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01話
しおりを挟む旦那さまのエリクシスさまは、私には勿体ないほど素敵な方です。
さらさらとした漆黒の髪に形の整った眉、薄い唇。白皙の肌はその端正な顔立ちを惹きたてます。
紅玉のような目は私を一度捉えると、嬉しそうに細められました。
「行ってくるよ、シェリル」
旦那さまは出かける際、玄関先で必ず私に口づけをします。これは精霊の加護がより強固に受けられるためのおまじないです。いつも額、瞼、頬、耳そしてまた額とキスの雨を降らし、私を強く抱きしめるのです。
最後に背中をひと撫でして、名残惜しそうに離れると仕事へと向かいます。
私たちが暮らす家は峡谷の間に浮かぶ小さな島――浮島の上にあります。ここへは旦那様の作った魔法の小舟と通行許可がなければ家まで渡ってこられません。
私と違って旦那さまは魔法が使える方で、いつも浮島から空中を歩いて向こうの山崖へと渡っていきます。
まるでそこには見えない道があるかのよう。彼が歩く度、足下の空気は水の波紋のように揺らぎ、キラキラと魔力の粒が躍ります。魔力の粒はやがて空気に溶け、静かに消えていきました。
魔法使いとは体内に流れる豊富な魔力を使って様々な魔法を操る人を指します。その数はあまり多くありません。
魔法使い――といってもその括りは広く、魔力量には大きな差があります。そよ風を起こすことしかできない人もいれば、街を呑み込むほどの巨大な竜巻を起こせる人もいます。
後者のような魔力量の多い人は瞳の色が赤や金の色をしていて、彼らは試験を通れば上級魔法使いとして宮廷で働きます。
旦那さま曰く、自分は赤色を有しているので形の上では上級魔法使いだが、宮廷のお抱え魔法使いほどの腕はないとのこと。
どこで何の仕事をしているのか教えてもらってはいませんが、それでも旦那さまが日々魔法で生み出す道具は人の役に立とうとするものばかり。
水のなくならない水甕や薪のいらないキッチンストーブ、苦みを感じないようにする薬匙など。宮廷魔法使いでなくても、私からすればとても立派な人だと思います。
未だ顔の熱が取れない私は、送り出した旦那さまの背中を見つめます。口元を手で押さえながら心の中で行ってらっしゃい、と言いました。
向こうの山崖とこちらの間は今日も今日とて生憎の濃霧で、旦那さまの姿が小さくなるまで見送ることはかないません。
しょんぼりと肩を落としていたそのときです。
「ううぇうぇぇ。朝から甘ったるい空気で胃もたれ半端ないです~」
上から声が降ってきたので見上げると、玄関の庇にカラスのような黒鳥が留まっています。
彼は精霊のラプセルさん。
私たちが暮らしているウィンザリー王国は古くから精霊信仰があるので、魔力の強い者は精霊を精霊界から召喚します。精霊に気に入られれば契約を結び、力を借りることができるのです。
ラプセルさんは旦那さまの使い魔で鳥の姿をしています。が、本当の姿は違うそうです。
いつも旦那さまが仕事に行く時間になると霧の中からふらりと現れます。
おはようございます、と私は口をパクパクと動かしてラプセルさんに挨拶します。
――そうです、私は喋ることができないのです。
ラプセルさんは気にせず私に話しかけます。
「おはようございます~。今朝も早くから主にこき使われてクタクタです~。シェリルの美味しいご飯が食べたいですよ~」
朝ご飯は野菜の入ったオムレツと厚切りベーコン、それからバジルのパンを焼いていますよ。
「わあい! オッムレツ、べーコン、バッジルパン~!!」
口が利けなくとも、使い魔は察しがいい生き物なので意思疎通ができます。
彼は上空へ飛び立つと旋回して、開いている窓から家の中へ華麗に入っていきました。
一人残された私は旦那さまの後を追いかけるように浮島のふちまで移動します。真っ白な霧の先を見つめながら、口を動かして旦那さまの名前を呟きます。
――でも、やっぱり声は出ません。
原因は分かりませんが今から丁度一年前、私は何かの衝撃で声と記憶を失ってしまいました。
旦那さまによると大きな事故に巻き込まれたらしく、その場にいたほとんどの人が重傷だったそうです。凄惨な事故に巻き込まれた私は発見された当初、瀕死の状態だったとか。
意識を取り戻した時、私は王都の病院にいました。回復魔法を掛けてもらってはいるものの、指一本動かすこともままならない寝たきりの状態でした。
自分が誰かも分からず、これまでどんな人生を歩んできたのか分からない。
声が出ないのは先天的なものか、この事故による後天的なものか。自分に関する一切の記憶が抜けてしまっているのです。
医師は記憶喪失だと分かると「助かっただけでもありがたく思いなさい。生きていればなんとかなる」と元気づけてくれました。けれど、そこには私を哀れむだけの感情しかありません。
己が何者か分からないことほど恐ろしいものはありません。自分自身の存在があやふやでうまく認知できないのです。仮にもし私を知る人が現れたとしても、その人と今までのように接することはできません。
そもそも病院にいる間、誰も探しにこなかったので、私という人間は昔から天涯孤独だったのかもしれませんね……。
誰も私を知らず、私も私を知らない。
たっぷりと時間がある中で悪いことばかりが頭を過り、孤独と恐怖に心が蝕まれていく。私はすっかり生きる気力をなくしていました。
旦那さまに出会ったのはそんなとき。この病院の魔法使いが不足しているために自ら奉仕活動としてやって来ていました。
彼は私を一目見て、何かを察したのか動かない私の手を優しく包み込んでくれました。
「大丈夫、あなたはもう独りじゃない。よくここまで耐え忍んだ」
その言葉から、声から、同情や哀れみは微塵もありません。彼の大きな手から伝わる体温は私の冷え切った心を溶かすようにじんわりと染み渡っていきました。
いつの間にか私の瞳からはぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちていました。胸のつかえが下りたのです。旦那さまは私が泣き止むまでずっと手を握って励ましてくれました。
それからは彼がつきっきりで介抱してくれました。
名前を訊かれて答えられないでいると、名前がないのは不便だと言って私に「シェリル」という名前を与えてくれました。
何故その名前なのかは分かりません。でもシェリルと呼ばれる度、不思議と胸の奥がきゅっとして懐かしい気持ちになります。
もしかして、記憶をなくす前もシェリルという名前だったのでしょうか……。
旦那さまのおかげで身体は瞬く間に快方に向かいました。けれど一難去ってまた一難。次の問題が起こりました。
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