【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第106話・無防備な笑顔に、胸が軋んだ

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翌週、水曜日の午後。
外出先から戻った澪がオフィスに戻ると、同じくF社訪問に同行していた西岡さんがコーヒー片手に声をかけてきた。

「いやー、結城さんが一緒で助かったよ。向こうの担当、思った以上に柔らかい人だったな。君がいたから話がスムーズに進んだんじゃないか?」

「えっ……そんな、大したことしてないですよ」

「いやいや。あの成田さんって人、結城さんにすごく親しげだし、話のテンポもよくて、スムーズに進んで助かったよ。大学の知り合いだっけ?」

「はい…大学時代のサークルで……でも特別仲が良かったとかじゃないくて…ただ、何人かでお菓子作って食べたりしてただけです」

「へえ。にしては、いい感じの雰囲気だったけど?」

「そ、そうですか? 懐かしくて、つい昔の話で盛り上がっちゃって……」

そう言って、澪は少し照れたように笑った。
崇雅は――その少し離れた席で、その会話のすべてを耳にしていた。

(……懐かしい、か)
(懐かしい相手と笑い合って、昔話で盛り上がって――)

頭ではわかっている。
澪の心は自分に向いているし、彼女の薬指には、確かに自分が贈った指輪がある。
彼女が他の男を選ぶとは思っていない。

だが、それでも。
年齢差や、立場、澪が自分に敬語を使うその距離――
それらが、今この瞬間、じわりじわりと胸の奥を締めつけていく。

(……どうして、そんな無防備に笑える)
(どうして、あんな顔を見せられる)

視線を向ければ、澪はいつものようにまじめにデスクに向かっている。
けれど、その頬にわずかに残る笑みと、さっきの西岡との会話が崇雅の記憶を刺激し続けていた。

心が、ざらりと逆撫でられていく。

嫉妬――と呼ぶには、あまりにも感情が深く、黒い。

(……金曜日の打ち合わせ。俺も、入るべきだったか)

だが、すでに資料も出席者も確定している。
今回の案件で自分の役割はあくまで最終承認だけ。
途中のプロセスに関わることは、立場上できない。

それが、もどかしかった。
見守るしかない状況が、余計に焦燥を募らせる。

崇雅は、ふっと視線を落とす。
机の上には、澪が今朝置いていった企画書の控え。
几帳面な字で書き込まれたメモが、妙に心に引っかかる。

(……こんなにも、澪のことを知っているのに)
(どうして、まだ足りないと思ってしまうんだろうな)

小さな焦りと、形のない不安だけが胸の中で静かに膨らんでいた。


——————

そして、金曜日。
午前中の空気は、どこか張り詰めた緊張が漂っていた。

澪が担当するF社との打ち合わせも、今日で3回目。
これまでの話が順調に進んだことで、この日はいよいよ契約の最終確認と締結の段階に入っていた。

会議室では、形式的な説明と書類の確認が粛々と進められていく。
責任者の西岡が会話を回しつつ、澪も随所で補足を入れ、会議全体を支えていた。

時計の針が、11時をわずかに回ったところで、澪たちの前に座るF社の担当者が深く頷いた。

「……ぜひ、御社とお取引をさせていただきたいと思います。本日、お話を聞いて、決意が固まりました」

その言葉に、西岡と冨永が安堵の息を漏らす。澪も小さくうなずいた。
緊張で張り詰めていた空気が、ほんの少し、和らぐ。

「ありがとうございます。それでは、契約に向けて具体的なスケジュールを詰めていきましょう」

西岡の言葉にうなずくF社側。
その後は和やかにスケジュール確認や書類の確認が進み、午前の会議は無事に終了した。

澪は内心、ほっと胸を撫でおろしていた。

(…でも、ここからが本当のスタート……)

改めて気を引き締め直しながら、席を立った。


F社のメンバーをエレベーター前で見送る中、軽い雑談が交わされる。
その最中、拓真がふと澪に声をかけてきた。

「澪ちゃん」

ふいに名前を呼ばれ、澪が顔を上げると、少し後ろにいた拓真が笑っていた。

「……ん?」

「このあたりに、前から気になってた定食屋があってさ。せっかくだし、一緒にどう?」

彼の声と雰囲気はあの頃のまま。
無防備にそう言われて、澪の口元にも自然と笑みが浮かんだ。

「……うん、いいよ。お昼まだだったし」

「よかった。じゃ、行こう」

そう言って歩き出した拓真の隣に、澪もためらいなく並んだ。

「そういえば、あのときの合宿でさ、拓真くんが寝坊して全員に置いてかれたの、覚えてる?」

「おいおい、それ今言う? 俺、今まさに信頼を得ようとしてる立場なんだけど」

「……今さらだし、もう無理じゃない?」

「澪ちゃん、ひどっ」

肩をすくめる拓真に、澪はくすっと笑う。
冗談を言い合いながら歩くふたりの姿は、誰が見ても気の置けない旧友同士そのものだった。


ちょうどその頃。
別の会議室から戻る途中だった崇雅は、廊下の角でふたりの姿を見つけた。

澪の笑い声が、ふいに耳に届く。

(……あの顔)

――笑っている。あんなふうに。

自分といるときにだけ見せてくれると思っていた、その無防備な笑顔。
気を許した証のような、甘えも照れもない――“素”の顔だった。

目を奪われたまま、動けなくなる。
薬指には、確かに自分が贈った指輪が光っていた。

それでも、彼女の表情は――あまりにも、遠かった。

無意識に拳を握っていた。
冷静さは保っていたはずだったのに、心の奥に黒い感情が膨れ上がっていく。

――これは、ただの嫉妬なんかじゃない。

そのまま何も言わず、崇雅は踵を返し、自分のデスクへと戻っていった。
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