111 / 168
第106話・無防備な笑顔に、胸が軋んだ
しおりを挟む
翌週、水曜日の午後。
外出先から戻った澪がオフィスに戻ると、同じくF社訪問に同行していた西岡さんがコーヒー片手に声をかけてきた。
「いやー、結城さんが一緒で助かったよ。向こうの担当、思った以上に柔らかい人だったな。君がいたから話がスムーズに進んだんじゃないか?」
「えっ……そんな、大したことしてないですよ」
「いやいや。あの成田さんって人、結城さんにすごく親しげだし、話のテンポもよくて、スムーズに進んで助かったよ。大学の知り合いだっけ?」
「はい…大学時代のサークルで……でも特別仲が良かったとかじゃないくて…ただ、何人かでお菓子作って食べたりしてただけです」
「へえ。にしては、いい感じの雰囲気だったけど?」
「そ、そうですか? 懐かしくて、つい昔の話で盛り上がっちゃって……」
そう言って、澪は少し照れたように笑った。
崇雅は――その少し離れた席で、その会話のすべてを耳にしていた。
(……懐かしい、か)
(懐かしい相手と笑い合って、昔話で盛り上がって――)
頭ではわかっている。
澪の心は自分に向いているし、彼女の薬指には、確かに自分が贈った指輪がある。
彼女が他の男を選ぶとは思っていない。
だが、それでも。
年齢差や、立場、澪が自分に敬語を使うその距離――
それらが、今この瞬間、じわりじわりと胸の奥を締めつけていく。
(……どうして、そんな無防備に笑える)
(どうして、あんな顔を見せられる)
視線を向ければ、澪はいつものようにまじめにデスクに向かっている。
けれど、その頬にわずかに残る笑みと、さっきの西岡との会話が崇雅の記憶を刺激し続けていた。
心が、ざらりと逆撫でられていく。
嫉妬――と呼ぶには、あまりにも感情が深く、黒い。
(……金曜日の打ち合わせ。俺も、入るべきだったか)
だが、すでに資料も出席者も確定している。
今回の案件で自分の役割はあくまで最終承認だけ。
途中のプロセスに関わることは、立場上できない。
それが、もどかしかった。
見守るしかない状況が、余計に焦燥を募らせる。
崇雅は、ふっと視線を落とす。
机の上には、澪が今朝置いていった企画書の控え。
几帳面な字で書き込まれたメモが、妙に心に引っかかる。
(……こんなにも、澪のことを知っているのに)
(どうして、まだ足りないと思ってしまうんだろうな)
小さな焦りと、形のない不安だけが胸の中で静かに膨らんでいた。
——————
そして、金曜日。
午前中の空気は、どこか張り詰めた緊張が漂っていた。
澪が担当するF社との打ち合わせも、今日で3回目。
これまでの話が順調に進んだことで、この日はいよいよ契約の最終確認と締結の段階に入っていた。
会議室では、形式的な説明と書類の確認が粛々と進められていく。
責任者の西岡が会話を回しつつ、澪も随所で補足を入れ、会議全体を支えていた。
時計の針が、11時をわずかに回ったところで、澪たちの前に座るF社の担当者が深く頷いた。
「……ぜひ、御社とお取引をさせていただきたいと思います。本日、お話を聞いて、決意が固まりました」
その言葉に、西岡と冨永が安堵の息を漏らす。澪も小さくうなずいた。
緊張で張り詰めていた空気が、ほんの少し、和らぐ。
「ありがとうございます。それでは、契約に向けて具体的なスケジュールを詰めていきましょう」
西岡の言葉にうなずくF社側。
その後は和やかにスケジュール確認や書類の確認が進み、午前の会議は無事に終了した。
澪は内心、ほっと胸を撫でおろしていた。
(…でも、ここからが本当のスタート……)
改めて気を引き締め直しながら、席を立った。
F社のメンバーをエレベーター前で見送る中、軽い雑談が交わされる。
その最中、拓真がふと澪に声をかけてきた。
「澪ちゃん」
ふいに名前を呼ばれ、澪が顔を上げると、少し後ろにいた拓真が笑っていた。
「……ん?」
「このあたりに、前から気になってた定食屋があってさ。せっかくだし、一緒にどう?」
彼の声と雰囲気はあの頃のまま。
無防備にそう言われて、澪の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
「……うん、いいよ。お昼まだだったし」
「よかった。じゃ、行こう」
そう言って歩き出した拓真の隣に、澪もためらいなく並んだ。
「そういえば、あのときの合宿でさ、拓真くんが寝坊して全員に置いてかれたの、覚えてる?」
「おいおい、それ今言う? 俺、今まさに信頼を得ようとしてる立場なんだけど」
「……今さらだし、もう無理じゃない?」
「澪ちゃん、ひどっ」
肩をすくめる拓真に、澪はくすっと笑う。
冗談を言い合いながら歩くふたりの姿は、誰が見ても気の置けない旧友同士そのものだった。
ちょうどその頃。
別の会議室から戻る途中だった崇雅は、廊下の角でふたりの姿を見つけた。
澪の笑い声が、ふいに耳に届く。
(……あの顔)
――笑っている。あんなふうに。
自分といるときにだけ見せてくれると思っていた、その無防備な笑顔。
気を許した証のような、甘えも照れもない――“素”の顔だった。
目を奪われたまま、動けなくなる。
薬指には、確かに自分が贈った指輪が光っていた。
それでも、彼女の表情は――あまりにも、遠かった。
無意識に拳を握っていた。
冷静さは保っていたはずだったのに、心の奥に黒い感情が膨れ上がっていく。
――これは、ただの嫉妬なんかじゃない。
そのまま何も言わず、崇雅は踵を返し、自分のデスクへと戻っていった。
外出先から戻った澪がオフィスに戻ると、同じくF社訪問に同行していた西岡さんがコーヒー片手に声をかけてきた。
「いやー、結城さんが一緒で助かったよ。向こうの担当、思った以上に柔らかい人だったな。君がいたから話がスムーズに進んだんじゃないか?」
「えっ……そんな、大したことしてないですよ」
「いやいや。あの成田さんって人、結城さんにすごく親しげだし、話のテンポもよくて、スムーズに進んで助かったよ。大学の知り合いだっけ?」
「はい…大学時代のサークルで……でも特別仲が良かったとかじゃないくて…ただ、何人かでお菓子作って食べたりしてただけです」
「へえ。にしては、いい感じの雰囲気だったけど?」
「そ、そうですか? 懐かしくて、つい昔の話で盛り上がっちゃって……」
そう言って、澪は少し照れたように笑った。
崇雅は――その少し離れた席で、その会話のすべてを耳にしていた。
(……懐かしい、か)
(懐かしい相手と笑い合って、昔話で盛り上がって――)
頭ではわかっている。
澪の心は自分に向いているし、彼女の薬指には、確かに自分が贈った指輪がある。
彼女が他の男を選ぶとは思っていない。
だが、それでも。
年齢差や、立場、澪が自分に敬語を使うその距離――
それらが、今この瞬間、じわりじわりと胸の奥を締めつけていく。
(……どうして、そんな無防備に笑える)
(どうして、あんな顔を見せられる)
視線を向ければ、澪はいつものようにまじめにデスクに向かっている。
けれど、その頬にわずかに残る笑みと、さっきの西岡との会話が崇雅の記憶を刺激し続けていた。
心が、ざらりと逆撫でられていく。
嫉妬――と呼ぶには、あまりにも感情が深く、黒い。
(……金曜日の打ち合わせ。俺も、入るべきだったか)
だが、すでに資料も出席者も確定している。
今回の案件で自分の役割はあくまで最終承認だけ。
途中のプロセスに関わることは、立場上できない。
それが、もどかしかった。
見守るしかない状況が、余計に焦燥を募らせる。
崇雅は、ふっと視線を落とす。
机の上には、澪が今朝置いていった企画書の控え。
几帳面な字で書き込まれたメモが、妙に心に引っかかる。
(……こんなにも、澪のことを知っているのに)
(どうして、まだ足りないと思ってしまうんだろうな)
小さな焦りと、形のない不安だけが胸の中で静かに膨らんでいた。
——————
そして、金曜日。
午前中の空気は、どこか張り詰めた緊張が漂っていた。
澪が担当するF社との打ち合わせも、今日で3回目。
これまでの話が順調に進んだことで、この日はいよいよ契約の最終確認と締結の段階に入っていた。
会議室では、形式的な説明と書類の確認が粛々と進められていく。
責任者の西岡が会話を回しつつ、澪も随所で補足を入れ、会議全体を支えていた。
時計の針が、11時をわずかに回ったところで、澪たちの前に座るF社の担当者が深く頷いた。
「……ぜひ、御社とお取引をさせていただきたいと思います。本日、お話を聞いて、決意が固まりました」
その言葉に、西岡と冨永が安堵の息を漏らす。澪も小さくうなずいた。
緊張で張り詰めていた空気が、ほんの少し、和らぐ。
「ありがとうございます。それでは、契約に向けて具体的なスケジュールを詰めていきましょう」
西岡の言葉にうなずくF社側。
その後は和やかにスケジュール確認や書類の確認が進み、午前の会議は無事に終了した。
澪は内心、ほっと胸を撫でおろしていた。
(…でも、ここからが本当のスタート……)
改めて気を引き締め直しながら、席を立った。
F社のメンバーをエレベーター前で見送る中、軽い雑談が交わされる。
その最中、拓真がふと澪に声をかけてきた。
「澪ちゃん」
ふいに名前を呼ばれ、澪が顔を上げると、少し後ろにいた拓真が笑っていた。
「……ん?」
「このあたりに、前から気になってた定食屋があってさ。せっかくだし、一緒にどう?」
彼の声と雰囲気はあの頃のまま。
無防備にそう言われて、澪の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
「……うん、いいよ。お昼まだだったし」
「よかった。じゃ、行こう」
そう言って歩き出した拓真の隣に、澪もためらいなく並んだ。
「そういえば、あのときの合宿でさ、拓真くんが寝坊して全員に置いてかれたの、覚えてる?」
「おいおい、それ今言う? 俺、今まさに信頼を得ようとしてる立場なんだけど」
「……今さらだし、もう無理じゃない?」
「澪ちゃん、ひどっ」
肩をすくめる拓真に、澪はくすっと笑う。
冗談を言い合いながら歩くふたりの姿は、誰が見ても気の置けない旧友同士そのものだった。
ちょうどその頃。
別の会議室から戻る途中だった崇雅は、廊下の角でふたりの姿を見つけた。
澪の笑い声が、ふいに耳に届く。
(……あの顔)
――笑っている。あんなふうに。
自分といるときにだけ見せてくれると思っていた、その無防備な笑顔。
気を許した証のような、甘えも照れもない――“素”の顔だった。
目を奪われたまま、動けなくなる。
薬指には、確かに自分が贈った指輪が光っていた。
それでも、彼女の表情は――あまりにも、遠かった。
無意識に拳を握っていた。
冷静さは保っていたはずだったのに、心の奥に黒い感情が膨れ上がっていく。
――これは、ただの嫉妬なんかじゃない。
そのまま何も言わず、崇雅は踵を返し、自分のデスクへと戻っていった。
108
あなたにおすすめの小説
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―
七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。
彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』
実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。
ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。
口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。
「また来る」
そう言い残して去った彼。
しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。
「俺専属の嬢になって欲しい」
ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。
突然の取引提案に戸惑う優美。
しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。
恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。
立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。
冷徹社長の「契約」シンデレラ~一夜の過ちから始まる溺愛ルート!? 嘘つきな私と不器用な御曹司のオフィスラブ~
藤森瑠璃香
恋愛
派遣社員の桜井美月は、ある夜、会社の懇親会で泥酔し、翌朝目覚めると隣には「氷の彫刻」と恐れられる若き社長・一条蓮がいた。まさかの一夜の過ち(実際には何もなかったが、美月は勘違い)に青ざめる美月に、蓮は「責任は取る。だがこれは恋愛ではない、契約だ」と、彼の抱えるある事情のため、期間限定で恋人のフリをするよう持ちかける。破格の報酬と蓮の真剣な様子に、美月は契約を受け入れる。
定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました
藤森瑠璃香
恋愛
「お先に失礼しまーす!」がモットーの私、中堅社員の結城志穂。
そんな私の天敵は、仕事の鬼で社内では氷の王子と恐れられる完璧美男子・一条部長だ。
ある夜、忘れ物を取りに戻ったオフィスで、デスクで倒れるように眠る部長を発見してしまう。差し入れた温かいスープを、彼は疲れ切った顔で、でも少しだけ嬉しそうに飲んでくれた。
その日を境に、誰もいないオフィスでの「秘密の夜食」が始まった。
仕事では見せない、少しだけ抜けた素顔、美味しそうにご飯を食べる姿、ふとした時に見せる優しい笑顔。
会社での厳しい上司と、二人きりの時の可愛い人。そのギャップを知ってしまったら、もう、ただの上司だなんて思えない。
これは、美味しいご飯から始まる、少し大人で、甘くて温かいオフィスラブ。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)
久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。
しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。
「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」
――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。
なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……?
溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。
王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ!
*全28話完結
*辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。
*他誌にも掲載中です。
その卵焼き俺にも食わせろ!―ワンナイトラブから逃げたはずなのに、契約で縛られてました!?―
鷹槻れん
恋愛
新沼 晴永(にいぬま はるなが/36)は俺様上司として恐れられる鬼課長。
そんな彼に毎日のように振り回されるのが、犬猿の仲(だと彼女が勝手に思っている)部下の小笹 瑠璃香(こざさ るりか/28)だ。
飲み会の夜、酔ってふにゃふにゃになった瑠璃香を晴永がまんまと持ち帰り――翌朝待っていたのはワンナイトの証拠と契約結婚の書類!?
晴永には逃げようとする瑠璃香を逃がすつもりはないらしい!?
笑いと誤解と契約の、ドタバタラブコメディ!
○表紙絵は市瀬雪さんに依頼しました♥(作品シェア以外での無断転載など固くお断りします)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる