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一章 猫又とおばあちゃん
一章 4
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猫又は抱きしめられた。うっとりと目を細める。
こうして人の温もりに触れるのはいつ以来なのだろうか。長い年月を生きる猫又でさえ忘れてしまうほど遠い昔だった。
「あなた、名前は?」
「ないにゃ」
人と暮らしているときには確かあったはずだが、思い出せない。
「じゃあ、クロにしましょう。あなたはクロちゃん。真っ黒で毛並みもよくて素敵よ」
「ボクは、クロにゃ」
クロの力がみなぎった。
名前を与えられる、それだけで傷が治っていく気がした。
「でもボクはよく、黒猫は不吉だって石を投げられるにゃ」
「なんてひどいこと」
老婦人はクロの頭を撫でた。
「黒猫って気品があって目立つから、きっと特殊なのよ。国によって全然扱いが違うのよ。幸運の使者だとしている国も多いの」
「ボクが幸運の使者にゃ?」
「そうよ。日本だって江戸時代には黒猫を飼うことが大流行したそうよ。幸運を呼ぶ縁起のいい動物で、結核が治るんですって。私もあやかりたいわ」
クロはどきりとした。老婦人は病を抱えているはずだ。
「どこか悪いにゃ?」
「九十年も生きていれば、悪いところだらけよ」
そう笑ってから、血管の浮いたしわだらけの細い手でまたクロをなでた。
「全身がんなの。おばあちゃんだからね、進行が遅くてこの状態でもう二年も経っちゃった。でも、さすがにそろそろだと思うのよ」
「おばあちゃん、死んじゃうにゃ?」
「あと半年か一年か。はっきりわからないけどね。急に悪化するそうよ」
「ダメにゃ。ボクがいればきっと治るにゃ」
「そうね、クロちゃんは幸運の使者だからね」
老婦人は嬉しそうに微笑んだ。
クロと老婦人は半年ほど穏やかに暮らしていた。
どこに行くにも、なにをするにも一緒だった。老婦人は全身にがんが転移している状態だったが、一人で外出することもできた。
しかし、老婦人が言っていたように容体は急変した。今では寝たきりで食事もほとんど摂れない。
自宅で最期を迎えたいと希望している老婦人は在宅医療を受け、病と向き合っている。
* * *
「おばあちゃんはもう長くないって医者が言ってたにゃ。吸血鬼が血を吸えば、おばあちゃんは死なないにゃ?」
「事情はわかりました」
マルセルは顎に親指を当てて、思案するように目を細めた。
「確かにわたしは人を眷属にすることができます。しかしわたしには病巣を破壊する力はありません。若返ることもない。今の状態で時だけ止めることを、彼女が望むでしょうか」
病魔におかされて食事もままならない、命の灯が消えようとしている今この瞬間で時を止めるということは、ベッドから動けず、痛みに堪えるだけの日々が永遠に続くということだ。
「それは地獄だな」
蘇芳は首を振った。
「人魚はいないの? 人魚の肉を食べると不老長寿になるっていうでしょ。若返るって話もあったような」
毬瑠子が尋ねると、マルセルはますます眉間にしわを寄せた。
「人魚の肉を食べて八百年生きたという八百比丘尼伝説ですね。肉を食べた十六歳のまま八百年生きたとも、年老いては若返ることを繰り返したともいわれています。しかし残念ながら、わたしは人魚に会ったことがありません。蘇芳はどうですか? あなたは顔が広いでしょう」
「知らねえな。そうやって血肉を狙われるなら、そうそう陸に上がってこねえだろ」
どんな妖怪にもすぐに会える、というわけではないようだ。
「とにかくおばあちゃんに会ってほしいにゃ。おばあちゃんも吸血鬼に会いたいと言っていたにゃ」
「婦人が、わたしにですか?」
マルセルは驚いたようだ。クロのために、今の状態で生きていくことを選ぶというのだろうか。
「このまま生きるかどうか、おばあちゃんに選んでもらったらいいにゃ。おばあちゃんはボクとずっと一緒にいたいはずにゃ!」
クロは耳としっぽを下げて、大きな瞳に涙を浮かべて訴えた。
「わかりました。明日の朝、お宅に伺います」
マルセルは承諾した。
「毬瑠子もつきあってくださいね」
「私も? なんの役に立たないよ」
誘われると思っておらず、毬瑠子は慌てた。
末期がん患者とどう接していいのかもわからない。毬瑠子の母は事故で突然亡くなったのだ。
「レディの家に男一人で押しかけるのは気が引けます。それに毬瑠子がいてくれたら心強い」
マルセルにそう言われると断りにくかった。今日のバイトは突っ立っているだけでなにもしていないのだ。
明日の大学の講義は午後からなので、午前中は空いている。
待ち合わせ場所をマルセルと決めて、毬瑠子はバイト終了の十時に帰宅した。
こうして人の温もりに触れるのはいつ以来なのだろうか。長い年月を生きる猫又でさえ忘れてしまうほど遠い昔だった。
「あなた、名前は?」
「ないにゃ」
人と暮らしているときには確かあったはずだが、思い出せない。
「じゃあ、クロにしましょう。あなたはクロちゃん。真っ黒で毛並みもよくて素敵よ」
「ボクは、クロにゃ」
クロの力がみなぎった。
名前を与えられる、それだけで傷が治っていく気がした。
「でもボクはよく、黒猫は不吉だって石を投げられるにゃ」
「なんてひどいこと」
老婦人はクロの頭を撫でた。
「黒猫って気品があって目立つから、きっと特殊なのよ。国によって全然扱いが違うのよ。幸運の使者だとしている国も多いの」
「ボクが幸運の使者にゃ?」
「そうよ。日本だって江戸時代には黒猫を飼うことが大流行したそうよ。幸運を呼ぶ縁起のいい動物で、結核が治るんですって。私もあやかりたいわ」
クロはどきりとした。老婦人は病を抱えているはずだ。
「どこか悪いにゃ?」
「九十年も生きていれば、悪いところだらけよ」
そう笑ってから、血管の浮いたしわだらけの細い手でまたクロをなでた。
「全身がんなの。おばあちゃんだからね、進行が遅くてこの状態でもう二年も経っちゃった。でも、さすがにそろそろだと思うのよ」
「おばあちゃん、死んじゃうにゃ?」
「あと半年か一年か。はっきりわからないけどね。急に悪化するそうよ」
「ダメにゃ。ボクがいればきっと治るにゃ」
「そうね、クロちゃんは幸運の使者だからね」
老婦人は嬉しそうに微笑んだ。
クロと老婦人は半年ほど穏やかに暮らしていた。
どこに行くにも、なにをするにも一緒だった。老婦人は全身にがんが転移している状態だったが、一人で外出することもできた。
しかし、老婦人が言っていたように容体は急変した。今では寝たきりで食事もほとんど摂れない。
自宅で最期を迎えたいと希望している老婦人は在宅医療を受け、病と向き合っている。
* * *
「おばあちゃんはもう長くないって医者が言ってたにゃ。吸血鬼が血を吸えば、おばあちゃんは死なないにゃ?」
「事情はわかりました」
マルセルは顎に親指を当てて、思案するように目を細めた。
「確かにわたしは人を眷属にすることができます。しかしわたしには病巣を破壊する力はありません。若返ることもない。今の状態で時だけ止めることを、彼女が望むでしょうか」
病魔におかされて食事もままならない、命の灯が消えようとしている今この瞬間で時を止めるということは、ベッドから動けず、痛みに堪えるだけの日々が永遠に続くということだ。
「それは地獄だな」
蘇芳は首を振った。
「人魚はいないの? 人魚の肉を食べると不老長寿になるっていうでしょ。若返るって話もあったような」
毬瑠子が尋ねると、マルセルはますます眉間にしわを寄せた。
「人魚の肉を食べて八百年生きたという八百比丘尼伝説ですね。肉を食べた十六歳のまま八百年生きたとも、年老いては若返ることを繰り返したともいわれています。しかし残念ながら、わたしは人魚に会ったことがありません。蘇芳はどうですか? あなたは顔が広いでしょう」
「知らねえな。そうやって血肉を狙われるなら、そうそう陸に上がってこねえだろ」
どんな妖怪にもすぐに会える、というわけではないようだ。
「とにかくおばあちゃんに会ってほしいにゃ。おばあちゃんも吸血鬼に会いたいと言っていたにゃ」
「婦人が、わたしにですか?」
マルセルは驚いたようだ。クロのために、今の状態で生きていくことを選ぶというのだろうか。
「このまま生きるかどうか、おばあちゃんに選んでもらったらいいにゃ。おばあちゃんはボクとずっと一緒にいたいはずにゃ!」
クロは耳としっぽを下げて、大きな瞳に涙を浮かべて訴えた。
「わかりました。明日の朝、お宅に伺います」
マルセルは承諾した。
「毬瑠子もつきあってくださいね」
「私も? なんの役に立たないよ」
誘われると思っておらず、毬瑠子は慌てた。
末期がん患者とどう接していいのかもわからない。毬瑠子の母は事故で突然亡くなったのだ。
「レディの家に男一人で押しかけるのは気が引けます。それに毬瑠子がいてくれたら心強い」
マルセルにそう言われると断りにくかった。今日のバイトは突っ立っているだけでなにもしていないのだ。
明日の大学の講義は午後からなので、午前中は空いている。
待ち合わせ場所をマルセルと決めて、毬瑠子はバイト終了の十時に帰宅した。
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