだけ……お腹、空いたかも」
言ってから、琴葉ははっと息を呑む。
食欲なんてなかったはずだ。
不安と申し訳なさで押し潰されそうで、何も喉を通らないと思っていた。
でも今は、胸の奥の固い塊が、少しだけほどけている。
奏一は、驚いたように瞬きをした。
それは琴葉の変化を正確に捉えた証のようで、次の瞬間には、深い安堵が表情を柔らかく溶かした。
「……よかったです」
ほとんど聞き取れるかどうかの、小さな声。
医者としての冷静さの奥に、ふっと温度がにじむ。
そして、すぐに姿勢を正し、
「何か食べられそうなものを用意してきます。少し待っていてください」
と、落ち着いた声で告げた。
その“すぐ動いてくれる”気配に、琴葉はまた胸が温かくなった。
キッチンから、静かな水音と鍋に火が入る音が聞こえてくる。
しばらくすると、出汁のやわらかな香りが部屋に流れ込んできた。
昆布と鰹のやさしい香り。
ほどなくして奏一がトレイを持って戻ってきた。
「味は薄めにしてあります。……少しだけ、食べてみましょう」
そう言って差し出された器には、湯気をまとったお粥がふんわりと盛られている。
琴葉は一瞬、ためらった。
(……正直、お粥ってあんまり好きじゃないんだよね)
幼い頃から体調を崩すたびに、何度も食べさせられてきた。
味も薄いし、これまでの記憶のせいで“病気の象徴”みたいに感じてしまう。
それでも、匙を一口すくって口に運ぶ。
……あれ?
舌に落ちた瞬間、ほろっとほどける米粒。
出汁の旨味がほんのり広がって、後味は驚くほど軽い。
「……美味しい」
思わず、ぽつりと漏れた言葉に、奏一は少し驚いたように視線を動かした。
「よかった。味が濃すぎないか、心配でした」
「ううん……先生のお粥、なんか……食べやすい」
自分でも意外だった。
嫌いなはずのお粥が、するすると喉を通っていく。
奏一はほっと息をついた。
「無理しなくて大丈夫です。食べられる分だけで」
その声はひどく静かで、体調に配慮した“医者の声”なのに、どこか…ほのかなぬくもりがあった。
琴葉はもう一口、ゆっくりと口に運ぶ。
“食べられる”という事実が、それだけで救いのように思えた。
お粥を半分ほど食べ終えたころ、琴葉はふう、と小さく息を吐く。
体の奥にじわりと温かさが広がり、胸につかえていた重いものがようやく落ちていった。
「……なんか、落ち着いてきた」
ぽつりと漏れた言葉に、奏一は静かに頷いた。
「ええ。今日はもう何も考えず、休んでください。 体が回復することが、一番です」
穏やかな声。
ただ、心配してくれて、支えてくれる。
その事実だけで胸があたたかくなる。
奏一は器をそっと下げ、寝室の明かりを柔らかい光に調整してから、布団を整えた。
「横になりましょう。
眠れなくても、目を閉じているだけで体は休まります」
促されるまま布団に入ると、シーツの冷たさが心地よく肌に触れた。
まぶたを閉じると、今日一日の出来事がゆっくりと遠のいていく。
「……おやすみなさい、琴葉さん」
寝室の入り口で、奏一の声がやわらかく響いた。
返事をしようとしたけれど、あたたかい安心が体中に広がって、そのまま言葉はそっと眠りに溶けていく。
不安も、痛みも、息苦しさも――すべてがやわらいでいくようで。
今日は、ただ静かに眠れそうだった。
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