【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第62話・涙の先に触れた温もり

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澪が泣き止んでも、部屋の空気は、すぐには変わらなかった。

肩の震えが収まり、涙の跡が乾いても、
澪の表情には、まだ影が落ちたままだった。

どこか遠くを見るような瞳。
伏せた睫毛に沈む沈黙が、崇雅の胸に重くのしかかる。

その横顔をじっと見つめていた崇雅は、ふと口を開いた。

「……こっちに来てくれないか。膝の上」

「……え?」

澪が目を瞬かせて見上げると、崇雅は穏やかに、けれど決して引かない声で言った。

「いいから」

その視線に、冗談ではないことがすぐに伝わる。

少し戸惑いながらも、澪はそっと体を動かし、崇雅の膝の上に腰を下ろした。
体格差のせいで、彼の腕の中にすっぽりと収まるその姿は、どこか頼りなくて、愛おしかった。

次の瞬間、崇雅の腕が彼女の背中に回され、ぎゅっと引き寄せられる。

「……もう逃げるな」

低く、それでも優しく響いた声に、澪の心がかすかに揺れた。

「……俺は、澪と結婚したい」

あまりにもまっすぐな言葉に、澪は息を呑む。

「……っ、崇雅さん……」

「いずれとか、いつかじゃない。そういうのは全部飛ばしていい。
澪には、俺の隣にいてほしい。ちゃんと、形にしたい」

囁くようなその声に、澪は小さく首を振った。

「でも……私、まだ……整理がついてなくて……」

「それでいい。今すぐ答えを出してほしいわけじゃない」

崇雅は、彼女を抱きしめる腕の力を少しだけ強めた。

「ただ、伝えておきたかった。……澪の不安が消えないなら、俺が全部潰す」

「……そんな簡単に言わないでください」

澪の声が、かすかに揺れた。

「……でも、ありがとうございます」

ようやく絞り出したその言葉に、崇雅の唇がそっと彼女の髪に触れた。
その温もりが、澪の胸に残る小さな棘を、優しく撫でていくようだった。

そのまま、崇雅は言葉を発さず、澪を静かに抱きしめていた。

腕の中にある体温。
息づかい、身体の重み、鼓動のかすかな響き。
そのすべてが、ここに彼女がいることを教えてくれる。

(……澪は、ちゃんとここにいる)

それだけで、胸の奥に熱が滲んでいく。

ほんの数日、声を聞けなかっただけなのに、
二度と会えないかもしれないという焦燥が、崇雅を突き動かしていた。

今はただ、言葉ではなく、肌と呼吸で、澪の存在を確かめたかった。

澪もまた、崇雅の胸に身を預けたまま、動かなかった。

逃げようともしなければ、拒もうともしなかった。
まだ不安がすべて消えたわけじゃない。
けれど、こうして崇雅の腕の中にいるだけで、少しずつ心の輪郭が戻ってくる。

やがて、澪の指がそっと、崇雅のシャツの胸元を掴んだ。
そして顔を伏せたまま、小さく呟く。

「……ずっと、不安でした」

その声はかすれていたが、はっきりと痛みを抱えていた。

「崇雅さんの家のこと……噂で聞いたときから、頭が真っ白になって」

崇雅は何も言わず、澪を抱く腕の力を少しだけ強めた。

「私は、ごく普通の家庭で育ちました。
母がひとりで育ててくれたから、裕福でもないし、誇れるような家柄でもありません」

「……それなのに、崇雅さんとは家柄も立場も……私とは、何もかもが違ってて」

ゆっくり、けれど止まらない。
蓋をしていた想いが言葉になって溢れ出していく。

「最初は“気にしない”って思ってました。でも……恋人として何ヶ月も一緒にいて……
そんな大切なことを、周りの噂で知って……」

「どうすればよかったのかわからなくなって、
返事もできなくなって、気づけば……崇雅さんの顔を見るのも怖くなっていて……」

そのたびに息が詰まり、声が揺れていく。

「それでも、会いたいと思ってたんです。……このままじゃダメだって…」

「だから……勇気を出して、あの日……崇雅さんの家に行ったんです」

そこで言葉が切れた。

「でも……あの女性がいて……話を聞いてしまって……
“相応しい相手”“婚約者”って言葉が、はっきり聞こえて……心臓が……潰れそうで……」

その瞬間、崩れるように、澪の声が涙に変わった。

「……どうして、私じゃダメなんだろうって……どうして……」

崇雅は、ただその言葉を黙って受け止めていた。

遮らず、否定せず、逃げずに——
澪の痛みをまるごと引き受けるように、抱きしめ続けた。

彼女の小さな体は、嗚咽もなく、ただ静かに震えていた。
涙だけが、ぽろぽろと崇雅の胸元を濡らしていく。

崇雅は何も言わず、その背中を撫で続けた。
何度も、優しく、繰り返すように。

「……辛かったな」

ただ、それだけを静かに告げる。

その一言が、澪の胸の奥に沁みて、彼女は崩れるように崇雅の肩に額を押しつけた。
泣き疲れた身体は、もう力が入らなかった。

しばらく沈黙のまま寄り添ってから、崇雅はゆっくり言葉を紡ぐ。

「……俺は、家の名前なんかに、価値を感じていない」

「……」

「でも、それが澪の重荷になることくらい、最初からわかってた」

澪はゆっくり顔を上げ、崇雅の目を見つめる。

「それでも俺は、選んだんだ。……“澪”を。
家でも立場でもない、お前自身を選んだ」

言葉の一つひとつに、揺るがない真剣さがあった。

「親が何を言っても関係ない。
誰かが“相応しい”と言った女がいようと、それは俺の意思とは一切無関係だ」

「……でも……」

「澪のいない未来なんて、俺には考えられない。
もし、また不安になっても……そのたびに、何度でも証明する」

崇雅は、そっと澪の頬に手を添えた。

「……俺にとっては、澪が全てだ」

その一言に、澪の瞳が大きく揺れた。

「私……」

続けようとした言葉を、崇雅のキスがそっと塞ぐ。
唇が離れると、彼はまっすぐに言った。

「今日ここに来てくれて、ありがとう」

それは、どんな言葉よりも深く、真剣だった。

澪はもう、何も言えなかった。
ただ、崇雅の胸に体を預ける。
そしてそっと目を閉じた。
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