【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第56話・本気で離れるつもりか

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しゃがみ込んだまま、澪は立ち上がれなかった。

右腕を動かすたびに、鋭い痛みが走る。
冷や汗が額を伝い、視界がじわりと滲んでいく。

(どうしよう……どうしたら……)

焦りだけが、身体の中を駆け巡っていたそのとき——

「……結城さん!?」

顔を上げると、目の前に見覚えのある顔があった。

「……大丈夫? 動ける?」

声をかけてきたのは、同じ部署の先輩・西岡だった。
年齢は30代前半で、落ち着いた雰囲気の人。
社内ではあまり多くを語らないが、誰よりも面倒見が良いことで知られていた。

「すみません……ちょっと……転んでしまって……右手が……」

「無理に動かさないで。……会社には俺から連絡入れるから、まず病院行こう」

西岡はすぐにスマホを取り出し、会社に電話をかけてくれた。
その口調は落ち着いていて、淡々と必要な情報を伝えている。

「……わかりました。そっちに戻るのは後になります。とにかく、彼女を病院に連れて行きます」

手早く連絡を終えると、澪の方を向き直る。

「タクシーで行こう。……結城さん、痛むかもしれないけど、なるべく左側に体重かけて。ゆっくりでいいから」

そう言って、そっと澪の背を支えてくれる。
その温かさに、思わず涙が出そうになる。

「ありがとうございます……」

「礼はいいから。とにかく今は、ちゃんと診てもらわないと」

2人は駅前に到着したタクシーへと、慎重に乗り込んでいく。

澪の頭の中では、まだ崇雅の名前がちらついていた。
けれど、今はそれよりも——痛みと不安で、胸がいっぱいだった。



「右橈骨遠位端骨折ですね。固定で済むタイプですが、しばらくは無理をしないようにしてください」

診察室で医師が告げた言葉に、澪は小さく頷いた。

(……骨折。ほんとに、折れてたんだ……)

右腕にはしっかりとギプスが巻かれ、肘から手首にかけて固定されていた。
見た目はそこまで大げさではないが、片手が使えないだけで、何もかもが不自由に思えた。

(どうしよう、仕事……)

通勤、資料作成、マウス操作、メールの対応。
全部が“右手でこなす”ことを前提に回っている。

利き手が使えない――それだけのことで、これからの生活も仕事も、すべてが不安に変わっていく気がした。


診察室を出ると、待合室で待っていてくれた西岡が、立ち上がってくれる。

「どうだった?」

「……骨折でした。固定で済むタイプみたいですが……」

「そうか。まずはちゃんと治すことだけ考えて」

言葉は簡潔なのに、どこか安心できるトーンだった。

西岡はすでに、病院からの診断書を受け取り、会社への提出も視野に入れて動いてくれていた。

「部長は、現地対応で連絡がつきにくいって聞いてる。
だから、会社には、こっちで報告を上げておくから、心配しなくていいよ」

「……ありがとうございます、本当に……」

「それでも」

西岡は少しだけ視線を逸らしてから、言葉を続けた。

「部長には、一報だけ入れておくよ。詳しいことは、結城さんから直接話して」

その言葉に、澪はハッとする。

(……崇雅さんに、伝わるんだ…
……当たり前だよね…直属の上司だもん)

今ごろ、どんな顔をしてるだろう。

昨日、あんなメッセージを送ったばかりなのに。
もう、終わりにしようと決めたばかりなのに。

——なのに今、少しだけ、声が聞きたいと思ってしまった。

「……ありがとうございます、西岡さん。ご迷惑をおかけて……すみません」

「迷惑なんて思ってないよ」

それだけを残して、西岡はタクシーを呼びに行った。

澪はその背を見送りながら、
胸の奥に積もる“伝えられなかった想い”を、静かに押し込めた。

(こんなときでも、崇雅さんの名前が浮かぶなんて……)

自分から終わらせようと決めて、メッセージまで送ったのに。
本当はもう頼りたいなんて思っちゃいけないのに。
それでも、ふとした瞬間に思い浮かぶのは、いつだって——崇雅のことだった。

(……情けないな、私)

その感情に気づいてしまった自分自身に、静かに目を伏せた。


——————

木曜の夕方、ようやく出張対応を終えて会社に戻ってきた崇雅。

自分のデスクには未処理の報告書の山。
急ぎの対応以外、メールもチャットも確認できていない。
社内もまだバタついており、思わず溜息が漏れそうになる。

けれど、それ以上に頭から離れなかったのは——昨夜、澪から届いたたった一通のメッセージだった。

《ごめんなさい。やっぱり私じゃ、崇雅さんには釣り合わないと思います》


目を疑った。
何かの間違いか、あるいは誰かの悪戯かとも思った。

——だが、そうではなかった。

あれは、澪の言葉だった。
明らかに“終わらせよう”とする意志が込められていた。

(何があった……なぜ、突然……)

澪の態度に違和感を感じていたが、話すタイミングもなく、出張に出ざるを得なかった。
何度も連絡を入れたが、既読すらつかないままだ。

その胸のつかえが消えないまま、席に着こうとしたそのときだった。

「東條部長、お戻りでしたか」

声をかけてきたのは、人事部の社員。
どこか言いづらそうに口を開く。

「……結城さんの件、ご存じですか?」

「……何があった?」

「今朝、駅で転倒して……骨折だそうです。西岡さんが病院に付き添って、診断書ももらってるとのことです」

一瞬、頭が真っ白になった。

「骨折……?」

「右手とのことで……今日一日お休みになりました」

返事をする前に、胸の奥にじくじくとした焦りが広がる。

スマホを取り出し、澪のトーク画面を開いた。
昨夜のメッセージ以降、何の更新もない。

(……なぜ、そんな大事なことを、俺に言わない)

——痛かったはずだ。怖かったはずだ。

それでも何も言ってこないということは、
本気で“距離を置く”つもりだということか。

(……ふざけるな)

苛立ちが喉元までせり上がってくる。

仕事に追われる中、どうにか対応を終わらせようとしても、指先が思うように動かない。

(会う。今夜、絶対に)

言葉では埋められない何かが、もう限界に近づいていた。
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