十二輝の忍神 ーシノビガミ― 第一部

陵月夜白(りょうづきやしろ)

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38 乱心の殿様

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第五話 乱心の殿様

 奥座敷へ駆け込む足音が、畳を叩いた。
 襖が勢いよく開き、灯明の火が揺れる。

 その揺れに呼応するように、空気がざらりと変わった。

「殿ッ――!」
先頭で踏み込んだ加藤成弘は、座敷の中央で立ち尽くした。

 その後ろに家臣が数名、息を切らして入ってくる。

 ――しかし。
そこには“何か”がいた気配が、一切ない。

 障子は閉じたまま。
床の間も、柱も、灯明も。

 ただ、火だけが不自然に静かで、部屋だけが冷えていた。

 加藤は目を走らせる。
 
 刺客の気配。
 術者の気配。
 侵入者の気配。

 ない。
なのに――殿だけが、壊れている。

 松平武寛は畳に爪を立て、目を見開いたままぶつぶつと唱えていた。

「……なむ……なむ……なむ……」
「……神が……神が……」
「……怒っている……怒っている……」

 加藤は一歩踏み込み、声を張る。
「殿! 気を確かに!」

「落ち着いてください!」

 武寛は、ぎょろりと顔だけを向けた。
 焦点が合っていない目が、加藤を刺す。
「うるさい、うるさい!」

「加藤! 貴様、儂に逆らう気か!」

「逆らうなど、とんでもございませぬ!」
加藤はすぐに膝を折る。

 だが、視線は逸らさない。
「殿。どうか……どうか、落ち着いて。 ここは安全でございます」

 家臣の一人が、恐る恐る続ける。
「殿……どうか、お休みくださいませ」
「外は騒がしく、風も強うございます。お身体に障ります」

 別の家臣は、もっと直接的だった。
「殿、何者かが忍び入った形跡はございませぬ」

「幻を見られたのでございましょう。どうか――」
 その言葉が終わる前に、武寛が畳を叩いた。

「幻ではない!」
「神が来たのだ!」
「神が儂に告げたのだ!」

 家臣たちの肩が跳ねた。
加藤だけが、静かに息を吸う。
「殿……神が、何を……」

 武寛の口が歪む。
笑っているのか、泣いているのか分からない。
「捧げよと申された」
「怒りを鎮めよと申された」
「生贄を寄越せと――!」

 座敷の空気が、一気に冷えた。
家臣の一人が青ざめ、声を震わせる。
「ひ、ひと……生贄とは……殿、それは……」

「領民だ!」
武寛が叫ぶ。
「領民を連れて来い!」
「女子供も例外なし!」
「全て連れて来い!」
「神に捧げねば、手遅れになるではないか!」

「殿!!」
家臣の中でも、年嵩の者が踏み出す。
 忠義の顔をしているが、その目には恐怖も滲んでいる。

「殿。どうか、そんな御冗談をおやめください」
「領民は、この灰と飢えで既に死にかけております。
今それを殺せば、藩は――」

 武寛の首がぎくりと動いた。
「藩?
藩などどうでもよい!」

「儂が生きねば意味がない!
儂が死ねば、藩など終わりだ!」

 家臣たちの顔が引きつる。
誰も反論できない。
 出来ないのに、止めねばならない。

 加藤が低く言う。
「殿。……お願いでございます。
殿は館林の主。
領民を守らねばならぬお立場にございます」

 武寛の目が細まり、口元が歪んだ。
「守る?
守るために捧げるのだ!」

「加藤、お前も分からぬか!
捧げねば、神は怒り続ける!」

「黒屍人は増え続ける!
噴火はさらに大きくなる!」

「皆が儂を殺しに来る!」
 武寛の声が高くなる。

 息が荒くなる。
身体が震える。
 家臣の一人が、殿を宥めようと笑顔を作った。

「殿……殿、まずは湯を……
お薬をお持ちいたしましょう。落ち着けば、きっと――」

「湯だと?」
武寛の声が鋭くなる。
「湯で神の怒りが鎮まるか!」

「愚か者め!」
「お前も神の使いか!」

 家臣が固まった。
その瞬間、武寛の視線が加藤へ戻る。

「加藤」
武寛は、甘えるような声を出した。
 さっきの怒鳴り声とは別人の声。

「加藤は……儂を守るであろう?」

「離れるな。離れれば、儂は死ぬ」

 加藤は胸が締め付けられる。
殿は弱い。
 臆病で、身勝手で、しかし――主君だ。

 だからこそ、加藤は言葉を選ぶ。
「殿。……私は殿を守ります。
ですが、そのためにも……領民を――」

「黙れ!!」
武寛が叫ぶ。

 そして畳に手をつき、身体を前へ傾け、唸るように念仏を吐き出した。

「……なむ……なむ……なむ……」
「……捧げよ……捧げよ……」
「……血を……血を……」

 家臣が顔を見合わせる。
誰もが、同じことを思っていた。

 ――殿が、完全におかしくなっている。
 しかし、それを口にした瞬間、首が飛ぶ。

 加藤はその視線を受け止めるように立ち上がり、殿へ近づいた。

「殿」
加藤の声が静かになる。
「今夜は……何もなさらないでください」

「領民を集めるなど……明日、私が状況を見てから」

 武寛の目が、ゆっくりと細くなる。
「明日?
明日まで生きていられると思うか?」

「神は待たぬぞ」

「黒屍人は待たぬぞ」

 武寛は、震える指で家臣を指差した。
「お前!
今すぐだ!」

「領民を連れて来い!
命令だ!」

 指差された家臣が青ざめる。
「殿……私は……」

「行け!!」
「行かぬなら斬る!」
「お前も生贄だ!」

 家臣の膝が崩れ、畳に額がつく。
「お許しを……!
殿……どうか……どうか……!」

 加藤の拳が、震えた。
歯が鳴るほど唇を噛む。

 止めたい。
止めねばならぬ。
 しかし、刀を抜けば――それは“逆臣”だ。

 殿はさらに叫ぶ。
「加藤!」
「お前が斬れ!」
「従わぬ者を斬れ!」
「神に捧げよ!」

 加藤の目が揺れる。
「殿……それは……!」

「命令だ!!」
 
 座敷の灯明が、また揺れた。
その揺れの中で、加藤は気づく。

 この狂気は、殿の内側から自然に湧いたものではない。
 何かが……殿の中に“入った”。
だが、それを言うことも出来ない。確かめる暇もない。

 ただ――
ここで止めねば、領民が殺される。

 加藤は、ゆっくりと鞘に手を添えた。
 家臣たちが息を呑む。

 武寛の笑みが、畳の上で歪んでいた。
「そうだ……それでよい……」
「加藤……儂のために……」

 命令されるたびに、加藤の胸の奥が削られていく。

 忠義とは何だ。
 主君とは何だ。

 守るとは、従うことなのか。
それとも――止めることなのか。

 座敷の隅で、家臣が震えながら俯いている。
 指差され、今にも「領民を連れて来い」と命じられた者たち。
 彼らの恐怖は、殿の恐怖に飲まれている。

「殿……」
加藤は、声を絞った。

 あまりにも静かな声だったから、逆に座敷の空気が硬くなる。
「殿。どうか――」

「黙れ!」
武寛の叫びは、雷鳴のように響いた。

 怒りと恐れが混ざった声。
「お前も神の使いか!」
「儂を殺すつもりか!」
「儂を見捨てるのか!」

 武寛の目は血走り、涙が浮かんでいる。
 だがその涙の理由は、領民でも藩でもない。

 自分が殺される恐怖。
 自分が見捨てられる恐怖。

 武寛は畳を這うように立ち上がり、家臣のひとりへふらついて歩いた。

「お前だ」
「お前が先に捧げろ」
「そうすれば神は――」

「殿ッ!」
家臣が叫び、後ずさる。

 腰が抜けた女中がその背後で呻いた。
 武寛の手が伸びる。掴む。
引き寄せる。

 刃もない手で、首を捻じ切るような勢いで。

 加藤の身体が勝手に動いた。
「殿、やめてください!」
 腕を掴む。

 武寛の細い腕を、武士の力で止める。

 その瞬間――
武寛の顔が、子供のように歪んだ。

「……離すな……」
「加藤……儂を、離すな……」
 泣き声みたいな声。

 それが一瞬、加藤の心を揺らした。
 だが次の瞬間、殿の表情が豹変する。

「――無礼者!!」
武寛は加藤の腕を振り払おうとし、足元の短刀を掴んだ。

 ――誰が置いたのか分からぬ。
いつの間にか、そこにあった。
 ぎらりと光る刃。

 武寛は振り上げた。
「儂に触れるな!!」
「逆らう者は、斬る!!」

 家臣たちが凍りつく。
武寛は――加藤に斬りかかろうとしている。

 加藤の中で、何かが“ぷつり”と切れた。
 守るべき主君が、守る者を斬ろうとしている。

 その瞬間、忠義の形が崩れた。
「殿……」

 加藤は、手を離した。
わずかに距離を取る。
 武寛が短刀を構えたまま、ふらふらと近づいてくる。

 口は念仏を吐き続けている。
「……なむ……なむ……」
「……血を……」
「……捧げよ……」

 加藤は、鞘に添えていた手をゆっくり握った。

 鞘が鳴る。
家臣が息を呑む。

「加藤殿……!」
誰かが止めようとする声。

 だがその声は、畳に落ちて消えた。
 加藤の中で、二つの声がぶつかり合う。

 斬るな。
 主君だ。
 斬れ。
 主君は、もう主君ではない。

 加藤は、刀を抜いた。
静かな抜き音だった。
 その静けさが、座敷の空気を引き裂いた。

 武寛が笑った。
「おお……やはり……」
「加藤……儂を守るのだな……」

 加藤の喉が詰まる。
「……殿」

 その一言は、祈りだった。
忠義でもなく、怒りでもなく。
 ただ、これ以上壊れないでくれという祈り。

 武寛が短刀を振り上げる。
「死ねぇぇぇ!!」

 加藤は――動いた。速かった。
示現流の一撃は、踏み込みと同時に終わる。

 迷いが残っているほど、速く終わらせねばならない。

 刀が走る。
 刃が、武寛の胸元へ吸い込まれる。
ぐ、と鈍い音。
 武寛の顔から、叫びが抜け落ちた。

「……え……?」
 短刀が、畳へ落ちた。

 武寛は膝から崩れ、
加藤の刀を見下ろし、ようやく加藤を見上げた。

 目が、急に澄んだ。
狂気の膜が一瞬だけ剥がれたように。

「……加藤……?」
そこにあったのは、主君としての威厳でも、殿としての振る舞いでもなく。
 ただ、弱い男の目だった。

「……なぜ……」

 加藤の唇が震える。
「殿……お許しを……」

 武寛は何か言おうとした。
だが血が喉を塞いだ。

 小さく息を吐いて――
武寛の身体から力が抜けた。

 畳に血が広がる。
灯明の火が揺れ、赤が影になる。

 座敷は、声を失った。
家臣たちが、膝をついたまま固まっている。

 誰も泣けない。
 誰も叫べない。

 加藤だけが、刀を握ったまま立っていた。

 ――斬った。
 自分が。
 主君を。
 守るために。
 止めるために。

 それが“守る”だったのか。
それともただの――裏切りだったのか。

 加藤の指先から、力が抜け始める。
 刀が震え、血が滴る。

 ぽたり。
 ぽたり。

 畳の血に、さらに血が落ちる。
加藤の頭の中に、何かが響き始めた。

 念仏ではない。
 殿の叫びでもない。
 静かな声。

 ――お前は、主を斬った。
 ――武士ではない。
 ――お前は、何者だ。

 加藤は歯を食いしばり、首を振った。

「……違う……」
言葉が、声にならない。

 家臣のひとりが、震える声で言う。
「加藤殿……」

「殿は……殿は、どうして……」

 加藤は答えられない。
答えた瞬間、自分が崩れる。

 そのとき――
座敷の外から、足音が聞こえた。

 ひとつ。
 ふたつ。

 だがそれは、家臣の慌ただしい足音ではない。
 静かで、迷いがない。
まるでこの場に来ることを最初から知っていた足音。

 襖が、すっと開いた。
そこに立っていたのは、黒装束でもなく、鎧でもなく、ただ、品のある装いの男。

 佐野だった。
その背後に左門。
 さらに少し距離を置き、虎之進の影が立つ。

 佐野は座敷の血と死体を見て驚かない。
 眉ひとつ動かさない。

 まるで――「予定通りだ」とでも言うように。

「……間に合ったな」
佐野の声が、畳に落ちる。

 加藤は、息を呑んだ。
刀を握ったまま、佐野を睨む。
「貴様……何者だ」

 佐野は微笑んだ。
そして、袖の内から――
小さな珠を取り出した。

 闇の中で、淡く光る。
鈍い金のような色。
 しかしその光は、どこか冷たい。

「加藤成弘」
佐野が名を呼ぶ。

 その呼び方が、まるで最初から知っていたように滑らかだった。

「主君を斬ったな」

「武士の本分を……失ったな」
佐野の言葉が、畳の血を撫でた。

 加藤成弘は――その瞬間、顔色を変えなかった。
 変えられなかった。
胸の中で何かが崩れ落ち、音もなく底へ沈んでいく。

 刀を握った指先が、白くなる。
だが次に動いたのは、その刀ではない。

 加藤は、左手で自分の着物の袂を広げた。

 ――躊躇がない。
武士ならば、こうする。

 逃げ場がないなら、こうする。
名を汚す前に、こうする。
 加藤は腰の脇差へ手をかけ、すっと抜いた。

 刃が灯明の光を拾い、短く光る。
そして、その場で正座に落ちた。

 血と死体の横。
主君の亡骸の前。
 膝を揃え、背筋を伸ばし、脇差を両手で膝に置く。

 その動きは、武寛を斬ったときの速さとは違う。
静かで、無駄がなく、“最後の作法”そのものだった。

 家臣たちが息を呑んだ。
「加藤殿……!」

 誰かが止めようと半歩踏み出し――
 だが、加藤の目が一瞬だけ鋭く光り、足が止まった。

 それだけで、誰も近づけない。
加藤は、襟元を正し、袂をさらに大きく開き、腹へ刃を当てる位置を確かめる。

 刃が、布越しに腹へ触れた瞬間、加藤はようやく息を吐いた。

「……武士の本分を失ったのではない」
声は小さい。

 だが、一語一語が重い。
「……武士の本分を、守れなかったのだ」

 佐野は黙って見ている。
止める気配がない。
 まるで、これもまた盤面のひとつの駒の動きだと言わんばかりに。

 加藤は目を閉じた。
主君を斬った瞬間の、澄んだ目を思い出す。

 狂気が剥がれた一瞬。
あれが、殿の最後の“正気”だったのか。

 それとも――ただの錯覚だったのか。
どちらでもいい。
 自分がやったことは変わらない。

 加藤は刃先に力を込めようとした。

 そのとき。
「……見事だ」

 佐野が、ぽつりと言った。
加藤の手が、わずかに止まった。

 佐野はさらに続ける。
「逃げない」
「言い訳をしない」
「腹を切って終わらせる」

 言葉は称賛だ。
だが温かさはない。
 冷たく、淡々と、
まるで刀の切っ先で撫でるような言い方。

「加藤成弘。
貴様は、武士であることを最後まで選ぶのだな」

 加藤の歯が噛み合う。
「……当たり前だ」

 刃が、腹へ食い込む寸前――

「だが」
佐野の声が、急に低くなった。
「その死は、誰のためだ」

 加藤の眉が寄る。
「……それも、当たり前だ」

「違う」
佐野は静かに否定した。
「貴様の死は、貴様のためだ」

「それは――逃げだ」
その一言が、座敷を刺した。

 加藤の手が止まる。
息が詰まる。

 逃げ――?
 自分が?
 この状況で?
 腹を切ることが?

 加藤の中で、怒りが一瞬燃え上がる。
 だが、その怒りが“正しい怒り”でないことを本人が知っている。

 佐野は言葉を重ねる。
「主君を斬った。
その罪を背負う覚悟があるなら、死んではならぬ」

 加藤の喉が鳴る。
「……何を言う」

 佐野は、笑った。
「死ねば終わる」

「腹を切れば、武士の形は保てる」

「だが、貴様が死ねば――この藩の惨状は誰が背負う」

「武寛が狂った理由も、誰が知る。誰が止める。誰が、責を取る」

 加藤の腹に当てた刃が、微かに震えた。

 責を取る――
その言葉だけが、腹の奥へ落ちていく。

 佐野はさらに続ける。
「貴様は武士だ。
ならば、死ではなく“戦い”で責を果たせ」

 加藤の目が、ゆっくり開く。
「……戦い?」

 佐野は袖の内の珠を、もう一度掲げた。

 丑の珠。
 
 鈍い光。

 しかし、その光は座敷の血を吸うように深く揺らぐ。

「丑の珠だ」

「最も器を選ばぬ。
最も多くの命を吸ってきた」

「そして――最も、人を地獄へ落とす珠」

 加藤の視線が、珠へ吸い寄せられる。
 だが、縋るような目ではない。

 警戒だ。
 敵意だ。
こんなものに頼ってたまるか、という目。

 佐野は、その目を見て満足そうに口角を上げた。

「そうだ。
貴様は、そうでなくてはならぬ」

 佐野は一歩、畳を踏んだ。
「腹を切るな」
「死ぬな」
「武士であるなら――生きて地獄を背負え」

 その残酷さに、加藤は歯を食いしばった。
 畳の上に落ちた血の匂いが、まだ湿っている。

 主君の死体を前にして、家臣たちは誰も動けない。
 声を出せば崩れる。息をすれば罪が増す。

 そんな顔で、ただ立ち尽くしていた。
 加藤は、脇差を握り直す。
刀身が灯明の光を受け、冷たく白い。

 佐野は、その場を支配するように立っている。
 背後にいる虎之進は一言も発さない。
 だが、その目だけが加藤の手元と呼吸を追い、――次の一手を測っていた。

 虚舟もまた、黙っている。
表情は動かぬ。
 ただ、僅かに伏せた瞳が、畳の上の“丑の珠”だけを見ていた。

 加藤は、刀を腹へ当てた。
武士は、生き方ではない。死に方だ。

「……武士は」
声が掠れる。

 それでも背筋は、折れない。
「……死に様で、己を証す」

 ずぶり。
刃が腹へ食い込んだ。
 痛みが熱になり、視界が白く散る。

 歯が軋み、喉が震える。
家臣のひとりが、反射的に一歩退いた。
 だが誰も助けない。助けられない。

 いまここで加藤に触れることは、
 この男の武士としての最後を汚すのと同じだからだ。

 加藤は、刃を横へ引こうとした。
 ――その瞬間。
畳の上に置かれた丑の珠が、かちり、と鳴った。

 音ではない。
空気の鳴りだ。
座敷の温度が一段落ちる。

 虎之進の眉が、ほんの僅かに動いた。
 虚舟は変わらない。
変わらないことが、むしろ不気味だった。

 丑の珠の光が、鈍く強まる。
ぬらり、と艶を帯び、まるで血の匂いに反応する獣の眼のように、加藤を見た。

 佐野は口を開かない。
ただ、ほんのわずかに顎を引く。

 “始まった”という合図みたいに。
珠が、転がった。
 誰も触れていない。
なのに、供物が自ら祭壇から降りてくる。

 加藤の腹へ。
腹に刺さった刃へ。
 そして、その刃の向こうにある――魂へ。

 加藤の喉が詰まった。
「……来るな……!」
 声が、最後まで出ない。

 空気が喉を塞ぐ。
息が薄くなる。
 丑の珠が、加藤の裂けた腹に触れた瞬間、そこから“何か”が吸い上げられた。

 血ではない。
 肉でもない。
 もっと深い。

 ――苦痛だ。
 ――決意だ。
 ――武士の矜持だ。

 加藤が腹を裂いて捻り出した魂の痛みを、丑の珠が、蜜を啜るように吸う。

 加藤の瞳が見開かれる。
痛みが増すのではない。
痛みが奪われていく。
 奪われていくことが、恐ろしい。

 家臣のひとりが、小さく喉を鳴らした。
 吐き気を飲み込んだ音だ。
誰も声を上げない。

 ただ、座敷の全員が“見てしまった”という顔で固まっている。
 加藤は刃を抜こうとした。
 さらに深く刺し込んで、今度こそ終わらせるために。

 ――だが。
腕が動かない。
 刃を握る指が、硬直する。
他人の手のように、命令を拒んだ。

 加藤の口が、勝手に開く。
「……っ、ぐ……」

 そこから漏れたのは、声ではなく息だった。

 丑の珠の光が強まる。
光の筋が、腹の裂け目から潜り込む。

 肉の隙間ではない。
魂の隙間を探るように。
 加藤の身体がびくりと跳ねた。
畳へ落ちるはずの血が、宙で止まる。
 裂け目が光に縫われていく。

 加藤の顔が歪む。
「……やめろ……!」

 怒りではない。
恐れだ。
武士としての最期すら奪われる恐れ。

 虚舟の口元が、ほんの僅かに動いた。
 笑みでも嘲りでもない。
ただ、確信の形に唇が緩んだだけ。

 佐野が、低い声で言った。
「……よい」

 勝ち誇るでもなく、淡々と。
「やはり丑は、こうでなくてはならぬ」

 虎之進の目が、加藤の腹から丑の珠へ移る。
 その瞳の奥で、何かが冷たく整っていく。

 ――これが“器”の成り果てか。
そんな感情を隠すように、瞼がわずかに細くなった。

 加藤は佐野を睨んだ。
睨んだつもりだった。
だが視界が滲む。
 灯明の輪郭の向こうに、黒いものが立ち上がる。

 座敷の隅。
 柱の影。

 光の届かぬ暗がりに――
人が立っている。
 いや、人ではない。
白い顔。
裂けた口。
骨の浮いた指。

 それが一体。
次に二体。

 増える。増える。
数える間もなく、座敷の暗がりを埋め尽くした。

 家臣のひとりが、声にならない呻きを漏らした。
 目を逸らしたいのに逸らせない。

 恐怖が肩を縫い付ける。
加藤の耳の奥に、声が響く。

 ――さみしい。
 ――もっとこっちへ。
 ――もっと、送れ。

 加藤の唇が震えた。
「……何だ……これは……」

 その声の最後が、別の音に塗り潰される。
 “加藤の声”ではない。
もっと低く、もっと飢えた声が、同じ喉から漏れた。

「……さみしい……」

 加藤が言ったのではない。
加藤の中に入った“何か”が言った。

 腹に刺さった刃が、ゆっくり抜け落ちる。
 血はほとんど流れない。
代わりに、裂けた腹の内側が――
丑の光で、ぬらぬらと濡れていた。

 加藤成弘は、震えながら立ち上がった。
 武士として死ぬはずだった身体が、死を拒んで立っている。

 加藤の唇が、かすかに動く。
「……俺は……まだ……」

 言葉が続かない。
腹の奥で、丑が鼓動した。

 どくん。
 どくん。
そのたびに、座敷の暗がりの亡霊が、嬉しそうに身を寄せ合う。

 ――もっと。
 ――もっと。
加藤の視線が、家臣たちへ滑った。

 家臣たちは、息を止めた。
誰も動けない。
誰も逃げられない。

 佐野の口角が、静かに上がった。

 虚舟はただ、“芽吹いた”という目で、そこを見ていた。
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「影武者が、本物を超えてしまった——」 百姓の男が“信長”を演じ続けた。 やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。 貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。 戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。 炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。 家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。 偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。 「俺が、信長だ」 虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。 時は戦国。 貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。 そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。 その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。 歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。 (このドラマは史実を基にしたフィクションです)

【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】 文化文政の江戸・深川。 人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。 暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。 家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、 「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。 常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!? 変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。 鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋…… その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。 涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。 これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

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