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本編
8.
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どんより重い、湿気を含んだ空気に全身を包まれる。体調が悪いせいで気分が落ち込むのか、気分が落ち込んでいるから体調が悪いのかどっちだろう。とにかく今日は早く帰って早く寝るべきだ。
目の前に車が止まって顔を上げる。タクシーが来たかと思ったのだ。しかしそこに止まっていたのは、行灯のついていないセダンカーだった。
「乗れよ」
「……え?」
助手席の窓を開けて運転席からこちらを向いているのは、杉名だ。何を言っているのか分からない。
ノレ? なんで? 瑠璃が関わりたくないと思っているのが分からないのか。いや、分かっているからこそ嫌がらせをしているのだ。
「他人の振りをするお前のせいで恥をかいたんだぞ? 償えよ」
「い……いやだ」
償うのはそっちだろう。小学校高学年で同じクラスになってから中学で転校するまでの四年間、この男のせいで瑠璃は恥をかきつづけたのだ。
これでも自分は大人になった。弱々しい声ではあったが、瑠璃は反旗を翻す。
いまの杉名は一人で、取り巻きもいない。杉名が瑠璃を車に引っぱり込まないかぎり、抵抗が可能な位置にいるのも大きかった。
なにかあったときのため、鞄から催涙スプレーを取りだす。
「お前さぁ、そんな態度が許されると思ってんの? オレの会社、お前の会社の大口顧客だけど」
え……そうなのか? 瑠璃は恐怖と混乱で、すぐには自分が脅されていることに気づかなかった。そういえば、同期が取引先の息子って言ってたような。つまり……?
「あはは! オメガってやっぱ頭わりーのな。お前がオレに従わなかったら、この会社は終わりってことだよ。お前のせいで」
「え……そんな……!」
思わずベンチから立ち上がった。カラン……とスプレー缶が転がっていく。
どうして瑠璃が会社の命運を握ることになるのか、さっぱり理解できない。しかし杉名がそうしようとしていることは分かる。
彼はなおも喋り続けていた。理解の遅い子に、ゆっくりと言い聞かせるように。
――瑠璃が従えば。従って、杉名に償えば、会社には何もしない。
雨が強まる。たまに人が近くを通り過ぎていくが、会話までは聞こえないだろう。
頭がガンガンと痛むのは、警鐘かもしれなかった。オメガが、悪意を持ったアルファとふたりきりになるなんて正気の沙汰じゃない。
……でも。瑠璃は車に向かって一歩踏み出す。
会社は駄目だ。このオメガフレンドリーの会社には、瑠璃と同じようなオメガ性を持つ人たちや、それを理解して一緒に仕事してくれる大切な人たちがたくさんいる。
彼らを守れるのなら、瑠璃は自分を差し出すほかない。そう思った。
「瑠璃さんっ!」
助手席のドアハンドルに手をかけたとき、雨音の隙間を縫って信じられない声が聞こえてきた。
「琥珀……?」
「早くしろ!」
「ッ……!」
姿がどこにあるのかは分からない。けれど琥珀の声で、遠くから名前を呼ばれた。
思わず身体を起こして探そうとする。だが杉名が運転席から手を伸ばして助手席のドアを開け、呆然としている瑠璃の手を掴み引っ張り込んでしまった。「ドアを閉めろ!」と強い圧で命令されると、無意識に従ってしまう。
直後に車は走り出した。一瞬ちらりと見えた長身の姿が琥珀だったのかもしれない。
(おれ、ひどいこと言ったのに……迎えに来てくれたのか?)
ぎゅうっと痛いほど胸が締め付けられた。愛おしくて苦しい。琥珀がただの義務感で瑠璃を守ってくれているのだとしても、なんとか心を通い合わせてみたかった。
「さっきのやつ、お前の男? ――ふぅん、でも、番になってないんだな」
「っやめて!」
運転しながらハイネックの首元を引っ張って下げられ、ネックガードを確認される。とっさに杉名の手を振り払うも、項の近くを触られただけで生理的嫌悪に鳥肌が止まらない。
「っざけんなよ! お前は生意気になりすぎだ。昔はあんなに従順で、泣いてすがってきたくせに……まぁいい。この歳になっても独り者のオメガなんて可哀想だからな、オレがお前を番にしてやるよ」
「っ……」
キレた杉名の大声が車内に響き渡った。しかしその直後、嬉しそうに提案された内容は想定しうる中でも最悪のものだ。思わず引きつった悲鳴を上げそうになり、口を両手で押さえる。
こいつの思い通りになんてなりたくない。強くそう思うのに、瑠璃が逃げれば会社に不利益が生じてしまう。
スマホが震え、取りだすと琥珀からの着信だった。琥珀に縋りたい。電話に出て、助けを求めたい。……歳下に対し、なんて情けない男なんだろう。
「出るなよ。電源切っとけ」
従うしかなく、スマホの電源を落とす。唯一の救いの糸が、プツンと切れた気がした。
目の前に車が止まって顔を上げる。タクシーが来たかと思ったのだ。しかしそこに止まっていたのは、行灯のついていないセダンカーだった。
「乗れよ」
「……え?」
助手席の窓を開けて運転席からこちらを向いているのは、杉名だ。何を言っているのか分からない。
ノレ? なんで? 瑠璃が関わりたくないと思っているのが分からないのか。いや、分かっているからこそ嫌がらせをしているのだ。
「他人の振りをするお前のせいで恥をかいたんだぞ? 償えよ」
「い……いやだ」
償うのはそっちだろう。小学校高学年で同じクラスになってから中学で転校するまでの四年間、この男のせいで瑠璃は恥をかきつづけたのだ。
これでも自分は大人になった。弱々しい声ではあったが、瑠璃は反旗を翻す。
いまの杉名は一人で、取り巻きもいない。杉名が瑠璃を車に引っぱり込まないかぎり、抵抗が可能な位置にいるのも大きかった。
なにかあったときのため、鞄から催涙スプレーを取りだす。
「お前さぁ、そんな態度が許されると思ってんの? オレの会社、お前の会社の大口顧客だけど」
え……そうなのか? 瑠璃は恐怖と混乱で、すぐには自分が脅されていることに気づかなかった。そういえば、同期が取引先の息子って言ってたような。つまり……?
「あはは! オメガってやっぱ頭わりーのな。お前がオレに従わなかったら、この会社は終わりってことだよ。お前のせいで」
「え……そんな……!」
思わずベンチから立ち上がった。カラン……とスプレー缶が転がっていく。
どうして瑠璃が会社の命運を握ることになるのか、さっぱり理解できない。しかし杉名がそうしようとしていることは分かる。
彼はなおも喋り続けていた。理解の遅い子に、ゆっくりと言い聞かせるように。
――瑠璃が従えば。従って、杉名に償えば、会社には何もしない。
雨が強まる。たまに人が近くを通り過ぎていくが、会話までは聞こえないだろう。
頭がガンガンと痛むのは、警鐘かもしれなかった。オメガが、悪意を持ったアルファとふたりきりになるなんて正気の沙汰じゃない。
……でも。瑠璃は車に向かって一歩踏み出す。
会社は駄目だ。このオメガフレンドリーの会社には、瑠璃と同じようなオメガ性を持つ人たちや、それを理解して一緒に仕事してくれる大切な人たちがたくさんいる。
彼らを守れるのなら、瑠璃は自分を差し出すほかない。そう思った。
「瑠璃さんっ!」
助手席のドアハンドルに手をかけたとき、雨音の隙間を縫って信じられない声が聞こえてきた。
「琥珀……?」
「早くしろ!」
「ッ……!」
姿がどこにあるのかは分からない。けれど琥珀の声で、遠くから名前を呼ばれた。
思わず身体を起こして探そうとする。だが杉名が運転席から手を伸ばして助手席のドアを開け、呆然としている瑠璃の手を掴み引っ張り込んでしまった。「ドアを閉めろ!」と強い圧で命令されると、無意識に従ってしまう。
直後に車は走り出した。一瞬ちらりと見えた長身の姿が琥珀だったのかもしれない。
(おれ、ひどいこと言ったのに……迎えに来てくれたのか?)
ぎゅうっと痛いほど胸が締め付けられた。愛おしくて苦しい。琥珀がただの義務感で瑠璃を守ってくれているのだとしても、なんとか心を通い合わせてみたかった。
「さっきのやつ、お前の男? ――ふぅん、でも、番になってないんだな」
「っやめて!」
運転しながらハイネックの首元を引っ張って下げられ、ネックガードを確認される。とっさに杉名の手を振り払うも、項の近くを触られただけで生理的嫌悪に鳥肌が止まらない。
「っざけんなよ! お前は生意気になりすぎだ。昔はあんなに従順で、泣いてすがってきたくせに……まぁいい。この歳になっても独り者のオメガなんて可哀想だからな、オレがお前を番にしてやるよ」
「っ……」
キレた杉名の大声が車内に響き渡った。しかしその直後、嬉しそうに提案された内容は想定しうる中でも最悪のものだ。思わず引きつった悲鳴を上げそうになり、口を両手で押さえる。
こいつの思い通りになんてなりたくない。強くそう思うのに、瑠璃が逃げれば会社に不利益が生じてしまう。
スマホが震え、取りだすと琥珀からの着信だった。琥珀に縋りたい。電話に出て、助けを求めたい。……歳下に対し、なんて情けない男なんだろう。
「出るなよ。電源切っとけ」
従うしかなく、スマホの電源を落とす。唯一の救いの糸が、プツンと切れた気がした。
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