【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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番外編・ふたりで紡ぐ、夏の記憶 ③

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水着に着替えた澪は、少し緊張した面持ちでプールサイドを歩いていた。
高い位置でまとめた髪が風に揺れ、淡いブルーのフリルが水面に映える。

「……冷たい……でも、気持ちいいです」

水に足を浸した瞬間、小さく息を漏らす澪に、崇雅はしばらく見惚れていた。

最初はおそるおそる泳いでいた澪も、次第に水の感触に慣れて、自然と笑顔が浮かび始めた。

「……なんだか、楽しいですね」

「そう言ってもらえてよかった」

ふたりきりの水の中。
崇雅が差し出した手を、澪はそっと取る。
ゆるやかな水の揺らぎの中で、距離が近づく。

「……ちょっと、近いです……」

「平気だ。誰も見てない」

崇雅の手が、澪の腰に回る。
水の中で感じる体温、肌の熱。
澪は驚きながらも、逃げることはなかった。

「……可愛い」

「や、やめてください……」

「やめない」

囁くような声に、澪は小さく目を伏せる。
唇が触れそうな距離。けれど、キスはしない。

ただ、額を寄せて、そっと触れ合う。

「……全部、俺だけのものだって思いたくなる」

「……もう思ってますよね」

小さな反論に、崇雅は微笑む。

「――ああ。とっくに」

静かな水音が、ふたりの時間をやさしく包み込んでいた。


日が傾き、空が茜に染まり始める頃。

プールでのひとときを終えたふたりは、部屋で軽く休んでから、海辺へと足を運んでいた。

澪は、柔らかなベージュのキャミワンピースに薄手の羽織を肩から掛け、風に揺れる布地が輪郭をやわらかく縁取っている。
足元のサンダルが砂に触れるたび、小さな音を立てた。

「……気持ちいいですね、潮風」

「ああ。陽が落ちてきてちょうどいい」

静かな浜辺。
波打ち際を、ふたり並んで歩いていく。
手のひらは、最初からずっと重なったままだった。

ただそれだけなのに、不思議なほど心が落ち着いていく。

「……こんなふうに、ふたりで何も考えずに歩ける日が来るなんて……」

澪がぽつりと呟いた言葉に、崇雅はふと目を細める。

「……色々、あったからな」

「はい。でも……だからこそ、余計に……今が、幸せです」

波の音に混じって、ほんのりと笑みを含んだ声が届く。

「結婚して、こうして旅行まで来られて……なんだか、まだ夢みたいで」

「夢じゃない」

崇雅は、繋いでいた手をそっと握り直した。

「全部、現実だ。……俺たちはちゃんと、夫婦になった」

その言葉の温度に、胸の奥がじんわりと満たされていく。
澪はそのまま、崇雅の腕にそっと体を寄せた。

「……嬉しいです。ほんとに」

「俺もだ」

ふたりの影が、夕陽の中でゆっくりと伸びていく。
波打ち際を歩くその時間は、とても静かで、とても穏やかだった。

言葉は少なくてもよかった。
互いの存在が、ちゃんとそこにある――それだけで、十分だった。

少し冷えた風に、澪の髪が舞う。

崇雅がそれをそっと手で押さえ、指先が彼女の頬に触れる。

「……寒くないか?」

「大丈夫です。まだ、ほんのり暖かいので」

「……なら、もう少しだけ」

「はい」

足元に寄せては返す波が、澪のサンダルにそっと触れては離れていく。

手を繋いだまま、砂に残る足跡を確かめるように、ゆっくり歩いていた。

「……不思議ですね」

澪がぽつりと呟く。

「何が?」

「昔は、こういう風景を見ても、綺麗だなって思うだけで……どこか他人事のようで」

「……うん」

「でも今は、同じ景色でも、全然違って見えるんです」

そう言って、空を仰いだ横顔に、淡い光が差し込む。
澪はゆっくりと深呼吸し、目を細めた。

「崇雅さんと一緒に見ているから、なんでしょうね」

「……そうか」

言葉は短くても、伝わるものがあった。
澪はほんの少し歩みを緩め、握っていた手に力をこめる。

「……わたし、今がいちばん幸せです」

ふと、風が吹いた。
その風に紛れるように、小さなすすり泣きの音が聞こえた。

「……澪?」

声をかけると、澪は慌てて顔をそらした。

「ちがうんです、ごめんなさい……悲しいんじゃなくて……」

目元をそっと指で押さえる仕草。

「……嬉しくて、なんか……うまく説明できないんですけど……」

溢れた涙に、自分でも驚いているようだった。
崩れそうな感情を、かろうじて保とうとするその姿が、余計に愛おしく映る。

崇雅は静かに立ち止まり、澪の正面に向き直った。

「泣くな」

「……だって」

「泣くほどのことを、俺がちゃんとしてきたなら……それは嬉しいが…」

ゆっくりと手を伸ばし、澪の頬に指を添える。

「涙は、もう全部使い切ってくれていい。これからは……笑っててほしい」

「…………」

澪は、まっすぐにその目を見つめ返した。
涙で潤んだ瞳が、夕陽を映してきらきらと輝いていた。

「……はい」

やわらかな声とともに、微笑む。
次の瞬間、澪は自分から崇雅の胸にすっと寄り添った。

そっと抱きとめられて、波音に包まれながら目を閉じる。

あたたかくて、静かで、永遠のような一瞬。
心がほどけていく音が、確かに聞こえた気がした。
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