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02話
しおりを挟む記憶をなくし、話すこともできない私が一人で生きていけるほど現実は甘くなかったのです。
まず仕事に就くには身分証が必要で、役所で書類の発行が必要です。けれど、私は自分が誰かも分からないのでその時点で打つ手がありませんでした。
加えて頭の打ちどころが悪かったのか料理や洗濯、裁縫などの家事が壊滅的なほど重症でした。裁縫をすれば何度も針で指を刺し、清潔で真っ白だった布が完成する頃には不気味な赤黒いマダラ模様になりました。料理もこの世のものとは思えない、名もつけられない料理が完成します。
これでは奇跡的に身分証を手に入れられたとしても、どこにも雇ってもらえないばかりか、糊口を凌ぐ生活すら危ういです。
遅かれ早かれ路地裏に屍として転がるのがおちです。
どうしたものかと頭を抱えていると「あなたを放っておけない。これも何かの縁だ」と、旦那さまは私を妻として迎え入れてくれました。最初は丁重にお断りしましたが、最終的に彼の申し出を受けることにしました。
何故なら私の方が旦那さまの優しさに触れて、好きになってしまっていたのです。好きな人の妻になれるなんて、女冥利に尽きます。
もちろん養われるだけの身では肩身が狭いので、旦那さまやラプセルさんに教えを請い、家事の一つ一つを覚えていきました。
今では旦那さまのシャツのボタンをつけ直せますし、彼の好きな料理や味つけも熟知しています。
今夜は好物である胡椒がきいたパンとミートパイを作る予定です。
「シェリル~、そろそろいつもの配達のおじじが来ますよ~」
過去を追想していると、窓枠にちょこんと留まるラプセルさんが叫びました。
我に返って耳を澄ませば、遠くから一定のリズムでオールを漕ぐ音が聞こえてきます。
私は小走りで一度家に戻ると、ランプに灯りをつけて船着場へと移動します。音がする方へランプを高く掲げ、ゆっくりと左右に動かしました。
暫くそうしているうちに、真っ白な霧の中から丸いオレンジの光と黒い影が浮かび上がります。小舟の先端にオレンジのランプを吊り下げ、生活必需品を積んだそれが浮島の船着場に到着しました。
「やあ、シェリルちゃん。いつも案内ありがとさん」
小舟から降りてきたのは背の高いがっしりとした体躯の中年の男性。彼は峡谷近くの街で商店を営んでいて、いつも我が家に生活必需品を届けてくれます。
彼は積み荷を小舟から玄関まで運んでくれました。
私はポケットから銀の万年筆を取り出すと宙に向かって手を動かしました。それに合わせて空気中に青白く発光する文字が浮かび上がります。
『配達 ありがとう』
これは口のきけない私のために旦那さまが作ってくれた魔法道具です。持ち手には赤色の貴石が二つはめ込まれていて、中に旦那さまの魔力が充填されています。
ここから魔力を供給することで魔力のない私でも魔法の行使ができるのです。
「いやいや、構わねえよ。女の子一人街まで買い出ししてここまで運ぶなんて無茶だしよ。旦那にはたんと金を支払ってもらってるしな。今日は頼まれてた食材と日用品、あとこれは来る途中店で買ったお土産だ。たまにはこういうのもいいと思ってね」
おじさんは親指を立て、茶目っ気たっぷりなウィンクをするとまだ僅かに温かい新聞紙の包みを渡してくれました。
包みを開けると、砂糖がたっぷりまぶされた一口サイズの丸いドーナツが数個入っています。
私はぱっと顔を綻ばせ、直ぐに万年筆を動かします。
『嬉しい ありがとう』
文字を読んだおじさんはきりりとした表情をへにゃりと崩しました。
「へへっ。シェリルちゃんの笑顔が見られておじさん嬉しいよ。それじゃあ今後とも変わらぬご愛顧を」
するとラプセルさんがふらりと飛んできて、私の肩に留まりました。
「おじじ、あんまりシェリルにちょっかい出してると主が鉄槌を下しますよ~?」
「ええ、これだけでか!?」
「黙っといてやりますから、今度は七面鳥の丸焼きを買ってくるのです」
ラプセルさん、それは共食いでは……?
ぽつりと心の中で呟いていると、おじさんが手を振りながら渋面で言いました。
「その手には乗らねえよ。買ってきて欲しけりゃあんたの主様に強請るんだな。俺は精霊のお願いは真に受けるなって言われてるからよ」
「ええっ、なんてヒドイッ! シェリルはよくて私がダメなんて!! 精霊の権利侵害甚だしいっ!!」
激憤するラプセルさんを無視して、おじさんは挨拶もそこそこに小舟に乗り込むと慣れた手つきでオールを漕いで帰っていきました。
「七面鳥の丸焼き……香辛料がきいた皮はパリッと中は肉汁がジュワッな七面鳥の丸焼きが食べたい……」
しょぼんと頭を垂れるラプセルさんを見て、私は慰めるように撫でました。
七面鳥は値段が高いので、今度鶏肉でよければ再現してみます。
「っ! シェリル~、シェリルだけが救いです~! 約束ですよ? 絶対ですよ?」
私はラプセルさんの言葉に頷きながら家の中に戻りました。
玄関に置かれた荷物はほとんどが食材です。私は食材の入った木箱を抱えてキッチンまで運び、傷みやすいものは地下の冷蔵室へ、日持ちする食べ物や嗜好品は食品庫へとしまいます。
残りの荷物は洗剤や手触りの良い布など。それらを決まった場所に置いてやっと荷物整理が終わりました。
次に家中を掃除してまわり、最後に旦那さまの仕事場である書斎へ足を踏み入れます。
棚や机には書類だけでなく、怪しく光る謎の液体や溜息が出るほど美しい鉱物石が雑然と置かれています。好奇心を刺激され、思わず触れたくなるようなものばかりですが、書斎のものには基本触れてはいけないと言いつけられています。
私は辺りを見回して目的のものを探します。と、ソファーの肘掛けにくたくたになったそれがありました。
旦那さまが魔法使いであるという証――ローブです。これは魔法使いという権威を象徴する代物なのですが、旦那さまはあまり頓着しません。私が注意しておかないとすぐにぼろ布のようになってしまうのです。それを回収して他の衣類と一緒に洗濯しました。
洗濯物を干し終えてキッチンへ戻ると、テーブルの上でラプセルさんが、ドーナツの隣でそわそわしていました。私の家事が終わるのを待っていてくれたようです。
「シェリル、シェリル。ドーナツ食べた~い」
私は頷いて返事をするとお茶の準備を始めました。キッチンストーブにかけていたヤカンを取り、テーブルに置いたポットに茶葉を入れてお湯を注ぎます。
蒸らしている間、新聞紙の包みを開いてドーナツをお皿に移します。最後の一つを移し終えて新聞紙を手に取るとふと、ある記事が目に留まりました。
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