十二輝の忍神 ーシノビガミ― 第一部

陵月夜白(りょうづきやしろ)

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39 心の奥底の声

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第六話 心の奥底の声

 加藤成弘は、立っていた。
本来なら腹を裂いて終わるはずだった命が、終わっていない。

 終わらせてもらえなかった――と言った方が正しい。
 腹の奥で、何かが脈打つ。

 どくん。
その鼓動は心臓ではない。

 “もうひとつの心臓”だ。
加藤はぎしりと歯を食いしばり、片手で腹を押さえた。

 塞がった傷口が、熱を吐くように疼く。

 ――声がする。

(……さみしい)
 女の声。
 老人の声。
 子供の声。

 座敷にいるはずのない声が、頭蓋の内側で擦れ合う。

(……もっと)
(……こっちへ)

 加藤の目の端で、黒い影が揺れた。
 灯明の届かぬ隅に、死人の顔が浮かぶ。

 加藤は、低く吐いた。
「……黙れ」

(黙れ?)
“丑”が、笑った気配がした。

 声ではない。皮膚の裏に触れてくる感触だけ。

(おまえは痛い。いい魂だ。苦しいな? 苦しいほど、甘い)

 加藤は一瞬、膝が軋むほど力を入れて踏みとどまった。

 苦痛は確かにある。
だが――
「……この程度の痛みで、俺が折れると思うな」

 その言葉が出た瞬間、
腹の奥の鼓動が、ひと拍だけ乱れた。

 丑が“噛み砕けない”と悟った反応だった。

(……硬い)
(……苦痛が、喰えぬ)

 丑が焦れる。
それが加藤には分かった。

 加藤の心に、冷たい笑いが生まれる。
「お前は俺を乗っ取ったつもりだろうが……違う。
 俺は、お前の器になったわけじゃない」

(器だ。おまえは――)

「器なら、壊れているはずだ。主君を斬った時点でな。
 だが俺はまだ立っている。
 つまり……俺は壊れていない」

 加藤の視線が、佐野政親へ向いた。
この場の全てを“仕込んだ”男へ。

 佐野政親は平然としている。
その背後で虎之進が静かに目を細め、虚舟は何も言わず、ただ見ていた。

 丑が、加藤の脳裏にささやく。

(ならば、壊せ。もっと痛めろ。
おまえ自身ではなく――外の魂で満たせ)

 加藤の眉がわずかに動く。
「……外の魂?」

(おまえは強すぎる。ならば“弱い魂”を寄せ集めろ。泣く魂。怯える魂。許しを乞う魂。それを喰わせろ。そうすれば力になる)

 加藤は、口の端を歪めた。
――なるほど。

 丑は加藤を支配できない。
だから外の苦痛を集めろと言う。
 それはつまり、丑自身が飢えているということ。

 加藤は、心の中で呟く。
「……なら、使える」

(……?)

「俺が壊れないなら、俺が壊す側に回るだけだ。
 お前の飢えは、俺の剣になる」

 腹の奥が、ぞくりと喜んだ。
丑が“餌を得る”喜びではない。
 加藤が“殺しを正当化できる”喜びに、丑が引きずられた。

 加藤の指が、刀の柄を握り直した。

 そして――
 踏み込んだ。

 床が鳴った。
加藤の踏み込みは、静かではない。
 地を叩き割るように重い。
示現流の踏み込みは、戦いの合図ではなく――“終わり”を告げる衝撃だ。

 加藤の刀が、佐野政親の首筋へ走る。

 速い。
 速いというより――短い。
 距離が消える。

 佐野政親は動かない。
動かぬまま、ただ口元だけをわずかに上げた。

 ――がきんッ!!
刀が弾けた。

 加藤の刃を受けたのは、虎之進の刀だった。
 斜めに入り、佐野政親の前へ滑り込む。

 受けた瞬間、虎之進の足元の畳が沈み、灯明が大きく揺れる。

 虎之進の腕が、びり、と震えた。
「……っ」

 虎之進はすぐに間合いをずらし、刃を流す。
 だが受けた衝撃が、まだ掌の奥に残っていた。

 虎之進は刀を握り直し、低く言った。
「……さすが示現流。
 ……手が痺れる」

 加藤の刃は、一撃で終わらない。
 次の踏み込みが来る。
虎之進は肩を落とし、二撃目に備える。

 しかし、加藤の目が――一瞬だけ揺れた。
 揺れたのは迷いではない。
頭の奥の“声”が、さらに増えたのだ。

(殺せ)
(送れ)
(もっと)

 加藤の刀がわずかに遅れた。
その僅かな“隙”を、虎之進は見逃さない。
 虎之進の刃が逆に加藤の喉へ伸びかけた――

 が、虎之進は止めた。
止められたのではない。止めた。
 虎之進の背筋が、冷えた。
加藤の目が、虎之進ではなく――虎之進の背後を見ていたからだ。

 虎之進が気づく。
佐野政親が、もうその場にいない。

 音がしない。
 足音がない。
気配だけが、座敷の隅へ移っている。

 虎之進が息を呑む。
虚舟の姿も、消えていた。

 灯明の影の中で、
佐野政親は座敷の障子際に立っていた。

 虚舟が、佐野政親の背後にいる。
まるで最初からそこにいたように自然に。

 佐野政親は、虎之進と加藤を一瞥し、淡々と言う。
「……よい。
 加藤は、想像以上だな」

 虚舟はゆっくり首を傾け、声を落とす。
「……器が強すぎる。
 丑が喰いきれぬ。
 しかし――喰えぬなら、外で喰わせればよい」

 佐野政親の目が、ほんの僅かに細くなる。
「……城内が、餌場になる」

 虚舟は笑わない。
ただ静かに、意味ありげに言った。
「……亡霊は、仲間を欲しがる」

 次の瞬間。
障子の影が、ふっと薄くなり、佐野政親と虚舟の気配が霧のように抜け落ちた。

 虎之進が舌打ちする。
「……消えた」

 その声を聞きながら、加藤は刀を握ったまま、立ち尽くしている。

 加藤の耳に、声が囁く。
(餌……)
(城……)
(送れ……)

 加藤の唇が、ぎしりと動く。
「……ああ」

 その返事は、加藤のものか、丑のものか、もう誰にも分からない。

 加藤は、ふらりと一歩踏み出した。
 さっきまで佐野政親を斬るための一歩だった。
 だが今は違う。
刀の切っ先が、座敷に残る家臣たちへ向く。

 家臣たちは固まる。
喉が鳴る音だけが座敷に落ちた。

 加藤の腹の奥が、甘く鳴った。
 どくん。
 どくん。

 その鼓動が、畳の下を這い、
座敷全体へ広がっていく感覚。
 “魂の匂い”を嗅ぐように、丑の珠が城内へ手を伸ばし始めた。

 加藤の視界の隅に、亡霊が増える。
 廊下の先。
 柱の影。
 障子の向こう。

 気配だけが、ぞろぞろと集まってくる。
(さみしい)
(もっとこっちへ)
(もっと……)

 加藤は、刀を持ち上げた。
そして、低く言う。
「……送ってやる」

 その言葉と同時に、城のどこかで――女の悲鳴が上がった。
 加藤の大虐殺は、まだ始まっていない。
 だが、城はすでに“喰われ始めて”いた。

 廊下の板が、きし、と鳴った。
加藤成弘は歩いている。
 走らない。
 急がない。
 息も乱れていない。

 刀の刃先だけが、畳と板の境目で鈍く揺れ、灯の影を裂く。

 城内は静かだった。
人の気配はある。
閉ざされた障子の向こうに。
曲がり角の先に。
 恐れが溜まり、誰も声を出せずにいる。

 加藤は足を止め、耳を澄ました。
 ――泣き声。
 小さい。

 堪えようとして堪えきれない音。
 刀が、すっと上がる。
加藤が障子を開けた。

 そこに女中がいた。
膝をつき、手を合わせ、顔を伏せている。
 肩が震え、涙が床に落ちている。

「……お願いです……」
 声が掠れる。

 加藤を見上げることもできない。
 加藤は一瞬だけ、目を細めた。
 しかし、それは迷いではない。
視線を合わせる価値があるかを測っただけだった。

 刀が振り下ろされる。
 音は短い。
 刃が肉を断つ音も、骨を割る音も、いちいち強調されない。

 ただ、身体が崩れる。
 女中の首が、畳に落ちた。

 次の瞬間。
加藤は見た。
首の断面から“何か”が抜けた。

 煙ではない。
 光でもない。

 薄い、薄い影のようなものが、ふわりと立ち上がり――
 刀の鍔元へ吸い込まれていった。

 吸い込まれるとき、女中の顔から、最後の表情が消える。

 恐怖も、痛みも、涙も、
全部ひき剥がされて空っぽになり、ただの肉になった。

 加藤の腹の奥で、鼓動が鳴った。

 どくん。
 どくん。
丑の珠が、喉を鳴らしたように満ちる。

(……いい)
 声は静かだ。

 さっきまでの焦れた叫びではない。
 味わう声。

 そのかわり、別の声が増えた。
(さみしい)
(もっと)
(こっちへ)

 女中の魂は、完全に消えない。
“吸われた”あとに残ったものが、廊下の暗がりへ溶け、影の列に加わっていく。

 加藤は、その影を見ようとしない。
 もう見る必要がないからだ。
次へ行く。廊下を進む。角を曲がる。

 家臣が二人、槍を持って立っていた。
 逃げられない。逃げない。

 それが武士の最後の形だとでも信じている。
「加藤殿……っ」

 一人が声を震わせる。
もう一人は歯を噛みしめ、槍の穂先を上げた。

 加藤は、刀を下げたまま歩いた。

 家臣が叫ぶ。
「正気に戻れ! 殿はもう――」

 言葉が終わる前に、
加藤の踏み込みが床板を沈めた。
 示現流の一撃は、突きではない。
 斬撃でもない。
 ただ――衝突だ。

 ぶん、と空気が割れる音だけがして、
 槍の柄が折れ、家臣の肩から胸までが裂けた。

 血が飛ぶ。
しかし次の瞬間、飛び散るはずの“何か”が、逆に吸われた。

 傷口から抜け出した魂が、蛇のように引きずられ、加藤の刀へ吸い込まれる。

 家臣の目が、空を見る。
何かを言おうと口が動くが、声が出ない。
 魂が抜けた喉は、ただ空気を飲むだけだった。

 もう一人が槍を突き出す。
加藤は避けない。
 槍の穂先が加藤の肩をかすめ、
布が裂け、血が一筋走る。

 それでも加藤は止まらない。
刀が横に払われ、槍を持つ腕が切り飛んだ。

 腕は床に落ち、
 転がる。
 家臣が悲鳴を上げる。
 悲鳴が、途中で途切れた。

 丑の珠が吸ったのは魂だけではない。
 声を、感情を、痛みを、“生きている証”を吸い取ってしまう。

 家臣は口を開いたまま倒れ、無音のまま死んだ。

 加藤の腹の奥が、熱で膨らむ。
 どくん。

(……もっと)
亡霊の声は、今や背後で群れになっていた。

 廊下の左右。
 天井の梁。
 障子の紙の裏側。

 いたるところで、見えない手が伸びる。

(さみしい)
(もっとこっちへ)
(もっと……)

 加藤は、ゆっくり口を開いた。
「……分かっている」

 誰に言った言葉かは分からない。
 亡霊にか。
 丑にか。
 それとも、自分にか。

 加藤は次の部屋を開けた。
そこには若い小姓がいた。
 まだ子供だ。
髪を短く結い、刀も持てず、ただ震えている。

 小姓は、加藤を見て泣き出した。
「……たすけてください……っ」

 加藤の眉が、ほんの僅かに動く。
 その動きは、哀れみではない。
“これは必要か”という計算だ。

 丑の珠が囁く。
(泣く魂は甘い)
(おまえの魂では喰えぬぶん、こういうのを――)

 加藤は静かに言った。
「……そうか」

 刀が上がる。
小姓が両手で顔を覆う。

 斬る。
 音は軽い。
 肉の抵抗が小さいからだ。

 小姓の身体は崩れ、血が広がり、そして魂が吸われる。
 吸われた瞬間、小姓の恐怖が、加藤の腹の奥に流れ込む。

 その感触は、熱い。
 甘い。
 吐き気がするほど濃厚だ。
 
 加藤の喉が、ひゅ、と鳴った。
――快楽に似ている。
 加藤は、その瞬間だけ自分の中に生まれたものを理解した。

 これはもう、必要だからではない。
 “満たすため”だ。
 丑の珠が、ゆっくり笑った。

(……いい)
(やっと分かったか)
(送れ)
(もっと送れ)

 加藤は廊下に出る。
城内のあちこちで足音がする。
 逃げる音。
 隠れる音。
 祈る音。
それらが全部、加藤にとっては“餌の気配”に変わっていく。

 加藤は、淡々と歩く。
 扉を開ける。
 斬る。
 吸う。
 斬る。
 吸う。

 魂が集まるほど、
刀の重みが増した。
 重いのに、速い。
示現流の踏み込みは、もはや剣技ではない。
 城そのものを踏み砕く獣の足だ。

 斬った者の魂は、
吸われたあと、影として残る。
 影が増える。
廊下の暗がりが濃くなる。
 灯明の火が青くなる。
障子の紙が、内側から黒ずんでいく。

 亡霊の声は、だんだん揃っていく。

(さみしい)
(もっと)
(もっとこっちへ)

 加藤はその声を聞きながら、
もう眉ひとつ動かさない。

 ただ、刀を振る。
 畳に血が染みる。
 血の匂いが濃くなる。

 そしてそれ以上に、
魂が“溜まっていく”匂いが濃くなる。
 加藤の腹の奥で、丑が満ちていく。

 どくん。
 どくん。

 鼓動が太くなる。
ひとつだった心臓が、ふたつ、みっつと増えるみたいに、身体の内側が膨らんでいく。

 加藤の目が、少しだけ虚ろになる。
 しかし、完全には染まらない。
染まらないからこそ、加藤は自分の意思で殺す。

 それが丑にとって一番うまい。
(……もっと)
(もっと送れ)
(おまえが送るほど、力になる)

 加藤は、城の奥へ進んでいく。
最後に残っていた老臣が、座敷で震えていた。

 加藤が開けると、老臣は泣き笑いの顔で言った。
「……加藤殿……わしらは……」

 言葉が終わる前に、
加藤は斬った。
 老臣は倒れ、魂は吸われ、声は消えた。

 そして――
城は静かになった。
 風の音だけが戻る。
灯明の火が一つずつ消えていく。

 加藤は血に濡れた廊下を歩き、広間へ出た。
 そこに、もう人はいない。
 だが、影はいる。

 廊下の左右、柱の陰、天井の梁、城内の至るところに“見えない群れ”がうごめいている。

 亡霊たちが、加藤を迎える。
(さみしい)
(もっと)
(もっとこっちへ)

 加藤は、静かに笑った。
笑ったのは加藤か、丑か。
 それももう、分からない。
ただひとつ確かなのは――

 加藤成弘は、城を屍に変えた。
そしてその屍の中で、丑の珠は満足そうに脈打っていた。

 どくん。
 どくん。
まるで、次の“仲間”を呼ぶ心臓のように。
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