婚約破棄された堅物令嬢ですが、鬼の騎士団長の娘として宮廷の陰謀を暴くのに忙しいので、美貌のカストラート(実は王子)に溺愛される暇はありません

綾森れん

文字の大きさ
7 / 11

07、お母様は高い声がお好き

しおりを挟む
「ねえ、リラお嬢様。今日はなんだか心ここにあらずじゃない?」

 チョッチョの鋭い指摘に、私の意識は引き戻された。

「お嬢様、一番カッコを三回繰り返してるの気付いてます? いつまで経っても二楽章が終わらない」

 考えごとに没頭しすぎたわ。

 私は表情を変えずに二番カッコに移った。

「お嬢様ったら恋でもしているのかしら?」

 だがチョッチョの言葉に思わず手を止めてしまった。愕然として横を見る。

 チョッチョは妙なしなを作って人差し指を口もとに添え、愛らしく首をかしげていた。この男、お化粧が濃すぎるとはいえ顔は綺麗なので、それなりに魅力的なのが憎たらしい。

 私は少女の姿をした音楽教師に向き直った。

「マエストロ・チョッチョ、花壇を飛び回る蝶々のように恋ばかりしているあなたとは違いますの。私は重要な問題について考えていたの」

 チョッチョはクスッと魅惑的な笑みを浮かべ、手鏡を椅子に置いて立ち上がった。

「そんなリラお嬢様にちょうどよいアリアを、フィオレッティがお教えしましょう」

 スカートが風を含んでふわりと広がる。芝居がかった足取りでチェンバロの回りを一周してから、ひらりと手首を返し、私に立ち上がるよう促した。

 げんなりして場所をゆずると、彼は左手で通奏低音だけを弾きながら歌い始めた。

「私は知っているの
 すでに完璧だって」

 小鳥のさえずりみたいに愛らしいけれど、響きの少ない彼の声はあまり広がらない。本格的な正歌劇オペラセリアでは脇役しかできない所以ゆえんだ。

 チョッチョは右手のひらを胸に向けて、わざとらしい演技をつける。

「誰もが私を羨むわ
 この美貌と頭脳を」

 部屋の天井を見上げる彼の目には、ボックス席から見下ろすお客さんでも映っているのかしら。

 チョッチョは、カストラートがあまり出演したがらない小劇場の喜歌劇ブッファでヒロインを演じることが多い。

 神話や古代の英雄を扱う正歌劇セリアと違って、民衆に好まれる喜歌劇ブッファでは、召使い同士の色恋沙汰など身近な主題が扱われる。ゆえに男性ソプラノの非現実的な声は合わない。その辺の運河でゴンドラでも漕いでいそうなテノールの方がふさわしい。

 でもチョッチョには正歌劇セリアのアリアで求められる超絶技巧も声量もないから、脇役に甘んじるくらいなら喜歌劇ブッファで主役級を歌った方が楽しいのだろう。

 A部分を歌い終わったチョッチョは下手くそな右手を添えて、間奏の弦楽パートを弾こうと四苦八苦していた。音楽院を卒業している以上、学生時代はチェンバロも必修科目として収めたはずだが、今では私に毛の生えた程度のテクニックしかない。

 たどたどしい間奏がようやく終わったと思ったら、B部分を歌い始めた。

「でも知ってしまったの
 完璧じゃないあなたと」

 右手をぎゅっと握ってこぶしを作る。なんだか演技が嘘くさいのよね。

 響きが浅く、迫力のないソプラノを聴いていると、昨日の夜会で私の耳を癒したアルカンジェロのコントラルトがなつかしくなる。アルカンジェロが私の音楽の先生だったらよかったのに!

「共に生きるなら世界は
 もっと美しくなるって」

 舞台の上さながらにチョッチョが両手を大きく広げたとき、廊下ではなく、次のに続く扉が開いた。顔を上げなくても、ぷんと香るムスクの匂いで誰が来たのか、私はすぐに分かった。

「レッスンは終わりまして?」

 扉に寄りかかったお母様は、扇を片手に吐息を含んだやや低い声で尋ねた。自宅にいるというのに顔はおしろいで真っ白。高く結い上げた髪型のせいで扉につっかえそうだ。これから夜会に出かけるのかと思うような、コバルトブルーに金糸の刺繍がふんだんにほどこされたドレスに身を包み、胸元には大きなサファイヤのネックレスが輝いている。

「ロザリンダ様!」

 オペラの続きかと思うような高い声を出してチョッチョが駆け出した。

 まるでロウソクの灯りに吸い寄せられる蛾のようだわ。

 これで今日のレッスンはおしまい。この男はお母様に会いに来ているだけだからね。

 チョッチョがいつも女性役の衣装で現れるのは、世間やお父様の目をあざむくため。私や屋敷の使用人たちにとっては、チョッチョがお母様の現在の愛人であることは公然の秘密だけれど。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。

銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。 しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。 しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい……

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

【完結】傷物令嬢は近衛騎士団長に同情されて……溺愛されすぎです。

朝日みらい
恋愛
王太子殿下との婚約から洩れてしまった伯爵令嬢のセーリーヌ。 宮廷の大広間で突然現れた賊に襲われた彼女は、殿下をかばって大けがを負ってしまう。 彼女に同情した近衛騎士団長のアドニス侯爵は熱心にお見舞いをしてくれるのだが、その熱意がセーリーヌの折れそうな心まで癒していく。 加えて、セーリーヌを振ったはずの王太子殿下が、親密な二人に絡んできて、ややこしい展開になり……。 果たして、セーリーヌとアドニス侯爵の関係はどうなるのでしょう?

追放された悪役令嬢は辺境にて隠し子を養育する

3ツ月 葵(ミツヅキ アオイ)
恋愛
 婚約者である王太子からの突然の断罪!  それは自分の婚約者を奪おうとする義妹に嫉妬してイジメをしていたエステルを糾弾するものだった。  しかしこれは義妹に仕組まれた罠であったのだ。  味方のいないエステルは理不尽にも王城の敷地の端にある粗末な離れへと幽閉される。 「あぁ……。私は一生涯ここから出ることは叶わず、この場所で独り朽ち果ててしまうのね」  エステルは絶望の中で高い塀からのぞく狭い空を見上げた。  そこでの生活も数ヵ月が経って落ち着いてきた頃に突然の来訪者が。 「お姉様。ここから出してさし上げましょうか? そのかわり……」  義妹はエステルに悪魔の様な契約を押し付けようとしてくるのであった。

離宮に隠されるお妃様

agapē【アガペー】
恋愛
私の妃にならないか? 侯爵令嬢であるローゼリアには、婚約者がいた。第一王子のライモンド。ある日、呼び出しを受け向かった先には、女性を膝に乗せ、仲睦まじい様子のライモンドがいた。 「何故呼ばれたか・・・わかるな?」 「何故・・・理由は存じませんが」 「毎日勉強ばかりしているのに頭が悪いのだな」 ローゼリアはライモンドから婚約破棄を言い渡される。 『私の妃にならないか?妻としての役割は求めない。少しばかり政務を手伝ってくれると助かるが、後は離宮でゆっくり過ごしてくれればいい』 愛し愛される関係。そんな幸せは夢物語と諦め、ローゼリアは離宮に隠されるお妃様となった。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

処理中です...