【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第84話・見ていてくれた、その優しさに

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会議室を出た瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩み、現実へと引き戻される。

(……泣かなくてよかった)

心のどこかで、そんなことを思いながら澪は深く息をついた。

自席に戻ると、午前中の会議資料や未対応のチャットが視界に飛び込んできた。
眩暈がするほどタスクは山積みだったけれど——もう逃げないと、そう思えた。

「……お願いします。こちら、今日中にご確認いただければ」

席を立ち、プロジェクトメンバーへ資料を渡す。
一人、また一人と必要な人に声をかけて、返答をもらいながら進めていく。
苦手だった“指示出し”は、まだぎこちない。
けれど、もう自分が中心で動かさなければならないことは、理解していた。

午後のスケジュールは分刻みだった。
クライアントとの打ち合わせ、進捗報告、メールの返信に社内会議。
ひとつでも崩せば、すべてが遅れていく。

——優先順位。

(ちゃんと見極めないと)

資料の整理、修正依頼、確認依頼、メンバーからの相談対応。
どれも大事。だけど、今は——と澪は頭の中でひとつずつ仕分けていく。

夕方、澪は一度だけ席を立ち、給湯室で冷たい水を一杯飲んだ。
張り詰めた神経が少しだけほどけて、背中がじんわりと汗ばんでいることに気づく。

(……倒れるほどじゃない。でも、たぶんギリギリ)

無理をしないと間に合わない。けれど、崇雅の言葉が胸の奥で響いていた。

“自分を甘やかすな。限界を見誤るな”

(……だったら、せめて、正しく無理をしよう)

誰かを頼ること。
優先すべきものを選び取ること。
それは「弱さ」ではなく、「責任ある行動」なのかもしれない。

再び自席に戻る。
資料を確認し、パソコンに向かい、電話を取り、目の前の“今”をひとつずつ処理していく。

それはまるで、“責任者としての器”を試されているかのようだった。

——もう守られているだけじゃいられない。

それでも、背後には、確かに崇雅の存在があると、心のどこかで感じていた。


時計の針が17時を回った頃。
澪は背中を丸めたまま、黙々とパソコンに向かっていた。

その時、視界の端に黒いスーツが止まる。顔を上げると、崇雅だった。

「……これ」

そう言って差し出されたのは、個包装の焼き菓子と紙カップのコーヒー。
自販機で買ったばかりなのか、コーヒーからはほんのりと湯気が立っている。

「お昼、食べてないだろう」

「……っ」

図星を突かれ、澪は一瞬息を呑む。
朝、食欲がなくて何も口にしなかった。
昼も、忙しさに流されて手が伸びなかった。

「……ありがとうございます。でも……」

「いいから」

言葉少なに、けれど強くもなく、自然に。
崇雅は周囲に余計な注目を集めることなく、澪のデスク端に差し入れを置いて去っていった。

(……見てたんだ)

何気ないようで、崇雅はずっと気にしてくれていた。
自分がちゃんと、食べているかどうかまで。

その優しさが、胸に沁みた。

澪はカップを手に取ると、ほっとしたように一口飲んだ。
温かく、香ばしいその味が、疲れた身体の奥に静かに染み込んでいく。

(……もう少し、頑張れる気がする)

崇雅に見られているからではなく、彼が信じてくれていることが、澪を支えていた。


その日の帰宅は、23時を少し過ぎていた。

「ただいま……」

澪の声はかすれていたが、笑顔は浮かんでいた。
それに崇雅は「おかえり」とだけ返し、玄関で彼女のバッグを受け取る。

すぐにシャワーへ行こうとする澪を止めて、崇雅はリビングの椅子を指差した。

「座ってろ。朝の残りだが、温める」

程なくして差し出されたのは、朝に用意されていたご飯と具沢山の味噌汁。
食欲がなくて食べそびれた分、今この時間になっても体にしみる温かさだった。

「……いただきます」

箸を動かしながら、澪はぽつりとこぼす。

「……やっぱり、こうして食べると違いますね」

「食べないで動いても、いつか倒れる」

「……ですよね」

食後、澪はさっとシャワーを浴びてから、リビングへ。
ソファに腰掛けて髪を乾かしてもらいながら、少しずつ気持ちも落ち着いていく。

「……崇雅さん」

「ん」

ドライヤーの風音に紛れて、澪はぽつりと呟いた。

「仕事のことで……聞いてもいいですか?」

——頼れる誰かがいる。
そう思えることが、澪の明日を少しだけ強くしていた。
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