【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第105話・その“再会”が、心を乱した

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三月上旬。
春の気配が少しずつ近づくなか、澪は緊張を押し隠すように胸元を軽く押さえた。

この日の午後は、新規クライアント候補であるF社との初回打ち合わせ。
澪はその担当者として選ばれており、責任者の西岡、営業部の冨永とともに対応にあたる。

会議室のドアを開けると、すでにF社の担当者たちが入室していた。
資料をテーブルに並べながら、一人ひとりと名刺交換を済ませる。
相手は二名。
営業部の落ち着いた雰囲気の男性と、もう一人は──爽やかな雰囲気の若い男性だった。

(……どこかで見たことあるような……?)

一瞬そう思ったものの、すぐに会話と議事進行に意識が切り替わる。
打ち合わせは想定よりもスムーズに進み、F社側の担当者も前向きな反応を示していた。

無事に議題をすべて終え、打ち合わせは予定通りに終了となった。

「では、今後の対応につきましては、改めてご連絡差し上げます」
「本日はありがとうございました」

丁寧に一礼しながら、澪たちはF社の二人を会議室の外まで見送る。


エレベーターの前で、ふとした間に、その“再会”は訪れた。

「……あれ?もしかして、澪ちゃん……?」

そう声をかけてきたのは、先ほどまで同じ会議室で対面していた若い男性。
突然の呼びかけに澪は瞬きを繰り返す。

「……え?」

「俺だよ、拓真。成田拓真。大学のサークルで一緒だった。覚えてない?」

「……たく、ま……?」

名前を聞いて、澪の記憶にようやくスッと一本の糸が通った。

「──あっ!拓真くん!?本当に?久しぶり!」

ぱっと顔を明るくし、思わず笑みがこぼれる。
その表情に、拓真も懐かしそうに笑った。

「やっぱり澪ちゃんだった。なんか雰囲気は変わったけど、声でわかったよ」

「ええ…もう何年ぶりかな……? 大学の卒業式以来だよね」

「うん。よく澪ちゃんが作ってきたお菓子、みんなで食べてたなーって思い出した」

そんなやり取りに、周囲のメンバー──西岡や冨永、そして拓真の先輩も、どこか和やかに笑みを浮かべていた。

(……まさか、こんなところで再会するなんて)

驚きと懐かしさで澪の胸はいっぱいだった。
エレベーターの扉が開き、F社の二人が乗り込む直前まで、短くも盛り上がったその再会。

「じゃあ、また来週もよろしくお願いします」

拓真の軽やかな声が、名残惜しげに響いた。


そして──その様子を、少し離れた場所から黙って見つめていた男がひとり。

崇雅だった。

澪とその男が、笑い合いながら“澪ちゃん”“拓真くん”と呼び合っている声が、
まるでピンポイントで自分の耳にだけ届くかのように、鮮明に聞こえた。

(……誰だ)

心の奥底に沈んでいた黒い感情が、ふつりと泡を立て始める。
澪があんな顔で他の男と話している。
それだけで、胸の奥が不快に軋んだ。

だが今は仕事中。自分の立場もわきまえている。

──だからこそ、崇雅は何も言わなかった。
ただ、じっと見ていた。



その夜。
簡単な夕食を終え、片づけもひと段落した頃。
ふたりはいつものようにリビングで過ごしていた。

崇雅はノートパソコンを膝に乗せて、何か資料を確認している様子だったけれど、ときどき澪の方に視線を向けてくれていた。

澪もその視線に気づいて、なぜだかちょこんと正座のように座り直していた。

「……あの、今日、F社の方と初回の打ち合わせだったんですけど――」

ふと切り出すと、崇雅さんの指がぴたりと止まった。

「大学時代の知り合いがいて……びっくりしました」

「知り合い?」

「はい。最初は気づかなかったんですけど、打ち合わせのあと、向こうから声をかけてくれて。私、全然覚えてなくて……でも、『大学のサークルで一緒だった』って言われて、やっと思い出しました」

笑って、「拓真くんっていうんですけど」と言いかけた瞬間、崇雅の横顔がほんの少しだけこわばったように見えた。

「……サークル?」

「はい……甘いもの好きな人で集まって、カフェ巡りをしてて。
私が作ったお菓子も、よく食べてくれてました」

そう言って思い出し笑いのように口元を緩めた澪だったけれど――すぐに空気の温度が変わったのを感じ取る。

「……崇雅さん?」

「……」

返事はない。
でも、明らかに何かが変わった。

崇雅の視線はパソコンの画面に向いたまま、指先がゆっくりと動いて、静かにパソコンの蓋を閉じた。

「……楽しかったのか?」

ぽつりとこぼれたその声に、澪は一瞬戸惑って、けれどすぐうなずいた。

「はい……楽しかったというか、懐かしかっただけで……」

「そうか」

そのあとは沈黙が落ちた。

怒っているようには見えなかった。
でも、なんとなく――いつもより、感情の底が読めなかった。

(……私、余計なこと言っちゃったのかな…)

ただ、今日あったことを話しただけ。
でも、自分では気づかないうちに、彼を不快にさせてしまったのかもしれない。

すると、不意に崇雅が手を伸ばし、澪の頭にそっと触れた。
いつものように優しい手つきだったけれど――ほんの少しだけ、力がこもっていた気がした。

「……今日は、もう遅い。寝ろ」

「……はい」

立ち上がって、寝室へ向かう。

けれど、数歩歩いて振り返ったとき、崇雅の背中がなぜだか、いつもより遠くに感じられた。
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