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06、チョッチョはフィオレッティと呼ばれたい
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(※リラ視点に戻ります)
グイードに婚約破棄された翌日、私は昨夜のことを悶々と考え続けていた。
なんとしてもアルカンジェロがつかんだ情報を得たい。グイードと婚姻できないとなった今、事件につながる道は、あのコントラルト歌手が持つ手帳しかないのだ。
わが伯爵邸の音楽室で、蓋を開けた鍵盤楽器を前にして座っていても、ちっとも弾く気にならない。
音楽室の窓際はガーデンルームになっていて、その向こうには中庭が見える。だが今日は朝からあいにくの雨が降りしきり、三月に入ったというのに真冬のように寒い。
演奏する気分になれない私は、T字型の調律鍵でチェンバロのチューニングを始めた。オクターブの響きに集中していると、心が落ち着いてくる。
大聖堂のミサにあずかればアルカンジェロに会うことは可能だ。でもどうすれば二人きりで秘密の話ができるだろう?
めぐる思索を破ったのは、廊下を走ってくる足音だった。
厳格なお父様にしつけられた伯爵邸の使用人たちは、廊下を走らない。そんな愚か者はただ一人。
「遅刻、遅刻ー!」
想像した通りのソプラノが聞こえてきて、私はこめかみを押さえた。
大きな音を立てて音楽室の扉が開け放たれた。肩で息をしているのは、オレンジ色に脱色した髪を結いあげ、楽譜をくわえた町娘――に見える男だった。町娘風の素朴な服は、彼が出演している喜歌劇の衣装だったはず。
早足で追いかけてきた侍女が苦言を呈した。
「フィオレッティ様、廊下を走ってはいけないっていつもお話ししているじゃありませんか」
私は鍵盤から顔を上げ、一瞥をくれた。彼が抱えた革製の紙入れは、楽譜でふくらんでいる。
「今日も遅かったですわね。ピエーロ・ディ・チョッチョ先生」
このカストラート歌手は現在、私の音楽教師を務めている。
「ちょっとお嬢様!」
チョッチョはぷくーっと頬をふくらませた。
「ボクのことはフィオレッティってステージネームで呼んで下さいよぉ」
歌手も作曲家も、たいていはステージネームを持っている。客が付けることもあれば、本人が名乗る場合もあるようだ。由来は出身地やデビューした土地、初めて演じた大役、師匠やパトロンの姓など様々だ。出版される台本には本名と共にステージネームも併記される。
チョッチョは出身地「花の街」からフィオレッティと名乗っているらしい。
「舞台稽古が長引いちゃったんですよ。今日も舞台衣装のままですみません」
チョッチョはぺろりと舌を出した。この男はいつも舞台衣装でやってくる。しかし男性の服装だったことはない。声質が細く声量もないチョッチョには、男役が回ってこないのだ。
「お嬢様、今日は何を弾きます?」
息を整えたチョッチョが、チェンバロの横に置いた椅子に腰を下ろした。
「前回の続きで二声のソナタにするわ」
私はチェンバロの譜面台を立てて、楽譜を並べた。
「ああ、あの簡単な練習曲ですね」
チョッチョは興味なさそうに紙入れの革紐を解いた。中には楽譜だけではなく、鏡や布袋まで入っている。
私は楽譜に視線を戻すと、ひとつ息を吸ってからソナタの一楽章を弾き始めた。
華やかなチェンバロの音色が舞い上がる。音楽室のあちらこちらに音の花弁が舞い散り、反響してゆく。次から次へと表情を変える和声が、色彩豊かな花園を作り出した。
だけど冷えた指ではトリルがうまく決まらない。視線だけ動かしてチョッチョを見ると、彼は熱心に手鏡をのぞきこんで、つけぼくろの位置を確認していた。真面目にレッスンする気などないのだ。
快活な一楽章が終わり、ゆったりとした二楽章に入ると、私は指だけ動かしながら思案に耽った。
アルカンジェロ宛てに手紙を書いて、ミサの際に侍女から神父様に渡して、彼に届けてもらうことは可能だ。
だが証拠が残る上、誰かに開封される危険もある手紙という手段で、アルカンジェロは真実を明かしてくれるだろうか?
昨夜の頑なな態度を考えると望みは薄い。お父様だって職務上、家族に対しても話せないと、教えてくれない情報も多いのだ。
まずは信頼関係を構築することが先かしら?
十年前の毒殺事件についてはいくつか妙な点がある。
避暑に訪れた離宮で兄弟が飲み物に毒を盛られたというけれど、当然、毒見役がいたはずだ。それなのに毒殺が成功するなんて、実行犯は使用人の誰かじゃないの?
しかもお父様によれば、王子たち二人の周りにいた侍女や侍従、使用人への接触は陛下によって禁じられたそうだ。何か隠そうとしているのは陛下のほう――?
グイードに婚約破棄された翌日、私は昨夜のことを悶々と考え続けていた。
なんとしてもアルカンジェロがつかんだ情報を得たい。グイードと婚姻できないとなった今、事件につながる道は、あのコントラルト歌手が持つ手帳しかないのだ。
わが伯爵邸の音楽室で、蓋を開けた鍵盤楽器を前にして座っていても、ちっとも弾く気にならない。
音楽室の窓際はガーデンルームになっていて、その向こうには中庭が見える。だが今日は朝からあいにくの雨が降りしきり、三月に入ったというのに真冬のように寒い。
演奏する気分になれない私は、T字型の調律鍵でチェンバロのチューニングを始めた。オクターブの響きに集中していると、心が落ち着いてくる。
大聖堂のミサにあずかればアルカンジェロに会うことは可能だ。でもどうすれば二人きりで秘密の話ができるだろう?
めぐる思索を破ったのは、廊下を走ってくる足音だった。
厳格なお父様にしつけられた伯爵邸の使用人たちは、廊下を走らない。そんな愚か者はただ一人。
「遅刻、遅刻ー!」
想像した通りのソプラノが聞こえてきて、私はこめかみを押さえた。
大きな音を立てて音楽室の扉が開け放たれた。肩で息をしているのは、オレンジ色に脱色した髪を結いあげ、楽譜をくわえた町娘――に見える男だった。町娘風の素朴な服は、彼が出演している喜歌劇の衣装だったはず。
早足で追いかけてきた侍女が苦言を呈した。
「フィオレッティ様、廊下を走ってはいけないっていつもお話ししているじゃありませんか」
私は鍵盤から顔を上げ、一瞥をくれた。彼が抱えた革製の紙入れは、楽譜でふくらんでいる。
「今日も遅かったですわね。ピエーロ・ディ・チョッチョ先生」
このカストラート歌手は現在、私の音楽教師を務めている。
「ちょっとお嬢様!」
チョッチョはぷくーっと頬をふくらませた。
「ボクのことはフィオレッティってステージネームで呼んで下さいよぉ」
歌手も作曲家も、たいていはステージネームを持っている。客が付けることもあれば、本人が名乗る場合もあるようだ。由来は出身地やデビューした土地、初めて演じた大役、師匠やパトロンの姓など様々だ。出版される台本には本名と共にステージネームも併記される。
チョッチョは出身地「花の街」からフィオレッティと名乗っているらしい。
「舞台稽古が長引いちゃったんですよ。今日も舞台衣装のままですみません」
チョッチョはぺろりと舌を出した。この男はいつも舞台衣装でやってくる。しかし男性の服装だったことはない。声質が細く声量もないチョッチョには、男役が回ってこないのだ。
「お嬢様、今日は何を弾きます?」
息を整えたチョッチョが、チェンバロの横に置いた椅子に腰を下ろした。
「前回の続きで二声のソナタにするわ」
私はチェンバロの譜面台を立てて、楽譜を並べた。
「ああ、あの簡単な練習曲ですね」
チョッチョは興味なさそうに紙入れの革紐を解いた。中には楽譜だけではなく、鏡や布袋まで入っている。
私は楽譜に視線を戻すと、ひとつ息を吸ってからソナタの一楽章を弾き始めた。
華やかなチェンバロの音色が舞い上がる。音楽室のあちらこちらに音の花弁が舞い散り、反響してゆく。次から次へと表情を変える和声が、色彩豊かな花園を作り出した。
だけど冷えた指ではトリルがうまく決まらない。視線だけ動かしてチョッチョを見ると、彼は熱心に手鏡をのぞきこんで、つけぼくろの位置を確認していた。真面目にレッスンする気などないのだ。
快活な一楽章が終わり、ゆったりとした二楽章に入ると、私は指だけ動かしながら思案に耽った。
アルカンジェロ宛てに手紙を書いて、ミサの際に侍女から神父様に渡して、彼に届けてもらうことは可能だ。
だが証拠が残る上、誰かに開封される危険もある手紙という手段で、アルカンジェロは真実を明かしてくれるだろうか?
昨夜の頑なな態度を考えると望みは薄い。お父様だって職務上、家族に対しても話せないと、教えてくれない情報も多いのだ。
まずは信頼関係を構築することが先かしら?
十年前の毒殺事件についてはいくつか妙な点がある。
避暑に訪れた離宮で兄弟が飲み物に毒を盛られたというけれど、当然、毒見役がいたはずだ。それなのに毒殺が成功するなんて、実行犯は使用人の誰かじゃないの?
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