【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第27話・わかっているのに、苦しい

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ランチは、落ち着いた雰囲気の定食屋だった。
水野と早瀬の会話は途切れることなく続いていて、
私は適度に相槌を打ちながら、穏やかに笑っていた。

「……そうですね、本当に助かってます」

「こちらこそですよ。結城さんの進行と資料の精度は、C社でも高く評価されています」

早瀬はいつもと変わらず、丁寧で穏やかな口調だった。
仕事の話題を軸に、ほんの少しだけプライベートな質問も織り交ぜられる。

趣味の話、休日の過ごし方、好きな食べ物。

それらはすべて、よくある雑談の範疇で――
でも、私はうまく答えられないまま、笑ってごまかすことが増えていた。

(……なぜだろう)

心が、どこか上の空だった。

何も問題はない。
早瀬は紳士的で、質問もさりげない。
水野も場を和ませてくれている。

それでも、
ずっと――頭の片隅に、さっきの“視線”が残っていた。

崇雅の、無言のまなざし。

怒っていたのか、呆れていたのか、
それとも……ただの無関心だったのか。

答えはわからない。
でも、胸の奥で何かがずっと締めつけられていた。


「結城さんは、仕事以外の時間って何してるんですか?」

唐突に向けられた言葉に、一瞬だけ手が止まった。

「……あまり、これといったものはないんです。帰ったらご飯作って、寝て、また朝を迎えるだけで」

「それも素晴らしいリズムですよ。きっと、堅実で丁寧な方なんでしょうね」

早瀬の言葉に、水野が笑った。

「いや、ほんとそうですよね。結城は真面目で芯があるタイプなんで。社内でも、そこに一目置かれていますから」


(部長……)

何かを期待してはいけない。
それでも、どこかで期待してしまっている自分がいる。
それが、苦しい。

(どうして――あのとき、何も言ってくれなかったんですか)

問いかけたい言葉は、飲み込んだ。

私が今、向き合っているのは仕事。
そして、目の前にいるのはクライアント。

それなのに。

(……やっぱり、苦しい)
それ以上、言葉は出てこなかった。


——————

早瀬とのランチから1週間。
新規案件が動き始めてから、もうすぐ一か月が経つ。
C社関連のやりとりも、社内の他案件も、落ち着いてきていた。

だから、周囲から見れば、私は“順調”に働いているように見えるはずだ。

けれど――心の中では、ずっと引っかかったままだった。

(部長とは……もう全く話してない…)

もちろん、業務上のやりとりは続いている。
チャットも、メールも、会議での確認もある。
でも、それは“話した”とは言えない。

彼の返信は、いつも定型の短文だった。

「了解」
「進めてくれて」
「確認済み」

その言葉の向こうに、温度はなかった。

(あの人が忙しいのは、わかってる)
(だから、私から何か言うのは……ただのわがままだ)

そう思って、何度も飲み込んできた。

それでも、思い返してしまう。
展示会のあの日――強引に手を引かれたこと。
飲み会後に、言われた一言。

「俺の前でだけにしてくれ」

あの一言が、まだ胸のどこかに引っかかったまま、ほどけずにいる。


夕方、資料をコピーしていたときだった。
ふと顔を上げた瞬間、向こうから歩いてくる姿が目に入った。

(……部長)

本当に久しぶりに、近くですれ違った。

思わず声が出そうになる。
でも、どう言えばいいのかわからない。
だから、ぎこちなく「お疲れさまです」とだけ呟いた。

崇雅は一瞬だけこちらを見て、ほんの少しだけうなずいた。
それだけで、そのまま通り過ぎていった。

(……そんなもんだよね)

何も間違ってない。
忙しいんだし、目が合うだけでも十分。

そう、思おうとしたのに。
胸の奥が、ズキリと痛んだ。

(このままじゃ、ダメだってわかってる)
(でも、今のこの空気の中で、私から何か言うのは――やっぱり怖い)

もし聞いてしまって、
もし拒まれたら。
もし、あのときの全部が勘違いだったとしたら。

きっと私は、もう立ち直れない。

(だったらこのままでいい。そう思ってたのに……)

夜、帰り支度をしながら、ふと目を閉じた。

頭では理解しているのに、
心だけが、追いつかない。

この関係が、ゆっくりと遠ざかっていくことだけが、何よりも苦しかった。
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