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8 伊賀の追っ手
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第四章 伊賀の追っ手
第一話 中山道
夏とは思えぬ冷気が、街道の上に薄い膜のように張りついていた。
灰混じりの風が梢を鳴らし、道端の草を寝かせ、時おりさらさらと乾いた粉を舞い上げる。
陽はあるはずなのに光が届かず、空はいつまでも煤けた色を引きずっている。
歩くたび、草履の裏で灰と土が擦れる音だけが妙に大きく響いた。
金之助と鉄之介は中山道を西へ向かっていた。
並んで歩いているのに、金之助の肩はどこか固い。
胸に火を抱えたまま歩く日々が続き、体力の落ちた脚は重い。
それでも歩く。
止まれば追いつかれる――そんな予感が、ずっと背中に貼りついていた。
そして、その予感は外れなかった。
ふと、金之助の首筋に冷たいものが走った。
風ではない。
視線の重みとも違う。
もっと、生きた“気配”だ。
――つけられている。
金之助は歩みを一度だけ緩め、息を殺す。
背中の奥で何かが擦れるような音がした気がして、
彼はわずかに肩越しへ振り返った。
黒装束の影が、五つ。
街道の灰の靄の中から、じりじりと距離を詰めてくる。
目元を覆い、腰には刀。
足音を殺し、互いの間合いを測る動きは、野犬の群れに似ていた。
ただの賊ではない。
“仕事”で来た者の、冷えた練度がそこにある。
金之助の喉がひゅっと鳴った。
同時に懐の辰の珠が、微かな熱を増した。
まるで「来たぞ」と知らせるように。
「……鉄之介」
低く名を呼ぶ。
金之助が言い終えるより早く、鉄之介はうっすら笑って返した。
「わかってる」
鉄之介もまた、気配の違いを嗅ぎ取っていたのだ。
彼は肩の大槌をゆっくりと下ろし、地面へ斜めに立てる。
その仕草は軽い。
けれど目は遊んでいない。
獣じみた鋭さで、五つの影を真正面から捉えた。
忍びたちは無言のまま包囲を固める。
左右へ割れ、後ろへ回り、逃げ道を潰してくる。
その動きが静かすぎて、逆に恐ろしい。
やがて、一人が一歩前へ出た。
痩せぎすの体に、灰色の布が貼りついている。
声だけが、石を転がすように低かった。
「――珠を、よこせ」
短い命令。
交渉の余地など最初からない響きだった。
金之助の背中がぞくりと粟立つ。
やはり狙いは、懐の辰の珠。
こいつらは“辰”だの“器”だの、詳しい事情を知らされていない。
ただ命じられた通り、奪うために来た。
その命令だけが彼らの血肉になっている。
「……伊賀か」
金之助が絞り出すように呟くと、鉄之介が鼻を鳴らした。
「へっ。道理で物騒な臭ぇ風だと思ったぜ」
そして、わざと肩をすくめ、挑むように笑った。
「だがよ……何か知らねぇが、欲しけりゃ、力ずくで来やがれ」
その挑発に、忍びたちの間にわずかな揺れが走る。
感情を見せぬはずの暗殺者が、ほんの一瞬だけ苛立ちをのぞかせた。
前へ出ていた痩せぎすの忍びが、懐へ手を突っ込む。
指先が小刻みに震えている。
恐怖か、興奮か、あるいは――欲。
取り出されたのは、赤黒く鈍い光を宿した珠だった。
昼の灰色を吸い込んだような色。
それが掌の中で、濡れた心臓みたいに脈を打つ。
「力を……寄越せ……!」
忍びは血走った目で、珠を握りしめた。
瞬間――
大気が震えた。
珠が一気に脈動し、赤黒い光が忍びの腕を這い上がる。
まるで内側から血管ごと染めるように、光の筋が皮膚に浮き出た。
空気が重く沈み、地面の砂利がふるふると跳ねる。
周囲の木々が、風もないのにざわりと揺れた。
「……っ!」
金之助の胸の奥が焼けるように痛む。
懐の辰の珠が共鳴し、熱が一気に噴き上がったのだ。
視界がぐらりと歪み、呼吸が詰まる。
忍びが地を蹴った。
振り抜かれた一閃は、刃というより衝撃だった。
空気が裂け、地面が爆ぜ、砂利が弾丸みたいに飛び散る。
後方の大木が、真横に裂けて轟音を立てて倒れ伏した。
「な……っ!」
金之助は咄嗟に身を低くした。
遅れて頬を焼く衝撃が襲い、身体がびりびり震えた。
熱と恐怖で膝が崩れる。
「金之助!」
鉄之介が叫ぶ。
忍びは止まらない。
もう一度地を蹴り、鉄之介へ突進する。
刃が稲光のように走り、巨体の喉元を狙ってくる。
鉄之介は大槌を振り上げ、真正面から受けた。
ガァン!
衝撃が雷鳴のように迸り、地面に深い亀裂が走る。
鉄之介の腕がきしみ、肩が沈む。
巨漢の膝が土へめり込んだ。
「くそっ……力が桁違ぇ!」
叫ぶ暇もない。
忍びの斬撃は畳みかけるように続く。
一撃ごとに風が裂け、周囲の木々がなぎ倒され、砂塵が嵐のように舞った。
鉄之介は大槌で受け、弾き返し、踏ん張る。
だが重さが違う。
受けるたび骨の芯まで響き、腕が痺れ、じりじりと後退させられる。
金之助は立ち上がろうとするが、熱と震えで身体が言うことをきかない。
視界の端が暗くなり、胸の奥が掴まれたみたいに苦しい。
「……俺じゃ……止められない……」
忍びの口元が歪んだ。
珠の力に酔った笑みだ。
「俺は強い……力がみなぎる……!
斬り伏せてやる!」
刀が振り下ろされる。
鉄之介は大槌を構えたまま、動きを封じられつつあった。
一歩でも遅れれば、受けきれずに叩き割られる――
――絶体絶命。
その時だった。
忍びの身体が、ぎし、と不吉に軋んだ。
握りしめた珠がさらに脈動し、
その光が“器”を超えて、肉そのものを押し広げ始める。
皮膚の下に浮き出た血管が裂け、
赤黒い血が吹き出す。
骨が砕けるような音が、雨もないのにやけに湿って響いた。
「ぐ……あ……!?」
忍びが自分の腕を見下ろす。
遅れて、刀を握った腕が千切れるように崩れ落ちた。
「ぐあああああっ!」
狂気の咆哮。
次の瞬間、全身が内側から爆ぜた。
赤黒い紅の光が四散し、肉片と血が砂塵へ混じって散る。
残ったのは――
地面に転がり、なおも重苦しく脈動する珠だけ。
心臓の鼓動みたいな光を放ち、
鉄之介と金之助を睨みつけるかのように、異様な存在感でそこにあった。
金之助は荒い息のまま、その光を見つめる。
胸の辰の珠が、まだ熱く震えている。
――ただの追っ手ではない。
この珠は、そして忍びたちは、
もっと深い何かへ繋がっている。
そんな予感が、灰色の中山道の空気よりも重く、二人の間に落ちていた。
第二話 酉の珠の宿り
赤黒い紅の光が四散し、肉片と砂塵が雨のない空へ舞ったあと――
街道に残ったのは、破裂した忍びの呻きの余韻だけだった。
伊賀の残る四人は、ほんの一瞬、動けなかった。
今まで無言で間合いを詰め、命令だけを遂行する“道具”だった彼らが、目の前で起きた出来事を理解できずに固まっている。
仲間が、珠の力で膨れ、裂け、爆ぜた。
それが「力の代償」だと知ってはいたはずだ。
だが――あれほどの暴走を、この場で目の当たりにするとは思っていなかった。
血と煙の奥、地面に転がる珠が、まだ脈打っている。
赤黒い鼓動は、まるで“次の器”を探す目のように四人へ向けられていた。
「……っ」
誰かが喉の奥で息を呑む音がした。
その瞬間、氷が割れるように彼らの緊張が崩れる。
「退け!」
短い号令。
だが声は、さっきまでの冷たさと違って掠れていた。
恐怖が、声に混じっている。
四人は一斉に跳ねた。
蜘蛛の子を散らすように、別々の方向へ弾ける。
足音が一つも重ならない。
互いを助ける余裕などなく、ただ“あの光から遠ざかること”だけが本能になっていた。
木の陰へ滑り込み、道端の斜面へ転がり、枝を折り、土を蹴り、黒装束は灰の靄の中へ溶けていく。
最後に一人が、振り返りざま、
珠と鉄之介たちを見た。
あの珠はまだ生きている。
そして今、誰にも制御できぬままここにある。
忍びは歯を食いしばり、何か呪いのような低い言葉を吐き捨てる。
「……化け物め……」
次の瞬間、その影も消えた。
街道には、血の匂いと灰と、重苦しい静寂だけが残る。
砂塵がゆっくりと落ち、吹き荒れていた風がひと息おさまると、街道には奇妙な静けさが戻ってきた。
倒れた木の葉がまだぱらぱらと揺れ、裂けた幹からは樹液が黒くにじむ。
さっきまで「戦い」の音で満ちていた場所が、嘘のように空っぽになっていた。
その中心に――
赤黒く脈動する珠が、一つ。
地面に転がっているだけなのに、
まるでそこだけ空気が別のものになっているようだった。
珠は呼吸をするかのように、暗い光を明滅させている。
弱く、強く、弱く、強く。
鼓動のたびに、周囲の砂利がかすかに震え、耳ではなく皮膚で「どくん」と感じる重い圧が伝わってくる。
金之助は思わず一歩下がった。
胸の奥が、熱い。
懐に収めた辰の珠が、まるで応えるように震え出していた。
違う珠が目の前にあるのに、なぜ。
理由は分からない。
ただ、胸の奥の火が、もう一段強く燃えた。
「……なんだよ、これ」
鉄之介の声は低く、いつもの軽さがない。
彼は大槌を肩から下ろし、慎重に歩み寄った。
怖がっているのではない。
だが、獣が初めて見る毒蛇へ近づくときのような――そんな“身体の緊張”が彼の歩き方に混じっていた。
鉄之介は膝を折り、珠へ手を伸ばす。
大きな指が、ためらいを挟まず触れた瞬間――
じゅっ。
火箸を素手で掴んだような灼熱が、掌から腕へ突き抜けた。
「ぐっ……あっつ……!」
鉄之介は反射で手を放した。
指先が痺れ、皮膚が熱で突っ張る。
だが珠の熱はそれで終わらない。
地面に落ちるはずの珠が、ふわりと宙へ浮かび上がった。
赤黒い光が一気に膨らみ、
鉄之介の胸元へ寄ってくる。
それは攻撃というより、“吸い寄せ”に近い動きだった。
まるで「ここに入れ」とでも言うように、珠が鉄之介の身体を選び、帰る場所を探しているかのように。
鉄之介の全身を、赤黒い光が包んだ。
皮膚の上を熱い風が滑り、
骨の奥へ何かが入り込もうとする感覚が走る。
ふっと、息が止まるほど心地よい吸い込みが一瞬だけ起きた。
水に沈むような、眠りへ落ちるような甘い感覚。
だが次の瞬間、鉄之介の背筋がぞわりと総毛立った。
――このまま体に入れたら、持っていかれる。
理屈じゃない。
戦場の匂いを嗅ぎ分けてきた獣の直感が、鉄之介の中で警鐘を鳴らした。
「やば……っ!」
鉄之介は咄嗟に大槌を前へ突き出した。
逃げるのではなく、
珠の行き先を“別の場所へ”無理やり向ける動き。
次の瞬間――
光の奔流が、槌頭へ叩きつけられた。
まるで激流が鉄を穿つように、赤黒い光が槌の中へ潜り込み、珠は黒鉄の塊へぐいとめり込んだ。
ドンッ!
地鳴りのような轟音。
衝撃波が街道の砂を跳ね上げ、
鉄之介の巨体さえ後ろへ弾き飛ばした。
「うおっ――!」
背中から地面を転がり、肩をしたたか打って息が詰まる。
それでも鉄之介は歯を食いしばり、肘を突いて起き上がろうとした。
「鉄之介!」
金之助が駆け寄り、慌てて抱き起こす。
熱と衝撃でまだ身体がふらつくのに、
金之助の動きには必死さがあった。
「だ、大丈夫か!」
鉄之介は胸を上下させ、顔をしかめたまま――なぜか笑った。
「ああ……平気だ。
だが、なんだこれは……?」
二人の視線が、同時に大槌へ吸い寄せられる。
槌が、変わっていた。
黒鉄の槌頭の中心に、赤黒い紅の珠が深く埋め込まれている。
それはただ嵌ったのではない。
鉄に“喰い込んだ”ように、
珠の輪郭が槌に溶け、半分同化していた。
埋め込まれた場所からは、亀裂が蜘蛛の巣のように走り、その割れ目から血みたいな光がじわじわ滲んでいる。
柄の木肌にも、異様な変化が起きていた。
さっきまでただの黒ずんだ柄だったのに、今は奇怪な紋様が浮かび上がっている。
蛇が絡むような、獣の牙のような、人の目には形容しがたい“生き物めいた線”。
そしてそれが――
呼吸するように、ゆっくり蠢いていた。
鉄之介は目を細め、
まだ痺れる手を伸ばし、柄を握った。
ずしり、とした重量は変わらない。
だがその握りに、どくんと鼓動が返ってくる。
槌そのものが、心臓を持ったみたいに。
「……俺の槌が……」
鉄之介の声が、半ば呆然と漏れる。
「獣みてえに唸ってやがる……!」
金之助は言葉を失った。
珠が人に宿る話は聞いていた。
だが、珠が“武器”に宿るその瞬間を、
目の前で見るのは初めてだった。
それが何を意味するのか。
この先、何を呼ぶのか。
――このとき、まだ誰も知る由もなかった。
第一話 中山道
夏とは思えぬ冷気が、街道の上に薄い膜のように張りついていた。
灰混じりの風が梢を鳴らし、道端の草を寝かせ、時おりさらさらと乾いた粉を舞い上げる。
陽はあるはずなのに光が届かず、空はいつまでも煤けた色を引きずっている。
歩くたび、草履の裏で灰と土が擦れる音だけが妙に大きく響いた。
金之助と鉄之介は中山道を西へ向かっていた。
並んで歩いているのに、金之助の肩はどこか固い。
胸に火を抱えたまま歩く日々が続き、体力の落ちた脚は重い。
それでも歩く。
止まれば追いつかれる――そんな予感が、ずっと背中に貼りついていた。
そして、その予感は外れなかった。
ふと、金之助の首筋に冷たいものが走った。
風ではない。
視線の重みとも違う。
もっと、生きた“気配”だ。
――つけられている。
金之助は歩みを一度だけ緩め、息を殺す。
背中の奥で何かが擦れるような音がした気がして、
彼はわずかに肩越しへ振り返った。
黒装束の影が、五つ。
街道の灰の靄の中から、じりじりと距離を詰めてくる。
目元を覆い、腰には刀。
足音を殺し、互いの間合いを測る動きは、野犬の群れに似ていた。
ただの賊ではない。
“仕事”で来た者の、冷えた練度がそこにある。
金之助の喉がひゅっと鳴った。
同時に懐の辰の珠が、微かな熱を増した。
まるで「来たぞ」と知らせるように。
「……鉄之介」
低く名を呼ぶ。
金之助が言い終えるより早く、鉄之介はうっすら笑って返した。
「わかってる」
鉄之介もまた、気配の違いを嗅ぎ取っていたのだ。
彼は肩の大槌をゆっくりと下ろし、地面へ斜めに立てる。
その仕草は軽い。
けれど目は遊んでいない。
獣じみた鋭さで、五つの影を真正面から捉えた。
忍びたちは無言のまま包囲を固める。
左右へ割れ、後ろへ回り、逃げ道を潰してくる。
その動きが静かすぎて、逆に恐ろしい。
やがて、一人が一歩前へ出た。
痩せぎすの体に、灰色の布が貼りついている。
声だけが、石を転がすように低かった。
「――珠を、よこせ」
短い命令。
交渉の余地など最初からない響きだった。
金之助の背中がぞくりと粟立つ。
やはり狙いは、懐の辰の珠。
こいつらは“辰”だの“器”だの、詳しい事情を知らされていない。
ただ命じられた通り、奪うために来た。
その命令だけが彼らの血肉になっている。
「……伊賀か」
金之助が絞り出すように呟くと、鉄之介が鼻を鳴らした。
「へっ。道理で物騒な臭ぇ風だと思ったぜ」
そして、わざと肩をすくめ、挑むように笑った。
「だがよ……何か知らねぇが、欲しけりゃ、力ずくで来やがれ」
その挑発に、忍びたちの間にわずかな揺れが走る。
感情を見せぬはずの暗殺者が、ほんの一瞬だけ苛立ちをのぞかせた。
前へ出ていた痩せぎすの忍びが、懐へ手を突っ込む。
指先が小刻みに震えている。
恐怖か、興奮か、あるいは――欲。
取り出されたのは、赤黒く鈍い光を宿した珠だった。
昼の灰色を吸い込んだような色。
それが掌の中で、濡れた心臓みたいに脈を打つ。
「力を……寄越せ……!」
忍びは血走った目で、珠を握りしめた。
瞬間――
大気が震えた。
珠が一気に脈動し、赤黒い光が忍びの腕を這い上がる。
まるで内側から血管ごと染めるように、光の筋が皮膚に浮き出た。
空気が重く沈み、地面の砂利がふるふると跳ねる。
周囲の木々が、風もないのにざわりと揺れた。
「……っ!」
金之助の胸の奥が焼けるように痛む。
懐の辰の珠が共鳴し、熱が一気に噴き上がったのだ。
視界がぐらりと歪み、呼吸が詰まる。
忍びが地を蹴った。
振り抜かれた一閃は、刃というより衝撃だった。
空気が裂け、地面が爆ぜ、砂利が弾丸みたいに飛び散る。
後方の大木が、真横に裂けて轟音を立てて倒れ伏した。
「な……っ!」
金之助は咄嗟に身を低くした。
遅れて頬を焼く衝撃が襲い、身体がびりびり震えた。
熱と恐怖で膝が崩れる。
「金之助!」
鉄之介が叫ぶ。
忍びは止まらない。
もう一度地を蹴り、鉄之介へ突進する。
刃が稲光のように走り、巨体の喉元を狙ってくる。
鉄之介は大槌を振り上げ、真正面から受けた。
ガァン!
衝撃が雷鳴のように迸り、地面に深い亀裂が走る。
鉄之介の腕がきしみ、肩が沈む。
巨漢の膝が土へめり込んだ。
「くそっ……力が桁違ぇ!」
叫ぶ暇もない。
忍びの斬撃は畳みかけるように続く。
一撃ごとに風が裂け、周囲の木々がなぎ倒され、砂塵が嵐のように舞った。
鉄之介は大槌で受け、弾き返し、踏ん張る。
だが重さが違う。
受けるたび骨の芯まで響き、腕が痺れ、じりじりと後退させられる。
金之助は立ち上がろうとするが、熱と震えで身体が言うことをきかない。
視界の端が暗くなり、胸の奥が掴まれたみたいに苦しい。
「……俺じゃ……止められない……」
忍びの口元が歪んだ。
珠の力に酔った笑みだ。
「俺は強い……力がみなぎる……!
斬り伏せてやる!」
刀が振り下ろされる。
鉄之介は大槌を構えたまま、動きを封じられつつあった。
一歩でも遅れれば、受けきれずに叩き割られる――
――絶体絶命。
その時だった。
忍びの身体が、ぎし、と不吉に軋んだ。
握りしめた珠がさらに脈動し、
その光が“器”を超えて、肉そのものを押し広げ始める。
皮膚の下に浮き出た血管が裂け、
赤黒い血が吹き出す。
骨が砕けるような音が、雨もないのにやけに湿って響いた。
「ぐ……あ……!?」
忍びが自分の腕を見下ろす。
遅れて、刀を握った腕が千切れるように崩れ落ちた。
「ぐあああああっ!」
狂気の咆哮。
次の瞬間、全身が内側から爆ぜた。
赤黒い紅の光が四散し、肉片と血が砂塵へ混じって散る。
残ったのは――
地面に転がり、なおも重苦しく脈動する珠だけ。
心臓の鼓動みたいな光を放ち、
鉄之介と金之助を睨みつけるかのように、異様な存在感でそこにあった。
金之助は荒い息のまま、その光を見つめる。
胸の辰の珠が、まだ熱く震えている。
――ただの追っ手ではない。
この珠は、そして忍びたちは、
もっと深い何かへ繋がっている。
そんな予感が、灰色の中山道の空気よりも重く、二人の間に落ちていた。
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赤黒い紅の光が四散し、肉片と砂塵が雨のない空へ舞ったあと――
街道に残ったのは、破裂した忍びの呻きの余韻だけだった。
伊賀の残る四人は、ほんの一瞬、動けなかった。
今まで無言で間合いを詰め、命令だけを遂行する“道具”だった彼らが、目の前で起きた出来事を理解できずに固まっている。
仲間が、珠の力で膨れ、裂け、爆ぜた。
それが「力の代償」だと知ってはいたはずだ。
だが――あれほどの暴走を、この場で目の当たりにするとは思っていなかった。
血と煙の奥、地面に転がる珠が、まだ脈打っている。
赤黒い鼓動は、まるで“次の器”を探す目のように四人へ向けられていた。
「……っ」
誰かが喉の奥で息を呑む音がした。
その瞬間、氷が割れるように彼らの緊張が崩れる。
「退け!」
短い号令。
だが声は、さっきまでの冷たさと違って掠れていた。
恐怖が、声に混じっている。
四人は一斉に跳ねた。
蜘蛛の子を散らすように、別々の方向へ弾ける。
足音が一つも重ならない。
互いを助ける余裕などなく、ただ“あの光から遠ざかること”だけが本能になっていた。
木の陰へ滑り込み、道端の斜面へ転がり、枝を折り、土を蹴り、黒装束は灰の靄の中へ溶けていく。
最後に一人が、振り返りざま、
珠と鉄之介たちを見た。
あの珠はまだ生きている。
そして今、誰にも制御できぬままここにある。
忍びは歯を食いしばり、何か呪いのような低い言葉を吐き捨てる。
「……化け物め……」
次の瞬間、その影も消えた。
街道には、血の匂いと灰と、重苦しい静寂だけが残る。
砂塵がゆっくりと落ち、吹き荒れていた風がひと息おさまると、街道には奇妙な静けさが戻ってきた。
倒れた木の葉がまだぱらぱらと揺れ、裂けた幹からは樹液が黒くにじむ。
さっきまで「戦い」の音で満ちていた場所が、嘘のように空っぽになっていた。
その中心に――
赤黒く脈動する珠が、一つ。
地面に転がっているだけなのに、
まるでそこだけ空気が別のものになっているようだった。
珠は呼吸をするかのように、暗い光を明滅させている。
弱く、強く、弱く、強く。
鼓動のたびに、周囲の砂利がかすかに震え、耳ではなく皮膚で「どくん」と感じる重い圧が伝わってくる。
金之助は思わず一歩下がった。
胸の奥が、熱い。
懐に収めた辰の珠が、まるで応えるように震え出していた。
違う珠が目の前にあるのに、なぜ。
理由は分からない。
ただ、胸の奥の火が、もう一段強く燃えた。
「……なんだよ、これ」
鉄之介の声は低く、いつもの軽さがない。
彼は大槌を肩から下ろし、慎重に歩み寄った。
怖がっているのではない。
だが、獣が初めて見る毒蛇へ近づくときのような――そんな“身体の緊張”が彼の歩き方に混じっていた。
鉄之介は膝を折り、珠へ手を伸ばす。
大きな指が、ためらいを挟まず触れた瞬間――
じゅっ。
火箸を素手で掴んだような灼熱が、掌から腕へ突き抜けた。
「ぐっ……あっつ……!」
鉄之介は反射で手を放した。
指先が痺れ、皮膚が熱で突っ張る。
だが珠の熱はそれで終わらない。
地面に落ちるはずの珠が、ふわりと宙へ浮かび上がった。
赤黒い光が一気に膨らみ、
鉄之介の胸元へ寄ってくる。
それは攻撃というより、“吸い寄せ”に近い動きだった。
まるで「ここに入れ」とでも言うように、珠が鉄之介の身体を選び、帰る場所を探しているかのように。
鉄之介の全身を、赤黒い光が包んだ。
皮膚の上を熱い風が滑り、
骨の奥へ何かが入り込もうとする感覚が走る。
ふっと、息が止まるほど心地よい吸い込みが一瞬だけ起きた。
水に沈むような、眠りへ落ちるような甘い感覚。
だが次の瞬間、鉄之介の背筋がぞわりと総毛立った。
――このまま体に入れたら、持っていかれる。
理屈じゃない。
戦場の匂いを嗅ぎ分けてきた獣の直感が、鉄之介の中で警鐘を鳴らした。
「やば……っ!」
鉄之介は咄嗟に大槌を前へ突き出した。
逃げるのではなく、
珠の行き先を“別の場所へ”無理やり向ける動き。
次の瞬間――
光の奔流が、槌頭へ叩きつけられた。
まるで激流が鉄を穿つように、赤黒い光が槌の中へ潜り込み、珠は黒鉄の塊へぐいとめり込んだ。
ドンッ!
地鳴りのような轟音。
衝撃波が街道の砂を跳ね上げ、
鉄之介の巨体さえ後ろへ弾き飛ばした。
「うおっ――!」
背中から地面を転がり、肩をしたたか打って息が詰まる。
それでも鉄之介は歯を食いしばり、肘を突いて起き上がろうとした。
「鉄之介!」
金之助が駆け寄り、慌てて抱き起こす。
熱と衝撃でまだ身体がふらつくのに、
金之助の動きには必死さがあった。
「だ、大丈夫か!」
鉄之介は胸を上下させ、顔をしかめたまま――なぜか笑った。
「ああ……平気だ。
だが、なんだこれは……?」
二人の視線が、同時に大槌へ吸い寄せられる。
槌が、変わっていた。
黒鉄の槌頭の中心に、赤黒い紅の珠が深く埋め込まれている。
それはただ嵌ったのではない。
鉄に“喰い込んだ”ように、
珠の輪郭が槌に溶け、半分同化していた。
埋め込まれた場所からは、亀裂が蜘蛛の巣のように走り、その割れ目から血みたいな光がじわじわ滲んでいる。
柄の木肌にも、異様な変化が起きていた。
さっきまでただの黒ずんだ柄だったのに、今は奇怪な紋様が浮かび上がっている。
蛇が絡むような、獣の牙のような、人の目には形容しがたい“生き物めいた線”。
そしてそれが――
呼吸するように、ゆっくり蠢いていた。
鉄之介は目を細め、
まだ痺れる手を伸ばし、柄を握った。
ずしり、とした重量は変わらない。
だがその握りに、どくんと鼓動が返ってくる。
槌そのものが、心臓を持ったみたいに。
「……俺の槌が……」
鉄之介の声が、半ば呆然と漏れる。
「獣みてえに唸ってやがる……!」
金之助は言葉を失った。
珠が人に宿る話は聞いていた。
だが、珠が“武器”に宿るその瞬間を、
目の前で見るのは初めてだった。
それが何を意味するのか。
この先、何を呼ぶのか。
――このとき、まだ誰も知る由もなかった。
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「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
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