【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第88話・あなたの隣が、いちばん安心できる場所

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ドライヤーの風が止まると、髪に触れていた崇雅の指先が、そっと離れた。

「……乾いた。もう、横になれ」

「はい……ありがとうございます」

澪は目元を緩めながら、リビングのソファから立ち上がる。
長い一日がようやく終わった。身体はすでに限界に近かったが、心には静かな充足感が残っていた。

寝室の灯りを落とすと、薄暗いランプの明かりだけがふたりを照らす。

ベッドに入った澪が、ふと顔を上げた。

「……崇雅さん」

「ん?」

「今日、ありがとうございました。
……帰るって言われたとき、まだ終わってないって思ってたけど……
今こうして横になれてるの、ちゃんと“ありがたい”って思ってます」

その声は小さく、少しだけ申し訳なさそうだった。

崇雅は言葉を返す代わりに、ベッドの端に腰を下ろし、
そっと澪の髪を撫でる。

「澪は、そうやって限界の先まで頑張るからな。俺が止める」

「……はい、ちゃんと止められました」

くすっと笑った澪の横顔は、どこか安心しきっていて、
その様子に、崇雅もほんの少しだけ口元を緩める。

「明日も忙しいだろう?」

「……はい。でも、ちゃんとやれます」

「なら、もう寝ろ。少しでも長く」

「……でも……もうちょっとだけ、こうしててもいいですか」

澪がそっと崇雅の手を取る。
いつもより甘えるような仕草に、崇雅は何も言わずその手を包み込んだ。

「……今日も頑張ったな」

「……はい」

「えらい」

そのひと言だけで、澪の心はじんわりと満たされていった。

——こんなふうに、安心して眠れる夜があるだけで、明日もきっと頑張れる。

崇雅の手を握ったまま、澪のまぶたは静かに降りていった。


それからしばらく。
澪の寝息が安定したのを確認すると、崇雅はそっと手を離してベッドを離れる。

リビングに戻り、開きっぱなしだったノートPCに再び向き合う。
自分の仕事、そして澪が作成していた資料の微調整と確認。
すべてが終わる頃には、時計の針は2時を過ぎていた。

(……澪はよく頑張ってる)

誰に言うでもなく、静かにそう思いながらファイルを閉じる。

明日も、きっと彼女は限界ギリギリまで頑張ってしまうだろう。
だからこそ、自分がそばにいる意味がある。

崇雅は立ち上がり、寝室のドアを開ける。
寝息を立てる澪の姿に、小さく安堵を覚えながら、その隣に静かに横たわった。

夜は深く、静かだった。
けれどふたりの間には、確かにあたたかいものが流れていた。


——————

翌週ー。
火曜の夜。日付が変わる少し前。

リビングの照明はすでに落とされ、暖かい間接照明の光だけがふたりを包んでいた。
澪は髪を乾かしてもらったあと、ソファに寄りかかるように座り、ぼんやりと息を吐いていた。

崇雅は隣で、もう一度乾いた髪に指を通し、乱れを整えるように撫でる。

「……今日もよくやったな」

「……ありがとうございます」

その一言だけで、心の奥がじんわりとあたたかくなる。
そんなふうに感じられるのは、たぶん今だけだ。

崇雅が隣にいる、この時間だけ。

澪は小さく呼吸を整える。
言葉が喉の奥でつかえるような、不思議な感覚だった。

(……なんでこんなことで、緊張してるんだろう)

言うべきか。言わずに飲み込むべきか。
でも、崇雅なら……何を言っても、きっと変わらずそばにいてくれる。
そう分かっているのに。

「……崇雅さん」

「ん」

その声に、すぐに応じてくれる安心感。
だけど今だけは、その優しさにさえ、少しだけためらってしまう。

「……あの…また、ちゃんと……ふたりで、ご飯……食べたいです」

崇雅はすぐには返事をしなかった。

澪は視線を逸らしたまま、そっとクッションを抱きしめる。

「……最近は、ちゃんと一緒に食べられてない気がしてて。
朝も夜も、時間なくて……顔は見てるけど、“食べてるな”って感じがしないっていうか……」

言いながら、どんどん声が小さくなる。

けれど、崇雅はそのすべてを黙って聞いていた。
否定も、遮りもしない。ただ、受け止めてくれていた。

「……ごめんなさい。言わなくてもよかったですね。
でも……ちょっと、そういう時間がほしいなって、思っただけで……」

そこまで言ったところで、崇雅が静かに言葉を返す。

「金曜の夜。時間、空ける」

「えっ……」

思わず顔を上げた澪に、崇雅は淡々と続けた。

「明日の朝イチで予定を動かそう。“そのうち行けたら”じゃ意味がない。
——澪が言ってくれたんだ。ちゃんと応える」

心の奥がきゅうっと締めつけられるような感覚が走る。

「……ほんとに……いいんですか」

「俺が空けるって言ってる」

「でも……」

「行く。決まりだ」

強引だけど、優しい。
崇雅らしい返しに、澪はようやく、静かに笑った。

「……ありがとうございます。すごく、楽しみにしてます」

「ああ。残り3日。折れるなよ」

「……はい。がんばります」

そっと手を差し出すと、崇雅は何も言わず、その手をしっかり握ってくれた。

——ようやく手にした、ふたりだけの“小さな約束”。

それは、未来へのささやかなご褒美だった。
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