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07、お母様は高い声がお好き
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「ねえ、リラお嬢様。今日はなんだか心ここにあらずじゃない?」
チョッチョの鋭い指摘に、私の意識は引き戻された。
「お嬢様、一番カッコを三回繰り返してるの気付いてます? いつまで経っても二楽章が終わらない」
考えごとに没頭しすぎたわ。
私は表情を変えずに二番カッコに移った。
「お嬢様ったら恋でもしているのかしら?」
だがチョッチョの言葉に思わず手を止めてしまった。愕然として横を見る。
チョッチョは妙な品を作って人差し指を口もとに添え、愛らしく首をかしげていた。この男、お化粧が濃すぎるとはいえ顔は綺麗なので、それなりに魅力的なのが憎たらしい。
私は少女の姿をした音楽教師に向き直った。
「マエストロ・チョッチョ、花壇を飛び回る蝶々のように恋ばかりしているあなたとは違いますの。私は重要な問題について考えていたの」
チョッチョはクスッと魅惑的な笑みを浮かべ、手鏡を椅子に置いて立ち上がった。
「そんなリラお嬢様にちょうどよいアリアを、フィオレッティがお教えしましょう」
スカートが風を含んでふわりと広がる。芝居がかった足取りでチェンバロの回りを一周してから、ひらりと手首を返し、私に立ち上がるよう促した。
げんなりして場所をゆずると、彼は左手で通奏低音だけを弾きながら歌い始めた。
「私は知っているの
すでに完璧だって」
小鳥のさえずりみたいに愛らしいけれど、響きの少ない彼の声はあまり広がらない。本格的な正歌劇では脇役しかできない所以だ。
チョッチョは右手のひらを胸に向けて、わざとらしい演技をつける。
「誰もが私を羨むわ
この美貌と頭脳を」
部屋の天井を見上げる彼の目には、ボックス席から見下ろすお客さんでも映っているのかしら。
チョッチョは、カストラートがあまり出演したがらない小劇場の喜歌劇でヒロインを演じることが多い。
神話や古代の英雄を扱う正歌劇と違って、民衆に好まれる喜歌劇では、召使い同士の色恋沙汰など身近な主題が扱われる。ゆえに男性ソプラノの非現実的な声は合わない。その辺の運河でゴンドラでも漕いでいそうなテノールの方がふさわしい。
でもチョッチョには正歌劇のアリアで求められる超絶技巧も声量もないから、脇役に甘んじるくらいなら喜歌劇で主役級を歌った方が楽しいのだろう。
A部分を歌い終わったチョッチョは下手くそな右手を添えて、間奏の弦楽パートを弾こうと四苦八苦していた。音楽院を卒業している以上、学生時代はチェンバロも必修科目として収めたはずだが、今では私に毛の生えた程度のテクニックしかない。
たどたどしい間奏がようやく終わったと思ったら、B部分を歌い始めた。
「でも知ってしまったの
完璧じゃないあなたと」
右手をぎゅっと握ってこぶしを作る。なんだか演技が嘘くさいのよね。
響きが浅く、迫力のないソプラノを聴いていると、昨日の夜会で私の耳を癒したアルカンジェロのコントラルトがなつかしくなる。アルカンジェロが私の音楽の先生だったらよかったのに!
「共に生きるなら世界は
もっと美しくなるって」
舞台の上さながらにチョッチョが両手を大きく広げたとき、廊下ではなく、次の間に続く扉が開いた。顔を上げなくても、ぷんと香るムスクの匂いで誰が来たのか、私はすぐに分かった。
「レッスンは終わりまして?」
扉に寄りかかったお母様は、扇を片手に吐息を含んだやや低い声で尋ねた。自宅にいるというのに顔はおしろいで真っ白。高く結い上げた髪型のせいで扉につっかえそうだ。これから夜会に出かけるのかと思うような、コバルトブルーに金糸の刺繍がふんだんにほどこされたドレスに身を包み、胸元には大きなサファイヤのネックレスが輝いている。
「ロザリンダ様!」
オペラの続きかと思うような高い声を出してチョッチョが駆け出した。
まるでロウソクの灯りに吸い寄せられる蛾のようだわ。
これで今日のレッスンはおしまい。この男はお母様に会いに来ているだけだからね。
チョッチョがいつも女性役の衣装で現れるのは、世間やお父様の目を欺くため。私や屋敷の使用人たちにとっては、チョッチョがお母様の現在の愛人であることは公然の秘密だけれど。
チョッチョの鋭い指摘に、私の意識は引き戻された。
「お嬢様、一番カッコを三回繰り返してるの気付いてます? いつまで経っても二楽章が終わらない」
考えごとに没頭しすぎたわ。
私は表情を変えずに二番カッコに移った。
「お嬢様ったら恋でもしているのかしら?」
だがチョッチョの言葉に思わず手を止めてしまった。愕然として横を見る。
チョッチョは妙な品を作って人差し指を口もとに添え、愛らしく首をかしげていた。この男、お化粧が濃すぎるとはいえ顔は綺麗なので、それなりに魅力的なのが憎たらしい。
私は少女の姿をした音楽教師に向き直った。
「マエストロ・チョッチョ、花壇を飛び回る蝶々のように恋ばかりしているあなたとは違いますの。私は重要な問題について考えていたの」
チョッチョはクスッと魅惑的な笑みを浮かべ、手鏡を椅子に置いて立ち上がった。
「そんなリラお嬢様にちょうどよいアリアを、フィオレッティがお教えしましょう」
スカートが風を含んでふわりと広がる。芝居がかった足取りでチェンバロの回りを一周してから、ひらりと手首を返し、私に立ち上がるよう促した。
げんなりして場所をゆずると、彼は左手で通奏低音だけを弾きながら歌い始めた。
「私は知っているの
すでに完璧だって」
小鳥のさえずりみたいに愛らしいけれど、響きの少ない彼の声はあまり広がらない。本格的な正歌劇では脇役しかできない所以だ。
チョッチョは右手のひらを胸に向けて、わざとらしい演技をつける。
「誰もが私を羨むわ
この美貌と頭脳を」
部屋の天井を見上げる彼の目には、ボックス席から見下ろすお客さんでも映っているのかしら。
チョッチョは、カストラートがあまり出演したがらない小劇場の喜歌劇でヒロインを演じることが多い。
神話や古代の英雄を扱う正歌劇と違って、民衆に好まれる喜歌劇では、召使い同士の色恋沙汰など身近な主題が扱われる。ゆえに男性ソプラノの非現実的な声は合わない。その辺の運河でゴンドラでも漕いでいそうなテノールの方がふさわしい。
でもチョッチョには正歌劇のアリアで求められる超絶技巧も声量もないから、脇役に甘んじるくらいなら喜歌劇で主役級を歌った方が楽しいのだろう。
A部分を歌い終わったチョッチョは下手くそな右手を添えて、間奏の弦楽パートを弾こうと四苦八苦していた。音楽院を卒業している以上、学生時代はチェンバロも必修科目として収めたはずだが、今では私に毛の生えた程度のテクニックしかない。
たどたどしい間奏がようやく終わったと思ったら、B部分を歌い始めた。
「でも知ってしまったの
完璧じゃないあなたと」
右手をぎゅっと握ってこぶしを作る。なんだか演技が嘘くさいのよね。
響きが浅く、迫力のないソプラノを聴いていると、昨日の夜会で私の耳を癒したアルカンジェロのコントラルトがなつかしくなる。アルカンジェロが私の音楽の先生だったらよかったのに!
「共に生きるなら世界は
もっと美しくなるって」
舞台の上さながらにチョッチョが両手を大きく広げたとき、廊下ではなく、次の間に続く扉が開いた。顔を上げなくても、ぷんと香るムスクの匂いで誰が来たのか、私はすぐに分かった。
「レッスンは終わりまして?」
扉に寄りかかったお母様は、扇を片手に吐息を含んだやや低い声で尋ねた。自宅にいるというのに顔はおしろいで真っ白。高く結い上げた髪型のせいで扉につっかえそうだ。これから夜会に出かけるのかと思うような、コバルトブルーに金糸の刺繍がふんだんにほどこされたドレスに身を包み、胸元には大きなサファイヤのネックレスが輝いている。
「ロザリンダ様!」
オペラの続きかと思うような高い声を出してチョッチョが駆け出した。
まるでロウソクの灯りに吸い寄せられる蛾のようだわ。
これで今日のレッスンはおしまい。この男はお母様に会いに来ているだけだからね。
チョッチョがいつも女性役の衣装で現れるのは、世間やお父様の目を欺くため。私や屋敷の使用人たちにとっては、チョッチョがお母様の現在の愛人であることは公然の秘密だけれど。
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